中絢共産貰の
藤生から今日迄
 囲民政府がソゲイエト政
府との不可位傭約を締締し
たことは、いよいよ聯ソ容
共政策が具柁化して氷た第
一歩として大いに注目を嬰
 する0聯ソ容共といふのは、ソゲイエトと聯締を保ち共産濱と
も手を据つてやつてゆく政鵜の意味で、貸するに赤化瓜想の進
化である事はいふ迄もない〇一度び北ハ在来を騒遽し共蕗祈を雑
り立てた駒民政府が、今や挿び昔の政範に立ち締らうとしてわ
る事は、来洋食憤の中和の上から虞に山々しい大事である。そ
こで今珂は中開北ハ鹿務について詑明して見よう0
 ロシア蒋命の影響を支那に放て最も鋭敏に感受したものは、
             とりわけ      よう′つん
インテリグンチアであつた。就中新文化湛勤の稀藍として唱ら
                      ちんとくしう
してゐた常時の北京大畢では、時の文科餅長陳狗秀が直ちにこ
の確勤を支持して、共産主義的傾向は北京大勢系統の文化超勤
中に放て著しい一つの潮流となつたり虚が之に対して常時の北
            だん士 ナゐ ふところがた払 セゆbゆモう
京政府囲鞍総理であつた段戯瑞の快刀たる徐樹押以下は猛烈
                  ユモいけんはい
な反封を起し、ために、北京大挙校長察元棉は峡弼秀を苧の軟
                          は ゃち
貝に落したのであるが、之に同情した襲生迎は、憤慨の吐け口
を排日速効に求めて一大デモを敢行したのである。之が賓に支
那における最初の畢生輿圃逆動であつて、時に一九一九年即ち
戦が大正八年の五月四日であつた。現年コミンテルン (閑際井
産詫)の廟東部長ワーティンスキーが支郷を訪問し、北京大事
を離職して上港に潜行してゐた陳弼発と倉見し、種々支郊の非
産化について協議が行泊れた結兆、同年九州を以つて上海フラ
 ンス租非の一隅に中岡兆産萩が成立したのである。
   】九二一年即ち大正十年七月、中開共薙耗第→次全開代表大倉が
  開かれてコミソテルソ加入を決鵠⊥昧粍秀は中央委員長となつた.
 一方この年の四月.搾文は席架でh開かれた非常吻合において穐銃に
宰され、北稚秦を辞令に堤出して可決されたのであるが、その北
伐平‡行動は容易に進まずあせる束縛になつてゐた鹿へ、コ、モソテ
ルソの普に基いて中欄共蕪滋が槻民発との桝紡の手を差し伸べて
衆たので、孫又は之を容れて、ここに支那駒民裁と共軽米との最初
の鵜鴇が成立し、陳掬秀以下の共鹿渡貞操々として闘民共に入水し
槻民光が掲げる政策の上にほ次第に共産尭轟の色彩が浪くなつて行
ったり孫文の下に馳せさじた蒋介石が均民光の軍隊編成案が緑立さ
 れると共に、その
 仙準撃フためPシア
 へ派適されたのは
冊舵かうした穀巾
 の一九三二年軌ち
大正十〓年の八月
 であつた。
共流筑はかくの
如く忙して囲民舵内に相常大きい教官柵を布し、専ら東亜の遭
倖景勢の鳩張に労めて発たのである。コミンテルンの援助も溢
て税廟的となり、軍費や武符を仇給する他ガリン牌軍以下数十
名の軍事及び政治願問を支郷に派治した。そのガリン将軍こそ
輔夜のソゲイエトに掛ける赤軍の大仰部極光軍線司令甘のデリ
ユツヘル元帥である0
  之等の斬伺凄は一九二周年即ち大正十三年の一月にロシアから蹄
 った簿介石を助けて五月には半補陣軍軍官拳接を設立し、雅介石を
 柁長とし窪兆釦を米代表として革命婁轟的軍事教育を施し、国民兼
  軍の中鞄たろべき人材の養成に昔つた。一万農民に封してほ同じ年
  に農民渓動詞習研が設立されて所長に宅渾封が武托し、耳ら共褒残
  光貝がその指浦捕を遼つたのであろ。
 かくの如く北ハ産系が詫の大勢を支配し、諸般の施設はすべて
 ロシア人欄間の方寸に削るやうになつたので、国民筑貝小の右
派は之を喜ばす、速に中央委員禽に向つて共産系弾劾の議案を
捉Hするに至つた。一九二五年即ち大正十川年には両派の争ひ
はいよいょ深刻を機め、その年三月十二日、孫文が死去したの
