七〇外人の日本趣味と日本人の外国趣味理学博士遠藤吉三郎
東京の西洋建築を見る人は、如何に日本人は都市の美観、建築物の趣味といふことを知らぬかに驚くだらう。否、日本人は十分知つてゐる、その証拠には我等の祖先は世界に誇るべき美術的建築物を遺してゐる。たゞ明治大正の西洋崇拝連だけが
之を諒解しないのだ。東京で西洋建築物の一番大きいのが東京停車場に就いては、
大正四年一月の鉄道時報に、工学博士高橋邦太郎氏がその由来を記してある。少
少し
けれども、その全文を転載する。
ルネツサンス式中央停車場巍峩として天を摩(ま)し、此処に帝都の一大偉観を添へた人々輪奐(りんくわん)の美に眩惑せられて、漫に泰平を謳歌すれども、これが帝都の大玄関として、将た大日本帝図の誇として、舞何の僧偉あるべきや。その建築は敷†年
けいけん 青いしん くわがく お〜よう れいぐbいしよはん せつぴ おい もと
の綴勝と最新の科挙とを應用したるものであれば、内外諸般の設備に於て回よb
かんす′− ところ はいくけせい 、.と ひひ?) ゼいたい おい どんぜんじんぴ
閉然する朗はない。梅畢生の如き批評もあれども、大観に於て亜音盤夷といふこ
なにぴと しゆ叶う
とには、何人も骨甘するであらう。
こh もつ とうγ) もはんけ人ちく とな わ くに ほこり じつ もつ 杜か
されど之を似て東洋の模範鍵築と唱へ、我が国の誇となさんとは、賓に以ての外
はらぐちほかせ よ 払ん hきし いう 」んあん こ・ かいけつ ▲TTや
である。原口博士の卦Pはれし三十怜年の歴史を有せる懸案も、此虜に解決して漸
じっげん み し′ こんにち ふ ヽつ こ、ろ こ いえさ Lよか人
くその賓現を見るに至トし今H、不壱をいふは心なきに似たれども、今左に所成
しる 七いはうどく1や ∫わじ こ つ はし おも だ 、−
を記して大方硫新の一撃不を乞はうとする。これに就き鵜なく思ひ出されるは、故
L心
−外人の8本拠味と8本人の外単色蛾
5-13
一
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鮒
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lつlと−や−)くハん だい は・つ・k− せ,へい かうとラrじ●つ・ヽlん ・芋,じ し▲う; しtが
松本長官時代に、品々ドイツより紹聴せる高等技術展開(普時の碑呼に徒ふ)
くん と〜 し ほんけんちく くハんけい とっし に ほもけん・nく わ だい
動三等フランツ、バルツアー氏と、本建築との抑係である。同氏は日本建築に多大
しゆみ い・) も,ヽくこ らよしよ くもゐ ちうbラていしやX?} せつけい lつれ
の趣味を有し、緑園後その著書まであ♭し位、それで中央停車場の設計も、全く
こ がいせつけい さきやく こんにち こと
細舶胡和対郎尉融郎のものであつたが、その故該設計は棄却せられ、今日の如き
とゆんはくらいL青 かtち か
純舶雄武に形を吏へた。
は七 、、 モう苛い めいhい
これは果して彗の加乳首わしか、よたはその後の地裁の命令なりし
、−じん ⊥ ところ ぐわいじん に 拝んしゆみ に ほんじん ぐbい・←くし♪み おもしろ
か、喜入の知る所ではないが、外人の日本趣眈と日本人の外固趣味とは、面白き
対照である0香・慨嘆すべき対照である0新穀似の肘舶と斜に郁秋野那の野が
七いせ1フ い亡 がいたん わいゼう
こく†ゐ b ,しくじん ょ どもじ 巾つ}やく けいかう■ じ し
肉粋が、我が閑人に依bて漸次滅却せられる傾向があるは、この一事にても知ら
れるのである.
