第四号 目次   (昭和12年11月21日発行)

盟邦イタリアの現状
杭州湾と杭州、銭塘江
中支の宝庫、江蘇省
陸の猛虎、無敵戦車
全支中最も豊裕な浙江省
南市と浦東
進退自由な装甲列車
ブラジル政変と其の現状
開通した黄浦江と蘇州河
ヒンデンブルグ線とは

 

杭州潜ミ杭州
松江、餞磨江
 我が陣軍部隊が去る五日
海軍の適切なる協力の下に
敵前上陸を行つた杭州渦海
岸とはどういふ朗ア
 杭州渦は斬江省の北部に
あり江好省の南部と斬江省の北部とを以つて囲まれる瀬斗状の
沖である。溝口には舟山列島と呼ばれる鳥々が恰度碁石を並べ
たやうに郭祝してをり、此の附沈は支那でも有数な漁場をなし
 てわる.
 杭州増の岸は概して速湧の砂瀦であつて滑内の水深は大して
仰い方ではないが潮の干満の塞が非常に大きく、従つて潮流の
早いことで知られてゐる朗である.
           せん一−・つか’フ
 之に注いでゐるのが鐙塘江であるが鍔塘江の河口と杭州増と
 の水位には蒙があるため定朋的忙大海瑞が授り壮快を具するの

 で有名である.即ち之は錬塘江に放ける一秤固有の潮流の作何
 であつて、一日、十五日の大潮の時には高さ空ハ尺の港布のや
 ぅになつて海潮が逆流して来るのであつて、今日迄の最高祀錬
 となつてゐる明治二十五年十月∧、九、十の三日間の逆沸は貨
 に其の高さが十∴ニ尺に及んだといふ事である.
 次に確塘江は昔は漸水と呼ばれ斬江省といふ呼び名もこ1か
                         くわい▼よくさ人
 ら拙たと首はれるが、燕の瀕は漸江江西粥省の境にある悌玉山
 ふ†′1
 脈に萌し、初めは南に流れ後東北に方向をとり蛾多の支流を合
 せ杭州の南を過ぎて杭州潜に注いでゐる.全長は糊首六十粁飴、
 その瀦漑流域は正常四千八百平方粁に上つてゐる一埠塘江とは
 杭州から河口附近での呼び名であるが、非常に舟運の使に音み
 その支流も亦水運の便があるため、漸江省の交沌運輸上官験す
 る研が多く、叉斬江省と江西省安徽省等との交治に非常な便益
 を輿へてゐる.
         〇
 稜塘江が杭州渦に入らうとする朗の北にある都合が、杭州で
       こ か†よ・}
 ぁる。杭州は漉杭南蛾道で上海を西南に隔てること首九十粁幹
 りの朗にあり、斬江省の首府で憫市場である.杭州といはれる
 ゃぅになつたのは、庸の代からであつて末代に至つて臭趨はこ
 こに都を建て西府といひ、叉南宋の代には臨安城と呼ばれてそ
 の郡であつた.而して元代になつて漸江省の首府と定められた
 のである.
                                           \
 市拷は稜塘江の下流と大蓮河に臨み城内、域外及外人居留地
 である秋山長橋の三和分から成り人口は三十教溝人と首はれる.
 枕州は蘇州と共に耳銘菓の中心地をなしてゐるので絹織物の産
 板が非常に多く、外に綿耗、綿布、耗貸、米等も産出され商工
 紫も盛んである.明治二十八年の下開催約によつて整二十九年
閑市場となつた朗で我が領事館も怒かれ、轟留同胞も今年四月
                               けん
 山日現在の調査では四十四人を寄せられてゐた.この東には寛
 ▲■†う
橋飛行場がありこの帝の上海事襲に際し我が舵峯隙は之を榛半
 し、有名な峯中職を演tて敵槻を全滅させたのであつたが、今
 回の事襲に常つても我が航婁除がここに度々猛爆革を加へてゐ
 ることは周知の滴りである、叉此地は名勝古跡が非常に多い朗
 であるが、その中でも西潮を始め窯隠、天竺その他の寺院岳飛
朗等が特に有名である.叉ここの北方五十キロ許りの朗にある
 はくかんrん
兵干山は支期避暑地として知られた朗で、之迄支邪の政治一ニ
ース等に上く出て来た朗である.
 伶、東浦江北岸の松江は上海の渇杭帝蛾藷で桝十茄粁の朗に
 あるが、此の附泣から産する姐魚は松江の瞼として非常に有名
 なも山である.人口約託甫の都合で米や棉衣等を産出する.
                        ハ十一月七日放鼻)
中支 の安座
江  蘇  省
江藤省は中部竜郷の求瑞に
ある省で末は斉海及び東竜
郷海に臨み、西は河南安徽
の雨省と殺し、北は山東省、
甫は析江省と夫々壊してゐ
 る.面魂は十溝九千六首五平方粁で朝辞の年ば⊥りノ寸小さい
位で支部各省中斬江省に次ぐ第二の小さな省である.地歩は北
方の山東省との境と省の南部とに丘酸の超伏がある外は一望†
鼻の平野である.この平野は朗粥江折の大平野で揚子江と背‡
  もうヾll
河の沖積地に卑し地味は頗る肥沃である.而してこの平野を梯
子江、斉浦江、犬運河を始め大小無数の河川が縦横に流れて水
                   こ・1たくこ か・−_うこ
蓮に多大の便を輿へる外、湖沼も太湖、洪滞湖、高郵潮の外非
常に数多く昔から滞留水郷の名がある位である.

