我靖士を悩す
北支の気象
 今岡は我が忠勇なる将兵
が作戦行動を焦しっつある
北支の気象に就て大要を述
べて見よう.
 大確蒙古とか青海等の輿
               ヽ ヽ 卜 ,
 力を傾く丹詐真郊本部は、東西に走る二つの励行する山脈に依
って三分されてゐるのである・即ち南の方の甫嶺と北の方の北
嶺との二わわ仙脱が之である。北嶺はまた案嶺と単音はれ唐の
普有名な韓避之が『宰は案嶺に横少て家何くにか在る、雪は藍
閑を擁して鳥進まザ』と款つたその秦穎である.そしてこの南
北粥山嶺の間に拐子江が流れ地形の上からはこの間が中支であ
り、南嶺以南が南支、北頼以北が北支と首ふ事になり、この北
支には費河が流れて居るのである.概して音ふならば北支の気
候は中南支の気候が漸次熱帯性の気候となるのに封し、満洲と
ほぽ同様所謂大陸性の気候で避暑の差が甚しく、例へば天津に
於て夏季、糠氏四十度ハ華氏約盲四度)を超え、文字通り水を
沸かせる程の暑さであるのに封し、冬季は氷鮎下埼氏十九度と
なる事があ♪、河川湖沼は絶て結氷しその上が交通路やスケー
ト場になると官ふ状態である.
  陽東は日本に比べて牛月乃至一月早く暑束の最も酷烈なのは七月
 で天津では垂且同柿氏四十二度九ハ華氏約雷十虎)と官ふ記録がある.
 北支の六、七月の平均鼻嵩池度は柄氏三十九反五ハ華氏召三蒙)
 である.蛮東は日本内地に比して乾放し、大漁今頃の鴇度は東京の
 入十三バ叫セソトに比し天浄は七十四パーセントであり、従つて内
 地の様に蒸し暑くはないわけである、しかしそれだけ大東中に日光
                             ひなた
 の正射を妨げるものがない鳶日中の日射はすこぷる強烈で、日向で
 は目を射られる様で長時間日を開けて居られないし、鉄兜も暑くて
 手を触れることが出来なくなる程である.
 この強烈な日射と連日四十虔に乾い暑熱の中で行動して居そ
皇軍将兵の辛酸は想像以上のものがあるのである.
                    かんばつ
 雨量は生年を通じると甚だ少く、殆ど連年皐魁に悩まされる
反面七月八月には屡土大岡が降る.北千では七入月中の平均降

 関北は三石瀾十三ミリに達して居る.この様な雨季が舜ると植
 林の少い上流地方の増水は忽ちにして洪水となり、就中背河一
 冊の水宰は古くから人のょく知る朗であるが、今年は比較的雨
 が少かつた様である。今頃は大頒南の方から凪が吹き内地の様
 な妨風雨は殆どなく晴天の日が多くただ五日に一同とか七日に
 一同位不連続線にょる雨がある位である.
         ==・・=・…・==・◇…・=・・・=・=・・=
  次に一寸「黄砂」について詮明しよう.黄砂は河川で流れて
 きたり洪水で流れてきた砂や土や、速く西北万の沙漠地帯から
 風で飛んで衆た常土等の混合物の稼細な常盤が、毎年四月五月
 頃風によつて巻きあげられるものである.
   恰皮四月五月は夏季の様に雨が降らず、また冬季の如く氷結もせ
  ずそして秋季の如く凪が静かでない環、靖盛が風によつて巻きあげ
  られるので、之が超ると地平線上に、雲か屡の様に見えてゐたもの
 が忽にして天を磯う宗り・文字驚喜萬史料c翌ぬ程とな
  り、♯でも電燈をつけると冒ふ有様口を開ける事すら出来ない程で、
  戸をすつか施しめて量的に居ても何、日の中に入ると官ふ状態であ
   る.その時に雨でも降ると恰度泥が降つてくる柿になる。この賛砂
   の一部は日本にもよくお花見時分に飛んで来る事がある。
  併し乍ら秋は一年中で最も好い季節で、而も入月の草をきけ
 ばせっきり涼しくなつて峯束は清澄とな少、将に一葉の塀るを
 見て天下の秋を知ると官ふ様になるのである.そして平穏清澄
 な天穿と快適な朱粗とが続き十一月の隼と共に霜をみる棟檻な
 るのである.ハ八月三日放逸)
支那の動脈
平 漠 磯 道
 支那中央軍は乎凍細浦の
雨鋳道にょつて北上し、そ
の滑線に集結してゐるやう
であるが、この内津浦線に
ついては眈に述べたので今
岡は乎漠鋳道に就て概略を訟明して見よ朽.