ちにもなほつづけられて、七月一日には逢に粥派の第一阿分裂
                     りようちゆうポい
を札るに至り、八月二十日共産派の小心磨仲憎の暗殺、次いで
賭介石のクーデターとなり、一九二六年即ち昭和元年七月九日
渚介石は図民碍命軍線司令に就任して第三次北伐の首途につい
           い斗】卓つ
た。さうして球多の鮫締はあつだが、結局一九二八年軌ち(昭
和三年)七月に北代は完成した。僅々二年止らすで全文郷を
 ナ怠けん
舵掩したことは、民国史上の一大驚異である。そしてそれはロ
シアの金、武器、智態、この三役構への授助によつた虞が摘め
 て多いとされて居る。
 しかし黎するに共践務と閑民其とは、お萩ひにその勢力を利
印するがための合せ物であつて、合せ物は離れ物のたとへに沌
れす、昭和二年七月にはこの二つは全く離れてしまつたJその
後における渚介石の共産軍討伐は詮明する進もないところであ
 るJ
               けい」正
 それが昨年の潮安事欒を契械として郷介石の抑向が侍へら

 れ、公開統一の手段のために抗日と同時に容共政策、共産溝漆
 ヤ、れろ蚊鵜が珠印された。今回の事攣に箇つて井藤軍はしき
 卜′に綿捕してゐるやうである。ハ九月四日放送)
支那の逆宣停
仙頭、糾尾、礪宮
 今回の支那事蟹勃磯以来
     と
支那側が執つて衆た行動に
 レレ上▲ノ卓
は常軌を逸したものが多
く、例へば上海租界内の爆
撃だとか、英米粥軋軍艦の
■                      ど ■−1ノ
                             、′】■つJ一【一              _■ ”一ヽ一一
爆撃、或は第三閑の識別記枕の盗用、軍用飛行横の偶装、泣く
はアメリカ汽船フーヴアー批に封する爆撃等数限りなく伴へら
                 じ たん     じ たい
れる。之笹は何れも節三園との朋に事瑞をかもし、事態をます
ます紛糾させ、ひいては国際干渉に導いてその川に於て自国の
                じようとうて費 やりくち
斑切を有利に導かうとする支那の常套的な遽口であり、その不
         ひと
m行路には列国押しく憤慨してゐる虚である。
   火に弦侍には極めて巧みで、今次碑欒の勃準以来、各地における戦
                              ・′†】む
  闘に於てほ常に胡蝶を仰げて支郷仰の大僻を放逸し、一般民衆を欺
             あ・い
  いてますます抗日気勢を掘る一方、外似に対してはH本の飛行機が
          けくだん     り ■、
  上海の某ア.ハートに爆搾を投下し、無拳の避掛民二胃除名を殺傷し
  たとか、日本罪艦が日本の扶を†してイギリスの扶に換へてゐるの
.を見たとか、叉確聞する所にょれば日本は投手江方師に於て海ガス
  を使糾したとか、更に我罫の拙帯托傾等について択蟻のない大きな
     山っ′二ノ               ,い吐い       ほん
  斯学を担肋出発兆する等.鮫捉ますます不利な形勢に立苧つたのをg



  いh
 回しようとして今や手段を避ぷ飴裕もなく周章狼況してゐる模様ほ
 哀れといふの外ない有様である.なほ箕郷仰は、我が不孝挿の琴見
 蒐灸に火藷になつてゐるとの軒であるが、恐らく披は之を支那仰の
 飛行槻に搭叔して我を審襲すると見せかけて、故意に之を糾界内に
 穀下し之を詑墟品に怒用して、日本飛行機が租界を爆撃すると世界
  に宜博して、従来白からやつて来た耕界爆撃の罪を日本に負はせよ
           こんたん                                   ちくちウ
 ぅとする魂滑であるとも見られる0いつもながら支郷側の恩辣なや
  り方ほ天人共に赦さぎる虞で、我方としても将来厳粛な警戒の必嬰
  を痛感させられる。
 攻に五日のニュースによると、我が梅軍は舵察部隊の協力の
