第四号 目次   (昭和12年11月21日発行)

盟邦イタリアの現状
杭州湾と杭州、銭塘江
中支の宝庫、江蘇省
陸の猛虎、無敵戦車
全支中最も豊裕な浙江省
南市と浦東
進退自由な装甲列車
ブラジル政変と其の現状
開通した黄浦江と蘇州河
ヒンデンブルグ線とは

 

盟邦イタリアの現状


 面積・人口・産業

 イタリアは六日日独防共
協定に参加したが之を機会
に盟邦イタリアの現状に就
き概略を述べる事にする。
 日伊両国は伝統的に親善関係に在つたのであり之迄他の諸国
にくらべて特に密接な関係は無かつたのであつたが、又利害の
衝突するやうな問題もなく国情や国民性にも類似の点があると
迄言はれて両国お互に親善の情を抱いてゐたのである。古くは
日清戦後の三国干渉にイタリアが加入を拒否した事や又日露戦
争中に我が海軍がイタリアから受けた好意は周知の事である。
 イタリアは地中海の中央に長靴状をなして北から南に突出し
てゐる半島で、来はアドリア海を隔ててバルカン半島と相対し
西はサルヂニア及び仏領コルシカの両島及び南方にあるシシリ
ー島を以つてチレニア海を囲み、北はアルプス山脈を以つてフ
ランス、スイス、オーストリア、ユーゴースラヴィアと境し、
南はイオニア海に臨んでゐる。此半島の中央をアペニン山脈が、
走り此山地からチベル、ポーその他の河川が東西に流れて海に
注いでをりポー河の流域即ち半島の北部に当る所にはロンバル
ヂア平原が開けてゐる。我国と同じ様に火山が多く従つて世界
有数の地震国である事は余りにも有名なことである。

 面積は三十一万百三十九平方粁で人口は一九三五年現在で四千二
百余万人となつてをりために人口の密度は一平方粁に百三十七人を
算せられる。イタリアは農業を主な産業とする国であるが、農耕地
も批にZ川盤しっくされてゐる現状なので人口の過伺は渉しく、外国
  への移民り多いことは他界一と稲され放つて外閥移民り放も一九ニー
  三年‘は約一千鵡人と見積られてゐるC
 産米は農業を主とし米、小変、玉均黍の花川が多い外生絹は
枚洲弟−の覆紹を誇り、叉触萄の栽増が盛んな岱め構造潔も盛
況を点してゐる叉図山南部地方ではオリーヴやオレンジその他
の兆物が多く栽増されてゐる。牧畜、林光は一般に振はす疎産
も硫車水銀ボーキサイトの蕗府が多く優良な大胡石の床山があ
る外は蛾、石淡等は何れも紫朗で釣る。この銭め之迄エ紫の頚
遽は阻脅されてゐたが近年、北部イタリアでは水力電気の利用
が盛んになつて氷たため、紡鈷紫、人絹菜、製締米等のエ紫が
非常に盛んである.
  ‥住民は約んど全部がラテン族に鹿するイタリア人でP−マン・カ
  トリック故山本鵡地である馬めその信者が非常に多くて新政徒は鎚
 めて少数である.此の地は古く P−マ帝周の発車を緒つた所だけ
  に速くローマ時代から文化が教達し.文嘩、奨彿、晋繋等今に至ろ
  迄見るべきものの多いことほ改めて紀蛙するを弊しない析である.
    ファシストの勝利迄
 次にイタリアの政治締っいて述べればイクワ7に紀代団家と
しての基礎を輿へたも恥は、一入四七年から七〇年にかけてガ
リバルヂ、カブール等の熱血的愛団者達によつて戟はれたイタ
リア統一運動であるが、一人六一年ゲイクトル・エマヌエル二世
がイタリア団王の位に如くに及び、ここにヰ央娯楢的立憲君主
均となつたのであつて、次いで一入七二年にはP−マと首都上


