七 比類なき国風     文学博士 芳賀矢一

 我が国は、天皇が国をしよつて立たれるので、皇室は即ち国家である。イギリスは、民主的王国である。フランスは、王国、帝国、共和国と近代史でも幾度か変化した。支那は新に中華民国となつたが、民国となつて繁栄するかも知れぬ。諸外国は最初から皇室と国土とが離れてゐる国風である。政体が幾変遷し、主権者が幾たぴ新にならふとも、国家は依然として存続するであらう。
 之に反して我が日本は、皇室と国土とは切つても離れぬやうに結び附いてゐる。皇室の御繁栄は、即ち国家の繁栄であることを知ると同時に、皇室なくして日本国もなく、日本人も存在し得られぬといふことを、深く念(おも)はねばならぬ。
 西洋の学説は、総て民主説に傾いてゐる。今の世の人情は、次第に自己本位を喜んで来た。西洋人は愛国心を説くに当つて、何故に国家を愛すべきかといへば、即ち国家を組織する一員が自己たるが故に、国家に不忠実なのは、自己に不忠実な所以、国家を愛するのは自己を愛する所以だと説く、是に於て国家に対して兵役の義務も、納税の義務も生ずると言ふ。而して主権者は、たゞ国家を統治する機関公僕と見做すのである。この理窟(りくつ)は、日本のごとき國體に於てその儘に説いて至当であらうか、どんなものが主権者となつても成立し得る国に於ては、この理窟で通つて行くであらう。即ち日本以外の諸国では、それで何等不都合がないのみならす、最も合理的であるに相違ない。
 併し皇室と国家と相離れず、スメラミコトとオホミタカラとが国家の成立以来情誼を以て結ばれてゐる我が国ごときに於ては、稍間違つた説であると思ふ。何が故に家を愛するかの問に対して、我も亦家の一員たるが故に家を愛す、家に不利なることは我が身に不利なりといふまでは聞えるが、親を愛するも、子を愛するも、自己に利益あるが為に愛するといふのでは、西洋人でも恐らく承知しまいと思ふ。親子の情は理窟以外で、どんな事があつても親子の縁は切れない。今や我が国民は憲法を与へられて、国政に参与することとなつたが、それは子が成人して家の事件に立入ることを許されたやうなものである。自己あつての家ではなくて、家あつての自己である。国家の親は何時までも親として、我等の上に君臨せられるのであるから、兵役の義務も、納税の義務も、単に国家といふ無形のものに対しての義務ではなくて、国家の親即ちスメラミコトに対する奉公といふことが、眼中になければならぬと思ふ。
 余は法理論には門外漢であるが、常識から考へて、然(さ)うでなければならぬと信ずる。自分が国家といふ有機物の一細胞として奮闘するといふ考も必要であらうが、単純に然う考へては、その統治機関たるものに向つても、忠誠でなければならぬ理窟は、君と国とが元来離れ物である。諸外国に於て詮方なしに案じ出した理論(りくつ)ではあるまいか。
(『日本人』に拠る)