   †わとう      七んぴ tきゆう
下に、仙粥の西南に常る仙尾と砺常に攻撃をくはへたとのこと
 である0
 この帥尾、礪打といふのはどういふ威かと言ふと之は香港か
ら火の方へ約七十マイル、紅弥増に臨んでむる二つの粘であ
 hる0
  大漁この紅海灘といふのは海賊で有名なバイアス滞に瞬り合つて
  ゐる潜で、支部海の海憾とバイアス潜とい・かのほ昔から今に守るま
  で極めて津い伺秩があろ.楷周に化けて来り込んでゐた海賊が箕郷
  海にさしかかつていよいよその本性を現はし、糖長以下を脅迫Lて
              ヽ
  つれてゆくのがこの紅海増なのである.そこで椋寄残虐の限りをつ
 くすといふのが繊等海岨一味の慣用手段であつて、この支部の海賦
  については撫多の挿話がある。
   その海賊の凝斑たる.パイγネ増に隣り合つてゐる紅海幣は恰蛇仙
  弼と沓沌の小剛に常つて括つて、そのために背から触叫東省中部にお
  ける海陸の率街となつてゐる。我が海軍によつて攻撃された魔の仙
                  りくr−り かいュう
  尾と碩宮の叫寸輿に入つた虞に陣艶、海艶と呼ばれる虞があるが、
  背から南安部の戦琴には必ずこの陵楓苧海捜といふ地名が出てくろ
  佗であつて、支那の閥杓敬に於てもここが軍嬰地熱である事が剃る
  が、仙尾と増宮はその降懸、海照を据してゐる叫頓に常るのである
  から、随つて零率怯も多いわけである。常に具椎的に亨ふとこのこ
  っの沌をやられるといふ却は、とケも直さず頗氷と仙粥との墟絡が
  中断される結梨を生むのであつて、されば脅からここには砲葦が設
  けられてをり現在もその砲軍がある背である.
            ◇−I!
 最後に仙頭について簡碍に詑明すると、帥璃は南支那屈指の
 商他であり、その佗故は北紳二十三度二〇分、水経百十六庇三
 十九分に佗し、来方度門へは百三十二浬、西方香沌へは古七十
 六裡を拒てて居る。市術は恰度属のやうな形をして居て、海岸
 地帯には宏批な建物が連なり市術の中央には多数の大きな支
 那人商店が軒を並べて大いに商発が集えて居る.山水油萌には
 外人居倒地としての机外がないので、外人は皆支那市粥の内外
 に雑居して椰宅を構へ商店を閃いて居る。市内の人口ははつき
 りは分らないが大憎約十純化と推算される0帥頭の貿易は共に
    かい             しの
 香港を介して行はれ、常に憐鶴屋門を凌ぐ勢ひを示して居り、
 近年は封岸に常る和が嘉滞との貿易摘も著しく増加して居る.
                        ハ九力五8放蓮)
支那沿岸の交
通遮断に裁て
 今回は支那滑岸の交通避
断と上海市政府についてm
単に詮明して見よう。
 先づ、支郷滑岸の交油遮
断について述べれば、帝摘
                                         ■r ▲】 レ■■’
政府は去る八月二十五日搬子江河口から南は腕水省の仙珂に至
る例の支那沿岸の交通遽断遺言を敬し、此の海南に於ける支郵
船舶の交通を対することになつたが、更に井の範観を旗めて仝
東郷準の交通速断を行ふ事と
なり、五日正午祁艦隊司令乾
官の名を以て饗明が褒章され
たのである一
 葉より今回の交通逮斯の輔
沖は前回のものと同様である
が、井の稀域は更に域粥さ
れ、北は秦皇鳥附乾から南は
靡東省西増に至る支那滑樟で
あつて、節三拘の租借地青鳥
を除く殆ど生麦郷滑岸に五つ
てゐるのである。
 そして此の交浪速断区域の
受持は大場晦州を境忙して、
丼の北は寄倒曹宮中滑の率わる節○艦隊淋州から南は長谷川清

 中将の率ゐる第○艦隊が受持つて厳重なる独最むし、支那艦船
 の出入及池舵を一切遮断しょうとするものである。l面から云
                        けいぎいかうき
 へば此の交油遮断は支那に封し、官力を以てする経済封銀であ
 つて、速に支那側をして彼の非を悟らしめようとする一手段に
 外ならないのである.
