上海青島等の我が在華紡績


 上海における日本人紡績
は支那軍の砲撃爆撃等を受
けて、相当の損害を来して
ゐることが伝へられて居る
が、今回は上海、青島を中
心とした我が在華紡績について説明して見ようと思ふ。
 在華紡績即ち支那における日本人紡績業は、日本紡績業の資
本輸出形態と見る事が出来るのであるが、元来支那に於ける外
人経常の綿糸紡績工場建設は、日清戦争後の馬関条約に瑞を発
してゐるのである。その後アメリカ、ドイツ、イギリス各国人
経営の紡績工場が次第に新設されたが、日本人が初めて支那に
於て紡績事業に着手したのは明治三十五年のことであつた。三
井洋行が支那人経営の大純紡績を買収して、之を上海紡績第一
廠と改名して経営したのがそれである。このやうに日本紡績業
の支那進出は他国に比べると、やや立遅れの感があつたのであ
るが、世界大戦後に於ける日本内地の物価高、とりわけ労働賃
銀の値上り、支那関税の引上は世界大戦によつて甚大な余剰を
蓄へた我が紡績業の支那進出を促したのである。はじめは支那
に於て相当綿糸布の需要があつたので、それを充すため支那に
日本人紡績工場が設けられたのであるが、最近では日本内地で
は操短(操業短縮)が実施されたり、又労働賃銀も日本に比べ
て支那の方が安いといふやうな関係から、ここに在華紡は極め
て有利な地歩を占めるやうになり、一方北支那方面に対する投
資を政府が奨励するのと相俟つて急激な発展を見るやうになつ
たのである。
 世界大戦が終る迄は我が在華紡も僅かに内外、上海、日華の
三会社、十工場、四十万錘に過ぎなかつたものが、大正十五年
には日本人経営の会社数は十五となり、百二十五万七千錘と六
倍余の生産能力を示すに至り、その投下資本額は既に二億円に
達したのである。而もその後ますます発展の道を辿つて最近で
は二百三四十万錘となり、今日では支那における日本の企業中
一番有力なものとなるに至つたのである。
 現在日本の紡績は一千二百万錘でその中在華紡は二割を占め
るに至つたが、その在華紡の中でも最も生産の多かつたのは上
海であつて百四十万錘、次が青島の五十五万錘、それから天津
の三十六、七万錘であり、漢口にも三万錘位の生産があつた。

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 今や上海は戦火の中にあり、もとより作業は一切中止され、
青島も亦之までやうやく平常の一、二割程度の作業を行つて来
たが、それも遂に全く休止するの止むなき状態に立至つた。漢
口も勿論在留民の引揚げによつて休止され、今は僅かに天津が
やうやく作業を恢復し始めた処である。我が在華紡が現在どれ
程の打撃を受けてゐるかは充分想像の出来る処である。
 今回の事変による在華紡の損害については有形的損害と無形
的損害との二つに分けて考へる事が出来よう。しかし有形的な
損害の方は、現在まだ上海に於てどれ程の被害を受けてゐるの
か、その実状がはつきり判つてゐないため述べ得る迄に至つて
ゐないのであつて、同時に無形的な方面に於てもやはり事変最
中の現在に於ては、到底その損害は判る筈のものではないので
ある。しかしたとへ事変が解決したとしても忽ちそれと同時に
一切の経済関係がもとに復するものとは考へられないので、前
途は徒らに楽観を許さぬものがあるのである。

  最後に我が在華紡の会社名と、そこで働いてゐた日本人の数を記
 せば次の如くである。
 一、上海の在華紡会社、内外綿、大日本、上海製造絹糸、上海紡織、
   日華紡織、裕豊紡績、東華紡績、豊田紡績、同興紡績の九社。
 二、青島の在華紡会社、内外綿、大日本、上海製造絹糸、上海紡織、
   豊田紡績等の上海と青島の双方に工場を有するものゝ他、富士瓦
   斯紡績、長崎紡績、日清紡績業の八社。
 三、漢口、泰安紡績
 以上の通りであり、次に之等日本人経営の紡績工場で働いてゐた日
 本人従業員は、上海の方が男子一千百四十九名、女子九十五名、青
 島の方が男子六百七名、女子六十名、漢口が男子二十二名で、之は
 本年六月現在における在華紡績同業会の調査に基くものである。尚
 之等の日本人従業員は主として支那人職工の監督の任に当つてゐた
 ものであつて、之にその家族の数を加へると在華紡績事業を中心と
 する在留日本人の数は相当に上つてゐた事が判るのである。

                        (八月二十四日放送)