土nか と・−る
舶新鮮も酎僻の漑掛1如に獣掛.かくは免れない所なれば、ポ剋は軒が郎恍官
払ん甘ん ふも けんちく l:】んにち しよ) だい丁・
年前の肯き建築を、その俵今日に使用しょうといふのではないが、その大偲をバ
ヽ′
抑
王
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ルツアー肘の卦舶の如く耶粥賓粥にして、なに山欝舶舵の糾朝をが射して、現代
げんガい
て● ないぷ せつぴ かの●} おうし} ふる
に溝する内部の役備をなすの可憐なるは、欧洲の肯きルネツサyスやヲアイブク
なんも こと ゝも
と何等異なることはないと思ふ.
なにほど手ユフhい ‡止 ぐbい一−′ヽじん め たん
ルネッサンスとかブティックとかは、何程荘魔を庵めても、外図人の眼には畢
も はうひん み b さウじ?っlへ げ し9 ぐbいこくきやく
に模倣品としか見えの。我が宮城前に下革する外国客に、アムステルダムやヌy
おも おこ に はん,】くみん もつとゐ かt. ところ
ベルヒを想ひ超させるのは、日本国民の最も汲械とする所である.
も じゆ∧に拝んし} せんめん ・す−じ?} めひてうh ぐbいらい‡やく しちす しら
若しこれが純日本式であつたら、前面の宮地と軸調和して、外務客にも不知不
酎の郎b批劇の朗を郎さしめ、響H和の鮮までも酎小平る酢貯と棚郵びて、封小
くhll はつ おも
光輝を費するのであつたらうにと思ふ。
ぐbいこくじん じこくり} せつけい 羊フキよく これ 、んかう せつ lつた
外国人が自国流に設計したのを、軋が普局にて之を鼻糞したといふ溌とは全く
はんたい uろぐけ・う、い
反対に、並々紹増した椚概数剛ががポ批剰飢郎脈を郡め、郎粥叔和に融和したも
のを刷γ即断野の」影なる紆汎覿那の郎に、花苦る軟式建準物を現出せし
は〜だい おうしさけんざ・−ぶつ げんしゆつ
・1I外人の日ホ趣味と日*人¢叶叫世や
5-14
、打
「〓M馴”泊りパパ銚酎に弼三の野苧その濫に琴
一
ヽノ
湘
′ヽ
いな ぴCゆつ 学− わ ガいにほん1いと おはげんくわん 払ん 即ち ゐかん
杏、その美術に誇れる我が大日本帝都の大立働として、有年の後までも温械なし
といはれ得ペきや。
かは さっTゐ
即耶蹴鮎の郎耶、この肌貰剛戴か貯を郡部として、yヤ三ソの代トに生梓の
那弼a町み、西の方千代呵城あ轟して、宕驚・の斬新整二蹴する緻千の枇叡弼
にし かたち よ だじ†う はい
くる ゆ らい ・) bも t
には、剛鮮戟郎が鄭那に斯かる苦しき由水のあるを知らぎるもあらんと息ひ、他
じつ きんかう みJウやくじゆつ し1かん モ しきしや い けん ち▲ カ 、
日の参考として右を略述し、朗戚を添へて識者の意見を仰ぐこと、斯くの如し。
郡部削覿は、割前駅がポ削蔚‰ぎ紆たる轡前腕井野廿の
しよかん l
所戚を瀦んだならば、
と こ・ろもち で
何ういふ心特がするか0駅糾勒賦のがポの」野は、野郎の郎軒に粥て射ることの出
● ‡ろく つく しか めいすし} な くbん も めい甘し●.な
水ない記錐を作つた0併し明治式の名姦すべき郁朗を新したか、著し明治式の名
を附すべきものを強ひて索めるならば、郎巾舶覿乳耶といふことに釘ぎ賢エ那針
一 し もと
一か
は新郎削が舶射少如て、ぐ細野鮮蹴仰た鮎誹批郎の椚仰の紆舶桝として見るので
ヽノ
⊥
▲V
8
′.ヽ
一
とl いとうはく一んなと モと ぐbいこくすはいhん ● 払んrlつ・ み ⊥る カー
あると共に、伊藤博文等の如き外陶然秤達の記念像とも見て宜しいと息ふ.すyア
