支  那  の
税警鞠とは
 二十一日青島から達した
同盟至急報にょれば、中央
演鎗の税学園が公安局遊学
に代つて、青島市中の治安
糠持に首るため市政府と枕
甘願との間に目下折衝が行はれて居るが、芳しえがl現すれば
居留民は一名も青島に在留し得ない免除に普画するわけで、形
 勢は極めて重大化して発たと侍へられて居る.然らば税瞥囲と
 は如何なるものか.元舜税響周といふものは軍隊ではないので
 あつて、之は国民政府の財政部に直観するもので、一般軍隊は
 いふ進もなく国民政府軍政部の統轄する虚であるが、枕瞥周は
 財政部の統轄するものなのである.その任紛とする鹿は何かと
 首へばいはゆる紳枕の取締♪である.密愉とりわけ身の密輸を
 取締るのが最も大きな任務である.
 団居政府は、関税収入を放て歳入の最大としてゐるのであつ
 て、艮囲二十一年度即ち昭和七、入年度わ国民政府の決算報台
 を見ると、歳入は親戚七億三千三石十六草花の中開税収入は四
ニ・二一ガの三億一千嵩元、康税は二〇・七三ガの一億五千二宮
 革冗、統税ハ即ち奔粉枕、締菜珠、少包税等の報枕む統一した
 もの)は一一二八ガの八千二首肯元であつて、この三種を合計
 すると五億四千四青草冗、驚に裁入の七四・一二ガむ占めてゐる
 のである.この割合は翌年度には更に七五・一六ガと増加を示
 したが、此やうに南民政府の歳入は、その殆んどを紳枕、果栓
 及び統税に依存してゐるのである.徒つて国民政府財政部はい
 ょいよ閲税収入の増加を固るために、保安隙軍隊等と建つてそ
 のせ鹿の椴紳として、この溌瞥輿を持つてゐるのであつて、枕
 瞥囲の大きさは約一箇師囲位二常人に上つてゐるのである.
山貼∽約悶細川帽悶叩謂g謂∽州詣f紆岬糾
 色とする虚は軍隊に比べて非常に給輿がょいといふ鮎である.

稚符はいふ遥もなく中火iと維も軍兜の配給は決して充分とは
 言はれない支郷の軍隊であるが、之に比べると税瞥囲は財政部
 に直観して放て非常に穴ロかな給輿を受けて居るのである.従つ
 て軍隊よりもその武罪滋備は却つて俊秀であり、圃点の素質も
 好いのである。このやうに税瞥圃は給輿がょいためにその戦闘
 力も粍耶などは比較にならす中央軍よりも充箕してゐるとさへ
 見られてゐるのである。さればこの枕瞥園の園長になることは
 支那の軍人としては非常な光柴であつて、現在の園長はかつて
             くわうけつ
 中央軍の節一抑長であつた井悉が常つてゐる。
   蘭島は今やこの松野開が保安晩と合流して置湊町の近くを包囲す
  る牲勢をとり、更に蹄鮎怒の山東軍と中央直系軍とが遠巻きにする
  といふ斐勢を示してゐるのであつて、この山東軍と中央直系軍の兵
  力は約玉野師国と見られて居る。守島特別市の市長地相烈と山東省
  政府翁席斡改築は、山瀬に兵火の波及を極力防がうとしてゐるやう
  であるが、面子を第一とする支郷人のこととてそこに何時如何なる
  不畔串が過るかも分らないといふ状況であり、税野間保安陵及び山
  東、中央の稲軍と、多数の兵力集中は鈍らに事態を瞼悪に導いてゆ
  くものと雷はなければならない。ハ八月二十二日放迭)
支那海軍の
現 有 勢 カ
 上海を中心とする日支両
軍の戦闘は開始以来眈に十
日、我が勇猛撫比な海軍陸
戟陳は極めて僅少な兵力で
あるに拘らす、よく我が梅
上部隊、航基部陳の柄搾と糾娩カして、要田の如く押し寄せ凍
る支部中央軍の精鋭を次々に撃破し、我が防備拙を厳に守つて
一歩も譲らぬ術戦振りは誠に勇壮極まりないことである。
 虚で支部の海軍は一鰯何をして居るのだらうか。先建て上淋
で小さな怪高速艇が免形水欝を積んで苛揃江の上流からやつて
来て、我が軍艦の方にその魚笛を敬射して逃げ郎つた事がある
が、その時は魚雷は我が軍艦には命中せす河川拝の右頼を壊した
に過ぎなかつたが、その後支那海軍としては格別の所動も行つ
てゐないやうである.何れは局面が展開され支那海軍が問題と
なつてくる場合もある事と想像されるので、今岡は支那の海軍
について述べて見る事にしよう。
 抑と支郷の海軍なるものもかつては衆洋一を浮つた時代があ
つた.それは日清戦役常時であつて北洋水師と呼ばれたものが
それである。この北洋水抑も日病態率に於て我が艦隊のために
撃滅せられ、戦後清国政府が役興に努力した海箪も、次いで起
つた北清事攣によつてまたまた蜜流され、且つ財政の窮乏と列
同の侵略によつて根凍地さへ奪はれるといふ状況となり、その
 ハーグ
後海牙で開かれた萬開平和合議に於ても支郵には海軍がないと
いふ理由で参加を拒絶jれた程であつた.