  気候は瑞し
 て海洋性で、
 温暖なこと我
 が九州南部に
 項し多でも華
 氏二十求心即ち
 栖氏氷軒下六
 鹿以下に降る
 ことは少く、
 時偶雪の降ろ
 事があつても
 其且ほ棲めて
 少く、夏ほ華
 氏の九十ニ、
 ≡乾▲即ち締氏
 の三十三乾飴
 を超えるやう
 な‡はなく漁
 民も相音大で
 あり摂して≠

  溌であろが、ただ仙骨内の西北地方だけはやや大鴎的である.
   人口は三千五官十萬故人で支那全省申出川、山東に次いで幾州三位
  となつてゐるが人口の溌乾は一平方粁三百三十六人飴と全賓の首位
  を占め、支那各省の中人口の最も桝研な省である。住民は大部分が
  沸扶であるが殉教一位も新人に敬心性してゐる.
    江♯雀の憩掛
 本省は東郷各省中最も物産の鼻音な朗である.之は本省山地
 勢が肥沃な平野であること、気候が良好なこと、水運睡蓮の鋸
 に鹿生れてゐること等に因るものであるさ
 免づ免饗について並べれば良衣戸数は斤百飴牌戸で組戸数の
 約七判九分を占め、島民の教は二千六古志十帯飴人で全人口の
 約七剖充分を占めてゐる.農産物としては発と‖礪花を大家とし、
 大豆、葬、菜種その他の雑穀、及諾肺の産額も多く、叉農先の
 産額も相常に上つてゐる.就中米は年産三千七百故箱石と秤せ
 られ、‖聾碓は揚チ払下練川紛南岸一帯を主産地とし、支那第一の
 棉産地竣である。∴特に揚子鑑河口の適州の一帯が特に著名で、
 拍子江北浮から産出される棉花は通州棉花と稲せられるが、そ
 の中でも題州一帯から産出されるもむが上汐棉といふ名で呼ば
 れる最鎌良品である、叉揚子江梢岸から産出される棉花も品常
 が良好で之等は悉く上海の紡績工場に供給されてゐる.而して
 く▲yわk                    ビクル
 純綿の年産頻は年によつて鹿ふが大蛇二宮常措内外であるじ次
 は耕麻薬で支那は我南と並んで世外の大岩米由でありそむ産地
 に全文各打に且つてわるが、本省は貰に折江、席末.四川の各
省と共に瑚大義地といはれる朗で拍子江以南の蘇州、常州、
錦江、松江等を主産地としてゐる.その産舶については正確な
調査がないのではつきりしたことは判らないが大世に放て十井
ヰ姥と計許されてゐる.
  林蛮音頭等は特紐ナベきものはなく、水裏は東省の海盤娘が沖
  常に長くその増長七宵汽十粁に及んでゐる許りでなく、その聞に岬
 増島が敬在してゐるため勝れた漁場をなして塾高も多く、又太潮
  その他の湖水や堤子江、准河等の河では淡水他の産朗が多糾に上つ
  てゐる。何本省ほ支郷に於ける盤の生ま地であつてその海岸全部に
 五つて群が生産されるが、開港騒荘へ即ち笹子江以北の海岸)から
 産出される曳ほ年塵約六七封萬むに上つてゐる。
  錦煎は江鮮の平野か格子江と智東河との沖棟地である脚犠から、
 現物の拭朝地赦放ともに朗ろ梵鐘で、石盤の触戌生も二枚一千七首
  帯嘲に渦ぎぬ有様である.
 かやうに各符む物産が兇官である絆りでなく、交油も食幾し
てゐるため、エ共は支部弟一といはれる繁盛振りで就中上海は
その中心地といはれてゐたのであつた.エ米の津朔も各方桝に
五つてゐるがその中でも紡締製赫製粉醸造煉埠廉寸皮革製鈍製
糖の各工業が著名で支郷の工業中盤斐な地位を占めてわる.而
して之等各種エ兼の第一杜に推されるものは紡扱兼であるが、
此年産は絹織物一千飴帝元、綿織物一億二千詫一九と網され紡蛾
工場の教も九十近〈に上り、金団組工場故山ニハ割五分を占めて
ゐるのである.この紡蹄工場の南別を見れば故に放ては支邦人
経営む工場教が日本、英憐のそれ上り多いが工場の規壌、生l
カ等じ鮎から見れば支耶朔工場は海かに劣軋である・
  叉鈷拇尭以外り各輸のエ共にあつても支部人経山驚のものはま
 准紀代式エ発と首ひ得ヾきものがなく大部分は家内エ実の域を
 出ない状態である.
   以上が大地本省の産業の榔格であるが今次の革欒によつて各種の
 棄とも大打撃を穀つてゐることは冨を侠たない折であらう.
   交温、.甘辛都舟
 本省の交通としては峨菰に津浦、京鵡、渇杭拍、馳海、蘇嘉、
江南の各横道がある許りでなく、沿岸及び内河の航邁が蹴る頸
達してをり、上海が架浮流路の山犬ヰ心地である事は敢てここ
に官輩を宰せね朗である.叉最近は自動笹路も頚達してをり要
するに本省の交通は朗る頚達し支那第一とぎふことが伯来る.
