三六 悪口を言ふ風習 哲学博士 元田作之進
余は言語学者でないから、我が日本語が他の国々の言語に比較して、その語類が果たして豊富なりや否やを明言することは出来ない。最近の科学書等を訳しようとするに、往々我が日本語に適当な訳字がない所より見れば、我が日本語は案外ヴオキヤブラリーが貧しいやうにも思はれる。併し日本語の中にて一つ豊富な語類がある。これだけは他の国語の及ばない所であるまいかと思はれる。即ち我々日本人の悪口(あつこう)語である。その語の多いこと、その意味の奇抜なこと、その発声の鋭利なこと、之を一々他国語に訳さうとするも不可能である。外国にも、亦多少悪口語あることは勿論である。殊に米国下等社会のスウエヤー語などはその性(しやう)が悪い。紳士は決して之を使はにことになつてゐて、之を使ふ人は上流社会から擯斥(ひんせき)せられるのである。併し多くの種類があるのではない。たゝ一つであつて、下等人民は之を繰返して言ふのである。日本で使つてゐる悪口語(あくこうご)は、米国人のスウヱヤー語ほど悪い意味を含んでゐないかも知れぬが、その種類の多いことと、また上中下の社会を通じて之を使ふことに於ては、他国民の上にあると思ふ。
日本人は、悪口の総本家である。人の無能を評するに、馬鹿野郎、間抜野郎、唐変木、たわけ、あはう、抜作(ぬけさく)、ぐづ、意気地なし、とぼけ、ひよつとこ、のろま、とんま、源助(げんすけ)、無骨者(むこつもの)、コンマ以下等の悪口を放射し、人の不遇を見ては、死にぞこない、くたばりぞこない、居候、宿無しなどと言ひ、甚(はなはだ)しきは、餓鬼、穀(ごく)つぶし、乞食などの評語を下し、節倹家に対しては、欲張奴(よくばりめ)、吝者(しわんばう)、しみつたれ、守銭奴、ぼうつくばりなどと謗り、才子を評するに、青二才、乳臭児(にうしうじ)、生意気野郎、猪口才奴(ちよこさいめ)、鼻垂(はなたら)し、白面書生(はくめんしよせい)と呼(よ)ばり、反対の意見を有する者に対しては、こん畜生、この餓鬼、かつてぼふなどあり、人の災難を見、罰当り、業つくばり、いい気味だと喜び、勝負事に負(まけ)を取れば、対手(あひて)を、すり、どろばう、もぐり、詐偽師と言ひ、外国人に対しては、毛唐、チヤンコロ、露助、クロンボなどの綽名を以て呼び、快活な婦人をお転婆と称し、厳格な老婦人を鬼老婆(おにばゞあ)、厳格な老人を、頑固老爺(ぐわんこぢゝい)、正直者は、馬鹿正直(ばかしやうじき)と云ふ。凡て陰で呼ぶ時は、あの奴(やつ)、あの老婆(ばゝあ)、あの野郎(やらう)、あの男(をとこ)、あの女(をんな)、あの小僧などと稍軽蔑の意を以てするのである。その他、始末にをへぬ代物、風上に置けぬ代物、箸(はし)にも棒にもかゝらぬ奴、煮ても焼いても食へぬ奴、隅(すみ)には置けぬ代物(しろもの)、お話にならぬ奴、虫けら同然な奴、嘘でかためた奴、てこでこねても動かぬ奴、性根の腐つた奴、転んでもたゞは起きぬ奴、などとあらゆる悪口語がある。右に挙げた悪口語が悉く悪意を含んでゐるとは思はれぬが、何れも軽蔑の意味を有してゐることは疑はれない。言語は、元来性格の表号(へうがう)である。我が国民の悪口語は、また我が国民の悪口癖をも有してゐることを示すものにて、不幸な性質といはねばならぬ。
忌むべきは、言語の表裏である。全体我が国の言語の礼儀には、表裏があるやうに思はれる。即ち人の面前では極めて丁寧である。何様と言ひ、何君と云ひ、何閣下と言つて敬意を表してゐるが、陰では呼び捨てである。時には、彼奴(きやつ)、彼野郎(あのやらう)、あの男(をとこ)などと言つてゐる。西洋では、夫婦や友人間に於て互に話す時は、フレツドとか、メリーとか、ジヨンとか言つて呼び捨てにするが、他人の前にては、ミセストマス、ミスタートマスと言つて敬意を表してゐる。日本にてはその反対で、夫婦相互なれば、お前、あなたと稍敬語を用ゐるが、他人の前になれば、自分の妻を愚妻、荊妻(けいさい)と呼び、自分の夫(をつと)を、宅(たく)、宿(やど)、内(うち)などと無意味の語を以て暗示するのである。人及びその人に属するものに関しては、その人の前にては之を卑下し、陰にては悪口する。自分及び自分に属するものに関しては、人の前にては之を卑下し、自分自身には偉く思つてゐる。是等は礼譲といふ観念より来たもので恕すべき点はあるが、この習慣が延(ひ)いて他人の前にては、自分自身の身内のものを悪口するばかりでなく、第三者をも悪口するやうになつてゐる。自分だけのことなれば謙遜ともいはれるが、第三者を悪口するに至つては謙遜でなくて寧ろ傲慢である。更に人の面前にてその人を直接悪口するに至つては、尚更に不徳の行為といはねばならぬ。
全体日本人には、嫉妬心が多いのであるまいかと思はれる。他人の成功を喜び、他人の栄達を祝するだけの胸量が少い。口にて表面には喜びもするし祝もするが、心には嫉妬心が満ちてゐる。陽には好意を表しても、陰には邪魔をする傾向がある。人の出世や好評が自分の癇癪種となり、何とかして之を引落さうとする。他の失敗に対しては如何にも気の毒のやうに見せ掛けるが、心にはよい気味であると思つてゐる。青年輩(はい)が動(やゝ)もすれば、自ら勉強するのが嫌であるが、同僚の勉強するのを見ては尚更嫌である。自ら怠るばかりで物足りない、人をも怠らしめねば気が晴れぬ、これが我が国民性の一部であるとすれば、実に慨(なげ)かはしい次第である。
悪口癖のあるものは、人の欠点を見て之を批評するばかりでない。若しこれのみならば善事とは言はぬが、また然程(さほど)悪しきこととも思はれない。然るに実際に於て悪口の性質を有するものは、人の善事を見ても、何等かの難癖をつけて之を批評せんとするの傾向があつて、悪口を言はなければ自分の胸が治まらないやうに見える。悪口家は、自ら顧みるの意思なき人である。人と喜憂を共にするの同情心がなき人である。我が国には古来是等の悪徳に対して、訓戒を与へた教(おしへ)は沢山ある。また之を実行した賢人もあるに拘らず、国民一般が猶ほ未だ悪口癖を脱却することが出来ないのは遺憾千万である。
(『日本人心の解剖』に拠る)