京泥域道と
沿線の都市
 上海の事態急迫と共に支
      】Uいこ   こ こ’
郵中央軍が京渇鋳造や渇杭
 上▲ノ
雨錬道等によつて配備され
 てゐる事が侍へられて居
 る●
                               一「ロ     ▲ノーユ「▲H
 京渇鉄道は上海から南京までの本線三石十一軒と上海、輿聴
聞の支線十七粁から成る支郵の固有鈍道の一つである.この鉄
道の本線は支部が清閑であつた常時、即ち明治三十入年にlニ盲
二十五萬ポンドを以て起工され、明治四十一年に全線の竣工を
見たのであつて、その後輿総支線と共に政府に買収されて今日
に至つたもので、和め渇拳銃道と稀したのであるが、団居政府が
南京に都む定めるに及び唱和四年京渇殊遇と改めたのである.
             ・ヽ
此の京渇鉄道の滑線はいばゆる江南の沃野を東西に走つてゐる
のであつて、僅かに南京附紀で丘の起伏を見る他は概ね一望千
                         てんてつ
卓の贋野が連なつて居て、その間大小の運河、湖沼を鮎放する
             むしやく
ところ錦江、丹陽、常州、無錫、蘇州等の各城市を連ねて居る.
 帝京錦江間は本線中最も地形の攣化に富む区間であつて、南京
 の停革場を出て走ることしばし、やがて右の窓には郎鴫山、官
費山、鐘山等の山々が規はれ、左の窓には之に封して揚子江上
 に浮ぶ帆を見る事が出蘇る.
 南京から約五十五粁の虚揚子江と大運河との交叉鮎に位碇し
 てゐるのが錦江である.
  錦江は人口約十五萬を有し天津條約に基いて開沌された戚であつ
  て北は揚子江に臨んで瓜州と相野し、東西南の三面は山岳を負うて
 居るが、上述の通り揚子江と大在河との交叉粘に位碇するため、水
 路交通の極めて便利な虎であつて、随つてその貿易和も上海沸口南
  末に次いで居る.一
  なほここで一寸大窪河の事に裁て億畢に首ふと、この大避河とい
 ふのは安邸内陵における主宰水路血二大釆賂を成すもので、その親
 頓の宏大な粘に於ては萬鼻の長城と共に安郷大工事の鍵壁と晋はれ
  るものである.即ち南方斬江省の杭州に超つて江蘇、山東のこ省を
 横晰し北安河北省の天津に達するもので、英絶延長約九百浬途中艶
 多の町や村を述ね揚子江及び華何の二大河と交叉しなほ天津に於て
  は白河を介Lてその上流約百二十浬の通州に達してゐるのである・
 近年繊正の教壇と共にその利用偽債は到底昔のやうではないが、而
 も何舟による族客貨物の彗の上に大きい投剰を持つてゐるのがこ
  の大銀河である.

         ×     ×     ×
 さて銀江を脅して約七十五粁の魔に常州があるか常州は人口
約五萌、大藩河がここを流れて江西から蘇州方面へ稔逢される
筏が前後相接して殆ど水面を蔽ふといふ盛観を点して居る.こ
の常州から更に行くこと五十四粁、そこに無錫がある。上海朗
海以来の好影響を受けて次第に繁盛に向ひ正に江蘇富瀕の中心
地となつた.人口約十常、城内は商業が極めて盛んである。無
錫から三十八軒の地に蘇州がある.急行列革で南京からは約五
時間上海へは約一時間四十分の虚にあり、江蘇省屈指の大都合
で人口約五十南、日本人も今岡の事変が起るまでは約入十名在
留してゐた虚である.ここは大運河と蘇州河とが和合する鹿で
            かいさく
あ少、城の外周には運河が開穿され、五つの水閲によつて城内
外の水運の便利に費されて屠る.随つて叉市中に棒の汲も頗る
多く三千六育と構せられ、水の都たるの面目ここに躍如たるも
のがある.話の大きい支那の事であるから、青葉通りこ二千六盲
はないにしても兎に角渾山橋がある事だけは事賛である.蘇州
は水路が四通八達、いはゆる南胎北馬の青葉が超つた魔のその
中心地であるから、東は上海西は太湖北は錦江南は杭州に、小
蒸汽船又は艮胎を通じて居る.なほこの蘇州附紀は幾多名勝の
地が多い朗である.ハ入月十四日故意)
我海軍の花形
上海陸職隊
 不気味な沈敷、一喝釦蟄
の緊迫した情勢に碇かれて
ゐた上海に於ては、去る十
三日支郵革の不法皐庚な挑
戦にょつて迭に火蓋が切ら

                かんぜん
れ、腿忍に隠忍を重ねた帝国海軍も敢然租つて自衛上必要な行
勅む超し・今や壮烈な戦闘が各方面に展開されるに至つて居る
が・今岡は我が海軍の花形である海軍陸戟隊について述べるこ
とにしょう.