 府本省の開港場乃至閑市場としては上海、兵瀬、鮮州、錦江、
南京、浦口、徐州、海州の入ケ研があり、その他の大都市とし
ては、無錫松江等をあげることが川氷る.へ十一月八日教学Y
陸 の 猛 虎
触 敢 戦 車
 今回の事奨に於て或は北
支の戦線に、或は上海の戦
場に我が無敵戦車陳の胡絃
典敢な所榊撮りが倖へられ
る.
 戟革は俗に音ふタンクのことで之が始めて戦場に硯はれたの
は欺洲大戦常時のことであつて、軟洲大戦の撃二年日、即ち一
 九一六年九月十売口フランス、ノンム河畔フレールス附近の申
 開でイギリス軍が初めて使用した兵器である。
 戦車の軒類はその大小によつて克戦車、小戦中、樫戟革に分
 けられ、丈その装備によつて銃戦車砲戦車の∴雛顆に分たれて
 ゐる.鞍戦車は克量十噸以下のもの、小戦郎は十噸以上二十噸
 位迄、筑戦串はそれ以上のもむで現在の研は七十噸位のものが
 最大とされてゐる.
 戦革の構法としては仝位が峨鋼で蔽はれ特に敵弾を受ける繊
 而と側而は比較的厚い械叔で磁はれてゐる、叉その車輪は甘地
 の自動革とは逢つて朗謂無限軌滋であつて通常その中には槻紬
 銃小口樫の火砲即ち大砲を若干門備へてゐる.
 戦車の特性とする朗はその絶大なる塔破力とその偉大なる娃
 鞭桝火力及その大なる連動力とである.故山敵兵壕や蛾條網を
 縦横無髭に梢みにぢつたり、叉立木や家屋でさへも小さなもの
                            はくしん               lこミ
 ならば何む造作もなく楷み倒して蒸進する戦咋の楷破力は定に
 絶大なものがあり、井邁動力について見ても地面の軟い原野で
                放つしよ一丁
 も凸凹のある地上でも自由自在に扱渉し叉五十虚位遥山科耐を
 攣ぢ登つたり、その長さの約川割充分位迄の瞞の溝ならば越え
 ることが川来るのである.速力も欺洲大戦常時山ものは山時湖
 十粁を超えるものは稀であつたが、研究改薄と盛ねた給水今日
 では一時問三、川十粁位印せるやうになり、′メリカのクリぺ
 チー戦革の如きは滋路上では山時間九十粁以上の速力と椚丁こ
 とが山…▲黙るさうである.

 か〈の如き偉力
を持つ戦串は戦術
上どういふ周途に
使はれるかと官へ
ば血戦場に放て主力
のある方面に戦革
を集中して使用す
るのを原則士され
るが、叉戦場に掛
ける必要な方面の
部隊にはその一部
を分けて使用され
ることもある.而
して戦闘に山首つて
は此の戦車は通常
少兵の紀距離戦闘特にその突弊に緊耗な協力を輿へることを以
 つてその主な住持とする.即ち敵陣地突撃の際その前面にある
蛾條網をかの肉弾三輿士に代つて破壊して爽弊路を開き、叉進
 んでは敢の槻紬銃を輔み揉り、更に進んでは敵の後方部族進も
据乱するのである.
 今回の事襲に於いても我が無敵戦車は北真に上海忙赫人たる
                    ▲に′ヽし・}
 戟揆を挙げてをり、かの北支に放ける蕨州、保定の陥落も叉上
 山仰に於ける一祢店節大場節の攻略にも叉九日倖へられた南翔▲突入
等に赫人たる武勲を増ててゐるのである.
 戦革に閲する概略の詮明は之で経りとするが、将来軍の柁械
化の必宰と共に皇軍に於いても戦車の発寒は一屠の緊零度を加
へることと思はれる.而して之等の戦車はその運動カと装備、
躇破カに於て更にその絶大なる偉力を尊求されることと思はれ
るが、その常然の辟結としては脾釆の職場に於ては水陸耐用の
職串とか、或は山容に百男広遠掛耶をも極めて短い時間に爽破
する快速戦革の出現を来すことと思はれる.ハ十一月九日放漫)
金支中最も
豊裕な所江省
 斬江省は江蘇省の南に裁
つて晰江といふ名は筏塘江
をもと斬水といつた事から
出たもので、江蘇省のこと
を臭省と官ふのに対して勉
省といふ別名もある。東は末文邪海に臨み、西は安徹、江西の
          くわいrよく●ん                        ふ・つれい いんビラ
南省と天日山懐玉山等の山脈を以つて境せられ、南は楓嶺、輝瀦
の山々で締捷省と積してをり、共の地勢は招塘江の流域地方と
海岸地方とを除けば仝省殆んど山地である.而積は十常一千敵
手方粁で江蘇省よりも四千平方粁除小さく、生麦那各省中最小
                    ちすかう−
の省である.河は北に璃塘の大河、南に甑江及び大小多くの河
         にん牲・’
や杭州の対岸から寧汲に至る大鹿河があり、何れも水運の仮に
育んでゐる.叉梅岸線は非常に曲折に育み、鵜延長は首十未満
五千飴粁に壌すると官はれる.