の首都ペニ〆ラードに滅んだパは、舶がの郎射なる猷新郎L影化であらうが、そ
しゆと
官エーい じ 一つ 9 はん けな しゆ.rI
のポ如熟は、エカブブナ女帝が−ツアの事物を野蟹だと庇して、ドイツから種々な
モんせい ゆにふ l ね ゐ ♪つ †なは 甘よてい †う
先生を愉入して、ドイツの兵似をさせた逸物である。即ちエカブブナ女帝ドイツ費
はい‡ ねんぶつ か しか 甘よてい き ひと
秤紀金物と名づくべきものである。併しエカブブナ女帝は、ドイツから凍化人であ
一 けいかう l い渋 かわ ゆ与. てん
るから、斯かる傾向を持つたのは致し方なしとしで恕すべき軋もあるが、がポガ新
し? Tうはい●払ん♪つ い七 †こ べん、】 七h
者の衆秤紀念物に至つては少しも研誠すべき種がない。
せい?)じん こと しん仁く 、)と おl ふく に 氏んじん 能く苛ん
西洋人の言とさへあれば、紳託で1もあるが如くに思ひ服する日本人は津山ある
hがはい げん モんちよう けつ モ レ与き
が、香華がフォン、モールやバルツアー聖一日を令室すぺのは、決して其んな動機か
せい?)じん ●ヤ)へいけんせい ひ・γ1がん も カ 、一 しめ
らでない、西洋人でもあ卒厳正な批評眼を持つてゐるものは、漸くの如きことを示
すのである。
しか い か けい
併しながら靴郎即断のポ郡部朝が舶酢卜瀦んだ酎僻簸て射ると・如何にも敬
1外人の丹木也療と日木人の外料地味
5-15
外人
ふく†うはい
服紫拝すべ
こんらん
パは.混乱
の日本色疎と日本人の外舛曲成
かち ゐしんご↑なは せいナ 九人だい
き倍位があつたのである。維新後即ち西紀一千入首七十年代のヲーサブ
あと−) めいV h・ハ 山ん か ふ・ぢд芋) ねん ぐわつ
の後を受けてゐ佗。明治三年から四年に掛けての普俳職率、四年の五月
巾一
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●●
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じ?フβ ちかひ・; しぅ ぉく し?−尊ん・か わt
にはバター城下の盟、俳はアルサス、ローレソニ州と五十億フラyの償金を普に輿
ふ け−んし与フけつ〜わ †べ じぶつ 汀い−11‡せさ争よくはうしんと ・; 〜ちみい
へる。普は戦勝の結果、絶ての事物は大々的積極方針を珠つてゐる。俳はこの怨何
時かは掛らさで措くべきかと囲民の眼色が建つてゐる・耶紆の僻釦刹那h野軒とに
つ l お こくみん め いろ かは
くわい・′く 甘んり1く 卓んげふ はつ十り こくりよく でフしん っく
快復させょうとして仝カを産業の登建と団カの材進とに慈してゐる。イギ,スはグ
bうてラ し▲脊 じ
ヰクト’ア王朝の初期で、鮎那なるポ郵が有卦敵影の断賀尉が那めつゝある・時
化い ひと フ サ・いXか こうけふか くけ、くしや じつ せい し へう
代は人を産んだ、政治家にもエ丑家にも、科挙者にも、箕に一世の師表となるべき
ひと 七くさん
人が津山ゐ化.
し
肘掛に蹴んだ即断の兜新都郎は・断裁の郎粁l叡べて、イギタス師
とすべし、ドイツ範とすべしとの念を生じ佗のは尤もである・併し今日は、鮎h軒
はヽ ねん ・?フ もつと しか こんにも
じやう ▼】と ト■いや・フ おaろ だら〜 こんにち bhら キュい †1はい じ
憤少具にしてゐるち西洋は、篤くべく賠落した.今日は我等は欧米を費挿すべき時
】佗い lちろん
代では勿論ない.