 一饅海軍は海上に於て
敵の艦隊を撃滅し、制海
権をその手中に収める事
を主任務としてゐるので
あるが、作戦の状況によ
つては椒に磨じて局地的
な戦争を行ひ、或ひは陸
軍とも協力して協同動作
を耗る場合も生じてくる
 のであつて、之がため海
軍だけのカで敵地敵砲基
等を占領し、或はとりあ
 へす首面の敵む攻擬して
 陸軍の到着を待つといふ
 やうな事態も生じて爽る
のである・即ち海軍陵戟陳は斯様な目的で陸上に波浪される海
軍笹陳の革む音ふのであつて、イギリスアメリカのやうな固は
特抑に此兵隊を蕃成して軍艦に来り込まして居るし、支那の如
きは全然海軍に紳係の如い陸軍兵を以つて、海軍座戟隊と呼ん
でゐるやうな現状であるが、我が海軍に於ては昔から軍艦の衆
点そのものを以つて随時綱成する建前になつて居て、大部隊の
必要な場合には数艦聯合して、之を編成するやうな仕組みにな
つて居るのである.徒つて我が海軍に於ては平素艦内に在つて
                    つかさど
大砲を動かし、水雷を取扱ひ械閑の運樽を箪る海軍兵も、命
令一下すれば直ちに小銃、槻紺銃を托つて、陸兵に早攣りをす
                            ふ
る澤であつて、之がためその部署につく人々は艦内に於ても普
だん
段から陸戦の教育を受け、軍艦が碇泊をすれば陸地に於て陸軍
同様な演習を行ひ、絶えす陸戟陳としての訓練を重ねてゐる澤
である.我が海軍陸戟険が勇猛無比未だ裁つて敗れた事のない
といふ事は、我が海軍の光輝ある庭史と同様であつて、其の驚
カは世界に於ても定評のある魔である.
          =…=・…=・==◇=・=…・・=・=…
 かの明治ニ‡三年北清事攣の際聯合固軍の尻込みする中を、
       クーク1
率先奮闘して太治砲基を占領し、又過ぐる上海事攣の折には群
がる支郷の大軍を相手として奮戦十飴日、能く上海を死守して
一歩も支那軍を紀寄らせなかつた赫々の武勅は、世界を奉げて
驚嘆した虚であるが、なほ海軍兵神事のものの重砲む陸上に運
搬し、海軍重砲陳となつて旗偶の攻淘哉、青島の攻略哉に徒事
                  ひもど
し、眼兇しい活搾むしたむとも鮭史を播く人はあまねく知つて
ゐる朗である.
 我が梅車の陸戦陳は斯様な編成に成り、斯様な輝かしい臆史
を持つてゐるのであるが、上海に常置せられて唇る海車特別隆
 鞄陵と稗するものは叉少しく趣きを異にして居るのである.