   蛮は江蘇省と同様粗噂で殊に南部地方は炎熱珊の状景を島して
  非常に租竣で、従つて柑蝕叩その他喋地に藍出される架‡に恵まれて
   ゐる●
   人口は二千六十六常態人であるが人口の沖乾はこ首四人放と全安
  中江蘇、山東に次いで第三位を占めてゐる.佗民ほ漢人が大部分を
                    ′・†力
  占めてゐるが、南部の山中には脅客と呼ぷ未開の種族が四菱く居
  ろl木省件民の気質ほ沿岸地方山任烏は勤勉敏♯で労働を叔ほず、
  而も商莱の才に甘んでをり南部地方の住民ほ牲繋が弟捷で頗る押争
  心が強いとの事であろ●
 次に本省の産業について述べれば本省は埼塘江の流域に江藤
省の南部と連なる朗粥江漸の平野と擦へ、気候も亦温暖である
銭め各種の物産に高まれてゐるが、特に農産物を立とし米、葬、
 玉渠a等の普通の作物は勿論、棉花、茶、肺等も全文有数の亜
地であるが、更に呼人な兵物類、課業薪は江#、山東、河北各
 省筍と全文の第一、二L位を季ふ位である.
 *省の耕地而鎌は四千首二十帯九千畝で鹿家戸鼓は三富十六
 溝川千飴戸、組戸数の六割九分飴を占め、農民救は一千六首四
十九耗七千故人となつてゐる.なほ以上各種農産物の中特に棉
花、茶、翻について簡単に遽べれば棉花山栽増は最紀に室つて
盛んになつたもので作付面積卦蕗締も未だ江藤、河北、山東の
 各省稗は多〈はないが偽且つ支那有数の棉産地と甘ふ事が出解
る・茶は金省の殆んど各地から産出されるが殊に銃州醗肝の瀧
                                                                                            ▲yl一▼


 †いちヤ  †lこ,
 井茶と椒輿附紀の秩茶が著名とされてゐる.
 養澱は曹から非常に盛んで江淋省と重文の首位を季ふ租の養
                            一I’ル
 五地でその鹿瀬は正確な教字は判らないが大作十五、六帯井位
 といはれてゐる.叉本省は一挿々の兵血耳に高まれてわるが就中賓
柑、枇杷、東、桃の産頻は生麦那第一位を辞づてゐる.鶉酵で
 ▲】んLrフ
 も池州と官へば蜜柑の代名詞であるかのやうに考へられてゐる
 事から見ても蜜柑が本省の特産である事がょく判るであらう.
   林産ほ梓胸を特に著名とする外竹、大泉ハ木瀦ほ支那鮪一の車地
  である)等が知られてをり、水尭ほ海岸操の屈肋が多く、延長が長
  い外舟山列島のや〜な良い漁場を持つてゐる点め簗が頗る盛んで
  あり、きも所謂南新顔瑳といはれる本省の海梓地方から喪出される
  産額ほ年産四首贅石の王将に上つてゐる.
   唯簑は石盤明奔弗石を著名とする外、域、銅、鉛、†ソガンや
  も表出されてゐるが概して費鶴といつて好いであらう.

         ◆ − ●
 併し鍬産以外の各軽の物産は前払の如く非常に鼻音な濱め、
 之を原料とする工業は著しい頚建を骨げ、生鮮絹織物紡抹等を
 主としその他精米醸泣(漸江省の耕地は甘から頗る有名で、彼
 の紹共済等は廉く天下止その名を筋はれてゐる)製茶、製油、
製統の各エ算が集えてゐるが妃代的規模のものは未だ少く、大
 部分は士だ手工菜家内エ発の域を出てゐない.交油は蛾鵡には
 こ 小一丁▲す サつかん
 渇杭南、折柄の雨成立が油じてゐる外多くの河川、屈曲の多い
 海岸等によつて水蓮に慮まれてゐる銭め交通の便は非常によ
 く、物産の巣官な事と相倹つて本省を全文郷中最も官裕な省た
 らしめ、漸江財閥と呼ばれる朗の支邪財界の−大勢力さへ生み
 出したのである.
 本省の首府は銃州に低かれ、粥池場としては杭州、字汝、汁

州の三地があり、杭州には我が領事館が撞かれてあり、その他
の都合としては紹輿嘉輿等が著名である.ハ十首り十日放蓬)
南支ミ浦東
 上海南市に立罷つて最後
の砥杭を試みんとしてゐる
確故に封し義軍は猛烈な攻
撃を加へてをり敵の運命も
 今や風前の射となつて了つた。叉浦東の咤敵も全く一掃された
 と云ふ一−ユースも鰭へられた.