 苧漢線は北乎と瑛口との間千二盲十三粁の幹線と約盲十七粁
                         えつかん
の根株から成る約千三雪二十粁の支郷国有錬道で、沓漢絨道即
                                   】レ・ン
ち庶泉から漢口に至る鉄道の完成と相保つて、支那を南北に鈍
くわん
首する魔の最も盈要な繊道系統の一年をなすものである.
         はくねい
 この繊道は北乎で北寧及び乎綬の二鋳造に、石豪荘では石家
                    ていし, ろ’かい
荘と山西の太原とを結ぶ武ポ絨道に、又河南の郷州では陣海絨
道に夫々連絡し、漢口では揚子江を隔てて魯漠絨道と連絡して
おる.
  次にこの鋳造が建設される迄の簡単な腫史を述べると、専一入
 入九年に常時湘礎絶督であつた張之洞が初めてこの蛾邁の建設を独
 唱したのに始まるもので、張之洞の目的はその兢宰相手であつた挙
 鴻頚の勢力に封杭せんが弛めに浪熟した町であつて、何等充分な確
 信の下に之を行つたので虹なかつたのであるから、虜訊は建設に決
 定を見たものの、その後約十年間は殆んど手の背けやうがなく立滑
 えの形となつて居たのである。研が一入九六年になつて政府は、盛
 宣懐を其の組坪に任じて、政粁支出の四石英輌を似つて、まづ東帝
   禰から保定に至る隈間の建設工事に着手させると共に、国内から錬
   蓮建設資金を薫する事になつたが、この国内からの資金募集は結
   局不成功に経つた。そこでベルギー財囲が其の建設を引き受ける事
   になり、一九〇五年郎ち我が明治≡十入牢に漸く全線が粥温し、同
   時に普業を閑地したものである.
    この蛾邁は初め読溝播漢口間だけをつないでゐたため、常時は護
   譲蓮と呼ばれてゐたが、象見涛蹄北京間が開漁するに及んで末節
   耗邁と改められ、更に北京が北半と改耕されるに至つて平沸域澄と
   呼ばれるやうになつたのである.この頼荘は上述の漁りベルギー・
  シンジケートから借款して整されたのであるが、後政府の買収す
   る鹿となり、今は図民萱部の正響にかかつて居る.卑邁は畢
   線であるが線路は四沢入吋牛の虜制式により、レールは専ら漢凄
   工廠の製作にかかる入十五ポンドのものを使用して居る.
         =…====…=◇=…=…====
  さてこの平藻線が走つてゐる虚は河北省の西南部から、湖北
      lたが
 省の泉部に持つて居て、滑線一帯は概ね鹿浜たる平野であ少、
 山岳の起伏する虚は償に河南と湖北の省境だけである.
  いはゆる東郷の中原の地を耳いて走るものであつてこの平原
 こそ支郊に有名なる青土地方である.
   かつて漢人の組先が西方の荒度した山地から出て来てこの地方を
  度略し、ここに爾来≡千年河南の平野即ち中原における政争がくり
  返し眞閑されて来たのである・中原に鹿を迫ふといふ言葉の起りが
  それで、徒つてこの沿線地方は山車水態の輿耗に乏しい淵みがある
  と扱いへ、安部興亡史上≡千年の樫史を省ふつつ漁れば、山河自然
 の風光もうたた今昔の感に堪へないものがあるのである。而も政治
 上且つ産業上京嬰なる地位を占めてゐる地方の事とて、之等の事を
 思ひつつ沿線を見て行けば、そこに又一入の感慨も湧いて来る事で
  あらスノ0
  なほこの平沸繰が黄河を横断する、黄河の域播は俄界に於る長い
 鐘礎の一つであつて、延長箕にこ哩と雷はれ本線中最も軒工事を極
 めた虞であつた。この構造は常時としては最も精良な材料と革術を
 應用して築造されたものであるが、この黄河は多は非常に減水して
 河床には各所に砂湘を生じ、ただニ、三の細流が見える過ぎず、定
 秋の供になると濁流滑々として狂押し、河描が忽ち政培になるとい
 ふ程の難物で、之に橋を架けるといふやうな事は、支部人が夢想だ
 もしなかつた鹿であり、外国人もその架橋工事を危ぷんだ位であつ
 て、このさしもの軒工事も十入ケ月の日子と百十萬ドルの費用を投
 じて、明治≡十入年の夏漸く故エし同年十一月十≡臼に開輔式を卒
 げたのである●ハ八月四日放逸)
暴利取締令の
改正に就て
▼ 同年、稗貫事件といふ話
柑 題を濁してゐる、大正六年
 の農商務省令第二十戟、小
 はゆる容利を目的とする辛
買の取締りに翔する省令が
▲去る三日に改正された。
 名は改正と育つても全文改正であつて、従前とは相普趣を異
忙してゐるのである.まづ暴利行為として取締カを受けるもの

 は馳利む得るの目的を以て馬す質占、又は斉り惜しみと、暴利
 を柑て馬す販頚とである.この場合問題となるのは何を以つて
 砂利と馬すかであるが、之は各物品につきその特殊事情を充分
 考慮して決定されるのであつて、従前における常語物品の平均
 利潤の如きはその判断の重要な基準となるやうである.