 之は支郷の固情と上海の竜畢性に鑑みて、平素から最も充質し
 た兵力を準備する必要があカ、内地で編成した特別の海軍兵力
 を以つて警備専門の陸戟隊を編成し、主として上海む中心とす
 る陸地戦闘の訓練を重ねてゐる部隊であつて、丼の服装なども
 鋏兜にカーキー服といつた特殊の服装をして居るし、其の装備
 に於ても完全無映であり驚嘆すべき武力を脅梯し得る事はいふ
 進もない。
 今次の事攣爽教に昔つて支郷軍は頼々と大軍を集中し凍り、
 中央軍の精鋭と稀せられる四個師鼎を以つて直接上海を包幽
 し、猛烈な徳政瀬を行ひつつあるが、我が精鋭な海軍陸戦隊は
海上部隊と相呼厳し、各所に支那軍を準破して士気いよいよ旺
盛完全にその使命を果してゐるのである。之に射して圃民は求
心から感謝を捧げると共に、そのますます武運長久を斬つて止
 ま取次第である.ハ八月十五日放逸)
支那の宰軍と
其飛行根接地
 去る十三日上海に於ける
戦闘に於て精鋭む誇る支部
峯軍は大拳して上海の上峯
に飛燕し、之を迎へ撃つ我
が海軍の正確で果敢な猛攻
ゃに辟易した結果は、斯かまはす滅茶苦茶な爆弾投下となつた
ため、何等押係のない外国人をはじめ多くの支部人避難民まで
 も殺傷するに至つた.定に天人共に許さぎる暴虐といふの他は
y なく、支那軍隊にして始めて見られる飴りにも無軌道、非人道
‥的な行馬である.このやうな串虐を耽へて平然と行ふ事‡を前
′ 忙しては、列国も今や支郷に封する認識を新にするの外はなく、
〉 南京駐劉の各囲大使が口を拗へて南京政府に厳塞拭議を脅した
叩 のも常然のことであらう.
 かかる支那峯軍の挑戦串状に特赦した我が海軍の舵茎部隊
     上,ちや1
 は、断乎庸懲の命令叫下直ちに行動を開始して、上海附逸に散
 在する支部峯軍根墟地の製健む敢行し、徹底的な大打撃を輿へ
 杢中に舞ひ上つて反擬せんとした支那軍飛行機を片つ瑞から之
 を打ちのめして仕舞つたのである.之につづいて更に十五日は
                          たいふ,
 折柄の大桑風雨、中心示度七盲四十ミリといふ様な猛烈な鞄風
 けん
 鴇む突破した我海軍椴の大綿隙陣は、長騒支郵の首都南京及び
 其の作戦根撼地として重要な南昌を茎爆して、正に致命的な続
                          け】打
 者を輿へたのであつた.我が海軍の賛カからすれば蓋し首然の
 結果であるとはいへ、痛快室橿の事であつた.そこで今岡は支
 那の峯軍並に支那の飛行紋様地について少し詮明を試みる事忙
 しよ六ノ●
 一憤支邪の峯軍と首ふものは昭和六、七年頃、即ち満洲事攣
 常時までは重囲で約二有機程度の極めて幼稚なものであつたが
 同事襲及び上海事攣に於てなめた苦い経験から急速に峯軍の充
 驚にカを入れ、その結果現在に於ては過ぐる上海事攣の約四倍、
 丸首椴程度のものむ整備するに至つたのである.その多くは7

メリカ、イタリア、ドイツ等から購入したものであ少、従づて
中には極めて便秀且つ新鋭なものが少くない.例へば今岡我が
‰軍槻にょつて見事堰ち落されたマルチソ重爆撃梯の如きは、
爆弾の搭減食一噸を超え、三石キロの速力を出し得る故新式む
ものであり、又戦闘機に於ても三石九十キロを出すやうなもの
を樺山繍へてゐるのである.なほ紀年になつて椴髄製造や修埋
の方面、操縦教育の方面にもカを注いで、縛爽支部峯軍が相首
増加挽張された場合にも之に應じ得るやうな鰻勢を整へて凍て
ゐる状況である.
       〇
 次に飛行場であるが支部は地域が庚大なため到る虚に平地が
あり、而も豊富低廉な労働力をもつて簡単に地均しさへ行へば、
せちに飛行機の臨時着陸渦として使用することが出来るのであ
る.かくして支那全土に互つては二有数十箇所、江蘇、漸江の
粥省内のみでも四十箇所の飛行場を敷へる事が出凍るのである
が、尤もその中には共産軍討伐戦のために急造された不良の飛
行場も多いのであつて完全な飛行場として常に使用出来るもの
は政へる程しかないのである.
