第六号 目次   (昭和12年12月11日発行)

南支の大省、広東省の現況 11.26
外国が実権を握る支那海関 11.27
独伊両国の代表通信社 11.28
フランスのアヴアス通信社 11.29
国家の承認と政府の承認 11.30
承認されたフランコ政権 12.1
ソヴイエトのタス通信社 12.2
ソヴイエト空軍の現状 12.3
通貨改革後の支那銀行界 12.4
ソヴイエトへの通路甘肅省 12.5

 

南支の大省
廣東省のふ現況
 南民政府の奥地移持と共
に席末には政府横網塀事虞
が設けられて、俄かに政治
の要地となると共に、廣東
は今や抗日の本壊として重
事性を帝びて釆たとの事である.そこで今回は庶東を省の首府
とする頻発省に就て詮明を試みることにしよう.
                    えつミ’フ
 席末省は南支那時に滑つた省で、別名を卑発と稲し、東は栢
建省、_西は鹿西省に夫々境し北は江西湖南の雨省と接し、南は
               らいしゆう     けいしゆう
南東郵海に臨んでゐる.西南部には雷州牛島が突出し魂州海峡
を隔てて海南島がある.面積は二十二寧「千飴平方粁で、支那
本部にあつては四川巽南甘藷の各省に次ぐ大きな省で、阿建省
の約二億世の面積を持つてゐる.
  地勢は省の北部の和銀江西湖南各省との境に南嶺山脈が適なり、
 之から穀多の山脈が南の方海の方に向つて尭つてゐる。此問を末江
         かんこ・}
 北江.西江即ち珠江韓江共他の大小の河川が流れ、之等の河川の流
 域殊にその下沃地方は平野に富み、と絹わけ庶東の三角州は一隻ほ
 てしない大沃野を形蓮つてゐる。気候は熱帯若しくほ亜熱樽的で一
 年の内定が最も長く秋は十一月だけ冬ほ十ニ、一のニケ月といふ短
 期である?
 人口些二千二宮飴常人(戸数は五官八寸鉄萬戸)で四川山東
江蘇河南に次ぐ多数を擁し、純つて}平方粁の人口密度も首四
              も一フ且つ
十三人除と支那各省の中人口研密な方である.
 佳良ほ芸が盃昇を月めてゐるが、之は本省固有の種族である
   ほんち                            ■†く小
 本地と北方から移住して来たと樽へられる客家とに分れてゐる.
         一†1せく hいモ′、 はん古く
又省の北部地方にはほ族.黎族等の蟹族が住んでをり、南の方の敵
前島にも猫族がゐて湧族に封抗してゐる。
  ×  ×    ×
 次に本省の産紫
状態に就て記せば
本省も支那各省の
例に背かす農菓を
主としてをり、新
地面積は四千二宮
飴萬畝(一畝は我
百八十坪に常る)
農家戸数は三富凶
十常飴戸で絶戸数
の約六割に常つて
ゐる。農作物は米
を主とするが、米
に次いでは雑穀茶
燻革甘庶甘諸麻等
が産出されるが一方養謂泉も盛んで肺の産出も多い朗である.
とりわけ米は年産額約百四十八億八千飴萬斤で、その牧樺高作
付面積共に全文那の第】位を占めてゐるが、本省の住民は北支
那の住民のやうに粟小奔玉萄黍等を常食とす凄ものは殆んど無
 いので、米の産縮も伶本省の住民を拳ふには不足を骨げる馬年
    †ケ人
 々官常韓他の釆を輸入してゐるさうである.叉本省は江蘇、斬
 江に次ぐ裏地で齢の年産額は従来は大懐の朗入、九萬据を産
 出してゐたが、昭和何年頃を頂上として最妃は生糸の輸出が次
第に振はなくなつて非た名斬の産額も次第に減少、四、末常揺
 と見積られてゐる.
  牧畜は牛勝手等の家畜及び鵜其他の家禽の飼育が盛んで、支郷の
 拓済年幾等にはその故は全支部の弟二位に嘗ると推計してゐるもの
 さへある位である。林菓も北部中部にほ枚、杉、樟、油桐等、又南
 部にほ持樹酋凛その他瑞相植物に恵まれてゐる.水産業ほ海岸線の
  長いことや大小の河川湖群が樺山ある馬曹から水産の非常に捜富な
  所で顔も約三四首萬石の年産を持つてゐる。
             ×      ×      ×
 鎌紫は飴り盛んでなく、本省から産出されるタングスチンが
金支郷産瀕の約九割を占めること.マンガンが湖南鹿西と共に
支那の主審産地である事を除けば、他の錦物顆は特記すべき緑
 のものはなく、石衆の墟減量も四億二千駄馬噸に過ぎないとい
 ふ貧窮さであり、而も一年の産米食も極めて少いとの事である.
 エ紫はまだ非常に幼稚で概して手エ紫の域を出てゐない。新
式工業としては官営の軍需工業の外セメント、マッチ、綿布そ
の他に過ぎす、裔式エ共も製絹製茶滞頬陶破船共他いろいろあ
げられるが、何れも大したものではないやうである。唯本省で
    はくちく       くわけ・7
生産される爆竹、傘等が年々数多く華僑相手に輸出され、其輸
出高が何れも全文那輸出高の年ばを占めてゐることは一寸而白
 いことと思はれる。
            ×      X X
 本省の交通としては威道には我が海軍統基部摩の猛爆弊に上
                  えつかん
 つて散々痛めつけられてゐる例の卑漠餓道靡九威造を始めとし
 しんねいち上うせん
 新寧潮仙等の餞道がある外屈曲の多い海岸線や大小無数の河川
 によつて舟運の便もよく交通上板めて凄まれてゐる省である.
                          †わミ、フ
 本省の首府は庶東に澄かれ叉開港場としては鹿瀬糾頭海口北
 海江門三水の六飴があり、外国の租借地としてはフランス領
  こ・)L仲・つ
 の席州渦とイギリス領の九寵牛島があり、偽外国の領土として
                     ▲●か▲で
 はイギリス領の香港とポルトガル領ハ沸門とがある.鈴鹿東省
                  えんモ・)
 については此虚が古くから革命の淵叢として有名であり、湖南
 省と共に昔から多くの革命家を出し、いろいろの秘密結牡、革
 命的な潮鰭を生み、殊に近年に於ては図民革命の父と首はれる
 故孫文、江兆銘英他の革命家を出して、靡末が囲民革命史上非
 常に玄妥な地位を占めてゐること、本省の海岸が海賊の糸満で
 あること共他梅南島のこと等いろいろ面白い話超も有るが之は
 他の横合に謀ることに⊥ょぅ。ハ十有り二十六日放哲
外囲に質種な握
られる支那海閲
 皇軍の上海碓保によつて
ト‥梅の支那政府横翔は今や
完全に我軍によつて死命を
刺せられ、とりわけ上海の
海紺は事実上完全に我団の
監督の下に低かれた状態となつたとの事である.
 海紺とは支那の閑市場にある支那政府の税幽のことであつて
財政部に属し現在では支那仝囲に三十九箇所の梅紺とその出張