 界利行馬はいけないといつてもそれはすべての物品について
 ではないのであつて、国民経済上重要と認めるものについてで
 ある0之忙諾常する物品として奉げられてゐるものは徒瀧は入
 品目であつたが、今度は二十六品目となつてかなり増加してゐ
                            ふし
 るのである.大正六年常時と今日との経済界の相速を示す節が
 硯はれて居て興味深く眺められるのである。
 容利行為をなしてゐると認められると、期間を定めてその行
            かいこく
 環をしてはいけないと減骨を受けるのである.この域合虚分を
 壊し得るものは商工大臣と地方長官とであるが、二十六品目中
 本泉、肥料、御料、蓼及び建築材料たる木材については、商工
 大臣と共に農林大臣がこの虚分怖を有してゐる場合がある.
 以上の外商エ大臣、農林大臣、地方長官は前述の硬骨の虚分
 に牌係ある事項について報骨を徹し得る事になつて居る。之は
 界利行為が行はれてゐるかどうかの事嘗を明かにするために役
 立つばかりでなく、かかる行馬を心理的に相常抑制する効果が
 あると官はれてゐる。販蕾発音に封する版賛憫格の表示も、倍
 格計公開する事になるのであるから同様の効果を示すであらう
 といはれてゐる.

 域骨の虚分を受けて直ぐ改めれば問題はないのであるが止め
ないと虚嗣せられるのであるっ報骨を命ぜられ又は販賓僻格の
表示を命ぜられた時之に泣反した場合も亦同様である.
 商工省は各方面がこの暴利取締に協力して本令に造反する者
が一人も出ないやうにといふ事を切に望んでゐるのであるから
御互ひにょく自制自滅して是非そのやうにしたいものである.
                        ハ八月五日放逸)
手緩職造 の
沿線を徒く
 乎繚鋳造は北牢から西北
方面に走り、張家口、大同、
       †ゐ之ん
豊鎖、辛抱泉、綬遽を経て
 ほ’と・’
包頭に至る五石三十一哩の
餅道である.
 元木支郵の繊道は殆んど其の賓本及び経営は外図の協力にょ
るものであるが、この手練線の中北苧から張家ロまでの盲二十
四哩、即ち乎張鋳道は支那政府だけの手にょつて建設された最
初の鋳造で一九〇五年から約四ケ年を費して一九〇九年即ち我
 が明治四十二年十月に開通したのである.
 次に張繚錬道即ち張家甘から綬邁省の首府練達に至る二有七
                                              く▲ノ
十六哩の繊道はいはゆる静盲横断拭道の一部で、脾釆外蒙の座
 ろん
■倫まで延長する辣定の下に計室されたものである.この張緯線
 は一九一〇年から起工し一九二一年即ち我が大正十年にやうや
 く全線が開通した.
 研が現在では更転進んで確速から西南に折れ藩河上流の包粥
 鋲まで延長されたのである。本線の南端の主宰騨は北中城の西
 北隅にある西破門外の停車場であるが、この坪から北寧絨路の
膿義に出てここで北寧、手狭の術繊路と連絡してゐる槻係上、
本線運行の列革はすべて柴轟を始教地鮎としてゐるのである.