 攣二固の船舶に封して平和的通商を桝酎する意志のないこと
            もくへ▲ノ
 は云ふ進もなく、共の日擦は支郷の船舶に眠られてゐるのであ
 る0
  さて此の交洩遮断の琉には、廉い海面に多数の我船舶を配備
 して、雨の日も風の日も厳重な見張りをし、支那船舶を頚見す
 ればすぐ通常な鹿壇を執ることになるのであるが、此の任紡は
   がんせん       とう卓
 敵を眼前に見て行ふ戦闘動作と興り、海軍の任務から云へば云
   tは  づ み
 はば極めて地味な行勅で、而も虔期に亘り不断の注意を蛮する
 故、一斉の骨の折れる任持なのである。
  殊に長い間荒れ狂ふ怒涛の中にもまれ乍ら、殆ど休養をとる
                         しんく
 恨もなく、此の任抄に従事されてゐる海軍将兵の辛苦を思へば
 荘に感激の外はないのである。
  次に上海市政府とはどういふものかと晋へば、民閑十人年即
 ち昭和六年に支那側では常時の上海市長輿掛城を中心に、上抑
                             はa
 市小心直域建設委員倉を設立して、現在の共同租界から速かに
                        ▲ノー†ん
 北方に賄った江滞l帝を市の中心とし、更に呉漱商港を開いて
       ふ tワ
 市内繊道を」弊紋し、以て共同租界の紫柴を奪はうとするカ大な
 る都市計蒙を立て、之を五年制に完成することとなり、節一糊
建築珠算として五千清元を計上し、先づ新市内を油する−邁路と
               かんが
市政府廃合及び之を中心とする官行の−部は光成し、絹政府の
       い・りか
甘殿式の高い輩は遠くからも望まれる様になつて居るので盈
る。そしてかの新生新選勅のl様式たる雑則結婚の様な事もこ
 ちよウしや
の廃合で行はれてゐたのであ名。ハ九月六日故迭)
支那第一の大河
揚子江と糞浦江
 今回は戦火の中心地であ
る上梅に極めて糠の深い揚
ナ江と薪浦江について稔明
しよ六ノ0
        ちペワと
揚子江は淑を撞く西織の北
                b■∨■】
 側に後して南に流れ、零南省から四川、湖北、安徽、江蘇の各
   えん          ゆう    さうくわん
 省へと塊々支那大陸を横断して、悠々流れ下る批敬は如何にも
 大陸的といふ感じを輿へられるのであるぐ
 lワ上
 尤もこの河の水は如何に上流でも全く掘をとかした濁流で、
 排水の水そつくりの色であつて、あたかも東郷民族の本質とい
                     サボた
 ふものを代表し、支那の閑地椚を物語つてゐる多であるとさへ感
 ぜしめられるものがあるのである。
 雅子托は又長江とも桝するが、その全長は侍へられる所によ
        yいп@  ヽ
 ると三千凹古狸、その鹿骨些事抒十六浬の区域は航行が川本
 るとされてゐる。併し小さな小弟汽船や民船の交油出来る支洗
  がつ卓ん
 を合算すると硬に数純朴の水避をもつてゐるのであつて、昔か
                 ■     山ペ
 ら、商船北馬といふ首斐が池州されるのも怠なりといへるので
 .−d■ノ「
  温子江の大事な部分畑英語の〆ブリユーといふ字の形・をしてむ
                 はし           と・つてhこ ・・やち
 て、この事の下の端に常る部分に、洞腋湖と榊陽湖といふ二つの湖
 水が袋のやうにくつついてゐて、水盤の調節を†る役Hをつとめて
 居る。又上の鳩の部分には官員排月、南京といふ≡つの大きな都
  合が山田けてゐる.
                  と tう     か丸
 鴻子江は池常三づの部分に大別され、怠昌から上流を上境子
        払か         しも.
江、宜員と湊口の瀾を中梯子江、漢口から下流を下搬子江と呼
んでゐるが、この三つの部外は何れも特色をもつてゐて、般の
操縦に常る人々にはいろいろ襲つた苦心を留めさせるといふ事
である.