 南端はフランス租界の南に続く、上洛市の南部を占める純支
 那人術で黄浦江に滑つた狭くて長い拷で、その北部に城内と呼
 ばれる地域がある.城内と首はれるのは英の昔ここに城郭があ
      こじわこフ  しんご†・)
 つたからで渇城とか中城といふ名で呼ばれてゐた壌城は明の末
                   ▲rい
 に築かれたもむで、周囲約汀粁といふ堂々たる城郭をめぐらし
 てゐたのであつたが、一九一四年即ち大正三年に城壁は撤去さ
 れて了つたのである。渇城、中城等の別名が物語るやうに古く
 から柴え上海の根瀕とも言ふペき朗であるが利界の敢展に摩迫
されて昔の軋影はなく、租界が欺尤風であるのに反して純然た
 る支郷式の得で、碕路は狭く不潔で特異の兵ひの中に、国際都
市上海に珍しいほど支那人術の原形を球してゐる.汚して此所
                  亡ん(・フ ■Tん†
 には公安局その他の文部仰の役研や綬適、綬チ等の紙物耗接骨
                       が ち
董等を守る店が朗碗しと並んで賑ひを見せ、叉雄致に富んだ寺
 ▲院の建物なども姐られる.
                 け・・b・ゆ.フ
   殊に有名なのは西園、東園等の乾瞳の昔を狩る名園で、西凶の中
 にある湖心革がとりわけ尊名である.湖心革には杭州の西湖の三洋
 印月に秋つたといふ電光形の風雅た橋があたりの長掲仁峯束と柏和
 して、いかにも印象的な凪患を験し川してゐる。共他城内には箕郷
 の氏紳様といほれる域晩廟があり、家郷人の密集が殊の外厚くいつ
 も褒詣の人力でごつた返へしてゐる.
 この楠市の佗ゞ中央位の桝に上海南停車場があり支部人術の
間に近代式建物が立ち並んでゐるが、南郎の稜敵は之等の建物
によつて筑後のあがきをしてゐるのである。この南柿一帯に住
む支那人は約七十常人と首はれるが其他事孝後此所に避難した
    さぴただ
支那人も移しい故に上り、非常な混乱を生してゐる.
 浦東は斉捕江の来岸にあり江をへだて、上海市持と相対して
ゐる朗で、上流は寵拳の対岸から下流は引翔港の対岸に亘る一
帝の地域を線柄して首ふのである.此の地方は昔は円絶つづき
で河岸には澄荻が生ひ託つてゐた朗であつたが、最近上海の寮
費に伴つて急速な敏速をとげ、河岸には埠頭倉廠工場潰姶朗等
が一杯立ち並び、邦人経営む事紫も‖繍汽舵、口本郵姶、三井
物産、大倉曲輿他の桟橋や倉廠等があり、その外スタンダード
石油合敢の石油タンク、樟椿、外人経費事業の建物等も少くなく
商工菓上磯めて訳要な朗で人口も自然粥密を普げるに至つたu
ハ十一月十山日故蓮)  、
                             りゝ
進退自由な
装 甲 列 皐
 北支戦局の黎展に伴ひ同
戦線に掛る皇筑紫甲列革の
壮烈な戦闘振りの数々が一′
ユースで\よく偉へられた・
叉先頃の稀洲事山撃に放ても
 蝕も味方も螢甲列革を使用したのであるが、戚や曳軍の袈甲列
   、・1こ、}け
革が黙、ペ浜、釣刺その他の朝岡で度々偉功を樹てたこと沈上く
知られてゐる朗である.そこでとの焚甲列宰しJはどういふもの
か之について解説して兄上う¢装甲列革とは税率鑑利用して超
ヰろた兵力を迅速に移動したり、俊道滑線に掛ける各種の戦術
稔速の掩護、替儲等に使用されるもので、武装としては軽々な
火砲即ち大砲、概閲銃を取り付け、乗拷貝を琴匂ため緊固な褒
甲が施されてある¢
 装甲列車の編成は概紬革をほ貯中央に乾き之に指揮官革(指
揮官の乗る革し各種の火砲栗太砲を載せた革)歩兵革及防経革
を連結したもので、試みにそハニ例を述べれ拡充頭から防箆事
欠砲弾、火砲革、歩兵革、指揮官革、撥師事とつづきその後に
〃へ歩弟革、火砲車、防琵革とつゞくやうな鵡成もあるのである
併してこむ拐成、装備は斡によつて逓ひ叉目的によつて鹿ふの
 である。
 構閑革を最中に温くのほ前後に進むのを自由にするためと叉
一つにはこの装甲列車の戦闘と官ふものは、必しも前進して行
く方向に対してだけ戦ふむでなく、敵は周囲のどこから出て来
るか判らない名それに対する準備の名めなのである¢鞄防箆率土
は通常蛾逼の修理材料例へばレールや枚木等を搭載し∴線路
が秘境されてゐたりした場合蛾定兵の手で鹿急の修理を行ふの
         わ」T
であるが、叉敵が態と味方に衝突をしかけてくるといふ場合に、
列車中の主な革輌を掩睦する住持を持つてゐるのであろノ大和
革には大砲を致せて砲兵が乗つてをり、歩兵†忙ほ#填閑鉄や
宅摂関銃a載せ若干の歩兵が乗つてゐる.