 研があるのである.
   先づその沿革から述べれば支郷に於ては枕胸といふものは背から
  設けられてゐたのであるが、海胴は清代の初めに斬、轡、江、間の
  四つの海舶を撞いたのに始まると言はれてゐる。共後一入四二年の
  南京條約によつて成東、度門、稿州、牢波、上海の五捲が開催場と
  なるや支那政府はその役人をして之等の沌に於ける貿易を管理させ
  てゐたが、支那官史の嘱敗がいろいろの輝車を醸してゐた所に恰度
  その頃起つた長髪此の軋の馬めに海朋事務が停止して了つたので、
 一入五四年に至り英米俳三岡粕事はキ郷側と協柄の績輿上海海舶協
  定が成立し、之等の三岡から一人宛委員を出して関税管理委員曾を
  粕繊し、滋に新しい海朗の成立を見たのであつた。
                       らんし†、フ
 之が賓に丈那の海踊に外国人の吏員を任用した濫他であるが
 井後一入五入年に結ばれた天津條約によつて此の新しい制度は
 各閑地切にも普及され、線税鞍司といふものが創設され外囲人
 を之に作命するに至つて海閲の行政は全く外人の手に挿し、次
 いで一八六七年以来支那が外国との借款等に閲税収入をその瀕
 保に伏した結頻、外人の海閲管理樺が確立されたのであつた・
 とりわけイギリスは各韓中封支貿易胡が最も多〈人材も揃つて
 ゐたため梅鵬山資格を撮り、遽にはイギyスの封支貿易が列囲
 にくらべて優越である限りイギリス人が線税拷司になるといふ
 柿利さへ得たのであつた。
        ==・n===・◆=・…===…
 紺松山収入は最初支那銀行に預け入れられ、次いで支那政府
 の錦令に従つて外債償還資金として上海の閲係銀行に交附され
 てゐたのであつたが、】九}一年即ち明治四十川年の辛亥革命
                       虫々
 の暗、桝総収入が革命軍の演に没収される虞れがあつたので、
 上海に圃際銀行委員倉といふものが設けられ、香上、ロシア及
 びドイツの三銀行が紺枕保管銀行となるに及んで、帥税の収支
 及保管に至る迄外囲の手に辟して了つたのである.共後飲洲大
 戦後ロシア、ドイツの術銀行は失格し、香上銀行だけが保管事
 玲を取扱つてゐたが、囲民政府成立後は攻弟に支那倒銀行の取
 扱ふ朗となつて、事璧叫迄は香上銀行の保管といふ事は殆んど
 名目だけで国民政府の直構する中央銀行が主として之に常つて
 ゐたのであつた.
 海抑の教は現在三十九符節で共外に之等の出張所があるが、
          しんこ、)亨)     ちいふラ
 その主なものは北支では秦皇島、天津、寵口.芝宋.戚海衛、青
 島の各朗、中支では上海を始め艮江筋の南京溝口窮度長沙、南
 東では購求等が主なものである.之瑠を統轄するものが線税務
 司で、その事務所は南京に懸かれてある.而して之瑠の梅朗に
 は多数の職員が居るが、支那に対する主な倍樺団である日、英
 米、体等の諸団はその倍槽を確保する岱梅馳に多数の自団人を
 入れてゐるのであつて、殊に幹部級の職員には之等の外国人の
 教が多く、その教は昨年求硯准の調査によれば英囲人の茄十一
 名を筆頭とし、日本人十岬名、アメリカ人十名、フランス人二
名耗他ソヴイエト、イ浦リアの各囲人等がゐるが、殊に全図の
 梅紬を統轄する租税務可は前並の如く之迄必・ずイギリス人に限
 られてゐたのであつて、この線税務司は名俵上は財政部の下に
 職してはゐるものの.海馳の人事等については非常に大きな橙
 眼を持つてゐる.鉛現在の租税汚司はサー・フレデリツタ●メ一
 ヅ氏である.
         ・……‥===◇・=…・nn・・
 然らば海拗に入つて来る絢税収入はどの位かと首へば大慣年
 に三億風見常となつてゐるが、その内の約七千萌凧飴が抑税収
 入を揖保とする外債の元利支沸に充てられ.一倍数千常凰が内
 団公債の元利支彿に充てられてゐる.
 和して三十九倍朗の港紺の内混も重曹なものは今回我軍の監
 聯下に帯質上位かれたといはれる上海海紺で、上海海紬は賓に
 金柑税収入の約畑割五分を占めてゐる許りでなく、上海の貿易
 縮も事竣後こそ減少してはゐるが、事襲前迄は仝支那貿易額の
 牛ば以上を占めてゐるのであつて、支那海牌制度の中枢は寮に
 上海に破るといつてもいいのである.
 以上で海紬についてのあらましの説明を終ることとし最後に
                い」さ「・つ
一寸支那の翔税自主柵回復の経紳につき述べれば、支那は二八
 仰二年の南京條約以来納税自主柑を失つて了ひ更に天津燦約以
        じb・)か
 卒水年に立つて純情五分の輸出入税率といふ片務的な協定税率
 を課せられてゐたのであつたが、この束縛から敗れ閲税自主樺
 を回復するための外交交渉を開始するに至少、一九ニニ年即ち
 大正十一年のワシントン合議で先づ自主槽の快復を要求したの
 であつたが、その後一九二五年即ち大正十何年の北京特別閲税
 令試で自主檎の快復は悦則的に認められ、更に一九三〇年即ち
 昭和五年に日支牌税協定の成立と共に完全に紺税自主権を快復
 するに至つたのであつて、爾来非常に高い輸入税をかけるに至
り、特に日本商品に封しては排日紺枕と山彗口はれるやうな特別
高い職人税をかけてゐたのであつて、銭めに印税収入も非常に
 増加を見てゐるのである。ハ†一月二十七日兢彦)
濁伊南囲の
代表通信融
 デイ1・エ又・ビ1
 世界各団の主なる通信址
の中イギリスのロイテル、
アメリカのエービー、ユー
ビーに就ては既に詮明をし
たので1今回は友邦ドイツ、イクワ7雨囲の主な通信社に就て
述べること忙しよう.
 最初にドイツの代表的通信社であるデイー・エヌ・ビーに就て
述べれば、ヒトラー政椿はその成立以来その政治に対する指導
原理の常然の結果として、輿論を指導すべき槻閲の統制を掛る
ことに努め、そのために宜倖省を設けてかうした仕事に常ら
せることになつたのであるが、正に於て通信社も宜倖省の統制
の下に服することになり、先づその第一著手として之迄あつた
                            デイー
ウォルフ祀にテレグラフエン・ウーーオンを合同させて新に鞠
 ●エヌ ●ビ I
逸通信社を設立し、最も強い意味での固東通信杜とすることに
なつたのであつた.
  このデイー・エヌ・ビーは一九三四年邸ち昭和九年の一月に成立を
 見たのであつたが、ウォルフ・テレ〆ラフエソ柄政の株式は全部掬逸
 政府に依つて買上げられた結果、此所通信政は資本金五官溝マーク
 で株式は全部政府の所有に属し、政府が直捷に所有する分である全
 他の五剤飴を除いた株式は私人の所有を許してゐるが、之も賓際ほ
 其の信託的所有者に外ならないのである。然し之以外にほ、ドイツ
 政府ほ原則として何等の金銭上の援助をデイー・エヌ・ビーにしない

