抗日第二十九軍の全貌

 去る七月七日夜半第二期
検閲を前にして、我が天津
駐屯軍の一部が夜間演習を
実施中、蘆溝橋の支那軍か
ら不法射撃を受け茲に今回
の北支事変は勃発した。素よりこの蘆溝橋事件は、単に導火線
となつたのに過ぎない事は明かであつて、その遠い原因として
は多年に亙る蒋介石の排日教育、抗日思想の徹底化、昨年の西
安事変を契機(きつかけ)とした蒋介石政権と共産軍との聯携、或は北支に
於ける帝国権益の排除等要するに根本的には満洲の奪還を図ら
うとする蒋介石の真意が遂にこの事変を生むに至つたものと見
る事が出来るのである。而して今回事変をひき起した直接の導
因は、蘆溝橋における支那軍隊の不法射撃であるが、この不法
を敢てした軍隊が、第二十九軍である事は周知の通りである。
しからばこの第二十九軍
とは如何なるものか?
 先づ第二十九軍の歴史
について見るとこの軍隊
は民国十四年以来西北革
命軍として、綏遠甘粛陝
西河南の各省を流転し、
第二集団軍として馮玉祥
の指揮下に北伐に参加し
た。民国十七年来哲元が
陝西省政府委員兼代理主
席となるや、軍の大部分
は陝西に入り翌十八年に
は反蒋戦即ち蒋介石に叛
旗を飜へして起つた馮玉
祥、閻錫山の聯合軍に参加したが一敗地に塗れたのであつた。
民国二十一年宋哲元がチヤハル省主席に任ぜられるや第二十九
軍も同省に移駐し、更に翌二十二年三月には全軍を河北省に移
し喜峯口の抗日戦に参加したが忽ち破れ、次いで停戦協定成立
後全軍を約二倍に拡大して、一咋年六月中央軍が撤退したあと
を受けて次第に河北省に進出し、やがて北平、天津地方を完全に
保有するに至つたのである。処でこの第二十九軍を党派的に見
れば大体馮玉祥系、張学良系、蒋介石系の三つに大別する事が
出来るが、この中蒋介石系の者の幹部は自派の勢力拡張のため
黄浦軍官学校に入学せしめられて、新しい政治学・軍事経済学
等を修めさせられ、かくして第二十九軍内における勢力の拡張
に努めつゝある。次に張学良系の勢力は極めて微弱であつて、
殆ど外様大名的に取扱はれ、重要なる職緒には携つて居らず、
結局馮玉祥系が最も充実して居つて、第二十九軍勢力の大半を
占めて居るのである。
 而してこの軍隊の思想傾向としてはこれ迄の抗日教育の影響
並に熱河戦に敗れ去つたこと等からして、全般的に著しく抗日
の気風があり、殊に下級幹部の間にこの気分が充満して居る。
編制は全部で四箇師、三旅約八万であるが、今回蘆溝橋に於て
我軍に対し不法行為に出でその後もしばしば暴戻なる態度をく
り返してゐるのは、その中の第三十七師であつて、その師長は
馮冶安(へうちあん)であり、而もこの師は昨年九月にも豊台附近で我軍と衝
突しかけたことは人の知る所である。この第三十七師に対して
南苑方面に駐屯してゐるのは第三十八師で、この師長は張自忠(ちやうじちう)
である。軍紀は各師とも概ね厳正で訓練も相当行き届き、かの
土匪と殆ど差別のなかつた従来の支那兵とは同一視すべき性質
のものではない。その訓練は馮玉祥時代の教育信念に基いて対
日作戦に重点を置き、大刀術、銃槍術等は最も得意とする処と
言はれて居る。
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 この外第二十九軍の中には、第百三十二師と第百四十三師の
二個師がある。前者は蘆溝橋の南方の長辛店方面に、後者は北平
の西北の南口方面に駐屯してゐるが、支那の軍隊就中この第二
十九軍はかねがね部内の統制が確立されて居らず、勢ひ軍紀、
軍律も乱れ勝ちであつて、部隊長の威令は行はれす上官の命令
は容易に部下に徹底しない部隊である。従つて仮に部隊長が誠
意を出て約束したにしても、それを履行し得ない場合があるば
かりでなく、又当の約束者でも、情況の変化に応じては何時で
も違約背信を敢へてするのであるから、単に約束が出来、協定
が成立したといふことだけでは決して安堵楽観は出来ないので
ある。即ちたとへ約束出来ても果してそれが確実に実行され
たかどうかを見極めた上でなければ駄目なのであつて、これま
でも我方は幾度も幾度もこのやうな奸手段に合つてゐるのであ
るから決して早まつた安心は出来ないわけである。
 なほ支那の軍隊に関するニユースにはしばしば軍長、師長、
次長といつたやうな名称が出て来て居るが、之を日本の軍隊に
ついてあてはめて言へば、軍長は師団のいくつかを集めたその
指揮官であり、師長は師団長、旅長は旅団長、団長いふのは
聯隊長、営長といふのは大隊長に相当するものである。
                     (七月二十日放送)