三三虚言は日本の宝哲学博士元田作之進
虚言(うそ)には、善意の虚言もあれば、悪意の虚言もある。日本人の虚言には、善意の虚言が甚だ多い。人を饗応するとき、何もお口に適ふものもあるまいが、緩(ゆつく)り召上れと挨拶するが、心の中(うち)では十分に馳走したので、喜んで食ふであらうと予期してゐる。西洋では、何もいはずに馳走をする。若しいふことはありとすれば、これは娘が料理したものである。これは母が焼いたパンである、お口に合ふか何うか試して戴きたいといふやうな挨拶の仕方である。日本人の挨拶は、礼儀上の虚言である即ち真実(まこと)からでた虚言である。
併し虚言も、方便である。他人に対する場合に、その人の子に関しては愚鈍なものを温順であると賞(ほ)め、乱暴なものを快活であると賞め、不注意なものを無邪気であると賞めるが、我が子に関しては之と反対に、温順なものを愚図であるといひ快活なものを乱暴であるといひ、無邪気なものを不注意だの無遠慮だのといつて他人の前に貶すのである。一は敬意を表するが為の虚言であつて、一は謙遜の念より来る虚言である。
公事に欠席せんとする時は、病気届を出す、その届に依つて表面上の調査をしたならば、日本の役人ほど病気の多い役人は、何れの国にもあるまいと思ふ。是等は形式上の虚言である。
俗に、媒介口(なかだちぐち)と称するものがある。これは媒介(なかだち)をするものが、一方の長所のみを述べて他の一方に通ずるのである。長所を述べることは虚言ではないが、短所を述べなくて短所なきものの如く思はせるのは一種の虚言であつて、是れが為(ため)に後日に至つて、間違を生ずることが屡々ある。
虚言も方便といふ教(おしへ)は、目的が善良なものであるならば、虚言をいつて差支がないといふのである。場合に依つては斯くの如きことなしとも限らぬが、普通の場合に於て方法としての虚言は咎めないといふやうな思想を抱くに至つては、道徳上極めて危険なことである。
日本にては、
2-12