 併し支那はその後といべども海軍の復興に封しては望みを捨
てす、経営十年やうやくその曙光を認めるに至つたが、明治四
十四年十月、武昌に起つた革命にょつて、海軍建設の事業も重
く停頓するに至つてしまつたのである。即ち武昌に革命が海る
 や時の北京政府は陸兵と鵜に有力な海軍を波潰し討伐に従事さ
 せたが、流速された艦艇は悉く革命軍に降参してしまつて、遽
 に支郷の海軍は一時蒋命箪mものとなつてしまつたのである.
 丼の後支那には群牲削探するいはゆる戦囲時代が出現して、
 潅に縁故の深い軍閥は各々地方的に海軍の勢力を自己壌寵中の
 ものとし、勝手に海軍の堺校を造り造船朗を設け、陸職隊を準
 備するといふ有様であつたが、蒋介石の革命軍が勢力を増大し
 て、曲りなりにも国内む統【するといふ形式が出衆上つて来る
 につれ、之等港軍も牛ば買収、牛ば強制的に中央海軍といふ名
 の下に統一されるに至つた次第である.
      ×   ×   ×
 現在中央海軍の賓械者は海軍部長の鮮仰鮎サあるが、彼は礪
粥g‥‥貼附桝粥約f州糾榊約悶附b絹粥報
 に壊滅させて、大いに蒋介石の信頼む博したため、今日の地位
 む種ち得たのである.かやうなわけで硯在の中央海軍と稀する
 ものも、いはゆる寄せ集めの呉越同舟、第「第二の術艦隊は
 圃民政府直観であク、其の司令部を上海に想いて、主として揚
 子江流域む中心とした支那滑岸の警備に常つて居る.之は巡洋
 艦六生む主力として騒迭艦三笠、水雷艇四隻、大型砲艦十九隻
 小型砲艦若干隻を以つて舶成されたものであるが、この他に第
 三艦隊と構せられるものがある。之は番茶北港軍であつて司令
   ゐ いいえい
部を戚海術に澄き、その勢力は巡洋艦二斐、駆逐艦一隻、水雷
健二十饉、砲艦大小十二隻といふやうなものであク、更に番庶
東政樺の支配下に在つた席末海軍は、特に席末江防艦隊と首は
れ、司令部を贋泉に馨いてその勢力は巡洋艦l坐、砲艦十九隻
水雷艇四隻といふ現状である.
 かうして数へ集めて見ると支那の海軍も合せて巡洋艦九重、
騒逐艦四隻、水雷凝二十入隻、砲艦六十飴隻その他合計有数金
的七萬トンの勢力となるのである.しかし之等の中敷艦を除く
外は悉く老朽のままに放任され、僅かに江上に行動して警備に
任じ、或は陸上部隊の戦闘に協力し得る経度であつて、到底国
防の重任を浄ひ、海洋に作戦して威力を蟄拝するだけの能力は
 ないのである.
 今岡の事攣勃教に際しても之等の艦隊は上海苛沌日の奥深く
隠れ、或は梯子江の上流速くに温いて、何れも水路を完全に朗
塞し、我が港軍の進出を遮断してその攻撃を怖れてゐるやうな
状態であるさ現在揚子江本流の閉塞地鮎たる江陰肘近には相首
                                L柚ん
敷の支那軍艦が集つてゐるさうであるが、午後披等が如何に衣
 ど▲J
動するか之は興味ある問題ヤある.ハ八月二十三日放逸)


蒙 古 軍 と
徳王、李守信
 徳王の率ひる内衆軍は察
北ハチヤハル省.の北部地域)
に於て、張北を中心にこの
方面へ進出して木た支郵中
犬軍並に共産軍に勤し、内
 蒙軍政府の管轄する地域を守つて断乎偉人軍に封し攻準を閑地
 し、二十五日のェユースにょれば二十四日沸靡から張北の西北
方約二重の地鮎にある大祐第山附紀に於て粥軍の激袖が行はれ
この職闘には日本峯軍も参加して、支那軍に封し北柏な蟻瀬む
弛行、敵は二千飴の柁悩む追究して敗走したと侍へられて居る。
そこで今岡はその蒙古軍について詑明して見ることにする。
 一髄この蒙古軍とい
 のふはどういふものか
 勿論その詳しい事は分
 つて居ない。そもそも
・蒙古民娩はこれまで南
 京の圃民政府にょつて
 非常な歴迫を受け、そ
 のままに放つて磁いた
 ならば蒙古民族は、遽
 に滅亡の道を辿るの外
 はない状態にまでなつ
 て衆たのである.そこ
 でこの状態を見た徳王
 は蒙古民族自身の復興
 むはかるために餅然と
 して起ち上♪、昭和入年頃から蒙盲民族にょる内蒙古の自治渾
 動は起されたのである.
