ソ聯邦の勢力下
にみる外蒙古
外蒙古とは析珂蒙古#∫
の中央部をはゞ東西に宅つ
てゐるゴビの汐漢の北にあ
しん1−よ一丁
る、東は清洲南、西は新杜
省、北はシベサ丁、南は内
寿苛を以′一て囲まれる地域で、面積は約三十南平方粁、清洲団
上り一寸大きい位であるが、現在はこ1に蒙古人民共和歯が放
てられてゐる.
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一代の英雄成育思汗に上つて蒙古民族は元の大帝国を歴史に
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誇つたのであつたが、元か明に亡ぽされてからは次第に衰へ、
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明に代つて清の時代にはその外藩となつて竜郷に隷属するとい
ったさぴれ方であつたが、一九一一年即ち明治四十四年の国民
▲ら れい
革命によつて清朝の威令が褒へたのに乗じて常時の帝政Pシア
から援助を受けて濁立を宣言したのであつた。その翌年ロシア
は外蒙古との問に路蒙協約を締結し、外蒙古忙掛けるロシアの
優越槽を確保したが、堪り衆ねた支那政府は一九〓ニ年即ち大
正二年に蕗支條約を結んで外蒙古が支部む領土であることをロ
シアをして認めさせ、鼓那は外蒙古の一撃止を取渦させる代りに
共自治を認めたので、之を一九一茄年即ち大正四年六月七日に
結ばれたロシア、支那、蒙古三図協定によつて確認したのであ
る.虞がかやうな協定も結局は巫女に等しくPシアは依然とし
しヤくくわん
て外蒙古に封する進出の手を絞めす外敷石との間に借款血箭
を椅ぶ等して昔々とその竣定計寒を途行して行つたのである.
その後叫九一七年即ち大正六年ロシアにソヴイエト革命が起つ
たが、ソヴイエト政権も帝政ロシアと同棲外蒙古への進出を企
ていよく本格的の外蒙古赤化連動に乗り出したのである.普
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時恰度反革命流のサンゲルン将軍が部下を率ゐて外蒙古に入つ
たので、ソヴイエト政樺は之が討伐を名として赤軍を外蒙古に
てつべい
進め、反革命軍を掃滅した後も外蒙古から撤兵しょうとはせす
く・つろん
依然としてウラン.ハートル(帥ち以前の庫倫である)に兵を止
めて途に蒙古人民阜命政府を治り、一九二一年即ち大正十年に
之とソ蒙條約を結んでからはいよいよ外蒙古赤化に努め、大正
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十三年に常時外蒙古の元首であつた清俳の死去後はその後概者
を櫨かせす同年六月共和制を布かせ、同年十山月にはソゲイエ
ト悪法そのま1の新憲法を採用させたのである.かやうな経路
たぎ
を辿つて現在の蒙古人民共和国は生れたのであるが、爾来ソヴ
イエトは政治、軍事、経済文化その他凡ゆる部門に放て外蒙古の
支配に乗出して釆之をソゲイエトの一聯邦化せしめることに努
めて衆たが、遽に昨年三月十二日に結ばれたソ蒙相互援助條約
によつて今や外蒙古は完全にソゲイエトの屠団の如きものにな
って了つたのである。ソゲイエトは外蒙古の−切の方面に顧問
を入れて指導に常つてをり、ソヴイエトの外蒙駐在代表が外蒙
古の事箕上の最大楢力者として威勢を輝つて居るのであつて、
外蒙古の総理大臣その他も此のソヴイエト代表の意思に上つて
行動してゐると倖へられてゐる.
次に外蒙古即ち蒙古人民共和河の現状を述ペれば面疎は欧班
の如く約三十満干方粁で満洲固より一寸大きい位であるが、地
勢は一帯に海抜二千栄位の高原でその西北地方は峻険な山岳地
帯を形造つてゐるが、東南に進むに従つて次第に低くなつてゐ
る.気候は大陸的で塞暑の墓が甚だしく雨量が少いため夏多を
通じて乾燥してゐる.人口は約九十苫といはれるがその大部分
は蒙古人である.之等蒙古人の生発は牧畜と狩猟で主な物産は
畜産と狩猟品であるが北部、西部地方では小規漢乍ら鳥兼も行
はれ七ゐる.
鋳物資瀕としてはまだ調査不十分な事とソゲイエトの外崇鎗
同政党に上つてはつきりした事は判らないが、昔から有名な金
の外石衆銀鉛石墨等が産出されてゐるやうである.又エ菜は混
年造は見るべきものは無かつたが、昭和九年頃からソゲイエト
▼ルコー・ル
の技術的援助に上つて酒精工業、横械工業、皮革エ栄、製紙エ
糞等が頚良してゐると倖へられてゐる.交通としては一九二掬
年のソ蒙條約によつて既に餓道建設計毒が出来、著エされたと
の詮もあるが、現在判つてゐる所では山本の横道もない様で、
陸路の交通は、馬革、自動革、賂舵等に上つてゐるが、外簸政
府は自動革網の建設に努力しつ1あると侍へられる.
外蒙古の首府はウランバートルで、此虚は昔は座倫と呼ばれ
てゐたが、蒙古人民共和国となつてからウラン.ハートルと改め
られたもので、此虚には蒙古人民共和同政府が蟹かれ外安蘇軍
の本竣であ少、外蒙古の政治軍事経済の中心である許りでなく
所謂赤色勢力の前進根城地とも首ふべき、極東均際政治上の一
つの克嬰た地斯として注目すべき桝である.へ十月廿−日放蓮)