支那側の不信
張家口に就て
 白を器と▲諾ひくるめる支
      壮んでん    あ
郷倒一流の甘仰には焚く咄
 亡ん
然たるものがしばしばある
のであるが、故辻は又日*
軍が韓ガ畑枠使川してゐる
         さい九じん  くはだ       と は、り
とか、苑だしきは細菌戦を企ててゐるとか、途力もない意立体
を膿んに第三図人に向つて行はうとしてゐる根株である0まこ
         めいわくし ごく
とに日本としては迷惑室撼のことと官はなければならない。し
              けいかい
かしそれにも増して大いに替城を斐する革は、支那州は自分が
泣いことをする時には常に兜ヰを打つて、封手がまづ始めたと
いふことを宜捲する極めて態性な巧妙さを持つてゐる事であ
    やりくち            はが    tんより
る0この遽mにはβ本としては巳忙将三苦い経験を満喫させら
れてゐるのであつて、過ぐる上海事攣の際等も、日本側が誠蜜
           たいtい
に協定を守つて防衛の態勢にあるのに、支部倒は日本軍が公約
を触祀して支郷側に攻撃を加へて衆たといふ立倦を飛ばせると
同時に、由分の方から日本側に封して無法な攻撃を開始してゐ
るのである。ダムダム坪佐川の如きもその一例であつて、東郷
      てい毛
側が聯別に捷許した噴には日本軍の負傷者忙は支那軍のダムダ
                  でくしゆウ
ム弾に上る悲惨な傷を受けたものが締出L、又日本研が分捕つ
た押襲の中には多数のダムダム挿が黎見されたといふ情況であ
               tい】亡よ いとl
っセが、このやうな例は資に枚挙に通がない稗なのである。
 今度の蕃ガス及び細菌の立僻も、この意味に放て東郷側が白
から位相を始める賦ぽとも比られるのであつて、この鮎潅も瞥




             しや・′ハ」√〜
域を坐する山である。とに炸災抑に矧する叫り、上海万両に於
 ては盗る十末日頃から使川されてゐる様であつて、二十七日の
      てい∵くか・dてい くうLう
正午明和が碇泊艦艇を峯鵜した支那軍飛行機の爆抑は*ひ忙し
                        こんよう
 て全部命中しなかつたが、明らかに焼夷紺を混川して居たので
                        ・小 り上 ちんじトつ
ある。叉支那軍が納甜職を企ててゐるといふ寄は悸戊の馳蛙に
ょっても判つてゐる洩りであつて、日本軍としては厳重に替城
                        イ】んはん
してゐる虚である。元来支那人の性質には梯めて惨忍な牛面が
あるが、特にボルシェビキと柏結んでゐる支那軍には人道も正
       あくき      ぎん†hやく
務もなく、唯態鬼の如き破壊と梯虚があるだけである。この鮎
               はく汁†】 薫っし−でつ   めいれ与
は去る十凶日出殊の上洛巾民に射する爆撃、殺仮に見ても明瞭
                     じ ほ勺じ 斗し
であるが、最近は日本車の攻撃郎迫によつて白亜白楽となりつ
 つある郷介石一派の圃民鹿は、支那の前途固民の肺氷等につい
        よ 坤−り
ては殆ど考へる飴裕がなくなり、少しでも自分たちの亡命資金
    かt
を津山稼がうといふ梯子を示してゐるとの事である。周内的に
 n こ      会 さい
も飯事の多数同胞を些細な理由で殺香してゐると侍へられ、か
                               礼
かる恐怖政治を押し通さうとしてゐる国民政府首脳の意志が奈
 へん
速にあるのか全く常識では判断山水ないのである。
              ×       ×       ×
                      へいナい
 さて二十九日のエユ」スによるふこ一十九日平緯線の沙域を占
撮した我が部隊は同夜軋町新保安に進出し、一方帥東軍のnO
部隊は下花園に入城したのでここに軍の連絡は全く成り、張京
口迄の平緯線は完全に我札郭和が蹄した0張衆口は北半天津時