 そこで支部として之等の飛行場をどんな風に取扱つてゐるか
と官へば、其の設備の大小朗観槻紺の如何にょつて、第一流の
      きノたん
ものを舵室徳地、第二流のものを舵峯祐、其他を単に飛行場と
呼んでゐるやうである。今岡我が海軍航峯部隊の爆畢によつて
大破褒を見た南京、南畠は第一流に廃する舵基線姑であり、杭

州、舵徳、虹椿等は第二流たる舵峯姑であつて、勿翰何れも支
郵茎軍が頼みとする確率撼鮎である.
                          めぐ
 今岡の上海方面に封する作戦に於て支部軍は上海を練る各飛
行場を利用して優勢な峯軍を集中し、其の金力を挙げて峯鞋の
政男を期待した繹であるが、俊敏果敢なる我が海軍兢基部隊の
偵察によつて其の根穣地を敬見され、折角飛帝して大いに無軌
                   つばさ
道振りを蟄坪し、やうやく根撼地に辟つて現を休めようとした
       つ
虚へ、息をも吐かせ拍我が海軍撥の改革によつて大学を撃破せ
られてしまつたのである.
 最後に参考の馬上海を中心とした支郷軍の主宰峯軍根穣地む
上海から直線距離にして挙げれば、
  蘇 州   約 九〇キロ
  杭 州   約 ニハ○
  堰 穂   約ニ00
  南  京   約 二七∩
  南 員   約 六〇〇
となつてゐる.ハ八月十六日放蓮)
海 軍 機即の
性能と任務
 麦郵峯軍が暴虐の眠りを
つくした去る十四日の上海
我開に於て、我が宮田岡島
帝大尉の操縦する、軍艦0
0及び00の両性載飛行機
 が群がる支那茎軍の中に搾り込み和戦数時間、速に支那峯軍が
 綺りとする精鋭槻マルチン更爆堰概一嘉、戦闘機一室を壌ち落
 して悠々軍艦に辟来した事は内、外人の絶讃を博した朗であつ
 た.この雨大尉が使用した愛栂は何れも偵察槻に観する水上用
 のものであつて、脚部に大きな丹をつけて居るため、通常卒中
 職胴を待ふ場合には、戦闘本位に出凍てゐる戦闘概や、攻撃を
*務とし、防契武袈に身む固めた重爆撃梯等に比較して、実の
放でないとされて居るのであるにも拘らすこの脱党しい働きと
収穫は音に我が海軍侍統の典敢な攻撃精神と平素練磨の阜放し
 た枚偶にょるものと青はなければならない.
 叔て今岡は海軍に於ける種々な飛行椴が一贈如何な任務む持
 つてゐるものか、又どんな性能を必要とするかについて述べる
却にしよう.
 まづ偵察概であるが、之はその名の示す通少主として敵状の
偵察並に捜索に使用されるものであつて、航行中の艦隊の前方
督魂、政潜水艦、魚形水雷、概械水雷等に封する見張瞥域又味
方部隊の坤着観測、敵艦の針路、速力に封する敬測等その住持
は極めて虞汎に亙つてゐる.随つてそのためには搭乗貞が康秀
な戦術脹を持つてゐる事と、又遠方まで達し得る通信力む具へ
るといふ事が塞聾硯されるわけである.斯様な紳係からして偵
泰槻は戦闘横に比紋すれば、その形も大とな少、速力、航棟距
離ハ飛行をつづける距離)、上昇カといふやうな性能も戦闘概の
如く軽快駿遽を求め難いのである.
 次に戦闘椒はいふ進もなく昼中朝岡を主目的としたものであ
って、時に敵艦上に急降下して椴紺銃弾の雨を降り注ぎ、或は
軽爆弾を投下して敵艦の上部構造物や潜水艦を破壊する事もあ
                えんご
り、又味方の偶察、横攻撃椴等を掩護して、製ひ蘇る敵概を牛
破する事を任務としてゐるのである.徒つて哉圃横はその任簿
上性能は最も高速で、軽快俊敏、あらゆる激烈な答申操作にも
堪へ得るやう堅牢な構造が要求されるわけである.