もは1 ヒ だい † じ
模倣すべき時代も準ぎたポ山野がポは、鵡「軒耶を町耶すべき時
ヽノ
さ
射
一
稚い ひ−こT’しや
代であるご−の批評着たるべき俄は、朋て融戟那郎鮎舶の郎郁に断つてゐる・触る
にん じ かく いょな きっし 卓・} とら せい9, 丁つはいも は・, ●■と
にその様努自発せすに、今潜ほ背思想に凶はれて、西洋を鎗帝模倣するを事として
じつ だいに 怯んていこ・、 ▲す ‡ のご
ゐては、潜に大日本帝国は危機に梅んでゐると肝はねばならぬ.
ゐ しん J・ヽくんhん ほ ピい?フ あいけlフ
維新の元動速の惚れた西洋は、十七人の昭射りで、絆蹴でもあつたし、愛敬もあ
こんにち ・)、拝しは・ しか おし.ノ nりくろゾんつ} 九う放
つたのだ。今日ではそれが梅干宏仙撃となつて、然も白粉コタ敬黒餐附の妖婆である爪
然るに日本人は、十七→鋏仰爪教卜脚れた調子で、伐然としでこの赦くちや老境に
しか に ほんじ・ヽ て・’し い ぜん しい せ ・
持 ため 上すん・・りいせいやう ふ■t ′ヽ 勺うせいじ 付い くいつ1−
惚れきつてゐる。それが為に温水西洋から敢はつて水るものは、隆盛時代山活気で
†ゐうんじだい だ らく †ペ ほうこく し少だん
なくて、衰運時代の噂落である。凡て亡図の手段だ。
しか だいさ1とう え1ば しめつ き わ.「はい ・ごつどつ なヅ いの
漁るにこの大蹄勒は、妖婆の死滅の期でゐる。吾輩がこの機動が長かれかしと所
えうょ いき ね 土つた と き い∵ツ
るのは、妖嬰の息の音の全く止まるのを希染するからである。
でしょへば、ま化もとの十七入恥銚那が那肘るに相違ない・
J三フ一
tう〜− †つt L
この妖嫁が全く死ん
†い?フかく二く γニ一 入うほ ・「・フ ほうV
西洋各国がドン底までへコたれて、妖埠が必中に蔀られたとする、そして十七人
外人の日本趣味と日本人の外地し埠球
5-16
・外人の8#一考拝
む†めrナウ あらは
の娘盛が現れたと
えう一ば
) 妖婆にあこがれでゐ
と打木人¢外すさ持
とき ち七 とう一丁フ に 杜んこく い ぜん し 秒つ セは
する、この時に昏つて東洋の日本図が依然としで死滅し絶つた
と き けん かんが や1しう
化らば何うか、その危険なことは考へるよでもなからうち欣洲
仰削酢は、批酢即製眺新鮮鮎で叡酢する0鮮るに鮮那のがポは、
ふ はいじ.だい
腐敗時代のヲーсc
いぜん l 払 き ど おも だ rノと
バを依然としで兵似てゐると水たらば何うか、思ひ出したばかりでも慄然とする。
bがはい か ょ 字1 はプ いの しか }し・、.・てい?フ かへ
香華は、斯かる漁想は外れてくれかしと斬るものである。触るに混雑西洋がら蹄
はなし ‡ み やっLl みんしん はなはだ ぺん せんゼん
つた割の批歓hとて、その談を開いて見ると、欧洲の民心は甚しく一擬し、職前
bうせい さは ら十いぐb ら たいrう い▲ lつ十 がげ かく ふ くPいんいJ ふう けつピ)
まで旺盛を棲めた観照童や裸健像は、今や鼻くその影を隠し、浮華淫逸の凪が整斉
しっモ ふ・1 へん と bがはい 亨1ぐ て,ちう き
濱索の風に療じたとのことである。何うやら香華の想像が的中して殊たやうである。
青年男女諸君は、鶴粥は湘して軌酢射撃や軒併ポ猷などを耽譲してゐろ時でない0
せいねんガん†よし▲くん 七、どく とき
貯制欝しで、この鮮那鮎那を新鮮すべ転勤である0細野胤敏郎に郁蹴を軒はす
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ペき時機である.(「西洋中ヰbド止る)
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