沱河と程潜、孫連仲

 先に保定攻略の輝かしい
戦果を挙げた皇軍は南に敗
走する敵を追撃して八日正
定を占拠し更に石家荘へ迫
つてゐる。之に対して敵は
沱河(こだか)の南岸に約二十箇師の軍隊を集中し、程潜、孫連中等の指
揮の下に戦備を進めてゐると伝へられる。保定を落され今又正定
を奪はれた敵が防禦陣と頼む沱河とはどういふ河か、又敵
軍の指揮官程潜、孫連中とはどういふ人か。
沱河は白河、永定河、大清河、南運河等と共に北支の五大
何と呼ばれる子牙河(しがか)の上流で、源を山西省の内長城線の南に在
る五台山の北麓に発し我軍が先に占拠した代州、県、等の東
を南に流れ原平の南で東に折れて河北省に入り、正定と石家荘
の間を東に流れ河間と献県の間で陽河に合して北東に向ひ津
浦線と並行して北流し、天津の紅橋で白河に合してゐる。
河とは正定附近に於ける呼び名でそれが献県の辺から北では子
牙河と呼ばれてゐるのである。水の探さは減水期と増水期とで
非常の差があるが、
増水期には河口から
河間辺迄小さな汽船
を航行させることが
出来、正定の附近で
は水深が一米余に達
する。この河は河底
が到る所砂や土で両
岸には高さ三、四米
位の堤防が設けられ
てある。敵はこの南
岸に堅固な陣地を構
築し二十箇師の軍隊
をこゝに集結してゐ
るのである。次に敵
軍の指揮官程潜、孫
連仲について説明す
れば、程潜は字を頌雲といひ今年五十七歳、湖南省の生れで我
が陸軍士官学校第六期砲兵科卒業、元武漢広西派の人で大正九
年広東軍政府陸軍部次長、大正十二年広東孫文大本営軍政部長
となり、その後北伐の軍が起されるに及び湖南軍を率ゐて湖南
江西に転戦し、昭和二年に南京を占領したがその部下が各国の
領事館を掠奪し所謂南京事件を惹起したことがある。その年武
政府から江蘇政治委員長に任ぜられ、蒋介石と武漢派との軋
轢が甚しくなるに及び武漢派に加担したが次いで武漢南京両政
府が合体するや第六軍長を命ぜられ、其後革命軍第四路総指揮
となり、次いで湖北省政府主席昭和三年国民政府委員に挙げら
れ、白崇禧、李宗仁等と共に両湖善後会議を開いたが、その後
馮玉祥の軍と連絡して陰謀を企てた等の理由によつて軍、政界
の表面から追はれたが昭和六年末広東、南京両政府の合作が成
るに及び再び復活して国民党中央執行委員会委員、国民政府委
員等から昨年参謀総長となつた。
 次に孫漣仲は字を魯(ほうろ)と呼び河北省出身、馮玉祥軍の一兵卒
から身を起し累進して昭和二年には第二集団軍第十二軍長、北
伐後青海省主席となり昭和五年中央に属し第二十六路軍総指揮
兼第二十五師長となり、昭和六年江西の共産軍討伐に当つたが
部下の寝返りのため大敗を喫したことがありその後第三十軍長
の職にある。
 尚第三十軍は第二十七師、第三十師、第三十一師、独立第四
十四旅、特務派からなりその総兵力は約三万六千で、孫自身第
三十師長を兼ねて居り、この第三十師は軍紀も厳粛で相当優秀
な軍隊である。
                       (十月八日放送)