  放射となつてゐるのであつて、事業上の負投ほ有限賛托禽放として
  通伯批自らが負ひ、その収入も通信の耶靖料によることになつてゐ
   る0
  このヂイー・エヌ・ビーが成立する前姓ウォルフはその背後に
 拉へてゐる金融資本家の利品を代表し、叉テレグラフエン●ウニ
 オンは桝謂シェル・コンツェルンの政油的傾向によつて支配さ
 れてゐたのであるが、このウォルフ・テレグラフエン術址の合同
 によつて成立したヂイー・エヌ・ビーが仝〈ドイツ政府の機紺で
 あることからして、之がドイツ国内の新聞通信界に対して大き
 な勢力ケ持つてゐることは常然のことで、現にドイツにある大
 小二千八百の新聞此の小千七首政迄がこのデイー・エヌ・ビーに
 依存してゐると言ふ状況だといふ事である.
                     し、つしふ
 触らば此通信敢はどういふ具合にして通信を発集してゐるか
 と首へば∵U信の発集は主としてドイツ閲内及び全世界に張り
 机りル,
 肥らされてゐる自分の通信網によつて行はれてゐるのであるが
 更に。イテル、フランスのアヴ7ス等の情報によつて通信の補
 充を受けてゐる.而してドイツ閲内には約五十箇所の支局を持
 ってをり、外団に対しては欺洲の主た郡市は勿論アメリカ、南
 米、求祥にも易教の通信員を配故してゐる.また板張紺係lニ
ースの光築については璽只及び上梅の特派員から直接通信を
 行はせてゐるが、この外にPイテル通信等を相常利用してゐる
 ゃうである.餌欺洲謂田の首郡に駄壊する本祀の通信員は大概
 大公使館貝(朗謂プレス・7クツセ)が粂蹄してゐるとの事であ
 る●
 佃ドイツにはこの外に対外通信を日的とするトランス●オツ
エアンとかナチスに紺係のある通信を伏給してゐるナチ通信社
 等がある.
     ステファニ
 イタリアの代表的通信祀であるスチフアユはイクリアの猫立
 運動衆であるグリエルモ・スチフアllが文筆を以つてイタリア
 の統三且倖耗動に従事するといふ決意の下に、一入六〇年功カ
 ヴール伯の援助を受けてトyノに創立したアジエンチア・テレ
 グラフイカ・ステフアーーの後身である.
   ステファニほカグールと同じくイタリアの統一が簡現されるのを
  見ないで捜したが、その後彼の造言を準じて艶多の経営者が相次い
  で立ち、開内情軸の挙信受信を行ひ、外図の情報は絶てPイテル、
  ァプアスを通じて得てゐたが、資本が堅かでなかつた馬不揖粍態を
  つづけてゐたのであつた●
 然るに欧洲大戦を経てファシスト政樺の確立を見るに至るや
 外因の情報機紺から猫立する必要があるといふので、一九二四
 年即ち大正十三年に之を資本金五官常!フの株式合祀とし、そ
 の株式の殆ん′全部をファシストの横紺紙であるポポP,ヂイ
 タリアに朗有させたのであつて、外囲に自らの通信員を流速し
 て完全にイクワア的な政治経済情報を蟄受すること忙したので
あつた.    洲
 本敢はイタリア政府の宜倖省の支配下鞋あるイタリア唯;
図際的政治通信社であるが、その通信蒐集状況は国内通信の方
は国内の主な偏頗朗水地に女局を碇き、主な市町村に出張所埠
を設けて出張朗員の多くは共土地の官公吏から珠用されるので
 あつて、▲宅局の教はミ十簡塀汰昭L曙員は二宮五六十名となつてを
 り均外にも多数の通信員を堰いてゐる。而して極東のニュース
 は主としてサイテルに穣つ七はゐるが東京特溌貝の通信が蒐委
 硯されてゐるとの事である.叉外因通信の方は特掘貝の打電ナ
 る阜A−スもあるが、大部分はロイテル系の外団通信祀と特約
 を結んで之等から外囲の岩ユースを得てゐる.
  かうして集めた通信をステファニはイタサア全図の各新開に
                   せんよ・)
 供給してゐるのであるが叉ミラノには専用の無電甚を持ち、毎
 日教団に五つて封外一ニース放遽を行つてゐる。命イタリアに
 はP−マ港王廃の猫立通倍増閲として一九二七年以来フイヂス
 通信社があつて、カトサック故に閑する一切の事項耗他世界各
 国の情勢等に閲する油信を頚受してゐる.へ十▲首l‡八日放準Y
フ ラ ン ス の
アヴアス通信融
 フランスの代表的通信社
はアヴ7スであるが之はフ
ランスに掛ける最も古く叉
最も大きな通信社で、.ハy
の商人シヤルル・アヴアス
に上つて創立されたものである.7ヴアスは一八二五年頃から
ベルギト、イギリス方面から得た外囲の報道を新開に供給して
                    はつ†い
ゐたが、一入三五年に至り外国新弼記事の枚挙をつくつてフラ
ンスの新糊祀曾應、大公使館等に供給を開始して玄に7ヴアス
通信社の基礎を設け、その後電信技術や蛾道の教建と共に次第
に事紫を碗張したのであつたが、更に一入室ハ年に通信と鹿骨
 との二つの菜涛を乗ね営むやう忙なつてから非常な頚達を遽げ
 るに至つたのである.そして一入七九年には資本金八百第津の
 株式合故に改組されたが、その後資本金は年を遽つて増加され
 現在の資本金は一億五官甫法に達してゐる.
  アヴアスの政治的色彩はどうかと官へば本杜は事真の正確な
 報鵡を目的とし所謂宜侍的な報菰を行はないと稲してゐるが、
 フランス外接省から毎年補助金を受けてゐる事に澄みれば、そ
 の報弟が時の政府の意向に順應するやうな事があるのも已むを
 得ない朗であらうとされてゐる.侍アザァスの重役は殆んど檜
 太人で従つて本社の三−スは常に檜太人山利益を擁護する傾
 向があるとの詮を潰すものもある.何れ忙しても本社はフラン
 ス随一の通信社であつて、同時にフランス金団二宮の地方新鯛
 と.ハyのマタン、ジユルナール、プチイ・.ハyジアン、プチイ●
 ジールナールの四大新朔に対する庚台供給樺を掲占し、フラン
 スで絶大な信用と勢力とを持つてゐる.
 然らばアヴアスは如何いふ風忙して通信を集めてゐるかと首
 へば、国内の主な都市や世界の主な都市.に支局又は通信員を流
 浪してをり叉東亜陶係の1ニースは、日本閲係の占ユースは同
 盟、Pイテルの外東京通信員からのニュースをとつてをり、支
 那閲係のさユースは主として.ハシフイツタとPイテルとによつ
 てゐる.街昭和九年以降は我が同盟の放遽lニースは7ヴ7ス
 によつて殆んどそのままフランス金歯に叉その内睾なものは敬
 洲と南米に供給されてゐる.
 本政の三−片は、国外、圏内とも敏速といふことよりは寧