 攻撃概は爆弾や魚雷を積んで、敵艦或ひは敵の宰塞等を攻牛
するのが目的であつて、之がため一般に多丑の爆弾を搭載する
事が要求され、而も成るべく遠方まで行けるといふ事が大切と
なつてくるのである.併しながらこの何れもの要求を達するた
めには自然その形も魔大なものとなり、かくては取扱ひも不便
が伴ふために、特別に遽距軒操車を行ふべく製作された重嬢準
用の大型を除く外海軍に於ては母艦内に牧柄出木る程度のもの
が耗用されてゐるわけである.
 之等の外に樫爆概と移するものがあるがこれは最紀飛行概を
直接目療にぶつつけるやうな姿勢で、白から照準をしながら急
激に降下し或る高度から爆弾を投下する方法が研究され、この
目的に使用されるため磁めて強度な槻饅と相昔な攻挙式カが附
興された飛行機である.
               ×       ×       ×
 以上は大饅海軍に必要な飛行概の種薪を任務の上から分けて
詑明したのであるが、移動性の多い海軍の作哉に於ては之等の

 ものを樺山遠方に運んで位用する場合が多いのであつて、舵基
 母艦に多数の飛行機を積んでその目的に使用するのである.之
 等は叫愉むつけた飛行機を母艦の滑走甲板から蟄薄させるので
 ある0この母艦から出る飛行概つまり革輪の附いた飛行槻を艦
 上概と官ふ.              ふ音と
 飛行岬板のない戦艦巡洋艦等に積んでゐる飛行概は浮舟を附
 けた水上樹であつて、カタ.ハルトといふ射出概から黎射し、蹄
 ハ一て木たら海上に潜水させた上艦内に引き上げて収めるのであ
 る●
  な佗革艦から射ち出して使ふものばかりでなく水上槻搭載艦
           カろ
 に積んで一度水上に卿して、水の上から飛び上つて叉水の上に
 辟つて衆る水上栂もある.之等の水上椒は皆大小の浮舟を附け
 てゐるので、峯束の抵拭が多くてフP−トのない艦上概に比べ
 ると、速力及び軽快性が劣つてゐるのは止むを得ない.
  以上で大場現在海軍で使用されてゐる飛行梯の種類を述べた
 のであるが、之等の梢銃が今や上海方面の上峯に於て盛んに清
 和し、その威力を蟄抑しっつある事はまことに心強い眠りであ
 り、何も我が壷軍連日の攻笹日療が常に支郵例の軍事施設に集
 中されて居て、罪なき市民を殺傷するやうな事を避け堂々正義
 の作馳以外一歩も出て居らぬ革質は、支部峯軍の鬼畜に等しい
 無軌道ぶりと封照して列商人の今更ながら嘆賞を惜しまない虚
 でぁる.ハ八月十七日放遜)
南島、済南と
膠済職道沿線
 上海における峯陸相呼頗
しての戦闘が連日に互つて
行はれてゐる折柄、今度は
山兎省の青島を中心とした
一帯の不安が侍へられて居
 る.青島に於ては去る十四日午後一時頃我が服部、辻本の耐水
兵が支那人によつて針斬された事件が起り、之を契概として同
                        1−つかけ

 地附辻一帯の峯束は頓に緊迫を示すに至つた.侍へられる鹿に
 ょれば東郷側は今やしきりに中央軍を山東省内に侵入させて刻
 剣戟傭む盤へてゐるとの事であり、我が在留同胞が多年に互つ
             † 化い ひん
 て築いて木た同方面の橋筏は危殆に瀕するに至つた.経済滑線
 の各地をはじめ、山瀬省内各所に散在してゐた居留民は今や全
 部青島に引き上げて居る.そこで今岡は青鳥を中心として説明
 を進めてみる事忙しよう.