 徳王は蒙盲王族の出で幼時から北半天津に留拳し、世界の大
 勢に通じた蒙盲人中の新知識である.世界の現勢を見るに蒙古

 民族は放りに惨めな生冶を迭つてゐる。此民族を救仏向上させ
 ることこそ自己に輿へられた使命であると自兜した若き時代の
 英雄徳王は、兆して然らば如何なる方法にょる事が虞の蒙古民
 族を救ふ道であるかといふ事について深い考察を梯つたのであ
 る。そして結論として得た庖は共産筑を絶封排撃して蒙古民族
 にょる内蒙古の自治を行ふこと以外には、紹封に方法なしとの
 断定を下すに至つたのである。その理由はどこにあるか、即ちソ
 ヴイエト・ロシアの赤い手がのぴてゐる外蒙古の民衆が、ソヴ
 イエトのあらゆる封外食備にも拘らす、極め七悲惨な状態にお
 かれてゐるといふ革質を見開し、叉之と同時に満洲固の成立に
 ょって共産蔑む排宰する満洲閑が、日々王道楽土の建設を紫し
 みつつあるといふ目覚ましい搾遊ぶりを胴にし耳忙した結果
 に他ならないのである.かくして民族自救のために超ち上つた
 徳王はチヤハル省の北部即ち察北六僻をその勢力下に澄き、こ
 こに蒙盲軍政府を設けたのである.古釆蒙古民族はその王を令
 嬢する念が強く、随つて民族自救のために超つた若き徳王に封
 しては仝民族を拳げて従ひ、ここに今年三十七裁の徳王を盟主
 とする蒙盲民族の強力な自治慣は成立したのであつた.
             ×       ×       ×
 この蒙盲軍政府にあつて徳王を助け、軍一方の大将たる人に
 b・しゆLん
 季守信がある。この季守信も生粋の蒙古人で徳王が政治外交の
 手腕に秀でてゐるのに対して、李守信は軍事に卓抵した手腕を
 示し全軍の信望をその一身に集めて居る.
  人となりは極めて渦悍鵠卑軍律を守ることあくまで固く、若し
 その部下にして技術弟行等を働いた老があつた場合には、断乎衆人
 の前で之を銃故に威するといふ庶路さである.しかも他の一画に放
 ては白からを指すること極めて薄く、収入の全部を部下に分ち輿へ
 又敬功のあつた部下将兵に野してほ直ちにその戦場檻於て恩銘を輿
 へるといふ風であつて、全軍その指揮に服し思蹴放び行はれるのは
 けだし常然の結果である.
 されば蒙古軍は極めて精鋭であり、これまで未だ敗れたこと
のない蟹史を誇♪、叉決して敗れすとの強い確信を持つてゐる
                 ふ さくy
のである.昨年噴から練達省政府主席侍作義はしばしば軍隊む
出してこの内蒙自治隈域を窺ひ、その度毎に壌過されて居た
が、今岡の事攣勃黎を見るや綬邁軍は更に朱徳、毛浄泉等の部
下なる共産革む加へて、一歩にこの地域から清洲河内に侵入し
ょうとの髄勢を示すに享つた.之に封して徳王、李守信の率ひ
る内蒙軍はその自治笹域を守ると共に恐るべき共産蔑の潜入を
防ぐ馬、断乎軍事行動を超した事は極めて常然の結果である.
 骨から蒙古民族は勇枚を以て鳴つたのであるが、清朝は之む
恐れて衆盲人を去勢するといふ方法をとり、多数のラマ専を建
              ど甘や’
てて、ここへ蒙盲青年を入れ、説経が唯一の日辣といふ淘身生
                  ヽ                    へ’かん
清を強ひたのである.或はこの地方の樹木を伐つて剰惇な蒙古
                                一々
人が行勅出非ないヰうにするなど、いろいろ彼等の勢力を削ぐ
手段を講じて非潅のであつた.そのためにこの地方は、今では
殆んど沙漠のやうになつたが、しかし時代に眼兜め民放意鞄に
放える徳王が超つに及んで、今や蒙盲人は自らのカに信頼し常
着教展の途を辿つて居る。かつて時代を席托したヂンギスカン
の血は今もこの民族の中に脈々と流れて居る.我々大和民族と
多くの鮎に於て似通つた特質を持つ蒙古民族の特殊、並に蒙盲
自治運動の将木こそはけだし汚日すペきものがあらう.
