三七 日本の長所短所 杉浦重剛
日本人は如何なる学問をしたらば宜からんと云ふ問題は、今日の如く四海兄弟主義の行はれざる世の中に於ては、甚だ必要なる問題と思はれるなり。従つて之を構究するは、決して無益の策にあらざるべく、幾度(いくたび)にても賤(しづ)のおだまき繰返し、今も未来も同様に、油断なく学者の意を注ぐべき処ならん。論者或は曰はん、是等のことは余り注意せずと雖も時勢に伴れて自から定まるべきものなれば、風のまに/\波のまに/\船の行末(ゆくすゑ)を定めずして可ならんと。然れども是れ甚だ危(あやう)き論にして、少(すこ)しく思慮ある者は直(たゞち)に其の不可なることを見出すべし。果して然らば世の雑誌等に於ては、斯くの如き問題の討議を始むるは、最も適当のことなるべし。
抑々当今は、何事も学問の力に依らずんば成立ち難き世の中なれば、啻(たゞ)に文学上のみならず、兵事に至りても学問の研究より生ずる結果の優劣に因り、大に其の勢力の度を異にする訳合(わけあひ)なれば、武備あらんとするものは勢ひ文事に依らざるを得ざることとはなりぬ。
試みに見よ、軍艦、銃砲、其の他戦争の用具は、皆学術の研究より生じなる結果を利用するものにて、時勢に後れて昔風とは趣を異にせざると得ざるの場合に立ち到り、算術は商売人のする業(わざ)なりなど云ふことも、最早一昔のこととなり、今や軍人社会などに取りても、数学は極めて必要なる学問の一要素となり、現に陸海軍の学校に入学するに就いても、第一に数学を心掛けざれば合格すること能はざるを見ても知り得(う)べきなり。然るに夫(か)の遺伝とやら云へることある故にや、学生の中(うち)にも数学好きの者は極めて稀にして、学校に於ても落第する原因を研究する時は、概ね皆数学に於て好結果を得ざるものの如し。
然るに西洋の学問の精神とする理学に於ては其の精神とする所は全く数学にありて、理学中に於ても数学を応用すること能はざるの学科にては、未だ完成せざるものと看做す位の訳にて、夫の日本の昔風の学問に比すれば、実に雲泥の差異あり。是れ昔風の所謂学問と今日の学問との最も趣を異にするの点にして、将来其の結果の大影響を国家の運命に及ぼすべき要点なりとす。其の之を為す所以のものは、西洋各国と交通し、彼に長ずる処あるを覚えたるに基因す。即ち前に述ぶるが如く軍艦、銃砲、其の他百般の製造工業等に至るまで、悉く理学の応用に出でたるものにして、所謂文明の利器なるものは、全く之に外ならざるなり。西洋と交通して以来、益を受け、また害を受くるも、皆此の理学の応用にして、其の他のことに至りては然程(さほど)に感心すべきことのみにあらず。人事上に亘ることと雖も、理学の開けたるより、類推法に依りて其の精密をなしたる訳なれば、是れ亦間接には理学の結果と云ふも可ならん。即ち百般の人事をしで複雑ならしめたる原因は、全く理学の結果なれば、既に西洋と交通したる以上は、勢ひ其の根今(こんぽん)たる理学を根引(ねびき)にして、之を日本に移植するの必要は言ふまでもなきことなり。然してまた数百年の習慣を一時に排斥する訳にも行かざれば、たゞ可及的趣を変ずるの外手段なかるべし。
元来長を採り短を補ふと言うは、万人一口に同意する所なれども、長を増し短を補ふと言ふか、そは我の最も長ずる所を可及的増加し、我が短所をして割合に減少せしむるを言ふなり。例へば、我に一尺の長所ありて一尺の短所ありとすれば、其の短所を五寸に減ぜんことを勉むるよりも、寧ろ我が長所をして二尺に増さしむるを言ふなり。苟も我にして長ずる所なくんば、将来実に望みなき場合に立至るべし。故に余は西洋の長を採りて我の短を補ふと同時に、我の長を増して我の短を補ふの必要を説くものなり。
然らば、我に於て果して長とすべき所あるか。美術手芸等の如きに至りては、業に已に彼我共に我が日本人の得意とする所たるは能く知る所なり。故に此の長所をして彼の採るが為に捨てざること極めて必要なり。既に斯くの如くなれば、我が日本人の学問の方針は、我が長所と彼の長所との取合(とりあはせ)を最も注意して計画するにあり。但し此処に述ぶる所は、専ら学問技芸に与(あづか)ることのみにして、夫の人の人たる道の如きに至りては、世界万国其の揆を一にすべき筈なければ、此処には特に論せざりしなり。
(『日本の精神』に拠る)