北支那とは如何いふ処か


 北支と言ふ言葉を南支或
は中南支と対照して考へる
時には、揚子江以北の地又
は黄河以北の地域を指すの
であるが、我国では現在普
通には北支那のうちの河北、察哈爾、綏遠、山西、山東の五省
を指して言つて居るのである。
 面積は百余万平方粁で我が内地の三倍足らずであるが、人口
は七千七百余万人と言はれて居る。
 一体古くから政治、文化の中心として栄へたこの北支那には
大都会が多く、人口約百四十六万余と言はれる北平、人口約百
三十八万余と言はれる天津をはじめ、青島、済南、保定等人口
五万以上の都市は十六に及んで居るが、これらの都会の人口は
北支那総人口の凡そ一割四分に過ぎす、残りの八割六分が農民
である。又気候は概して大陸性である。北支那が特に重要な意
味を持つのは天然資源の極めて豊富な事であるが、資源の主な
ものは石炭と鉄で、石炭の埋蔵量は山東省の十六億三千九百万
噸、河北省の三十億七千百万噸、山西省の一千二百七十一億二
千七百万噸、察哈爾省の五億四百万噸、綏遠省の四億一千七百万
噸で合計一千二百三百二十七億五千八百万噸と推定され、中でも山
西省の埋蔵量は支那全土の六割に達してゐると言はれてゐる。
 次に鉄の埋蔵量は河北省が四千百二十万噸、察哈爾省が九千
百六十四万五千噸、綏遠省が一千七十万噸、山西省が三千万噸、
山東省が一千四百三十万噸、合計一億八千七百八十四万五千噸で
あり、全支の鉄埋蔵量は三億八千万噸であるから約半分に当る
わけである。鉄山としては察哈爾の龍煙、山東の金嶺鎮等が著
名であるが何れもまだ開発されてゐない。
 その他の鉱山としては金、石灰石、石棉、磁土、マンガン、
銅、石膏、天必曹達等がある。
 農産物には棉花、小麦、雑穀、煙草、豆があり、獣皮、獣毛
が畜産物として挙げられ、又塩の産出も有名で、我国にも輸出
されて居る。

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 次に北支那の交通について見れば、過去一千年の間北平が支
那の中心であつたと言ふやうな政治的関係も手伝つて、北支那
の交通は早くから開け鉄道の粁程は全支那の鉄道粁程の約一万
粁の三分の一以上を占めて居る。
 これらの鉄道は概ね北平天津を起点として南北に大陸を縦断
してゐるか、さもなければ東西に北支を連絡して居る。例へば
北平線漢口間、天津と南京の北の対岸浦口間をつなぐ津
浦線、北平包頭間の平綏線、石家荘太原間の正太線、済南青島
間の膠済線、北平山海関間の北寧線等である。

  これにくらべ水運の便は非常に少く、船が出入する事の出来る河
 川としては、天津の白河があるばかりである。
  最近は、鉄道或は水路運輸の不足を補つて自動車道路がどしどし
 開かれて目覚ましい発達をとげて居る。主な都市の間にはみなバス
 が通つて居り、中でも日本人経営の北平多倫間及び北平承徳間のバ
 ス、及び支那側が経営して北平から内蒙古を経て新疆を結ぶバスは
 重客視されて居る。


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 航空路はアメリカと支那との合弁の中国航空公司の北平天津
青島上海線と、ドイツと支那合弁の北平鄭州漢口線があつて、南
方支那との聯絡にあたつて居る。また日本と支那合弁の恵通公
司は天津を中心として北平張家口山海関大連を連絡して居る。
 なほ、北支が特殊な意味を持つのは北支那に我国をはじめ、
イギリス、アメリカ、フランスその他の諸外国がいろいろの利
権を持つて居ることである。即ち軍隊の駐屯権や軍事上の特殊
権益、居留地及び公使館区域、借款に基く権益等であるが、北
支那の情勢は之等諸外国の権益によつていよいよ微妙複雑にな
つてゐるのである。

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 次に北支那の行政組織であるが、河北省の東部に冀東防共自
治政府が冀東政権として、事実上国民政府の命令とは独立して
特殊の地域となつてゐる。冀東を除いた河北、察哈爾二省には
今迄は冀察政務委員会が特殊な行政機関として存在して居たの
で、今迄各省には省主席があつて省内の行政を司どつてゐたの
である。又北平には秦徳純、天津には張自忠が市長として行政
全部をきりまはしてゐたのである。
 かくして北支那の地は、陝西、寧夏、甘粛、青海、新疆地方
を後にひかへ北西には満州国と連なり、東には青海にのぞんで
朝鮮、及び日本内地と相対して居り、まことに雄偉な地形であ
る。支那北方に興起した大陸勢力は常にこの地によつて帝業を
成就したのである。古くは遼、金、元、近くは清の各朝みな現
在の北平に都して、清朝が亡びて現在の中華民国となつてから
も十七年間は北京が首都であつたのである。
 日本は此の地に三万数千の居留民を有して居り、列国に比べ
はるかに緊密な利害関係を持つて居るのであるから、その保護
防衛は当然重大関心をよせざるを得ないのである。而も満洲国
が成立してからは、北支那地域が仮にも反満抗日工作の策源地
となる事は由々しい大事で、我方は北支の安寧の一日も早く達
成される事を希願するのである。

(七月三十一日放送)