 青島は山東牛島の南側の膠州滞の滑岸にあり、清の時代一入
空年に始めて沌犠が築かれて、滑潅の要事となつたのである
 が、常時はなほ寂審たる村落に過ぎなかつた.頗るにその後七
 年む経てドイツが附汲一帯の地域と共に租借地とするや、Fイ
 ツは之を根嬢地として泉洋経営に手む染める事になり、甚大な
 費用を投じて市袴を建設む港滞を設備し、更に畢遽を築いたの
 で、忽ち世界にその名を知られるに至り一緒して背河滑岸の重
 要市場になつたのである.
 ドイツは鋭意青虫の蟄展に力をつくし碑南に亀する輸遭を敷
 設し、叉滑線の鋳山む絃脅しかくして山東省の殆んど大部分を
 その勢力範囲としたのである.然るに大正三年世界大戦の勃教
 と共に、日本はドイツに克戦して背鳥を陥れ鋳造銀山を占領し
 てわが軍政下に移し、更に棉和條約によつてドイツの山東にお
 ける利他の全部即ち脾州滞の租借械、鋳道、純山等一切の横利
 を耗り受けたのである.而してその後約入箇年我囲は寄らその
 経営に普つたのであるが、かねて中外に畢明した通り、大正十
 二年十二月を以つて之零すべての利樺を東郷に韻渡して、今や
 青島は商埠地として完全に支郵政府の支配下にあるのである・
 民固十人年即ち昭和四年に支郵政府は青島を特別市として、山
 東省の外に壇き之を中央政府行政院の直鴇市に定め以つて今日
 に及んで居るのである.
  野島の市待は小商い丘陵地と海岸に治つて建てられ、ドイツ時代
  の市待はすべてのす−ログバ風に設計されアスファルトをしきつめ
  た坦々たる塞の爾榊には整然たる術路樹を楕ゑ、之に治つて歩広
  がある.家並は≡階、四梢の清梵なものが多く小ベルリンと呼ばれ
  た所以もそこにあるのである.
 のち我が軍政治下となるに及んで日本人が移住して、工業貿
 易商業等に徒事するものが一時二常人に達Lたが、現在なほ一
 草亭六盲人の在留邦人があつて各方面に活動して居る・勿翰
 日本人の中拳校、女皐校、小拳校等もあり、我が同胞の手によつ
 て建てられた市術は背ドイツ市碍の約二倍に達したのである・
貿易品の主なるものは山東奥地の落花生油を第一とし、葬儀革
小奔、大玉、油、牛皮、牛肉、棉花、鵜卵、桐材、鉾締等の輸
出品と、綿織物、染料、石油、砂糖、拭、マッチ等の稔入品で
あり、なほ青島郊外・の四方には日本人経営の大紡績工場が数箇
所あつて、一大工業都市を現出して居る.青島の絶入口はやは
り戸籍法のない支部の事とてはつき少とは判らないが、隣壊地
域の住民も加へて約手十一萌と首はれて居る.
          ・==・・==…==◇…==…=・==・
 膠清鉄道は青島から山東省の首都の済南に建する幹線約三石
九十四粁とその滑線にある約六十粁の支線を持つ庚軌鋳造で、
済南で津浦線と連絡して居る.
  この頼蓮は一入九七年ドイツと安国政府との間に締結された北京
 條約に基いて、ドイツが粗鞭した山東錦蓮曾武がその敷設の任に普
i的細…糾……関…憎粥表耶崩即納氾約川紺粥川…
 持山に速ずる支線が出てゐる.