 装甲列革む行釣としては之浮けが革満で進む事は稀で英の前
方を装甲軌道革が先に立つて行くのが常である.装甲軌道宰と
いふのは軌道似上を竜る自動車のことで、通常之に軽堆陶銃を
とりつけ、敵の小銃時に対して安全な程度の装甲を箱したもの
で井の行動は頗る軽快である.住持は桟道線路の前方を捜索し
た・り替魂したり等して、装甲列車や稔迭列車が奨然優勢な放と
術零するやうな事がないやうにしたりト或は線路の破壊した部
分にぶつかつたりしないやうにさせたり、或は政の包肘に格ら
せること革むないやうにするもので非常に重大な役日を持つて
 ゐるのである。
 先の満洲事襲では装甲列挙む兜庄となつて脹や鼻の役目を勤
   阜ら        ちヾh
めて、凡ゆる障碍を除いて後から準¢装甲列革を安全に導き度
 々偉功を梯てたのであつた。
 装甲列革が始めて戦闘に使はれたのは一入四八年にオースト
リγ人がウィーンを攻宰したときか最初であると停へられ、♯
の後米軽の南北戦争世界大戦ソゲイエト国内戟支群の杓軋等に
使用され舞。
 以上で装甲列革の詮明を攣るが、之と上く混同され捗ちなも
のに列車絶といふものがあるが、この列辛抱はレールの上を進
退する真砲を首ふのであつて、装甲列革とは重く産ふものであ
 る.へ十一月十ニR総長)

ブラジル政仙攣
ヾJ 其 現 状
 南米ブラジルに去る十日
突如政牽か起つて新憲法が
制定され、濁敦政権が確立
された事が倖へられた.
 ブラジルは周知の如く日
 本とは閑係が輝く年々多数の同胞が同固に渡つてをり、殊に最
 紀袖固の間には経済使節の往来がある等術固の執事紬係は益々
 紫和を加へつつある.そこで今回はブラジルの現状につ′いて詮
 明を妖みょうと思ふ.
    プラ‥ソル政筆の丸相
 プ’汐ル今由の政軽妙意洗の内容等については昔時辞しく件
                           ●つト■
 へられたが事するにブラジルは多年に亙り政親閲に軋轢が絶え
                           か一▼牲
 す左右粥思想の統率も激しく、殊に共産主義の亨専に災ひされ
 て政局は常に安定を快いてゐたが、折しも明年一月三日を籾し
 て、一九三四年即ち昭和九年に制定された憲法に基く大統領講
 串が行はれることになり、その候補者としては政府筑例は元交
 油大臣のジヲゼ・アメリコ氏叉反政府先からは在野耗聯盟から
 推された前サり∴ハウP州統領アルマンド・サレス氏とが起つて
 河流の抗争は激甚を極めてゐた.叉此聞にあつて右傾左傾の介
 すは組頭畢の結果を自分の方に有利に展開させょうとして猛烈
 な先勅を待つてをけ、従来の事情忙澄みても結局この士まの状
 瀞で明年の大統領渾藤を挙行したら到底無事には収まらない、
 準あスペインになつて了ふかも知れないと憂慮した同固の有
識階級、保守階級の人々及び同囲軍部等は山九二六じ年以来事井
上の大統領であるジエトリオ・ヴ7ルガス氏が屈掘ることより
外局而打桝の途はないといふ事・になつて拳に今回の政撃となつ
たのである.而して同時に頚布された新憲法は
 一、大統領の縄阻を非常に強化し
  「耗曾の群阻を稀少する
と鶉に新たに経済藤涛禽なる新竣閑を設けたのである.此の艇
済審議合は、農工商金融交通といふ各部門の組合を代表して、
その他合に閲して立法をすることが川氷るといふ途を講じたの
である.この新政権を組合囲家と呼び又新怠洪を組合憲法と首
つてゐるのは箕にここに塞いてゐるのである.併し新憲汝は何
等移民政先には襲更を加へてゐない.
 かくして新政樵は樹立されたのであるが之に上つてブラジル
の濁裁者となつたヴ7ルガス大統領とは如何なる人かと首へば
同氏は中庸積健な政治家で山九三〇年即ち昭和五年以来同歯の
政治経済の難局を巧に虚理して今日に室つた人で各方面の好評
倍額を博してをり叉親日家であつて、同氏が新政樺の主宰者で
あることは新政府が大館に放て穏健中正な政柴をとつて行くで
                          †
あらうと官はれ、既に新政樺は各囲の眈紺櫛姦を隼玉すること
を各囲に適合したとの報道もある.
    ブラジルの現状
 孜てブラジルの現状について述べればブラジルは南アメサカ
 の東部にあつて南7メリカの約年分を占める大きな観で、東方
 は北から鴇迄犬し西洋に臨み、西と■博はペルー、ボりゲイ7、バ
 ラグサイ、アルゼンチン、サルグワイ等に接し、又北方はギヤ
 ナ、ヴエネズエラ、コJンビアの持拘と壊してゐる.
   地券ほ中部から南部にかけてほブラジル帯地が一簡に棟はり、こ
  こから大小の河川が東北甫へと流れて海に注いでをり、北部はア▼
  ゾy河の流域である丁†ゾソ畔地で一帯に大平凍をなしてゐる.
 面鎌は八百五十一帯飴平方粁で我歯の約十二倍牛、丁ラスカ
を除いたアメりカ上り一寸大きい位で、中南米の的年分を占め
るといふ南米第一の大南である.人口は五千茶人といはれ之亦
中南米の人日の約年分を占めてゐる.