  そこで上揚子江の特長ほ何であるかと曹ふと、この附近ほ叫樺に
     ち−T与ぜう
 高い山が軍亜と湖なり.その山間を耗つて川が流れるため、河は捕
         一′一′
 肋に富んで激流渦をまく研が多く、而も河の卑は断捲柁壁河休には
 がんしよう
 岩礁がつらなつてゐて、航行の尉雑なことは昔から天下無比といは
 れ、外的の本等には地獄の釜の底を行くやうであろと記さかてゐそ
 程でもるu有名な≡吠の瞼と桝せられる所もこの間にあつて、風光
 埠任であるが・河一転耶楷ほ毒カで墳突を革赤に放きただらせる
                                       クリl
 程あへぎ頼ら、而もその上に陸上からは滞山の苦カを以つて引礪ら
                 ヽんdよ
 なければ楷はT向に纏まないといふ難所も・相常に多いのである・
 次に中揚子江は、之にくらべると河の嶋も席く、水の労もさまで瀬
         あ一己】r
 しくはないが∵津洲の移り挙りがひどく、今日通れた例でも明日ほ
 淡くなつて洩れないといふ場所が非常に多いのである0又沸口から
 下流の下揚子江ほ河の摘も庚く、水の流れも採やかで・難所も比較
  的少く真の間水旛の‥」した帖分には、一萬噸の船でも沸口迄増江す
  ることが出来る程である。

           ×     ×     ×
  この康子江の河口っまり淋と接する部分は、上淋の開門であ
 る輿撒から約四十沖も下流で、この附泣】帝は一見淋であるか
 河であるか判ら恥程の腕々とした景色であるが、之からいよい
                             ▲ノ ■−
 ょ妙子江に入るといふ睨印となるために一怜の浮棟が紋墟さ
 れ、之にベル・デイといふ箭前がつけられて居る。そして上淋
 に入船しやうとする舶や拗子江を遡江しやうとする船は、何れ
          め ムて   しんろ
 もとのベル・ブイを睨溜忙して針路を定める革になつてゐるの
 であるり

   今このベル・ブイから逆に上海へ入縄すると†れは、ベル・ブイ
  から、輿繊迄の四十浬の聞には教理の聞礪をおいて八つの浮樺が役
                          つた
  悍されてゐて、入推する糖は次々に之を卑見し、之を停ほ.り乍ら楷
  を弛めなければならないのであつて、もし之を誤つて近道でもしよ
  ぅとしたならば、忽ち湾洲の上に蠣を煎り上げて了ふのである.又
                      いいHy 九
  この附近で務のかかづた時にほ耕の晴れる迄碇を溌げて待たなくて
  はならないことになる.研が又この附近の藤は晩帝から真にかけて
   じんばん
  は領繋であつて、念のスつたものは数日間に五つて晴れ上らねこと
  もあつて、航海者を博せるのである.
  ベル・ブイから奥瀬造の航路の中で一帯の耕朗とされてゐる
 桝は、七沌稗錮江した部分でこの附泣は水の探さが極めて演い
 ため、大きな胎は上げ潮の時糊を選んで洩過Lなければた.らな

         斗hつナい
いのであつて、吃水の深い舵、軍艦で首ふならば戦艦のやうな
ものは如何に上げ潮でも全然泡過することは閃雑なのである。
 災胎と上海の糊は約十五浬、普泡の汽船の速力でも竣に一時
m故を婆するが、この水路も胎を蚊縦する人にとつては苦労の
多い場桝なのである。    ‡
  元来揚子江の下流で大切な賠がかり埠は、地勢上輿液であっU、
 十五洩も挿造へ津く入り込んだ上海がそのお抹をとる祷は欒のやう
 に考へられるが革資上に於て上海の繁発振りと有名さといふもの
 が、揚子江の現在を偵値づけてゐるのであるから、輿瀬が絹子抜ひ
  を受けるのも亦無理からぬ研であらう.
 そこで本筋に庚つて輿胎から上海に通する水路之が共捕江と
呼ばれてゐるのであるが、この井浦江の河隔は約五、六南米、
何によつては二袋の鴻胎がすれすれに行き速ふことが山水る稗
 のせまい水路もあり比較的に屈肋に富んだ一軒の水道であるじ
   この犬浦江の特色は大海に注ぐ小河の常として、一日に四回も水
  の流れの向きを欒へる事でその労は仲々に狭烈であり、楷の操縦に
.困難を伴ふ水路である.ことに閑瞭都市上海をH梯に入港する大船
 宅舶ほ杜るが如く、更に支那の貝船や曳船はてほ乞食糖に至るま
  で、何の統制も秩序もなく、我勝ちに押しかけつめかけ、元り姐り
 沫れ廻るのであるから、その有様ほ半に目まぐるしいものがあるの
  であろ.
   この黄浦江の水流は背から不可解の流れとして家郷人に恐れられ
  てゐる¢それは水の表面と水の中の流れがまちまちで一致せず、渦
  巻きも多い関係から、誤つて河に落ちれば助かるものは光づ無いか


 らなのである.
 井揃江も輿胎の附近では有名な上海がこの奥に存在してゐる
であらうかと瓜はれる捏、食崩働る風景であるが、丼浦江を遡
るにつれて工場その他大規埠な建築物が河の両岸に立ち並び、
弥手に船影横付けする堵桝もない程である。今や之等建築物の
背後にかくれ、江上に浮ぶ我が軍艦に大砲を打ちかけてゐる支
    さ■うと一フ
那軍の掃鴻は容易な苦心でないことが想像椚氷るのである。
                       ハ九月七日故老)