 の大都市がある河北省の北隣りである墟のチヤハル筍の筍政府
がある鳩で、支那本土申、北やから北にある都叩としては敵方
のものである。チヤハル毎政府貴席が、例の第二十九雫にあつ
          りゆ」うじよめい
て抑長を勤めてゐた劉汝明である車は、既述の通りである0
  この地ほ元来崇竜民族がその御門としてゐた題であつたが、沸民
 靖に迫ほれて轟音民族は更に北に移り、ソゲイエトが極光にその赤
 の兄事を伸ばすに箇つて、この袋家日を、外装の庫倫むちウラゾ・ハ
 ートルをつなぐ粛宰凍結地熱に遊んだのであつた。
  されば共産主義を入れてプダイエーと事を損つた抗日確聞の互頭
 濁玉坪が、張衆口を木津とLて糖を破り、その後も引きつづき凋玉
 絆の系統をひく著誉JこE弊カを扶栢して、いはゆる西北欝の地盤
 となつてゐたのである。装束打は蒙古名をカルガンと云ひ、外閑人
 には嘲らこのカルガソで通じてゐる.北平をさること宵十六噂、北
 釆西の≡面は山が也り、海仙琴亭七首尺の高真にあつて離曳の長城
 ほ領の北方大境門を中心E娠銘として建つてゐる¢この大埼門ほ即
 ち架満と箕郷斉立との喝頓に背る虞である。張妹〓の人口は的七港
 飴、気候は多ほ装束酷烈を壌めて零下〓十度に凄†るが貰は瀬高華
 氏九十定位の暑さに上り、一年を通じて秋が最も気候の好い虞とさ
 れてゐる。奇術は大概衝から北に長く帽五、六町で年曳の符が適な
 ってゐるか、術路は設備が充分でないため晴天の時は傾竣犬を措ひ
 一堰降雨至れば泥棒膝を捜するといふ冶様である.張衆口には支那
 軍の兵営がありその他軍事上の施設もあつて、この万両における擬
 大の中心をなして居たのであるが、更に貿易上から見た呼この張家
 口の健値は一骨太なるものとなつて来るのである。
 郎ちロ・シアへの茶の喩出と蒙盲人に封Lて必響H…を購求する
ことが瞼出の方簡の太宗であつて、一方職人は蒙古地方から凄
新及び鰊毛皮を喩入するのが中心となつてゐる。而して之各の
貨物は大々の原蕗地からすべてここへ集つて氷て、三、m、五
                         いち
の三筋月と九、十、十一のこ山鮨〃には盛んな川が滋つて摘発は
非常な脹はひを施せるのである。この災衆口への甥物雛散範倒
は極めて贋大なものであつて、山西省の北年分、廿鮪省の北年
分、漸増省の来部、及び輿安嶺以抑蒙古の大部分に五つてゐる
のである0
  陀つてそれら各地方との間にほ埼莱上の必要から挙建した荘賂が
 あり.交通機関としては自動車の妃代文化槻開から、虜、牛、路托
 までいろいろある.井戸水の水質か非常によく北安稀れに見る鹿で
 あるが、何しろ土地が高いため決く瀬ちなければ水が出ないといふ
 有様で、従つて一つの井戸を凋るにも大挙な金がかかるので、族飴
 や大商店を除いてほ自分の井戸を持つてゐる者は殆ど無いとのヰで
 ある。ハ八月三十日汝迭)
爆撃された
虜東と徐州
 弛が海軍舵窄隊は三十一
H午前六時初秋のをを軒レ
  ちようくかんとぺ
て長駆臍梨の上察に規は
れ、飛行場報に銃砲製法エ
     げ′、け●り
厳に痛烈な爆撃を加へて大
                                   k川■−
                                                              ▲′_▼
持寄を輿へ、更に午前十時川十分、再び我が飛行横は靡東を弊
つて盛んな爆撃を行つた。一方北方に於ては矢眠け三十日我が

              bよしゆう
海軍航枯部隊が、中根入時頃徐州を咋現して坪の梢内にあつた
     げくけ卓ふんさい    土んさい     ぐんじ吋ひん
持物列串を爆撃紛砕し、之に満収されてゐた軍縮口川に大損靖を
射へたのであろ。迎Hに.〓山る和が繊範机ホ部隊の或は北に或ひ
         じ叶うわう
は柄に、又は桝に縦横の柄糀はまことにH党ましい眠りである
が、今回はこの購求と徐州に
h就て簡…桝に説明して札トよう。
【 弼摘Zいふ沌川頂く掴支郷
