日本人研究について    大町桂月

 従来、日本は美術を以て、やゝ西洋に知られしが、日清戦争ありてより、やゝ強国として知られ、日露戦争始まるに及びては、世界第一流の強国と認めらるゝやうになりぬ。而して、常に日本の将卒の武勇が世界に冠絶せるのみならず、兵卒に関するあらゆる学問知識も、優に世界の文明国に恥ぢざることも知らるゝに至りぬ。然れども、日本人の本体は、未だ世界一般に知られざるが如し。
 日露戦争以来、世界一般に、日本人の如何なるかを知らむと欲せざるはなし。されど、日本人よりすれば、燈台下くらしの弊あることあるべく、西洋人よりすれば日本の言語に通ずるも、日本の学問に通ぜざるより、誤解すること多かるべし。日本に旅行せしことあるテン、カーテー氏が、独逸の雑誌、グロブスに日本の心理を論じたるを、ベルツ氏が駁撃したるは、内外人共に一読すべきものなるべし。
 テン、カーテー氏の説の大要は、『日本人種の主要なる性質としては、先づ真理を愛するの精神に乏しく、思慮に乏しく、また抽象的観念を綜合する能力なし、就中日本国民の固有なる性質は、個人的特性の欠乏、仮性昏迷状態、被感応性無恒心、耐忍力欠乏、及び迷信あること也。且つ近時、虚栄心に走ること、及び好闘力を加へたり』といふにあり。この中によく日本人の弱点を看破したるものあれども、余りに日本人を見くびり過ぎたり。これでは、世界の文明国民たる資格はなかるべし。否、日本現今文明は得らるまじき筈也。
 日本に幾(ほとん)ど三十年も住(すま)ひたる医伯ベルツ氏は、之に憤慨して、日本人を嘆美せり。その要に曰く『従来、個人性の欠乏として見られたるものは、実際に於ては、外人に対する自信力の観念に外ならず、日本人は考慮せずとは、誤解也。職工の如きものにても、決して遅鈍ならず、却つて其製作品に、独特の風致と意匠とを表示するの材智に富めり。日本人の感情、一寸見れば。[ママ]冷酷なるが如きも、これ大なる克己心、及び他人に対する過度の顧慮の結果也。全体に善良にして、好んで人を扶くる侠風あり。武士的思想を有し、全国民は凡て勇敢剛毅を尊重す、支那に於て、文人を尊び、武人を卑むとは、其趣を異にせり。また日本人は、新奇を熱するの性情あり。これ支那の頑固因循なる保守主義と異なる所也。また快濶(くわいくわつ)、物に拘泥せず、優(いう)に世に処し、金銭の如きに至りても、毫も之に重きを置かず、支那人の如く真面目を以て貪欲蓄財をなすの風なし。更にまた滑稽は、諸種の技芸及び文学に於て大に行はれたるにても、考慮制止及び生理的遅鈍ならざることを知るべし』と、この言よく日本人の長所を発揮したるものあれども、テン、カーテー氏の言を駁するものとしては、十分なりとせず。日本人の裏面生活を十分に言ひあらはしたるものとも云ふべからず。『たゞ日本人が僅に四十年間に、一躍して世界最高の文明に達したることは、世界に其比を見ず』と説きたるは、全くの事実也。『日本は、明治以来、過渡の時代也、かゝる場合に、無恒心、不確実、被感応性などを伴ふは自然の数(すう)にて深く咎むるに足らず、近年、日本人も自覚の域に進みたり』と説けるは、空谷(くうこく)に跫音(きやうおん)を聞くの概あり。『都会の人を観察せずして、地方の人をも取寄せざるべからず。殊に多少欧風に感染せる例へば小官吏、または開港場の商人が如き半開人の性情を見て、日本人を律すべからず。』と言ひたるも、尤も千万の言也。
 とにかくに、僅に数年、日本に滞在して、直(たゞち)に日本人の本体を説くは、皮相の見を免れざるべし。深く言語に通ずべきは、言ふまでもなく、日本の書物を読みこなす力量あるを要す。かくて、二千年来、文学、美術、宗教など、支那印度の文明を入れて、如何に之を融和して、日本の文明をつくりたるか、即ち日本文明発達の跡を熟知せざるべからず。日本の國體を知らざるべからず、これだけの知識ありて、都会のみならず、ひろく地方に旅行し、人情、風俗、習慣を見聞し、殊にベルツ氏の言ひたるが如く、過渡(くわど)の時代にあることを知りて、一時的の現象に眩惑せられざるを要す。ペルツ氏は、日本人研究の方法を説くことは、ほゞ其要を得たり。されど、其方法を完全に実行したるものにあらざるべく、また十分に日本人の精神状態を発揮したるものに非ず、たゞ皮相者流(ひさうしよりう[ママ])を警戒するの点に於て、最も力あるもの也。
 日本人とても徒に外国人の真に観察するものあるを待つてのみ居るべきに非ず、軍人は既に武を以て、日本人の本体の一部分を示しぬ。商人も政治家も、進んで之を示さゞるべからざれども、殊に学者、文学者、美術家などの精神上の事業は、これ迄に西洋に知られざるが、之を示すこと、今後最も必要也。而して、日本の文学道徳、音楽、演劇、絵画、彫刻などの諸美術が、ひろく西洋に知られ、万国大博覧会が日本にも開かるゝやうになりて、はじめて文明国の仲間入りをしたるものと云ふべき也。
 吾人は、痛快にも、ベルツ氏が皮相なる西洋の観察者を警戒したるを多謝するもの也。