 ろ確音なことを特徴としてゐるが、北米、ロンドン、ベルサン、
 P−マ等のニュースには債務なものがあり、東欧Ilユースは最
 も敏速だといふ事である.
 最後に本社と外国通信此との閲係につき述べれば本社は世界
沌侶聯盟、つまりPイテル・り−グの一員で、我が同盟通信社と
 も特別の関係を持つてをり、飲洲ではPイテルと最も密接な閲
 係をもち、欧洲の他の通信社との契約にはいつもPイチル・アヴ
                 ■レ■−た
 丁スが一方の契約の常事者となる仕来りで、欧洲指図の通信祀
 に対してはPイテルと共に競合敢のやうな地位をもつてゐるの
 である.北米、南米に於てはエービーと協同してユービ」と競
争関係にある.伶本社は曹ては北米と東亜に於て通信を敢行す
 ることの出来ない時代があつたが、現在は他の通信社との間に
此樫の勢力範囲協定はなく、完全な行動の自由を有し米国に放
 てさへ自分の通信を出してゐるさうである.
                     ハ十一月二十九日故迭)
国家旬承認ヾJ
政府の承認
   (一)
 先に日濁防共協定に参加
して日和弼図と手を携へて
防共の聖戦に出陣した友邦
イタリアは、今回欧米列強
 に率先して我国と一倍不可分の絢係にある浦洲団を正式承認し
 た?その重大な意養世界の反響等は眈に報道されてゐるので.
 之等忙就ては省略することとし今回は国家の承認とはどういふ
 事か詮明して見上うと思ふ.
 囲家の承認とは囲家が囲際粛膿竺点として囲際添上の権利
 義務の主饅となることを承認することを官ふのであつて・つ士
 り承認を受けることによつて観象は囲際添上の樺利轟♯の毒蛾
 となることを認められるのである.
 併し乍ら囲豪は他り軒家の承認を士つて始めて成立するもの
 で無いことは首ふ進もない事であつて・和kも一重の土地と人
 民とを包含する政治園鰭が存在し、且つ之を基とする統治の主
 懐があつて、この政治南港と統治主鰻が永錬的な性質を備へる
 に至る時は、囲家は既に存轟するものであつて.拘束は他国の
 承認を待たすして国家として存衣することは官ふ進もないので
 あるが、例へば支部の一部であつた浦洲が濁立して国家として
 生れた場合に、満洲囲を囲際魂伐の一点として国際法上の樵利
 義務の主慣たる事を認めることを歯家の承認と官ふのである・
  囲家を承認するにはどういふ方法があるかと首へば、承認に
 は明示的な承認と獣示的な承認とがある.
   明示的承認にはいろいろあつて、乗諷囲が承誼の意思表示を正式
  の宣言の形で行ふ場合(例へば今回のイタリアの満潮同乗兎とか、
  我閥が.ハナマを承認した場合)或る囲と新しい図との間の僻約山中
   で承認を明言するといふ形式へ例へばアメリカ合衆囲とフランスと
 の問の條約並にアメリカ合衆閥とイギリスの間の條約によるアメリ
…鮒媚川餉約k和…謂柑謂相謁柏報貼糾媚
  ぅな場合)もあり、又現今では閉際聯盟に加入することを許される
  事によつて承認む受ける革もある。之が明示的承諷のいろいろな場
  合であるが、次に欺示的承諷にもいろいろあり乗取均が乗取すると

  ヰ いふ社風を明禾しないが、乗l認の意思を有するヰを推湖し得るやちノ
   な行馬を行つた場合とか又ほ承諷閥が新開家の正式の外交位節を故
  受したり、又は新開家に封して正式の外交使節か一差通したり†る場
  合とか、或は新開家と條約を頼んだりする革はこの欺示的承諷の新
  著な場合で、この外に何事の沈延といふことも琴耶的承認となる場
   合もある.

       (二)
  前述のやうに均家の承認にはいろいろ0形があるが、然らば
一頒どういふ場合に承認は行はれるかと首へば既に存在してゐ
 る囲の領土、人民が分離して別の団を形づくつた場合とか、既
 存の一団が分裂して別の囲又は別の教簡囲になつたやうな場合
 に行はれるのである。然らばかうして新しい囲家が猫立した場
 合に於ける狩立の教典はどういふものかと首へば、原則として
 は新しく生れた国家は母倦であつた団の囲際法上の横利轟祷を
 槻承しないのである。但しその猫立した部分が母鰹であつた囲
 の一部として、展地的に負つてゐた我稗例へば租借地その他物
 樵的な我務はそのまま根承されるのである・併し以上の事は原
 則であつて新団衆の意思によつて之以上の哉韓を魚ふことは何
 等差支へないのであつて、例へば満洲団が日満議定寄によつて
 単に我国の物梯的権利許りでなく、口本が之迄支那の一部とし
 ての浦洲に対して持つてゐた総ての杵利を承認したのは、所謂
 新囲家の意思によつたもむであつてかうした例外の場合もある
 のである.
 さて承認を受けることによつて国家は国際囲鱈の一員として
 認められ拘際法上の主悼たる資格を認められるに至るのである