mの野師で別に頗州とも宮は
            、しゆこ一フ
れ、南部支部を流れる′珠汁に
       ほんこん  こう女ゆう
臨んで居る。香織からは麟九
 てりとう
繊道によつて糾古十一箆の粥
        はんこん
北方に常り、叉帯地からは珠
         きかのほ
江を利川して、船で潮る革も
桝氷る0人口約八十二仰の大
都合で市稗は之を大別して城
内(新裔粥方あり〕及び氷翔、
西帥、南開とし更に外人居鮒
地がある0外人居留地として
 さ めん    くわち
は沙而、河南、花地の三つに
慣介することが出来る。事弊
 前、我が在倒民は約六古名居り、日本人小畢校もあつた。
   外国との貿易交通は支那全開中最も古くから開けた鷹であつて、
  沃の時代に於て己に南方誇圃との通商貿易を行ひ、印床や南洋各地


  との碓氷は専らこのは如を中心にして行ほれてゐたのである.その
  後引きっづき明の時代になつても貿易ほ盛んで、ポルトガル人がま
 つ水つて通蹄を開ぎ、後イギリぺ人は貿易む通じて撼んに阿片ウ蛇
  人し、その緒発としてかの有名な阿片戦雫が起つたことは糊卸の辿
  りである。我閥の総領事陀を始めイギリス、アメリカ、ドイツ、フ
  ランス、ポルトガル、スペインの各帆ほ等しくここに領串佗を設け
  てゐる、械杓及び城外の支邦得は通路が非常に狭いのであるが、全
               仁いいいらか
  部石材−敷いてをりその桶川に大原攣を放べて、商莱は悔めて盛んで
  あり.封鵜糾は年糊約一位元に上つてゐる。一方工業も帝支那第一
  の盛んな虞で、その製窪〓…の多放と托術の料妙な新に於て全困に簸
  た巾と言はれてゐるが、このやうに席東が貿易に放ても商工業に於
  ても弼箕郷節叫と解されるのは、地球的天成に富んでゐる事が第一
  の糊由ではあるが、又一何に於て、この餌架地方が最も古くから開
  けて、外岬貿易市場となつた革も大きな一つの珊由であらう.香椎
  からは席九鋪道により急行列申で約凶時間位で通じてゐる。香椎は
  島であるから、香椎からの列革と富つても、正確には香椎の封岸に
  ある九能が顎糊になつてゐるのであつて、この九龍と席末とをつな
  り√、縛出である威から、厳九接遇と呼ばれてゐるのである.この慧
  ほ桝治凹十年にエ革を起し伺四十凶年に全線の閑仙琴を見るに車つた
  ものである.
               ヽ
   ○    月
 この靡氷について重磐な串は之迄の過去数年問蒋介石故郷反
                     かんしいは
封を叫んで、中央と争ひつづけて釆た供来、庚西淡、いはゆる
    ャんほウ                                    ちんさい
支那軍閥の中における西南派の本糠であつたことである。陳蒋
 とう              _ モうbん はく†う生
業がここに勢力を張つて騎西の挙宗仁、揖崇祓と手を擾つて}
                              寸」つ
蒋介石に封し一政財をなして居たが、陳済菜が惨敗を輿して亡
                          よ かんほう
命した後は、賓軍第−軍長求庚東絃哺公密集任の飴漢諜の勢
             だ けふ
 力の下におかれ、中央との妥協が成立したのち西南派は専ら拭
 口戦線の強化に努めて森たのである.今度の事欒が起るや飴漢
誹は庚東飛行隊の増充、海岸線の武装に努めて、抗日菊勢を拳
     おばわちは
げることに大童となつて居た。鹿瀬飛行隊即ち購求察軍は司令
発光銃の率ゐるもので、庶西峯軍を加へてその数約百五十械、
又麟米軍兵力は十紛糾約入耗、鹿西軍は約七碑二千である。が、
 この中から茎軍は勿論、師剛も上海方耐の戦線に流通されて居
るので、現在どの位の峯軍や師園が廉東を中心として駐屯して
 ゐるかは、はつきり判らないが、棉常の救が球つてゐる革だけ
は充分辣想される癒である。之までも外固から支部へ故人され
る革帯品は大部分香港まで汽船で運ばれて架て、庚東を叔て中
