三一  日本の強み   文学博士 芳賀矢一

 社会学上から上代の我が国家を見れば、いはゆる神祗政治であつた。即ち祭政一致の状態で、治者は神祗でも上(かみ)がひとしくカミであつた。政治は即ち祭祀で、ひとしくマツリゴトであつた。また一方から観れば宗族政治で、宗家が分家を支配したものであつた。公は即ち大家であつた。斯ういふことは、強ち我が国に限つたことではない。猶太の昔にも行はれたし、其の他、原始社会に幾らも類例のあることである。たゞそれが太古から現代まで持続して来て、立憲政治の今日までに残つてゐるといふことが甚だ珍しいのである。社会進化論の上に、一特例をなしたものといつて宜しい。支那の文明を吸収し、印度の教義を採用して、神儒仏合体で国家を治めるといふ聖徳太子の方針で今日までの変遷をなして来たにも拘らず、この太古の政体に伴ふ所のカミ、オホヤケに対する尊崇心、敬虔の心即ちマゴコロを今日まで少しも失はず、それで何等の闘争もなく、軋轢もなく、更に西洋の文物制度を入れて立憲政体を成し得たといふのが面白い所である。この昔ながらの國體で今日の世界の間に闊歩して行けるといふのが、我が国民の強みである。
 さて、この神祗政治、宗教政治の根本となつてゐるものは、いふまでもなく祖先崇拝であつて、祖先の功業を尊崇して之を畏敬し、之を仰慕する念がなければ、固よりこの様な政体の成立つ訳がない。神話の神々は、一方では自然現象を代表されると同時に、一方では祖先の大功業者たる人々と一致せられたのである。天照大神は日神(ひのかみ)、月読命(つきよみのみこと)は月神(つきのかみ)、素盞鳴命(すさのをのみこと)は恐らくは嵐神(あらしのかみ)であらうが、これと同時に我が民族の中で殊に勝れた尊むべき方々であつたに相違ない。思兼神(おもひかねのかみ)や、手力雄命(たちからをのみこと)や、天鈿命(あめのうづめのみこと)や、猿田彦神(さるたひこのかみ)や、皆それ/"\然(さ)ういふ方々であつたらうと思はれる。斯(か)ういふ祖先を祀つてお祭(まつり)をするといふことは、即ち共同の祖先を崇拝して、そこに一致団結の政治が行はれるといふことで、これが神祗政治、宗教政治の本体である。天照大神が八咫鏡を天孫に下されて、『之を視ること吾を見るが如くせよ』と仰せられたのは、即ち祖先崇拝といふことを明らかにせられたのである。即ち三種の神器を受伝へになつたお方が、祖先の正統、政治上の元首で、いはゆるカミで、またオホヤケであるのである。
 それであるから、皇位の継承には三種の神器が最も大事なものになつてゐて、寿永の役にもこれが大問題になり、南北朝にもこれが正閏の大問題を成してゐるのである。北畠親房卿(きやう)が神皇正統記(じんくわうしやうとうき)を書いたのも、これが為(ため)である。語を換へて言へば、我が國體上からいへば、何(ど)うしても祖先崇拝といふことを忘れてはならぬのである。
 祖先崇拝は支那にもあるが、支那の様な革命の国では、これが国家と結びついては何の意味をもなさぬ。ローマやギリシアにもあつたが、今は跡方もない。日本では、昔の神祗政治、宗教政治の政体が、今日まで連続して残つてゐるから、宗廟を尊(たふと)み、之を祀ることは大昔から今日(こんにち)まで政治(せいぢ)とは離れられぬ関係(くわんけい)をもつてゐる。神武天皇が御即位の式に、神籬(ひもろぎ)を鳥見山(とりみやま)に作つて祖宗をお祀(まつり)なされたのは、即ちこれが為である。今日でも毎年一月四日の御政始(ごせいぢ)には、『先奏伊勢神宮之事。』といふことがあるが、これは大宝令(たいはうりやう)時代からの定まりである。これを単に昔からの習慣とのみ見做すのは間違(まちがひ)で、今日でも国家的意味のあることである。宣戦講和の詔勅(せうちよく)を発し給ふときに、大廟にお告げになるのも、その意味からである。東郷大将が凱旋して大廟に参詣し、伊藤統監が韓国に赴任するに就いて参宮を果すといふのも、この理由によるのである。宮中に賢所(かしこどころ)があつて、海外へ出向く人、または帰朝した人などが、拝謁と同時に参拝を仰せ付けられるのも、この政体の上からの意味をもつてゐる。『日本は神国なり』と昔から人のいふのは、これが為である。神といつても後世に発達した各派の神道をいふのではない。全く宗教を離れての問題である。信仰の自由といふことは、何等の関係がない。苟くも日本の国土に生れて日本国の臣民たるものは、カミとオホヤケとに対するマゴコロから祖宗の霊を尊ぶといふ次第に外ならぬのである。太古からの國體に伴つたのである。
 朝廷に於て大廟を御崇敬になるばかりでなく、このことは深く国民の間にもしみわたつてゐる。一生の中に一度は大神宮に参らねばならぬとは、如何なる僻地を耕してゐる農民でも常に思つてゐることである。抜け参りといつて、殆ど無銭旅行をしてまでも、陸続として出かけるのである。各郷各村に神明の社(やしろ)があるのも、その御霊を分けた考へである。伊勢の大廟は、全国の家毎には必ず祭るのである。如何なる仏教のかたまり家(や)でも、お伊勢様は別物としてゐる。決してその信仰とは衝突せぬ。仏壇のある家にも、神棚はある。仏壇の中にも、先祖の位牌がある。これは決して神仏混淆の教(おしへ)が行はれた結果と見てはならぬ。幾ら仏教に熱心な人でも、皇室に対しては忠義心を失はないと同様に、大神宮に対しても同じく崇敬の念を失はないのである。
 仏教信者たる北畠親房卿でも、『日本は神国なり』といふのである。仏法の説教を主としたやうな謡曲にも、『日本は神国なり』と繰りかへすのである。本地垂迹などといふことは、仏教者がうまく我が國體を洞察して説き出したことで、これでなくては日本には行はれなかつたのである。猛烈な勢(いきおひ)を以て日本を席捲(せきくわん)した仏教でも我が国民性を圧服する訳には行かなかつた。已むを得ず、調和策を取つたのである。支那では、孔子、老子についで垂迹説を称へたと同じ筆法で、我が国の神様をこれに附会したのである。浄土真宗で他力の信心を説き、未来の極楽往生を説きながら、一方には頻りに王法を守れと説いたのは、能く我が国民性に投じて、真宗の盛大を成した一原因であらう。『仏は九善、王は十善』といふことが、何処までも国民の信じてゐる金言である。

(『国民性十論』に拠る)