 が、承認が行はれた時にはその款一男は山河及する事忙なつてゐる.
  以上で団夜の承認に就てのあらましの詮明を終ること忙する
 が、浦洲団は我閲と一慣不可分の緊密な紺係忙ある許りでなく、
                          き’が
 眈に昭和九年の三月には中米のサルヴアドルが列国に魁けて承
 認し、ドイツとは満猫通商協定を結んでをり、更にソゲイエトと
 さへ領事を互に交換してゐる朗に、今回イタyアの承認を得て
 満洲図の囲際法上の地位はいよいよ確立されるに至つたのであ
 る.と同時にイタリアの今回の拳は東京・ペルサンユーマ枢軸
                 ち●・)たい
 強化の硯はれとも首ふべく防共の紐帯は、いよいよ緊密を加へ
 るものと首ふべきであらう。
       (三)
  以上は囲家の承認に就て述べたのであるが次に一寸政府の承
 認といふことについて述べることにする.最近スペインのフラ
 ンコ政楢の承認問超といふやうな事が報道されてゐるやうであ
 るが、之が桝網政府の承認の場合に常るものなのである.
 一慣囲家といふものは之を代表する政府に変更があつても.
 その故人格には蟹りはないと認められてゐるのであつて.団際
 法上に放ては同】の領土と人民を包含する政治輿伐が存綬する
                  な
 問は図家は前後同一のものと見徹されるのである.例へばロシ
 アで帝政の政府が倒れて共床主我の政府が出来てもロシアとい
 ふ囲家には攣りはないのである。そして前の政府の條約上山描
 利哉務とか、又はその他の図際法上の械利義祷は、依然として
 新しい政府が代来する同じ図家の持つものであるとして、新し
               hソ か・)
 い政府はこのやう・‥い仏轟接の履行に常らたければたらたいとされ

 てゐるのである.
  そこで政府の承認とは既に団際添上の主唱・」なつてゐる囲豪
 に新しく出発た政府を以つて、この図家を代表する資格を持つ
 ものであると正式に認めることであつて、一新政府の承認を行ふ
 時には、この国家は新しい政府によつて図家としての行岱能力
 を行ひ、條約締結等の囲際添上の洗律行岱を行ふことを認める
 に至るのであつて、官業をかへて官へば要するに新政府が元か
 らある国家を代表する資格を認めるものなのである.
   その乗組の方法にほ国家の乗組の場合と同じく明示的と欺示的と
  の鑑別がある。明示的な乗組は承諷の通告を準することであり、又
  欺京的乗諷ほ乗祝園が新政府乗諷の意思を明示しなくとも乗諷の怠
  糊を推測し得べき行馬を待つた場合に存在ナるのであつて.例へば
  この新政府と條約を結んだり之に封して正式の外交使節を波根した
  り、又は其の沢潰する正式の外交使節を壊受するやうな場合にほ秋
  元的乗組をしたことになるのである。
 伶かやうに政府の承認は図家の承認とはその意義内容等が適
 ってはゐるけれ共、承認の教典が潮及的なことは団家の承認の
 場▲合と同じである.へ十→月三十日放迭)
承認された
フラン コ政権
 帝国政府は一日フランコ
政権をスペインの舵式政府
として承認した.政府の承
認に就ては前回国家の承認
と共に並べてゐるので、今
回はスペインの正式政府として我政府により承認されたフラン
 コ政楢とはどういふものか稔明して見よう.
  スペイン内乱の情況は放れにもよく知られてゐる朗で、玄に
 改めて詳詮を零しない朗であるが簡単に先づフランコ政樺が確
 立される迄の経過に就き述べることにする.
   スペイソの政情は一九三一年即ち昭和六年宥の線選畢で共和賛成
  沈が勝利を得た枯果、閥王アルフォンゾ十三世が退位を飴俵なくさ
  れてからは政情ほ段々に左翼化して行つたのであるが、昨年二月に
  行はれた絶選畢の橙果、所謂人民駄操泥の防利に貯し炎壷況の勢力
  が俄然健勢を示して来ると同時に、右巽との抗学は益▲激しくなつ
  て行き昨年六月には参謀組長の重職にあつたフランコ将軍がカナリ
  ー島の司令官に左窪される等の事があつたのであるが、偶▲七月十
 三aに起つた国粋兼のカルポ・ソテP氏曙殺事件は右其沢に極度の
  衝動を輿へ、汝に七月十七日フラソコ将軍に率ゐられたモ;コ軍
  の桝起となつて‡に内乱の口火が切られたのである.而してその直
  後の七月二十三日にはブルゴスにカ.ハネリアス耕軍を首放とするス
  ペイン閥防委員曾が組鞭されたが、その後敬況が革命軍に有利に進
  捗し首都マドリードの関門と晋はれるトレドが格落するに及んで、
  十月一日に開民政府が成立されフヲyコ将軍が正式に総統に就任し
  たのであつた.而して十一月初旬革命軍は首都マドリードに捷攻撃
  を加へ、之を完全に陥落させる事ほ出来なかつたとは首ふものの、
  塗にほ人民戦線政府をしてプアレソツアに榊過させるに至り革命軍
  は非常な健勢空前したのであつた.滋に於てフランコ政梯承諷の時
  機を窺つてゐた諸幽ほ相次いで承寵を輿へるに至つたのであつて、
  即ち〆ワテアラが十一媚十日に正式東嶺したのを始め、軍に十二月
  十八日にほドイツ、イゼリァの南開も遽に之を正式乗祝してヨーP
  ツバの外交昇に多大の衝動を輿へたのであつた。