  住民はポルトガル人が租幹となり之と′ワヲエー及びトビーと呼
 ばれる土蒲民族及びアフ少カから故人された黒人の以上三者が混血
  して出水たものが人口の大部分を占めてゐるeブラジル人には人球
  的偶見が非常に少いといふこともかくの如き人種の構成に摺る所が
 大きいと育ほれてゐる。伶同開ほ欺洲との通路が帝壊なため文化の
  程度も非常に高い.
  ′ヲジルは一出九二年コロyプスのアメリカ車見から入年後の一
 五〇〇年にポルトガルの滝督ベードP・アルプアレス・カブラールに
  上つて牽見されたもので爾来ポルトガルの橋局地となつてゐたが、
 一入〓ニ年拘立を五官して君牟政治を布いた.併しこの君尭政治ほ
 −入入九年の革命に上つて崩壊し共和政擁が生れ爾来艶度か政襲が
 あ・つたが〓十一の州から成る聯邦共和国として今日注†五代の大統
 領を迎へて来たのである.かやうに多年に五つてポルトガルの賛
 地であつた馬め中南米の持開が何れもスペイy帯を使用してゐるの
 に反して、ブラジルだけほポルトガル語を使用してゐるのである.
 我嘲とは杓二十六七年前から関係が開け、年々約五」ハ千人の同胞が
 移民として同圃に渡り、今日迄に既に約二十萬人の同胞が居住して
  非常な柄稚襲屁を薙げ、ブラジル人からも非常に好過されてゐる.
 次にブラジルの産業は同国はA井を立とし、柏衣’Iヒー世
 事王萄黍等が英主なものである.特に有名なコーヒーは年産節
 約二千五官幕俵から約三千帯俵と‡に全世界産頻の九割近くを
 占め、又棉花は二十六七甫噸の年産を持ち、牧畜も牛羊を主と
 して盛んである.唯鎌産資瀬は蛾†ンガン、ダイヤモンrその
 他の兼石等の産出を見る外は石衆石油その他の鋳物類は貧舶で
 あるが、併し大横に放て物資の柴官な囲といふことが出水る.
 エ菜は近代的エ菓としては紡績発が盛んな外は特に祀逃すべ
 き程のものはないやうである.
                ▲T■
 安治は団円に約三革二千粁の蛾道がある外、丁▼ノンその他
 の河川によつて水蓮の便もある銭め交通の便も良い.
 ブラジルと各珂との帥係は、一番同国と親導師係にあるのは
 丁メyカで、之はアメyカがブラジルの主な放出晶であるコー
                      一亡くい
 ヒーの五、六割を男ふブラジルにとつてのいい華客であるから
 であり、丁メサカに次いではイギyスが関係が溌くイギりスは
 ブラジル内部の蛾道電気瓦斯等諸事共に対して投資してゐる許
 りでなく貿易も相音感んである.叉ドイツもブラジルにとつて
 いいお拳客である許りでなく、ドイツの移民も多数人的し現在
 ドイツ人の血を革けたブラジル人は約官常人に上つてゐるとの
 事である.之等持斡に棟いてイクワ丁も移民を数多く途つてと
 少、サン.ハウP州にはイタyT人の子孫が多〈住んでゐる.
    8拍両国の粥係
 最後に日本との描係を見れば二十六、七年前日伯術岬の押係

 が開けて以舜日本からは飯に二十硯人の同胞が同頓に移住し、
現在も年上五、六千人の同胞が波つてわるのであるが、宵易指
係に放ても一年間に
  「日本ほブラジルに対して陶磁器聾禎其他杓一千蕗胸を放出し
  「ブラジルからは綿花、コーヒー、水晶其他的五千萬凪を故人し
    てを・り
 差引、約四千南風方日本の輸入超過となつてゐて日本はブラ
ジルのいいお畢客と音ふことが出来るむである.
 かうした繹で最近日伯南国の故事紬係はいよい上緊密となり
さきに前文和平生飢三郎氏等山行の経済使節がブラジルを訪問
し叉ブラジルからは咋年九月蹄商工人臣サルガード・フイリヨ
氏等の使節が来朝し、最紀は叉ブラジルからは工科太宰畢生が
米糾した玖、日本からは堀口九萬∴亀崎藤村、有鳥生馬の抒巧
鳥居瀧就縛士等の文化使節が同囲を訪問したり、さては同何の
首府のりオ・ヂ・ジャネイPに口伯文化協合が設立される等して
ゐるのである.今何の政襲も両切り親等紬係に山鹿の拍革をか
けるものと期待され‖伯術囲の友好馳係は将来益々緊密を加へ
て行くことと思はれる.ハ十一月十三日放彦)
閑沌Lた糞浦江
蘇  州  河
 今回の事単数生と同時に
支那仰が我が日清汽地合敢
併有の飴舶ジャンク等を沈
めて閉塞した斉浦江は、我
が海軍決死隊が兵敢な敵前
作裟に上つて之等の沈挫折舶やジャンク埠を撤去したので、丁

度三ケ月撮りで十二日硬から開通した.
