二七武士道文学博士藤岡作太郎

 日本の武士道は、或点において自我の観念を没却し、一部の人士をして批難せしむるも、まづ大体に就いていへば、日本固有の美点を発揮し、国民精神の特長を示現せるものとして、之を世界に対して誇るべきものとなさざるべからず。
 上古の世、わが国民の間に特に発達せしは、尚武の気風なりき。物部、大伴の二氏は弓矢を執りて皇室を護衛するを世職とし、子孫に武事を伝へ習はしめ、心胆を練り、気節を磨かしめて、かりそめにも家名を墜すことなからしめんと教へたり。文明の空気は次第にその習性を菲薄ならしめ、平安朝の末期、京師に於ては、武人さへも剛毅の風を失ひたりき。
 東国の人士は、古来素樸にして、文化の度の低きと共に尚ほ久しくこの気性を墨守したり。その諺に、『額に矢は立つとも、背には矢は立てじ』といへるが如く、彼等は将士も部卒も敵に背を見することを卑怯の振舞とし、家名を墜さんことを恐れ、恥を思ふこと最も甚だし。主の難に死せざるはその身の恥なり、人の難を見てこれを外にするも亦その身の恥んり。その身の恥は親の恥、家の恥、民の恥となる。これを思ひては家の子郎党に至るまで、仮にも武士といふ名のつくものは、いかんぞ死を鴻毛より軽んじ、名を泰山より重んぜざらん。
 武家執政の世となりては、将軍執権を始め、大名、小名その一族師弟を励ますに、皆この意を以てしければ、武人の特性愈々発達して、こゝに所謂武士道がその体を具へたるを見る。特に禅宗等の仏教が新に興隆するに至りて、武人も多くその道に入り、人生を電光石火と観じて、濁世に何の名残が惜しからんと思へり。たゞ形骸は朽ちる

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