       ○
  フランコ政樺は十一月の下旬にはマドX−ドの西方なるサラ
 マンカに政府を移轄したが、その後の戦況は之に便勢に推移し

 て行き、フランコ此椎は徐々にその勢力範囲歓礁大して行つた
 のであつて、今日に於てはスペインの北部から西部、南部にか
 けその年分以上は完全にその勢力下に在るといふ状態である.
 殊に蛾の産地として知られるバスク地方をその手に収めてから
湘椚川硝憎棚報削弼嗣b謂f帽閑詣粥[gゾ
 コ政桃山存在は今や確乎不動のものとなつたのである。
  かくて.ハルセロナの人民戦線泥がスペイン全土の中、面積で
 は約十茄濁平方粁、人口約七官常人を持つに過ぎないのに.フ
 ランコ政柵側は約三十五南平方粁の而拭と約一千入石塔人の人
 口を擁して賓にスペイン全土の三分の二を占め鮎倒的優勢を示
 してゐるのである.
  滋に放て我団のフランコ政槽承認の察となつたのであるが、
 之は防共協定をして更に一屠有数適切ならしめる上から云つて
 も極めて萌大な意哉を持つもので、今回の承認によつてフラン
 コ政楢がスペインに於ける正式の政府として認められ、公使の
 交換その他スペインと牝団との外交交渉等は今後絶てフランコ
 政楢を相手として行はれることになるのであつて、之に反し元
 のスペイン政府つまりバルセロナの人民戦線政府は単なる地方
 的政楢に過ぎないものとなり我囲とは仝然紺係がなくなつて了
 ふのである.例へばこの政府から任命されてゐた日本駐剤代理
 公使の資格等も一日から自然滑滅となつて了ふわけである。
        ○
 環後に新政椛の盟主であるフランコ将軍について述べれば、
 同将軍はスペインの西北部ガワシア地方の川身で今年四十五
 歳、十川放でトレドの陸軍幼年畢校に入畢したのが、軍人生活
 の第一歩であるが、その後は素晴らしい累進振りを見せて三十
 二歳の著さで早くも陣軍人終に縄進し、スペイン始つて以来の
 若い格箪として輿名を謳はれ、三十桝濠でサラゴツサの陸箪大
畢校長となり、一昨年参謀総長となつたのであつたが、昨年左
翼政樺の確立によつてカナリー島の司令官に左超されたのであ
る.同将軍は今や金スペインの輿望を接つて防共聖戦の仰ける
盟主として仰がれてゐるのであるが、快活明朗な性格の反面に
は勇猛果敢而も非常に統率力に富んだ賂軍である.
                       へ十二月一日放送)
ソゲイエーの
ク ス 通信融
 クス通信祀はソゲイエト
最高行政執行槻紺である聯
邦人民委員合議(各囲の杓
閣に常る)に直廃するソゲ
イエトの中央情報槻閲で聯
邦叶の通信事菜を猫占して
ゐるものである.ソゲイエ
 ト聯邦内の各共和国の中ロシア共和囲を除〈各共和団には之亦
人民泰阜曾誠に直属する各共和囲通信社があるが、この各共和
囲通信社はクスに服従の轟祷を持つてをりその指導監督の下に
兼持を行つてゐる狩りでなく、指導者もクスの推舐によつて任
命されるといふ有様であつて、各共和国に存壊してゐる通侶敢
はクスの支局と何等選ぶ朗はないのである.
 クスの通信蒐集状況は先づ国内の方ではソヴイエト各共和国
の中、Pシア共和団に於ては直属の通信地鮎と支局網を設けて
通信を集める外、その他の各共和団にその共和囲の通信社の組
織の中に含まれ、而も聯邦的意義を持つ通信地鮎網を設け、そ
の共和開通信敢の演披する候補者の中から通信員を任命してゐ
るが、叉必要に感じて全国各地に特掘貝を流浪して通信の蒐集
に常つてゐる。叉外国に於ては世界の主た郡市に特液貝を配故
してゐるが、日本及び東亜紺係のきユースは我が同盟通信敢と
の契約に基いてニュースを集める外、東京、上海、北京等に駐
在する特派員からち通信をとつてゐる。叉クスは外団の通信鹿

と情報交換協定を結ぶについての猥占穂を持つてゐて、現にフ
 ランスの7ヴ7ス、ドイツのヂイー・エヌ・ビー、イギリスのロ
 イチル.イタリアのスチフアll、アメリカのエービー、我同盟
竹と契約を結んで通信の交換をしてゐるのであつて、かくして
充弛した通信をクスはソヴイエト全図の新聞に通信を供給して
 ゐるのである.通信供給の方津に就てもラヂオ、有線電信電話
 によつて官報に次いで之を侍逢する事が出来ることになつてを
 り叉之等の通信機絢の利用に就ても料金が特別安いとかその他
 の特械を輿へられてゐる.
 以上でクスに就てのあらましの詮明を終るが、之でエユース
 の外電の中によく出て来る外因の通信祀即ちイギリスのロイチ
 ル、アメXカのエービー、ユービー、フランスのアヴアス、・ドイ
 ツのデイー・エヌ・ビー、イタリアのステファニ及このクス等に
 ついての解詮を経つたわけであるが、之以外の諸図の通信祀は
 放り一ニースの中にも出て来す、世界通信界に占める重尊怯も
 少いやうであるから各団の代変通信祀中ベルギーのペルガ、オ
 ランダのアンプ、ポーランドの.ハット、チエツコ・スロヴアキ7
 のセチカ、オーストり7の7ナ、スペインのフアブラ、カナダ
 のカナヂイヤン・プレス、メキシコのトレンスの各通信祀等の
 名前だけを奉げてお〈こととする。ハ十二月二日放送)
ソ ゲ イエー
宰二軍の 現状
 我が陸海軍航基部隊の輿
碕触此な猛攻率によつて激
減に臓つた支那峯軍は、ソ
ゲイエト共他から輸送され
た飛行横によつて僅に飴喘
を保つてゐるに過ぎないと
 いふ状態で、之とても二日南京上歩に掛ける昼中戦並に我が陣
 形節航婁部隊の荊躇によつて散々やつつけられて了つてゐるの

 である.そこでかうしたlニースが侍へられるのを横合に、今田
 はソヴイエトの察軍について概略の詮明を試みろ事忙しよう。
 ソヴイエトの察軍は欺洲大戦中には約九十街中隊山兵力を有
 つてゐたのであつたが、大戦中の一九一七年即ち大正六年の革
 命によつてその大部分が崩壊して了ひ、僅に裔式飛行横を二宮
 構内外壊す許りとなり、而も革命後二、三年間は囲内の騒乱の
                                                                                    ■ l  ■ ■ ▲● ■.●■▲ ■r r■ ■ ■一 ●■   ■ ■−■ l   ■ ■ ■ l
悠め不振の状鞋に夜つたが
国内が平静になると共に舵
轟兵力の必妥を痛感したソ
ゲイエト政府は軍事航泰雄
設の横張を企てると共に、
民間舵峯の蟄速も奨蠍した
結果、一九二九年即ち昭和
四年頃から急速な頚遽をと
げて今日のやうな察軍をつ
くり上げたのである.伽ち
一九二八年からニ「二年迄山
弟一次五ケ年計輩によつて
世界でも屈指の航婁エ雀を
建設すると北ハに、窮箪兵力
も次第に増大して行つたの
であつて、一九三二年には
約二宮二十の飛行中隊と約二千五百磯の軍用棟を持つに室つた
のであつたが′、逐年婁節の瑞張に努めた結典、今日に於ては約
五千横に達し特に戦闘、山凌撃隊の増加は斯著であると首はれて
 ゐる.叉極東方面には千概以上来てゐるとの事であるが、之は
我々として注目すべき事と言はなければならない朗である.
 一方航重工米はどうかと札ると、一九二八年頃迄は外的製を
模倣する経度であつたが、凶戊生活を犠牲とし軍備の充賓を邦

