孫文と関係の深い南京



 我方の情を尽した降伏勧
告に対し、敵は不遜にも遂
に何等の回答をして来ず、
却つて我軍を攻撃して来た
ので、堪忍袋の緒を切つた
我軍は、十日午後一時半を期して決然南京総攻撃の火蓋を切つ
て落し、南京城の陥落はいよいよ迫つてゐる。かくて国民政府
の多年に亙る抗日侮日の本拠は、今正に崩壊しようとしてゐる
のであるが、今回は国民政府及び国民党と南京との関係につい
て簡単に並べることにしよう。
 国民党(正確に言へばその前身の中国同盟会の時代である)
と南京とが結びつけられたのは、第一革命以来のととである。
明治四十四年第一革命勃発後、独立した各省の代表は同年十一
月三十日漢口で代表会議を開き、中華民国臨時政府組織大綱を
決議し即日宣布施行して不完全乍ら共和国支那の体系を完成し
たのである。一方革命軍は十二月二日南京で張勲(ちようくん)を線紬とす
る官兵を破つて、南京城を占領したので、臨時政府は南京に移
され、同年十二月アメリカから急速帰国した孫文が、臨時大
統領に就任し、同時に南京政府が成立したのであつた。間もな
くこの第一革命は失敗に帰し、爾来幾変遷、孫文は革命の成就
を見ず、大正十四年春北京で死去したが、その後国民革命に際
し、孫文の死去によつて国民党の兵権を握つた蒋介石は、民国
十五年(昭和元年)国民革命軍を率ゐて北伐の途に上り、翌昭和
二年には上海と南京の一帯を占領して長江以南から北軍を一掃
して了つたが、次いで国民革命が成立してから、国民党内の左
派と共産党とは提携して武漢に政府を樹てたのであつたが、孫
文の遺鉢(いはつ)をつぐといふ蒋介石は先師の遺志に従つて南京に政府
を立てて武漢政府と相対立したのであつた。そしてやがて武漢
政府から共産党の勢力が排除されて、武漢政府が南京政府に合
併され、蒋政権が確立されるに及んで、都はここ南京に奠(さだ)めら
れ、爾来十年の星霜を閲して来たのである
かやうにこの南京
は国民党並に国民政府と切つても切れない関係にあるのであつ
て、さればこそ国民革命の父孫文は南京城門外の中山陵に祀ら
れて、尊敬と崇拝の的となつてゐるのである。十日のニュース
は飽く迄も武士道精神を重んずる我が皇軍は、既に我手に収め
たこの中山陵に保護を加へてゐると伝へてゐるが、この皇軍の
厚い情の下に中山陵に眠る孫文は、自己及国民党にとつて切つ
ても切れぬ関係にある南京が、今や落城の運命に瀕してゐるの
に対し如何なる感慨を持つ事であらう。
                           (十二月十日放送)