                   ハ八月二十五日放蓮)
我に及向ふ
支那飛行機
 北貴方面の戦闘に於いて
 は一向に姿む硯はさなかつ
た支那の杢革も、八月十三
日の上洛戦山林、この方面
 には精鋭をすぐつて共の潜
励を開始し、連日我が梅軍機との間に壮烈な賽中職を展開し
て、敵ながら天噂れな奮闘ぶりを見せてゐるやうである・
 もつとも上海戦が勃脅して以釆折角飛んで木た敵の爆撃機も
徒らに外固の居留地や自国民の邦芥する盛り場、或は味方の支
郵軍陣地に爆弾を投じてその威力を示すばかりで、我が軍に輿
へる被宰は殆んどないといふ有様であるが、この小額な敵峯軍
の振舞ひに封して鞭然起ち上つた我が海軍舵峯部隊の息をもつ
かせ拍猛攻撃は、さしも自らのカを信じ過ぎてゐた支那峯軍に
徹底的な打撃を輿へて、日増しにその勢力は縮められて居る・
眈に我が海軍航峯部隊によつて蝉破せられた敵の飛行機の数は
有数十真に上つて今では殉んど手も足も出す、僅かに打ちもら
された飛行機が時たま効果の抄い皮革をくり返すに止まつてゐ
る萄様である.
 支郷の峯軍は紙慢に於て約九有機経度の勢力を有し、その約
年数は列固から貫ひ集めた最新鋭械であつて、大いにその康秀
性と充驚振りを袴りてゐたのであつた.
 之迄の戦闘で上海の峯に規はれた敵の飛行椴はすべてこの新
政概であつて、自分の方の機鴇の康秀なことを誇つた結果日本
軍怒る1に足らすといふ観念をもつて、敢へて挑戦するといふ
尋拳に出たものと考へられるのである.之までに現はれた敵の
飛行概はマルチン鷺嬢宰椴を初めとして、ノースPツタ、カー
チスホーク、ボーイング等種々の制式の軽嬢牛糠又は戟押樺で、
之等が時に編隊、時に一概で飛んで帝たやうである.
  この中マルチソ覆撃機と冨ふのはh書界航垂界での傑作の一つと
 折紙をつけられるアメリカ膣軍が自捜のものであつて、さながら互
 鯨に賞をつけたやうな恰好をして居る.費動機は左右の爾箕に→つ
 つつ袋鵬されて武装としては機朋銃鞋門を有して居る.勿論機泣は
 全部金鹿製で鳩挿は捜内に包み込まれて居るが、その稽萱は約ニ
 00ポンドハ約一〇〇〇粧郎ち一撃位である.さうして長大速力
 は三〇〇粁以上を出すことが出水るが、速力をゆるめて時速〓七〇
 粁を使用すれば、四】入≡粁の行動を成し得るといふ事で、とも角峯
 の大怪物といふべき飛行機である.なほ二十五日には上海の室に初
 めて敵〆グラス機が現はれ、我が海軍機は之に野して革の如く葬ひ
 かゝつで、見事撃墜してしまつたといふ事であるが、この〆グラス
 機もアメリカから賀ひ入れたE大な貰爆撃機であつて、形はマルチ

  ソ欄攣機に比べるとややスマートであるが、性随は鞄んど同様でこ
  れ又仰界における簿兆的存在とされてゐる飛行機である。なほ支部
  は照爆撃用としてイタリアからサグオイア撥、ドイツからハイソケ
  ル槻、フオツクスサルフ機坤を兇ひ入れてその数も≡十藁近くに達
   して居た槙様である。
   職朗梯のノースPツタ、ボーイソグ、カーチスホーク等は矢張り
   アメリカから貝ひ入れた出所銃の箪用撥で、何れも特色のある蜂快
  な姿をして居る。速力は】仲村三五〇粁を出す事が出来る鰻芳機で
  あるが、職糊機の軽鵬については支那はこの外イタリアからライア
   ツト櫻、プレ〆機等、時速憎百粁を出す革が出来る帽雰な職闘槻を
  只ひ入れて居て、既に南京万両の職印には、之等の新鍬機が多数参
   加して撃駅された槙械である。
  山上のやうに支那峯軍の飛行機は何れも世界最優秀械と折紙
 むつけられる捏の威力のあるものであるに拘らす、今や到底我
 が精鋭なる海軍械に匁向ふの輿架はなく、我が飛行概の姿を見
 れば直ちに逃走を企てるといふ驚状は、如何に我が港軍航基部
 隊が弟狩輿敢であるかを充分物語つて飴少あるものである.
                       ハ八月二十六日放迭)