 ヽ 一
 条め集稚噂家としての現代イクワアの党重な形態は亜つたので
ある。而して上下二院から成る譲合があつて績合政治が行はれ
てゐたのであづたが、銃】後口何溺く牛封建的な感情や地方的
な感情が河民の中忙球づてゐた名めその持合政治も徒に小鼓の
分立を招いて政情は常に安定を快いてゐたのであつた.
 かくしてイタリアは飲洲大戦に参戦したのであつたが飲洲大
戦に放て六十常の生命を犠牲とし多額の軍費を東伯したにも不
拘、ベルサイユ平和倹約に上つては僅かな土地とオーストリア
から快復したに止士り、その民族的々尊堂であつたダルマチ丁
地方を株復する事も川雫食めに団民は不満に満ちてゐたが、
南内の状態を見れば大戦の倣弊はまだ去らす、物価は騰貴し賓
甘の懸隔が甚しく而も常時の虐政者ほ造義済ナることが川本
タ、甜政焦が分立して汲弊が検出し政府忙封ずる州甲艮の伶倍は
地を沸ふの▲状態佗あり、他方舵め出国康集荷愈勤務は常時に於け
             山下qさこ
る敢合主義又は共産主義蓮勅の苗床となり、加之コ、・、ンテ几ン
から資金の供給や授助等があつたためストライキエ場占領等が
按出し、進んでは共産化された地方も現はれるに至り、イタず
 丁は正に崩壊の危概に瀬したのである.その時ムツソりll氏は
その槻開耗ポポロエアイクワ丁によて戦勝の持糸を充分に獲得
すること、共産主義の撲滅を主張しT取囲フ丁シスト粥しを結
 成し、常時大戦の結共に不満な事から起つたダヌ.ンチオの〆ル
 †チ丁、フイウメ快復の牟を極力賞溌し、之を竣助すると共に
 イタ少丁が共産主壌の鹿手に災はひさ山るに及び、このフ丁シ

スト≠柑∴一九二一年▲即ち大正十年以L郊、ストヲイ†忙封」妨して
他見力を以つて団内の簸軋銀艇に常つた結果、その繊牲的事業忙
対する南民の信租を博するに室つたむであつた.かくしてファ
シスト邦の勢力増大と共にムツソサさ氏は政樺の獲得を目指し
て戦つたが、染に一九ニニ年十月には有名なP−†進軍を行ひ
十月三十日金にムツソリさ氏は政雄を得て内閣を組鼓したので
ある.爾雑ムツソyll首相は時局の推移に件ひ、イタザ丁の政
治経済、敢甘各方面に箸々と改革を加へると共に他方一九二八
年即ち昭和三年には現行の渾拳法を制定して一団一共立養の軍
規に成功し、経済学河井組合による組合組頼を基礎とする
こととし、行政府の横隈鼻犬すると共に、ファシスト大群併
合を南架真横粥に管しファシスト井と合津的政治枚柑とナ
る専、金般的ファシスト化を‡行しかくして犬イタりア連投に
邁進しっつあるのである.

    ム首相の枕∬

 ムツゾウ鼻骨相は今年五十均栽北イクリ丁、7ペさンの山兵
のプレダビオ村の鍛冶屋のチとして生れ、柑の小串枚の円年と
鮭つただけで青年時代をま兼の鍛冶屋、代用教員、昇働者等で
過したがやがて新帥紀者とな少女いでポポロ・ヂイクワアと創
刊し、欺洲大戦には一兵卒として牟如し負傷して挿挿するや、
#ぴポポロ・ヂイタV7で筆件を坤ひ、フイウメ同額について
はダヌンチオを助け一九二二年十月三十九稜の若さで甘相とな

 り◆日に至つた.意思の強励な人で快重にして兵師の反面には
 偶にもろく渡しい一両を持ち囲民からrウチエ即ち我等の「統
 率者」として仰がれてゐる¢
   尚ファシスト啓十大年とは如何なる事を意味するかと首へばイタ
  リアでは西膝紀元何年といふ後に必づこのファシスト暦何年をつけ
  加へるのであるが、之は▲ツソリニ首相が一九ニニ年十月二十入日
  に有名なP−†灘軍を行つたのむ氾念するため、此の日から起算し
  てフ′シスト藤何年といつてゐるのであつて、今年の十月二十入日
  からは恰度ファシスト膚十六年となつてゐるのである。(十一月六日
  放逸〕