火へ造られてゐた賓状であり、更に庚束には庚州航轟単揆、或
は米山飛蛾修珊廠、靴戚ん野粁財部鮎等の重宰軍譜工場がある
帯からしても、庚東の軍車上に於ける慣館は廓めて大きいもの
があるのである。叉一方旗東海牢として巡洋艦一隻、鞄艦六
隻、河川砲艦十三隻等もここに居る。
         ○
 次に徐州は江蘇省の北部にある都合で、津細線によると天津
からは桝古二十一哩、南京の封岸の浦口からはこ百十哩の地剃
              ろうかい
にある。iにこの徐州は悌海鋳造が津捕放と交叉してゐる何で
あつて、軍事上の窮琴都市であス串はいふ迄もない何である。
  人口は約四耗位奔、豆、高梁、落花熊等の集散地として知られて
 をり、又歴史上から見ると沸の高純と天下を撃つた楚の項弱がこの
 地に都した事は有名である。徐州城の北にある九奥山といふ威は巧
 弱が高組と武を撃つた古戦場であり。又叔近では大正六年に清糾の
 復辟をはかつた張勃が、この徐州にあつて各省の督軍池を牛耳つて
 ゐた虞と知られて居る.(八月三十一日枚超)
外 蒙 音 と
新盤省の現状
   ていけつ
 今回締結されたソゲイエ
トと支郷との不町鮎僻桝に
は、別に伊那私邸郎糾が協
定されてゐると侍へられて
吊るQその巾容はソゲイエ
トは支那倒に対して兵碓、挿#、箪事故官、飛行横、飛行家を
                しんせょうし●う
供給する代りに、支那側は外蒙古、新滅省におけるソゲイエト
 ゆlフtんて士
の優先的地代花にソゲイエトの諸施設を認めるといふのであつ
         へん舌‘与  ど tい
て、支那政府がその壇墳の地を犠牲にしてまでソゲイエトの勢
               い かう         払いはく
力を借りて抗日に常らうとする意向は、之旺よつて一慮明由に
                             くわつはつ
なつたわけである。之之共に支部共産寅の柄剰がいよい上前澄
となつてくる串は充分穣怨される廃であるが今回は支那の適墳
たる外蒙盲新浪省について詮明して見gぅ。
 大憫蒙古の総面積は三市五十耗平方柑に及ぷ非常に桝い土地
で、水は納沸雛潤と北沸斜辺触、北は北揃拭造本組とァルクイ

山脈、南は清里長城、西は支那本部の西北粂角から西北方に引
   いつ七ん
伸した一線の凶遜に包まれた不正四洩形が砦古であるが、その
ほぽ中央部を東輔に走るゴビの大沙漠によつて沙漠の北部を外
蒙古に、南部を内蒙古としてゐる。
                        しんがいかくめい
 外蒙古は一九一一年、帥ち和が明治四十凶年、辛亥革命によ
 つて清朝の威令が衷へたのに来じ、常時のロシアから援軌を受
け、同年十二月一日に支那から離舵して濁立を宣言した。
                              †た−
  其の後清朝が倒れ支郷本国が内政の整理に忙殺されてゐろ憺に確
                            ク1P ン
 じて、ロシアは大正元年、全抽委員を庫倫ハ現在のウラソ・ハトトル)
  に耽達して蕗蒙協約を締結させ、ここにロシアの外袈古における世
  相捕を確保してしまつたのである。しかしこの外警の掬立もやが
                       ‥てうしゆけん
  て箕郷の抗鱗によつて、ロシアは外袈古に支那の宗主梯がある事を
  諷めなければならなくなり、箕郷ほ同時に外鏡台の自治梯を兼馳し
  て、】九→五年即ち大正凶年六月七日、ロシア、支那、式台≡帥地
  位の調印によつて、一時その方何の紛寧は解決を僻げたのである.
               ′・うぷん ひと
  鹿がこのやうな他定も結局は裟文に等しく、Pシアは依然として外
  戟古に封し、威鮎と健柔を以て隙み、外蒙古との間に現掬に域邁電
             ようへい
  信.錬山閑挙、軍事教官僻稗のため、ニー宵萬ルーブル借款州約を鈷
                                 rゐかう
  ぷなとして、着々その雅鑓計ギを迭行して待つた.
