上海市の全貌と租界


 上海に於て遂に、我が大
山海軍中尉惨殺事件が発生
し、帝国海軍は之に対して
厳重なる態度を以て臨んで
居る。
 事件の起つた場所は上海市の西方の碑妨路(モニュメント路)
であるが、此街路は租界の越界路(租界の延長である道路の意
味)即ちエキステンション・ロードの一つであつて、工部局と
称する列国共同の行政機関の管理に属する道路である。従つて
之は支那が管理してゐる道路ではないのである。然らばどうし
てこんな道路が支那の大都市の中にあり、又列国共同の行政機
関である工部局が上海に出来てゐるかといふ理由沿革について
の大略と、問題の上海市とはどんな処であるかについて、簡単
に説明して見よう。
 上海は揚子江下流の一支流、黄浦口を溯ること十三哩の上流
左岸にある国際都市であつて、支那第一の貿易市場であり更に
支那全国金融並に文化の中心である。而して上海は清朝時代に
阿片戦争の結果として、いはゆる南京条約に基き五港の一つと
して開港され、イギリスが真先にここへその居留地を設けたの
である。その後例の長髪賊の乱に際して、イギリスは精鋭なる
軍隊と義勇軍を以てその租界を守つて長髪賊を入れなかつた結
果、上海附近の支那人は争つてここに避難し又動乱が波及した
蘇州、杭州各地の富豪も続々この地に居を移すやうになつた。
其結果俄然市内の発展が促され加ふるにその後フランス、アメ
リカの二国もイギリス租界の南北両隣りの地を租借することに
なつてからは、各国の商民が陸続としてこの地に集つてくるや
うになつたのである。
 その後一八六三年になつて英・米二租界が併合されここに今
日の共同租界が生れた。之等の租界が上海の発展を促し今日支
那第一の貿易海にまで繁栄せしむるに至つたのである。
 よく大上海と言ふがこの共同租界、フランス租界それに支那
街を含めた他に、更に呉淞市と宝山県をとり入れて全面積は八
百九十二平方哩であるが、この中外国租界は三十三平方哩とな
つてゐる。
 而してこの租界から外に向つて越界路が出て居るのであつて
越界路は道路と之に附属してゐる設備建物等の財産をも含め
て、租界と同様の性質を有し同様の取扱ひを受けるものである。

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 上海の人口は戸籍法のない支那の事とて確実な数は判然しな
いが、大凡そ三百五十万、その中外国人が六万八千で日本人は
この外国人の約半数三万人に達して居り、主として旧アメリカ
租界内に居住して居る。上海居住の支那人は支那特に約二百二
十万、租界内に約百二十万居り、支那の要人の邸宅は殆どフラ
ンス租界の中にあつて立派な住宅街をなして居る。上海の市街
は之を大別して前述の共同租界、フランス租界とそれに上海県
城及び浦東の数区に分れて居る。
 この中共同租界とフランス租界は共に行政その他一切が外国
人の管理するところであつて、その行政に当つてゐるのが共同
租界に於ては例の工部局なのであり、共同租界の中に居住する
イギリス、日本、アメリカ、それに支那の各国人の納税者の中
から選び出された市参事会員によつて、いろいろ共同租界管理
に関する事務が運ばれてゆく事になつて居る。
 上海市政府といふのは租界以外の支那街全部に亙つて行政権
を執行するものであり、その中にある公安局が支那街に対する
警察権を司つて居る
我が大山中尉を惨殺した支那側保安隊は
実にこの公安局に属するものであり、当然租界側の警戒区域た
るべきエキステンション・ロードに支那側が保安隊を侵入させ
惨殺を敢てしたのである。
 上海県城は別名を滬城と称し又申城ともいつて、昔は周囲約
三哩の城壁に七つの門が設けられて居たが、現在は城壁はすベ
て撤去されて居る。城内は外国租界がすべて西洋風なのに反し
て純然たる支那式であり、街路も狭く而も街上は寧波石で敷き
詰められて居る。上海市政府は江湾路即ち呉淞と上海との中間
にあり、建物は全体として飛行機の形をとつてゐる.公安局の
ある処は南市といつて県城の東南、黄浦江に沿うた細長い新開
地でありその南端に上海南停車場がある。
 尚共同租界の東端附近には東部紡績工場地帯、共同租界の西
端から其の郊外蘇州河沿岸に西部紡績工場地帯があり、之等の
両地帯には日本の工場が沢山あるのである。大山中尉は此の西
部紡績工場地帯にある日本の紡績工場を護衛する為に、上海特
別陸戦隊から派遣されてゐた西部派遣隊の隊長であつたのであ
る。

(八月十日放送)