   列串が西直門坪から憶基を経て北に進むと約七哩にして滑河拍、
  十三哩にして鎧研の餅に壊する.この二つとも今度畠軍が二十九
  軍と激戦した地鮨や電車に怨んで≠五哩北半から約二時間牛の
  鹿に南口といふ坪がある.ここは入連嶺山脈の南の故に薗り本線中
  頭家口に次いでの乗客坪である.附近は穀物臭覚等の産出が多く又
  南口城はその城壁高からずと牲も、北は山に擁り南ほ嘘郡谷に呼んだ
  審寄の地であつて、山腹の鹿には蜂火よがあつてさながら曹の挿形
  を物語つてゐる戦がある.ここから東北入哩の鹿に明朝の十≡陵が
                                              ●上上’くわん
  あり、又西北には和琴映及び古来三媚の一として有名な厨庸開の史
  蹟がある.この屑庸弼の弊ほ南口から北へ向つて五哩の虎にあり、
  この埋りは〓つの山がそぴえ立つ間に一つの細い山荘が温じてゐる
  のであつて、一夫媚に普れば富夫も準む能はずといふ天城をなして
  ゐる.ここから列車は山勢相迫る谷間を建つて背稲穂拝につくので
 あるが、この背馳橋畔から約一哩の虞に入蓮嶺がある.山中富農の
 長城がのぴて衆て居ケ∵しこに立てばはるかに零際に捜する長城の
 大鶴を凄む‡が出来る.入建嶺の山中にのぴた均焼たる長城の城埼
 は、殆ど北中城壁に一歩を簸るのみ、その建築の雄大なる‡に驚襲
 に舷ひするものがある.列車はここから裁つかのトンネルを通り抜
 けてやがて察吟爾省に入る.この連は永定河上流の盆地高原地楷で
 北中から入十哩の地弘に平張沿線第一の都合である定化府がある9
 中央箪の軍用列串が爆撃された檎杯生鮮もこの附近である。宜化府
 から西北に折れ一望千旦の境野を走つて沙嶺子といふ威で、再び山
 間の賂に入り之を西北に進めば、やがて張家口に達する。
 張衆口は北乎より盲十六哩約六時間の虚、市術は永定河に臨
み、北方外蒙古の庫倫、西方綬濠に通する二大道路の開門に首
り、北乎以北における唯一の商業都市である.人口約六萌、察
吟爾省政府の所在地であ少、兵営、銀行、郵便局、串校等が集
つて居るd
  魂家口から約百十三鼻の間永定河の上流に沿うて走ると山西省の
 大同に建する.北半から約十一時間の虚で人口約三萬秦、漢時代か
 ら北方の霊宰な地粘として知られて居り、市街のある威は標高≡千
 五百尺である.
 大同から虜つ直ぐ北に向つて丑鉾、平地泉を通過し北西に縛
じて進めば綬凍省の首府練達に着く.練達は背河の衷流泉水河
の北岸にあり壮大な城壁に囲まれた郵骨やあるさその東北約】
里の虚に麻化城がある.埼化城は人口十革を有する犬都合であ
つて、商共の極めて盛んな虚であ少、毎年の貿易紙頑は約三千
高潮内外に達するといふ費に支郷大陸西北境上における商業の
一大市場である.
 最後に本線の路鮎である包頭錦坪は、練達城より黒水河及び
膏河の北岸に給うて西南に走ること約九十六哩の地鮎にあり、
市術は膏河の北岸に臨み水陸交通の要路として内宗一帝の最も

 屯婆な物資の集散地である。ハ∧月六日放逸)
揚 子 江 と
其沿岸都市
 揚子江は支那ではただ単
に江、或は大江又は長江と
も呼ばれて居る.茫々たる
中部支郵の地を甘流する揚
子江はその仝流域賓に三千
二古狸東洋第一の長江で
あつて、流域地方の面積
は約七十南方哩、即ち囚
川、湖北、湖南、江西、
安徽、江蘇の六省及び宰
南、貴州のこ省の北部を
合してその人口は約二億
の多数を等して居る.
 而もその本支流に於て
は今や上海、錦江、南京、
 一 こ
蕪潮、九江、浜口、岳州、
      甘しや’ ぢ,けい
長沙、沙市、宜昌、重度
の十一の通商港があつて
内外通商交通上の重要な
る公道となつてゐる.し
かのみ及らザその済大なる流域は各種物産の豊富なること殆ど
算数の及ばない朗であつて、泉亜第一の智席に碓せられてゐる
  あとね
事は普く人の知る所である.
  楊子江の本流若くは本流を介して支流に至る的外汽胎の通舵線は
 日下上海漢口線、漢口宜点線、沸口湘常緑、溝口常韓緑の四つの線
 であるが、若し特殊な吃水の構い構造に成つた汽艇を以つてすれば、
 正に宜員壷間の一線を加へる革が出来る.以下環を逐つて之等各
 緑の兢運状態及び沿線地方の概況を述べることにする.