 安浦江は揚子江の支流で容中江、中江の別名を持つてをり、
     ・、・う−rんこ・つ
その下流は輿淑江とも呼ばれてゐる.瀕を桝汀省の西北部、安
敬省との省墳附妃にある孝里の附近に頚して東北に流れ、金山
振の北西の桝で江蘇省に入り、さきに我軍が占壊した枚江の南
を流れてから叉東北に向ひ、上海で蘇州河を合せ呉撒から揚ナ
                      ▲▼P
江に注いでゐる.全長約百七十粁で水蓮の便もよく、小さな汽
胎はその大部分を舵行することが出碑、大型な汽船や軍鳩でも
    ●で か・丁
上海迄遡航し得ることはJく知られてゐる通りである.而もこ
の乗蒲江と大蓮河や其他の河川は水路が相通じてゐるため上海
蘇州杭州等の郡帝を連絡して水蓮の便は特に加へられてゐる・
此東浦江の特色としては大きな河に注ぐ小さな河の常として、
山口に四何も水の流れの向を奨へるといふ事で、その水流は昔
から不可解の流れとして支部人から恐れられてゐる.跡ち水の
表面の流れと水の中の流れとが同じでなく叉渦巻も多いため過
って此河に落ちれば助かる者は先づ無いといはれてゐるのであ
る.
 この黄浦江に注ぐ蘇州河は蘇州を流れて兼に向ひ、上海の共
                ヽ
同租界を経つて東浦江に注いでゐる汎、昔は東浦江よりは大き
かつたのである.昔は今の蘇州河の中流速から太倉嘉定を経て
                  ●・●・1が
揚子江に注いでゐたのであつて、之を劉河と柄し舟蓮がさかん
でその合流すを鮎を劉河口といつてゐた.こ\こは恰度太倉の東
北に首る朗で常時に斡ける宵易の中心地として上海黎上少壮屯
瀾胤に 藍野た 劉吋〓が土砂のために朗琴亡れ
て枕         州何の流れも年と共に撃つて今
‖のやうな流れとなり、それに件つて今日のやうに黄浦口が螢
捜したのである.へ十一月十川口放送)
ヒ ン デ ン ブ
ル グ 線 ヾ」 は
 薄介石が竜郷のヒンヂン
ブルグ線として接てから防
備を尉めてゐた、揚チ江南
浮から常熱、鮮州、嘉輿を
経て杭州増に至る南北一帯
 の軍閥な陣地は、我が皇軍の紳遽横磯な法政撃によつて脆くも
           †んbつ
 破れ去り、今や敵は棚減か、血路を柑いて敗退するかの盛大岐
 路に立ち至つたと報ぜられてゐるJ然らばヒンヂンブルデ線と
 は叫憫どういふものを官ふのであるか9・
 ヒンヂンブルグ線といふ名の起りは之が世界大戦中一九一七
 年西部戦線に於て、常時の猫逸箪参謀組長ヒンヂンブルグ婚軍
 によつて始めて編み川され十事から超つたものである.
              た‥.ぢ こ・11ヮやく
  山惜敗味方粥軍の陣地が封時膠着して迅速な戦局り濃艶を見
 たい場合を陣地戦といふのであるが、かうした陣地戦となつて
 ゐる場合には敵の不意に乗じてその備への薄い朗に最も急遽に
 味方の大農園を染めて、敵の陣地を攻破することを考へて木た
 のであつて、之を急襲戦と呼んでゐるのである.伺してこの急
 難戦を行ふためには味方め陣地の後方に甥…追や侶拗革等の交通
 潤が触…ければこの忠雄戦は川本ないのである。
 ∵餅や世界大我中米部戦線ク1y鹿.ソベル〆に於て■ツア輝を機
械して大功を樹てたヒンヂンブルグ浄宰がベルダン政財戟に失
敗したフアルケンハイン浄軍に代つて、一九一七年西部戦線に
於ける狩趨軍の参謀組長に就任するや、ヒンヂンブルグ将軍は
常時敵味方相封時してゐた猫休戦線の陣地勒に於て、聯合軍例
に対して急魂を行はうとするに常つては、必す味方陣地の筏方
 にある大事な交通網を掩護することの山水るやうな陣地の線を
選んで急襲を行つたのである.と同時にヒンヂンブルグ牌軍は
従爽猫逸軍が局部む攻撃で得た突角部(即ち戦線の突指部)を守
る兵力を倹約するやうに陣地の線を選んだのであつて、之を同
将軍の名をとつてヒンヂンブル〆線と呼んでゐるのである.而
して一九一七年から→八年に五つて和也軍はこのヒンヂンブル
グ線を基礎として、五回に亙る大衆破を試みて相常の戦果を挙
げることが川爽たが、一九一入年英軍の戦車の岱めこのヒンヂ
 ンブルグ線も破られるに室つたものである¢
 上速の如〈ヒンヂンブルグ線には兵力を節約するといふ目的
                                   わ′り
も含まれてはゐるが、その一面には味方陣地の後方にある凡ゆ
る交通網によつて味方の大丘ハ輿を自由に移動させ、敵の不意に
乗じてその傭への薄い朗を急興し、敵陣地を突破し上うといふ
非常な積極的な目的を持つものなのである.
 朗で最紀上海の西瑞江南の支那陣地にこのヒンヂンブルグ放
といふ名前がつけられてゐるやうであるが、名前は悍令同じで
あつても之が本来の意味に於けるヒンヂンブルグ線と非常に身
ふことは明かな事であつて、かかる名前は仝〈的外れのもので
あるといはれてゐる0である.ハ†一月十五日故遽)