   その後一九】七年即ち大正六年に至つてたまたまロシアに革命が
  効萌し、ロシアの革命政椰は一時その野外赤化政策を専ら西部ヨー
 ・ロツバの方面に向けたが、それが大して効果をもたらさなかつたの
                                           てんこう
  でレーエゾは敢然としてその封外政策を東方に‖持向し、その第一歩
  として再び外新富への池‖を企て、いよい上本柏的の外華nH赤化遊

 動に乗り出したりであつた.昔時恰かも反革命汲のウンゲルソ絆軍
 が部下を率ゐて外袋古に入つたので、ロシア革命政府は之を討伐す
 る串を名として赤箪を外装古に進め、ウソゲルソ牌箪の一派を締排
 したのちも撤兵しようとはせず、依然その兵力をウラン.ハートルに
 止めて塗に赤色政府を樹立するに至つたのである。

一九三二年即ち昭和七年には外款盲における倖桃的封建制度
 くつが
は溌へされて完全なソゲイエト政梯が確立、堂々独立共和圃の
官官をなすに至り、政治経済、軍事等、一切の閑家組絨は、全
くソヴイエト式に改攣されてしまつた.かくの如くして外蒙古
                    し tワ
は、その後ロシア勢力の伸展によつて文化的施設は向上し、軍隊
 せん結いtいぴ かいへん              ほりこう
は辻代整備に政綱され、到る魔の都市にはエ糞が勃興して外見
     は丸々
はまことに難かな妃代文化のひらめきを見るに至つたが、一方
ソゲイエトが外蒙古の位民に加へた強制的な政磯は、全く蒙古
                                            しヽけ与ほくめり
民族の天性を無税したもので、ソゲイエト一流の宗教撲滅であ
るとか、紫朗鼻糞制度或は統制経済等の政策は著しく蒙盲人の
   たか              】叶うとう ほりばつ
反感を昂め、昭和九年以後はしばしば暴動の動態を見るに至つ
てゐる。之は外蒙盲の肺衆を見勧める上に極めて重要なヒント
を輿へるものであらう0
 外蒙古の道路はすべて晋府たるウランバートルを中心として
                       しやくかん
各方耐に泡じて居るが、緻道も勿論ロシアからの借款によつて
着々建設が進められて居り、之等の繊道はすべてソゲイエトD
赤化政策が軍事施設を中心として伸びてゆくものとして、大い
に注目されねばならない0
   大場撫刊古人の生半は狩猟と牧帝であるから主潮物頑は璃蛮及び狩
  糊品であつて美大な輸出カを初†る。輸入品の主なるものは赤潮、
  策、煙草、繊物、金属製品、魂晶、靴、文房具、雑貨等ごあつて、
  貿易粗相ほ輸出が大馳一五〇〇瓜一沌、輸入が二千六宵拳沌といつた
  鹿であゥ1輸出入とも維仰の四分の三はPシアに掲占されてゐる.
   しん世上うしやウ
 次に新盤省は支那の西部地域を占める虜で、その面積は百八
         くわうほ▲フ
 十七俄一千平方粁鹿妻資に支那本部面積の三分の一に常る。人
 口凡そ二古五十帝人、海抜】千三汀メートル乃至五千七百メー
    かうけん
 トルの高原地帯であつて、省内には捜多の山脈が縦走し、気温
 は激発し易い大陸性である。ソゲイエトとしては中央アジアの
 ソゲイエト凌墳を保ち外蒙古を閉めるためには是非共その新溢
 省を必嬰とし、支那中原を横断して太平洋へ赤化勢力め進出を
 はかるため、あらゆる手段をつくしてイギリスの勢力を梯ひの
 けた。
                    は けふ
 かくして新渇省におけるソゲイエトの潮.兼は成り、この地に
      せいせいまい 主うbゆ与        ふし上く
 資榔を振る盛世才を操縦して、盛んに勢力を挟稚してゐるので
 ある0(九月一8放逮)
支那の無電
事発と眞茹
 我が海軍舵姦部隊は】日
夕刻敵が作戦基地に使用し
   しんbよむ 下んだいふ 】モん.
てゐた渥茄瀬電轟附混を爆
     こ I、与よ上フ
撃し、叉渇杭雨繊道の松江
附紀の繊邁を爆破して大損
 寄を輿へたとの事である。渥茄は上海の郊外にあって、無電壷
 を以て有名であるが、ここで支那の無線電信事業について越ペ
 ょう0触線電信が支那で梵何に供せられたのは一九〇八年即ち
 我が明治四十一年に上海のパレス・ネテルが設けた裁許無線を
       かうし
 以つて囁矢とする0
   然るに之に勤し支那民間に於て主補償筆諭が沸増した結果、支那
  政府はイギリス公使に抗流し、頼局之を異収して上海電報局に移管
  した.その後ドイツが無線電信機を支郷に契り込むため、ドイツ・
  テレフソケソ曾敵の機械山葦を箕郷に寄柑し、次いでやはりドイツ
  のシーメンス骨敵は箕郷政府の許可を得て北京と南京に無線電信墳
  を設けて通信軒漁を待つた虎.その成績が良好であつたため海軍邸
 が買収した.次いで一九〓ニ年即ち、大正二年には交通部はチ)フ
                                ど・、七んけん
  ゾケソ倉批に無線電信機械供給め掬占梯を輿へたのであつた.
