五 日本趣味の特長      法学博士 河上 肇

 『荒海や佐渡に横たふ天の川』『春雨や人住みて煙壁を洩る』『易水にねぶか流るゝ寒さかな』などの俳句を誦(ず)し来れば、僅々十七音の中に、一幅の画図が歴々として眼前に浮ぶ。之が純粋の日本趣味で、実に世界独特のものである。僅々十七音より成る詩形は、西洋諸国何れの国に於ても到底吾人のの見出すを得ざる所のものである。また古い所の俳句には、多少趣味がこもつてゐる。一音をも発せざる禅学の如きは普通の西洋人の如何にするも解するを得ざる微妙の性質を持つてゐる学問である。
 我々日本人は、大建築を有せず、科学を発明せず、機械を発明せない代りには、西洋人の有してゐない茶室を有し、輝拳を有し、俳句を有してゐる。我々は西洋人が我々の有してゐない多くのものを見て、直(たゞち)に彼等を偉い人種であると驚歎してしまふ傾向(かたむき)があるが、何も真の評価は急ぐに及ばぬ、能く見れば彼等も亦我等の有する多くのものを有せずにゐるのである。
 西洋式では、凡ての物を分析して簡単な単位に還元する流があるが、斯かる簡単な単位は其れ自身独立さしては意味をなさぬから、自然の結果として多数の単位を集めて其の全体の上に意味あらしめようとすることになる。分析の結果として、綜合)といふことが起る。併し其の綜合なるものは、分析を経た後の綜合であるから、日本流の最初(はじめ)から余り分析を試みずに物を一纏めとするのとは、甚(ひど)く趣の違つたものである。
 まづ手近な所から二三の事例挙げて之を説明すると、例へば彼の盆栽の趣味の如きは、全く日本の趣味である。分析も無い代りに、同じ単位のものを集めて、集め方(かた)の上に趣味を出したといふ性質ものでもない。たゞ一本の樹なら樹を、幹と枝と葉と自から之を一纏めにして見て、そこに千年の星霜を経た巨樹大木の趣を味はふといふ訳である。菊花(きくくわ)を賞するにしても、根本に附ける葉までも見棄てずに、幹なり、葉なり、花なりを一纏めにして賞するのである。
 然るに西洋には、斯くの如き意味の盆栽なるものは無い。菊花を賞するにしても最も美しい部分の花だけを切り離して賞するのである。従つてたゞ一つでは面白味がない。成るべく沢山に之を集めて、然る後に全体の上に何等かの面白味を感じ美事さを味(あじは)ふといふのである。庭園の造り方にしても、西洋流では、一本一本の木を切り離してしまつてゐる。それ故たゞ一本の木を見たのでは、何の面白味もないが、其の代りに西洋人は、其の一本一本の木を一定の間隔を置いて行儀正しく植ゑ込み斯くの如くにして全体の上に何等かの面白味を出してゐる。
 されば之が自然の結果として、西洋の庭園には左右均一(シンメトリー)といふことが原則になつてゐる。然るに日本固有の庭園には、然様(さよう)な人為的の子供らしい所は全くない。京都で言へば、金閣寺の庭にしろ、銀閣寺の庭にしろ、何れも皆(みな)左右均一(シンメトリー)の主義を採つた所は一つもない、山川池沢(さんせんせうたく)、草木巌石、自然に相集まつて自から絶景を成せる深山幽谷の状(さま)を其のまゝ一纏めにして之を縮図したものが、日本の庭園である。人為的の分析も無れば、人為的の綜合もない。
 此の意味に於て日本趣味は実に自然的であるが、之と同時に他の意味に於ては実に人為的である。全体に於て自然の形を存しようとする点に於ては実(まこと)に自然的であるが、全体に於て自然の形を存しならがも之を美らしめるが為に、其の組成分子甚しき人為を加へ、尚ほ其の人為の跡を蔽ふとするが故に、其の組成分子に対しては、種々無理な注文が全体の為に要求されることとなる。金閣寺の庭にしろ、銀閣寺の庭にしろ、松の木一本、松の枝一枝が決して思ふがまゝに手足を伸ばしてゐる訳ではない。全体この調和(つりあひ)を保つが為に、或は枝を切られ、或は幹を曲げられつゝ、甚だ窮屈な思(おもひ)をして生゚を保つてゐる訳である。
 盆栽となつた松にしても、亦同じことであつて、決して思ふ存分に伸びたものではない。西洋人が見て、如何にもひねくれた人為的のものだと思ふのも、此の点から言へば無理はない。
 併し余をして言はせると、西洋の庭園こそ或意味に於て甚だ人為的のものである。勿論個々の木は思ふ存分に伸びてゐる。山なり、原なりから抜いて来て植ゑたまゝである。此の意味に於ては実に自然的である。各個の樹が自由を享受してゐる併し是等個々の樹を集めて一つの公園としようとする時。西洋式に行けば、そこに鷺くべき程に露骨な人為が加はり、また其の人為の跡を蔽骸はうとせす、没趣味なものとなるのである。(「祖国を顧みて」に拠る)