烏江鎭、浦口 蕪湖、江南線



 南京城総攻撃の我が皇軍
は光畢門に次いで、十二日
は中華門を占撮し、南京城
の陥落はれよいよ迫つてゐ
 卜るが、一方寄製に成功して
                     一丁 か・1も−ん
揚子江の北岸に渡つた鹿野、山田の緒部隊は、鳥江鋸を扱いて
  かうはじ†1フ
更に江捕城に硯はれ、南京北方の敵の浪路を断つて了つたと侍
へられる.
 我が帝製部隊が梯子江横断後十一日梯喋占壊した鳥江銀は、
江蘇省との境にある安敬省の小さな町で、人口は五六千佗で、
揚子江に通する小さな運河に滑つた附洗物資の集散する一市場
に過ぎない折、支那の膝史上では有名な朗である.その昔漢の
かう†                  かラブ  がいか      々か
高組と天下を率つた楚の項弱が域下に四面楚歌の隼を朗いて、
漢の軍の固を眈し「江東の子弟八千を失ひ、何の面目あつてか
      lふ
郷蕗の父兄に見えん」といつて自決して果てたのがここ鳥江鋸
              は わすふ
で、附近にはこの項羽を祀づた覇王府がある.
 幼が香典部隊は先づこの点江鎖を奪つた後江辞省に進み、江
浦城に硯はれたのである.この江揃の少し北、鳥江鋸からは六
里許り北に常るのが、褐京の対岸浦口である.
 この浦口は揚子江の北岸にあつて南岸の南京と相対してをり
その距離は十飴町で、南京との問は連絡飴が通つてゐる外、津
浦蛾道との連絡のためには客革や貸革等を汽飴によつて輸逢す
る所謂事柄杭遽設備もある.
 この浦口は支那を南北に縦耳する津浦峨道の格鮎で、天津か
ら一千九キロの地粘にある.この附紀一帯は昔は土地低く浪気
の多い荒れ果てた朗であつたが、津浦線の開通以来、埋立やら
築港等の設備を施したりして、新市持として、今日の紫盛を見
                             ノ一〜一丁しヽ▲’
るに至つたもので、北支と中南支とをつなぐ交通上の一大事衝
であり、去る大正三年に支那が自ら開いた閑池場で人口は二萬
飴といはれてゐる.この北に香市術に常る浦銀があ少、又確信
が築いたと侍へられる韓信義といふ嘗蹟もある.
 叉十二日のさユースは先に蕪湖を占壊した我が各部除は、南
京方面から源竜して来る敵の敗軍を、江南蛾道と京蕪公路でそ
の退路を完全に遮断し、詑朗に激烈な遊撃哉を展開したと報じ
てゐるが、我軍がさきに占援した燕湖といふのは南京の上流約
九十粁、揚子江の右岸に為り、市術は城内城外租界の三直域に
分れ、城内が比較的に閑静なのに反して、城外は非常に賑ひを
見せてゐる.附旺の地勢を見ると、北には丘陵が起伏してゐる
が、南は土地が低くて浪気の多い朗である.昔は沼や池等が非
常に多くて荒蕪不治の地であつた岱、蕪湖といふ名が出たと首
(10)
              lq・へ▲■1レ▲r▲′
はれてゐる。然し今では安徽省第→の商集都市、叉安徹省唯一
の糊地場として柴えてゐて、殊に此の連一帯から産出される蕪
湘米や茶の取引及び輸出が盛んである。人口は十三衝から十五
井位の間で、凄留同胞は日蕗戦争以後急激に増加して、目覚ま
しい教展をとげたのであつたが、欧洲大戦後の不況によつて年
年減少し、事奨前には二十教名に過ぎなかつた.伶この蕪潮か
ら南天に通じてゐる江南蛾道は、正確に官へば南京蕪湖問九十
    々んか ふ
四粁、蕪潮孫家埠聞入十一軒、それに南京の中華門と光拳門(何
れも我軍の奪取した城門である)間の六軒、合計官入十一軒から
成る民脅峨造で、蕪潮宜城聞が昭和九年に完成した山を手始め
に逐次先成し、昨年三月に上並の広間が全通したものである・
                      ハ十二月十二日放去)