 この線の終鮎で池柑済南は青河の下流に紀く昔から名高い都
合であるが、殊に芝雫、青島のこ港が朗け、膠済、津浦術鋳造
の孝練地鮎となるに及んで急激に膨脹し、十年前には二十五萬
であつた人口が現在は約四十甫を算する大都市となつたのであ
る●
  市は内外二拭から成つてゐて外城は周空ハ里飴、入つの門を似て
 外部に漁じ、城内は革校官碍が多く洋山の商家が軒を並べ城西の蕗
 埠地には是人で商嘗に警するものが軍人苧息頂て青島と共

 に山充省における日本人の活動枇撼地となつて居たが今は殆ど引上
 げて居る。ハ八月十∧日放遊)
支那の租界・
水路閉塞の暴拳
 上海の戦闘が開始されて
から約一過間になるがこの
間我が海軍陸戟隊は義兵を
以つて十数倍の支那正規軍
と封時し、日夜間断なく激
烈な敬を交へ敵峯軍の爆宰に脅かされるのを物ともせすト死物
狂ひに攻め寄せ木る敵の大軍を郵脱いて、よく多数居留民保津
の大任を全うして居ることは、我が艦隊並に舵基部隊の掩葎に
よることとは音へ、賓に陸戟隊の将兵が忠烈勇武、作戦叉宜し
きを得てゐる結果に外ならないのであつて、固民のまことに感
謝感激に堪へない虚である。虚で十入日の情報によれば支那軍
は我が日清汽船合杜の朗有般六隻を捕獲し、無法にも之を撃沈
  へい々く
して閉尭用に使用したといふ話であるが、今岡は之に牌聯して
少しく現地の状況について述べて見よう.まづ第一に我軍の死
守しっつある租界について述べれば、租界といふものは支那に
存在する特挽な地域であつて、之は過去溌度かの支郷の動乱、
内乱、娼家的無秩序な情勢に鐘み、列国が自圃艮保護の見地か
 ら、支那との間に取り結んだ特殊地域であつて、我固としては
挽子江の流域に於て重度、沙市、漢口の三箇所に日本租界む持
 ち、上押には共同租界の一部を分挿してゐるのである.之等租
界といふものの解繹は、国際公法畢者の問にも定訟はないやう
であるが、机界が純然たる支那の領土でない番は明白である。
何故ならば漢口その他における租界取梅香む見ても、支郵は我
囲に封し科鼎を丁氷代貸付ける頚を約束し、所在帝国領事館むし
 て誇租界内の行政、立法、司法権の大部分及び替察他の全部行
使を承認し、且つ帝圃民に封してのみ倍埠椛を享有させる事を
普つてゐるのであつて、閥家成立の三要素である主権、人民、
領土の中人民の撼利を放来した事驚は、鮫綿な意味に於て国際
公法のいはゆる支郵領土とは認め難いわけであつて、領土植の
一部を、我国に輿へたものと解梓して差支へない虚である.
上海の租界はフランスの租界を除く外共同租界と官はれるもの
であつて、之はその転生に複雑な歴史を持つて居るが、結局日
本、イギリス、アメリカ等の専管居留地を集めて−丸とし、共
 同の利益むはかるために自治椒桝を設けて、これをエ部局と稀
 し、共同して行政を行つてゐる置域であつて、自国民保護のた
 めに適切な手段をとり得ることは普通礼界の場合と同様であ
 る0
 今岡の事費に常つて我が圃が帝圃臣民の多数居住する置域の
 共同租界内一帝を、海軍兵力を以つて守備し、一歩も破らぬ朗
以は賀に自衛権の教動に舛ならないのである.
               =・=======・×=====・・=・=・
 今度支郵側によつて、日清汽胎合杜の汽糖が捕獲されたとい
 ふ場朗は帝固海軍が厳重防備を固めてゐる租界附泣から、曲り
 くねつた苛浦江を潮ること約二沌の封岸であつて、我が日清汽
 船はこの不傾極まる位竜に賠懸場を持つて居て警備上まことに
 不利の立場にあつたわけである.
  しかも今次事攣の急迫するや支部例は逸早く我が租界警備位
         ▲− と・’
 檻と日清汽胎砺粥との中間に、多くの自閉汽船並に大型ジャン
 クを沈めて費消口を閉塞してしまつたため、日清汽給食杜般溜
 りとの通行は全く遮断され、かくの如き事態が教生するのやむ
 なきに立至つたものと信ぜられる.何分にも船舶の往来殊に頻
 繁を極め、潮流激烈な青補江内で多数の大型船舶を都合のよい
 場所に移樽させる事は困難であるのみならす、支那側が事攣の
 勃教に先立つてこの国際的通路を閉塞してしまつた事は、国際
 法を無視した卑劣極まる計婁的暴挙である事はいふまでもない
 朗である.