、鞄とした第一次五ケ年計葺の遽行に上つて急遽な進展をとげ
 その製塩工場も百数十に越してゐると首はれ、更に第二次九ケ
年計恥の竣行過程に釣るので、その製造髄力に更に進展を示す
であらうと音はれてゐる。叉ゾヴイエトは之迄舵峯技術の方面
では創造的な特色に乏しい様であつたが、舵纂技術研究槻翔阜/
して大規模の施設を持つ朗の中央飛行化畢研究所を設け、彼の
エー・エヌ・ティー横の設計者であるエー・エヌ・ツボレフ技師を
朗長とし、多くの便黍な技術者を集めて研究を行ふと共に技術
者の茶成に労めてゐるとの事である.
              ×       ×
 然らばソゲイエトの峯軍にはどういふ飛行槻があるかと首へ
ば鮪遽槻はアメリカの型をとつたイー十茄型とイー十六型がそ
の主力をなしてゐるやうであるがイー十六型は時速絢爛野五十
粁と椚せられてゐる.叉爆撃槻は較爆として時速約岬首粁のエ
 ス・べ−槻を製作し、束爆撃横はテーペー五型、テーベI六型
を梓川してゐる.テーべ−五型は約三千柾の爆弾搭載最があり
最大時速二古五十粁、舵抹距離二千粁といはれてゐる。叉チー
ベー六型は蕊武装主義をとり槻踊砲や横踊銃を装備丁るもので
頼犬時速四古粁、舵緯距辟三千五官粁といふ性能をもつてゐる
と首はれてゐる.而してこのテーべ−型と首ふのはエー・エヌ・
ティI型と同じもので、之符の軍用機は何れも図滞横である.
 佃ソゲイエトの婁軍に就て特記すべき黎は姦巾降下部隊山番
で、この峯中降下部隊はソヴイエト茎軍の特色とも首ふべく、そ
の求も力を入れてゐる一つであつて戦闘部隊を落下傘に上つて
故山背後に投下し、後方から攻撃をさせたり授乳等に常らせ上
ぅとするものである。その教はまだ明かでないが、昭和十年秋
にキエフ附虹で行はれた演習には約一仰聯隊位の部隊を基中か
ら降下させ、叉昨年秋の自ロシアミンスク地方での演習に於て
も亦大規棋の峯中降下部隊を使用したとの事である.
 以上でソグイエトの婁軍についてのあらましの淀明を終るこ
とにするが、最後に;口附首したい事はソゲイエトが航串髄貝
の養成に非常に力こぶをいれてゐることであるが、その内でも
最も注目すべきは、オソアビアヒムつまり閲際飛行化畢協身で
待つてゐる舵窮普及教育ヒある.この協命は牛官牛民の同憫で
日下千八百茶人の合点を擁し鮨人合貝だけでも六官萬人に上る
といはれてゐる.飛行槻も元首槻以上持つてゐて繰縦士や械紳
士等を養成してゐるが、一方に於てはパラシュート畢校やパラ
シュート練習塔によつて、.ハラシュート降下の練習等も盛んで
あり、グライダーの練習も盛んに行はれてゐるさうで坑峯要点
の養成に努めてゐるとの事である。(十一月ご二日放送)
通貨改革後の
支那銀行界
 団民政府の財政部が藻口
に稗伸すると共に上海に本
肪を持つ政府系山や央、中
開、交通の各銀行や巾団良
民銀行も遽に上海を放来し
て、各地に分散するに至つ
 たと偽へられてゐる‘
              せんき一フ
 支那に於ける金融横紺は確荘によつて代表される構式の金触
 槻拗と、新式の金融槻絢つまり銀行とに大別されるが、この新
 式銀行は更にその槻能と竜脳部の団別によつて内閲鈍行つ至り
 支那銀行と本文外拘銀行とに分けられるのである.
 朗で支那には−慣どの位銀行があるかと言へば昨年六月末現
 在に於て百六十川行を教へ、その彿込資本金は叫倍元を超えて
 ゐる.更にその内繹を見ると政府系の銀行は中央、中国、交通
 の三行あつてその彿込資本金は合計一億瓦千九百飴常元とたつ
 てをり、省市で設立した銀行は二十花行でその彿込資本金九千
抑石像革冗、商業銀行は七十四行で沸込資本金七千丸首倣琴冗、

