北支の重要性及
我国との関係

 北支那とは通常南方は岷
山、秦嶺、伏牛山一帯の山
脈を以つて中部支那に接し
北方は陰山山脈に依つて蒙
古に連なる河北、山東、山
西、察哈爾、綏遠の五省に亙る地域を指していふのである。即
ち大体黄河以北のいはゆる黄土に掩はれた地域であつて、我が
全版図の一倍半、内地の二倍に相当する広い面積を持つて居る
のである。

  北支那は季節風帯に属して、夏は大洋季節風、多は大陸季節風の
 ために、一年の降水量の七割から八割までは、六月から八月までの
 間にあつて非常に暑く、冬は又殆んど雨がなくて朔北の寒風のため
 寒気酷烈である。のみならず降水量はごく少く、一年六〇〇ミリに
 過ぎないため、北支那は乾燥農業である処の、畑地農業が主体をな
 してゐるが、この畑地農業も降水量の如何によつて常に影響を受け、
 粘着力に乏しく洗ひ流され易い黄土の特性によつて時に思はぬ水害
 を招く事がある。昔から華河の治水として歴代の為政者が最も苦心
 した所以もここにあるのである。


 北支那は支那歴代王朝の所在地で我国と近接して居たので古
来幾多の権益を保有して来たが、満洲国の独立により長城線を
境として北支那に接壌するに及んで、軍事政治経済上その重要
性は著しく増大されて来たのである。言葉を換へて言へば北支
那における政治情勢の不安、経済動揺等は忽ち満洲国に波及す
る事となつて、この満洲国との間にブロックを形成する我国に
は極めて大きな影響があるやうになつて来たのである。即ち北
支那と満洲国とは単に地域を接してゐるといふだけでなく、人
種、社会、経済、文化的に頗る深く離るべからざる関係を持つ
てゐるのである。
 満洲国住民の大部分は漢人種であつて、之等の漢人種は北支
那の河北、山東、山西の各省から満洲に移住したものである。
従つて満洲国と北支那は血族、墳墓の関係等から歴史的に深い
関聯を持つて居るので、若し北平天津を中心として満洲国の攪
乱を企てるに於ては、満洲国の治安は百年河清を俟つに等しく、
満洲国の完全なる発達を希望する我国が、満洲国の治安推持の
ために北平、天津地方の明朗を望んで止まない理由は之で明ら
かであらう。更に又ソヴィエトの東方赤化工作が北満洲から北
支方面へとその方向を換へて向つてゐるのに対し、最近南京政
府は容共政策即ち共産党との提携政策をとるに至つたと伝へら
れ、このままに放つて置けば北支那を中心とした赤化工作がい
よいよ積極的になつて来る事は当然の話である。之又満洲国だ
けでなく、我国としても断じて黙過する事の出来ない点であつ
て、更にこの他北支那には尊い血を以て獲得した幾多の権益が
あり経済上の地歩を確立してゐるのである。かやうに見てくれ
ばまことに北支那は我国とは切つても切れない深い紐帯をなし
てゐるのであつて、北支那の重要性も又実にここにあるわけで
ある。

(昭和十二年八月十一日放送)