 なほ支邪側は揚子江の本流をさへ閉塞して居る.それは南京
 の下流約首浬の鹿で、堅固な砲嘉のある江陰と稀する附紀で完
 全に封銀し、多くの外商軍艦商胎むはじめ我が臼清汽賠の汽胎
一隻も下舵が出来なくなつてしまつたのである.之も揚子江と
 いふものがたとへ支那の統治構の下に立つてゐるとはいへ、多
 くの国々が條約によつて汽胎を動かし得る樺利をもつた魔の一
 種の国際的河川である事を無鋭してこの暴挙を敢てした罪は、
 いやL
 背くも正義を重んずる国々が鼓を鳴らして攻めなくてはならぬ
 鹿であらう.ハ八月十九日放遜)
漢陽兵工廠と
南京軍官学校
 我が海軍航基部隊は長江
筋一帯の敵の杢軍基地を唱
撃して、昼中我に嬢壌故に
          甘んめつ
赫々の武動を規はし、増減
的打撃を輿へて居るが、十
九日夜から二十日早暁にかけては月明を利用して、漠口、南京
の爆撃を敢行し、支那最大を誇る漠陽兵工機や参謀本部、軍官
畢校等、支那軍の心蛾部に決定的輯寄を輿へるに至つたのであ
 る.
 この中漢陽兵工廠は漢暢の東端にあり、漠水を隔てて漢口に
封し、東西一千五盲メートル、南北五石メートル、規模並に製
産能力の大なる鮎で重安郡第一と稗され、溝口附近における唯
一の軍籍工場地帯を成して居る。藩介石は数年前上海兵工廠を
塵止すると共に、その大砲製造設備を奉げてこの藻陽兵工廠に
合併し、昭和十年度には月産額小銃弾丸二盲七十高額ハ支郵生
硬で製造される高の五割強〕を始め、漢陽式歩兵銃五千二青々
概閲銃例十五架、十年式山砲一門その他爆弾も製造され、最近
では更にその製造能力が増加して移しい故に達し、藩介石直系
中央軍の武器時弊の瀕泉となつて居たのである.
 攻に南京の中央軍官畢校といふのは中山路を挟んで故官飛行
場と相封し、その萌さは南北一千メートル、泉西五官メートル
胴閑f柁…醐c剣ゥf糾貼…粥舶l醐卵鵬…

更に革官拳校北方に軍事費点長の官合がある.この軍官挙校は
支那中央軍幹部を華成する中枢概幽で、建築は土煉瓦二階建の
 せ’しや
漸洒たるものである.
 この串校は藩介石白から校長の職にあク、歩兵、騎兵、砲兵
の各科に分れ、一期の拳生約一千名修共年隈は橡科、本科各二
箇年である.出身者は蒋介石の率ゐる中央直系軍の根幹をな
し、亜埋師国約二十三箇師の幹部となつて居るが、特別訓練班
といふのは更にその軍官拳校卒発音の申便秀な者む収容tて、
ニ年或ひはニh年在校させてミツチリ高級戦術む数へ込んでゐる
虚なのである.
   ‡襲以来軍塞栓生抜の中からも出動してゐるものがあるやうで
  あるから、我が海軍舵垂験の拳常時果してどれ位の生徒が在校し
  てゐたかは分らないが、少くとも中央軍の人的黎莱の根元をなして
  ゐる戌だけに、この軍曾拳校に封する爆撃が士気の上に輿へた打撃
  は相常のものであつたに相壌ない.文責耶の参謀本部といふのは苛
  督軍事の建物の一部であつて、国民政府行政院でこの建物を依つて
  ゐるのである.即ち中山賂に向つた州の牛分を売木部が使用し
  て、残りの申分を帥民政府、その反封伽を行政院で依つてゐるので
  あつて、建築は古い支那式土煉瓦建で葬課本部の方は平家であり、
  他は二階、≡階建ではあるが、何れも鳩撃に封しては極めて滞鶴な
  ものである.とに角二十日早喝の凝で中央軍の中梅郷を猿撃され
  た支郷の狼択摂りは、察するに飴りあるものがある.
                         ハ八月二十日放蓮)