備蓄銀行は六行で梯込賓本金三官餞革冗、農工銀行は三十二行
 で梯込資本金三千三宮飴革冗、専業銀行が十五行で梯込資本金
一千九官除常元となつてをり、更にシンガポール、ホンコン等
 にある華僑銀行が九行、その彿込資本金は五千飴琴冗を教へて
 ゐる.而して之等の銀行の内五分の山以上のものが一九三二年
即ち昭和七年以後に於て創設されたもので、一九三三年この方
銀行の放と彿込資本金とは飛相的な増加を示して、上述む如き
 数字を示すに至つたもむである¢而して以上の各銀行の中十放
 行の有力銀行は紙幣敢行槽計‥持つてゐて紙幣を自由に敢行して
 ゐたのであつたが、国民政府財政部が一九三五年十一月にイギ
 りスの援助の下に断行した例の通貨改革によつて、中央、中国.
 交通、中隣農民の四銀行にだけ紙幣の蟄行樺を認め、紙幣の敬行
 を凡て中央例に統制して了つたのである.と同時にそれ迄紙幣
 を敢行してゐた銀行は共敢行植を認められなくなつたのである
 が、直ちに流油を禁じられたわけではなく改革後二ケ年以内、
 つまり去る十一月三日造はそれ等の紙幣も適用を認められてゐ
 たのであつた.それでは一鰭どの位の紀簡が敢行されてゐるか
 と首へば昨年の六月末規奄に於ては、政府系の中央、中囲.交
流撃二銀行の紙幣敢行高が的八億五千六首革冗、中囲農民銀行
 のが約一億元と、それに山般商菓銀行の敢行繍が約一億八千八
 百常元合計十一億四千四古苫元の紙幣が流通してゐたのである
 が、今年五月宋現在では更に増加して十四億元を鶴えてゐたと
 も計算されてゐる.鉛玄で一昨年の通貨改革に就て一首附首す
 ればこの通貨改革の内容中主な鮎は
   弗一、野英馬替相場を一恵二片牛に安定させること
   集〓、銀の開有化
  ■第三、銀の党換を停止すること
 以上の三郎が改革の主な鮎で、この改革は零するに一種の管理
 適貨制度をとづたものであつて、支那の金融史上に一新紀元を
 丑したものである.この通貨改革にはイギリスの積極的竣功が
 あり、イギリスの迫支経済使節り−ス・ロス氏が重大な役割を演
 じたことは常時報道された通りであるが、この改革の結果とし
 て国民政府は忽ちの内に大きな新財源を得たものの、金融的に
 見れば全くイギリスの支配下にあると首つてよいのである.之
 で支那の鈍行についてのあらましの詮明を経つて次に政府系の
 四銀行つまり中央、中団、交通.申囲農民の各銀行について簡
 単に詮明して見よう.
       〇
 中央銀行は民囲十七年即ち昭和三年に設立されたもので国民
 政府が自ら経常に常つてゐる.資本金は最初二千常元であつた
 が民国二十四年即ち一昨年の改組以来一億元となつたもので全
 部政府の出資にかかつてゐる。免換券の敢行、内外債の募集丼
 他の特権を持つてをり孔群殿が絶裁となつてゐる.
 中開銀行は大正二一年に犬清銀行の後身として北京に設立され
 た銀行で、本店は民国十七年に北京から上海に移された.資本
 金は四千常元であるがその内牛錮は政府の所有となつてゐる.
 支那最大の鈍行券敢行高を有つてをり元々外因銭替専門の銀行
 でかつたが、一般の菓抄も営んでをり宋子女が蓋事長(つまり
 我囲の取締役合長)になつてゐる.
 次忙交通銀行は光緒三十四年即ち明治四十一年に北京に設立
 され、民図十七年即ち昭和三年に中図録行と同じく北京から上
 海へと本店を移したものである.資本金は二千革冗で我国の興
業銀行のやうな発琴を増、産紫の閑敢等に資金を供給してゐ
 るやうである.
 最後忙中囲農民銀行は民囲二十二年即ち昭和八年の設立に係
 り檜太財閥を背景とする銀行で、資本金は一千甫元その内均分
 の一を政府が出資してゐる。全文に資本網を布いて農紫方面へ
 の金融を牛耳つてゐる銀行で、その蟄行する銀行券は決定転
上が執胤のものとして中央、中頃.萱撃直行の抵簡と同様に汲
−濁してゐる.へ十二月四日放鴻)
ソゲイエーへの
通路、甘粛省
 我が海軍舵婁隊は四日長
騒して甘薪省の蘭州に飛び
敵の飛行場を爆撃して犬打ノ
撃を輿へたとさユースは倖
へてゐる.
 甘麻省は北東部の西部に
 ある名で悔名といふ名もつけられてゐる。昔は眺西省と一緒に
 なつてゐたのであるが前清の代になつて挟西省から別れて一つ
 の省となつたもので、甘粛省といふ名前は本省の西の方にある
 甘州と蔚州との二つの土地の両手をとつたものと言はれ七ゐ
 る.東は挟西省西は新茫省北は寧夏省南は四川、青海竺京Hに
 境を接してゐて、両統は三十人萌平方粁で我が内地と殆んど同
 じ位であつて支那各省の中でも大きい方の省である。
   地勢ほ概して海扱三四千尺以上の高真であるが、更にその上に郁
  適山脈、大盤山脈、鴫山山脈等の山脈が費え何れも高峻を以つて聞
  えてゐる。殊に南の方の育粁省との境をなす郁遠山肪中には高さ一
  茶六千尺からこ萬尺以上に及ぷものもあろとの革である。河川にほ
  黄河嘉陵江及びその支流があるが地勢が険峻な馬め河川にほ水蓮の
  便はない。
  気候は概して大陸的で裳考の差のひどい所であるが、一年を通じ
  七見れば温度は低く而も雨量が少くて重来が乾娘してゐる馬め、南
  の方の一部の地方を除けば植物の生育にほ穎してゐないとのことで
  ある0
 女に本省の人口はどの位かと言へば六首ご丁十飴常人(戸数は
首飴甫戸)で人口の密度も一千方粁に十六人故に過ぎす、支部
各省の中でも人煙の頗る稀薄な研である.住民は湊族の外回族
も非常に多く外に蒙古人も多少居るとの事である.
  女に産業状態に放て述べれば先イ農業は薙影を犬宗とし.姥
 かに痩革棉衣麻等が凌少産出されるが、共内煙草は品質の煙れ
 てゐる鮎で名を知られてゐる.また牧畜菜も羊の何育がやや盛
 んなほかには農家の副業的な存在に過ぎす、特記すべき絹のは
 ない.
  珠菜も石次の埋裁量は十五億噸と雅計されてゐるものの、現
 在の新一年の産出丑は十甫噸に過ぎないといふ有様であり、そ
 の他峨、金、石油等の産出もあるが、その経営は何れも殆んど
 見るに足らないものである.要するに本省は極めて天意の乏し
 い朗で産薬方面での重要性は極めて少いと首ふ事が出来よう.
  交通も横道は閥梅線が蘭州迄建設を橡定されてゐる丈で今瑞
 穂設を見るに室つてをらす、水蓮の便も無いが験亜航峯公司の
 開設した航婁路が上海から西安を経て蘭州に道程びてゐる事及
 蘭州と紹速の包頭とを結ぶ航杢路とが開かれてゐる事と、それ
 から重要都市の問を聯絡する長距離の乗合自動車網がある事は
 本省が西の方新担省を経て更にソヴイエト聯邦への重要な通路
 に常つてゐることから見て特筆すべき事といはなければならな
 い.伶本省の首府は蘭州に壇かれ、開市場としては麻州の一節
 研がある許りである。四日我が海軍舵重陽か峯製した蘭州は本
 省の東南部、黄河の流域にある人口入萬といはれ本省第一の郡
 合で、涼州、熊州等と新経省に適する交通の宰衝に常り更に奥
 地中央アジア一帯の物資は玄で集散される商業の要地である.
 又騎州には乗河に架けられた三大蛾橋の一つである大蛾橋が架
 かつてゐる.女に麻州は省の西北部にあり人口二萬の都合で、
 簡州との間に自動革道路を通じ交通の要地であり附近物産の集
 散地である.この薪州の西に萬里の長城の西端の開門である嘉
 略馳があり、更にその西新騒省との境に近い朗に、古代俳数美
 術史上の億敬として世界畢界幣奥の的といはれる炊煙の石舟が
 ある.ハ十二月五日放邁)