 まづ上海漠口線であるがこの距離は六盲一一浬、上海を超鮎と
         ’I†ん
して青浦江を下り、果敢に室つて揚子江に合し、そこから本流
を潮るものであつて上腕約入十時間下舵約六十時間を以て、上
海漢口間む往復する.
 舵路は夏の増水時には吃水二十七呪を有する大地、或は一萬
トン以上の航洋汽胎もなほ自由に上下する挙が出木るが、冬季
水の減少した時には特殊な吃水の湧い般舶でなければ通舵出来
ない.この舵路に徒事する日清汽胎の胎は三、四千トン級の便
秀なるもので、定時寄港地は錦江、南京、蕪湖、九江等である。
上海を出帆した胎が呉紘を過ぎる頃から賠首を西北に一挿して
大江を潮れば濁流江洋として水天に連なり、この速南北南岸幻
距離は約三、四十浬に各で居る.次は漠口宜昌線であつてこ
の線の長さは三石入十七漁、漢口から長江本流を潮つて宜昌に
至るこの舵路は上海漠口線に比べて水深が概して鴻く、且つ冬
季における減水が著しいためその所用汽胎も亦叫屠吃水の掬い
特殊構造のものとなつて居る.ここにも日清汽糖その他の安和
 胎が渡航されて居る.
  次は怠昌重度線であつてこ..の間は約三富七十洩、この舵路は
 已に梯子虹上洗置域に廃する馬更に吃水の湧い船舶でなくては
 湛舵出木ない.のみならサその中間にはいはゆる三峡の険灘を
 はじめ六十飴箇所の怠な流れがあつて舵行頗る困難であるが、
 富木その雄渾壮大なる風光を以つて天下に冠絶し李自、杜甫の
 筆を以てしても、なほ之を措いて至らぎるものあ♪といはれて
 居る.
          ◇
  その他の舵路に紺する稔明は略して、ここで少しく滑岸の都
 市中漠口について詮明しよう.
 凍口は支那中部の地を耳流する大河揚子江を滴るこ主ハ首飴
 裡の上流に位澄し、泉南は長江を隔てて武昌に西南は藻水を次
                 ていh・つ
 んで藻陽に封し三つの市がここに鼎立の形をなして居る・
   平沸域賂邸ち北牛深口間の増産はここを超鮎とし、水陸交漁の宰
  地であつて、人口性的百萬在留日本人は今年四月∵日現在に於て一
  千七富=宇入名、他に外人約四千名が在留して居る●市拷は大別し
  て安都市術及び外囲租界となし、外国租界は市符の南端から超つて
  東北に迎なり、換子江姶撞こ哲の地を占め約五哩の地域は整然たる
  富封を成して居る.薮京は軍凧と大して艶りはないが暑京は非常に
  甚だしく費同室内に於て華氏の雷四、五度に凄する事があり、而も
  夜分でも抜かに〓、三度下るのみで加へて日中の軟風も夕刻からは
  輯野無風となり、ためにその蒸し暑いこと甚だしく一晩中眠れない
  といふ‡が冶んど入月一杯に亙つてつづく事が椅敏とされて居る・

 此所には総領事館をはじめ、居留民囲、明治小畢校、商業合
議朗、漢ロクラブ等或は臼清汽舵をはじめ多数の合杜並にわが
銀行の支店等或は日本病院と我が囲の検閲がたくさんあり、揚
子江中部に於ける邦人の経済的蟄展の唯一の根撮地をなし、我
 が国との利審関係も多年にわたつて頗る密接なるものがある.
故に之を一度藤庚な支那軍の手に渡せば忽ち忙して我が国数十
年の苦心は水泡に辟する繹であるから、我が南としてはどうし
てもこの藻口の権益は保持する必要があるのである.
 漠口こそはまことに支那大陸の臍といふべく上海に次いで支
郵第二の貿易市場であ少、外国人は漢口を稗して泉洋のシカゴ
と稀してゐる程である.
 侍長江筋における在留日本人の教を配せば今年四月一日の調
査に依れば南京には四盲十二名、錦江十三名、蕪潮四十名、九
                だいや
江七十一名、常呂五名、藻陽五名、大治十二名、宜昌入十九
名、重度二十九名、藻畑は−千七軍二十入名となつてゐるので
ある.ハ∧月七日放巷)
支那の抗日
園憶に就いて
 支部は従帝約十一同外国
商品のボイコットをしてゐ
るがそのうち丸岡は我国に
封するものである.然るに
最妃に至づては単に日本商
晶の胡斤に止まらす、背少年に排日教育を施して日本敵覿の金