 初め支那における無線電信周は義として要塞であるとか、或
 は滑海の港帝等忙設饉され、その自的は寄ら国防の安全と航行
  は■しよlノ
 の保障を期するために用ひられ、同時に普通電報をも取扱つた
        ぴ ぴ
 が、その利用は微々たるも∂であづた。その後東郷政府は大無
 線電信局建設ぬ関してイギリスの†ルコニT合祀アメリカのフ
エヂラル合祀月本の三井物産倉政との糊に契約を結んだので、
    せりしよう     ねんもんだい     ▲
粥係者の接衝上いろいろの難問頚をひき起し、鼎ては国際的桃
 舌▲ノ
 糾にまで蟄展したのである。、塵が料率の進歩は額波長無電の.魂
 遽となつて、園民政府建設費貞倉ではアメリカと契約して盛ん
                             てん▲巧
 に短波無量を輸入し、ここに支那無電界は俄然として】樽梯

 を刺するに至つた。     芸
  かくて南京政府は電信新米の訳単性に鑑み之が積極的建設に
 努力し、一九二七年、即ち和が昭和二年には無電管理虜を設け
 た。玖に肺介石は有線電信による閣内池信の不備を祁ふために
 は虫として無線電伝による方針をとり、南流を中心として各省
 に小規模の短波無線電侶局を設け、以て全図の聯終を刷るとの
 計誠の下に着々その洋行を進めた。如線電信は支那にとつては
 新興難業であるために、之に嬰する人材と横械とに快乏を感じ
                 じ上か わい
 て、この紋陥を祁ふため上淋の徐衆准に無線電信横製法廠を設
 けて電信機械材料の自給を計ると兆に、一方には触触電信人員
 訓練桝を設立して人材の養成に恕めた。
  なほ之と前後して閑民政府は伽…線電信による封外洩信萌紫に
       かくちく   し け士
 別する列強の角逐状態に刺俄され、我が三井物産倉敵の有する
 猫占繊を全然無税して、上海郊外の屁茄に閲際洩信を目的とす
 る一大無線電信局を姓設したのであつた。この工事はフエヂラ
 ルの契約を受け稚いだアメリカのアール・シI・エI合祀の手に
 よつて民図十九年軌ち唱和五年に宋成し、同年十一月一日から
 正式に米、狗、俳諸岡との例に無線電信の直接通信を開始する
 に室つた。渥茄無線電信局は電力十キロの短波であつて、現在
 支那における有力なるものであり、その朽川範囲も靡く教信州
 の附巌群兵、額電桝、奨鵬桝♯には痛く最新式のものを設備し
 て居るといはれてゐる。様々な閥民政府のデマ宜倖はすべてこ
 の州原‖茄の無線電信局を放じて海外に逸られてゐる資状である0


 次にやはヶ我が海軍航轟部隊の爆撃を毅つた渇杭雨彗温の松江と
 いふのは、上海から西南ニ†入哩の鹿で紫浦江の西岸に臨んで居
 る.人口約五鵜を有し、前清の時代には江南水師堤督がここに駐在
 Lて居た。物産は米、綿花を立とし又ここでとれる触は掛江すずき
 として味のよいので.天下に知られてもる。
  又我か陣軍上陸部除が完全に占捜した輿撤砲貫は箕郷における有
 弔な砲英で北支郷の大路砲嘗と我び移されたものである。阿片取申
 の時に有名なる江南提督陳化成が駁托したが、彼はこの砲真の虚に
 海士をつんでその上に石狭を撒き、速くから之を見た時にほ恰かも
 百瀬の草陰が集つてゐるとも見られる野営天幕に見せかけて英軍を
 脅かさうとの裔計を用ひたのであづた.
  次に野山僻といふのは輿淋の北西約一旦の虞にあり、輿漱を主管
 †る野山晰の枝研がある威である。姑壁をめぐらし四つの門を通じ
 て居るが、野山といふのは附近にそぴえてゐる山の名を守山といふ
 ので、それをとつて野山晰と名付けたのである。ハ九月二日放送)