一 日本の研究             侯爵 大隈重信

 日本は、今や世界の疑問となつてゐる。日本人といふ国民その者も、亦世界の疑問となつてゐる。日本を研究することは、世界一般の認める所、学術、政治、軍事等あらゆる方面から、日本の研究日本人の研究が起つてゐる。近頃吾輩を訪問して来る外国人が、何れも同じ様な質問を発する。日本の国は如何にして斯かる強い優しい国になつたのかと、で日本の勃興する原因を解釈して、日本の國體である、日本の武士道である、儒教であるといふ様な種々(いろいろ)の議論がある。或は大和魂とか、また日本は西洋の文明を応用し武士的精神を以て之を利用したといふ様なこともある。何れも一部の真理はあるが、日本の真相を研究するに就いて正鵠を得ることは、なかなか容易ではないと思ふ。
 啻(ただ)に外国人同志に於て、研究するの困難なるのみならす、何様(どう)かすると。日本人自ら日本人を知らぬといふことがありはしないか。時として、斯かる疑念の起ることがあるのである。有名なる東京大学の某哲学者----進化論者として高名なる日本の某大学者が、嘗て学士会院に於て、基督教は、是れを科学的に解釈すると、日本の國體に適してないと言はれ居る。この学者の主張から推論して、何だか論理が、首尾貫通して居ないやうに思ふ。進化論が果して真理であるや否やの論は暫く措いて平素の理論が、論理的に一貫して居れば宜(い)いが、或度合までしか進化論を応用して居らぬのは、偶々其研究の足らぬことを表明するものである。日本人が、世界の人種と全く特別のものであることは、果して進化論の容るゝ所在るや否、吾輩甚だ、 かの高明なる学者の説に対して疑(うたがひ)の感を懐くのである。
 是れは単に一例たるに過ぎぬが、日本の代表的学者にして、尚ほ且つ自分の地位を自覚するに、困難して居ること、斯くの如くである。外国人が、日本の研究に腐心すること、決して偶然でないと信ずるのである。併(しかし)ながら、この日本の勃興は奇蹟でも何でもない、或論者は、天祐といふが、さうでない、決して偶然に勃興するものでない、原因無くして、結果の起るものでない。論より証拠、日本は僅々(きんきん)四五十年間に、非常な進歩を為したに相違ない。殆んど欧羅巴の覇権を占めて居つたかの強大なる露国は、日本の武カに破られた。是れが世界の疑問となつて居る。
 此の疑問を解釈するは、誰れの任か、自分のことは、自分以外に、解決することの出来るものでない、日本国は日本人が解釈する、日本人以外の者が、日本人を解釈することは不可能である。然らば如何にして、是れを解釈するか、曰く学術、学問より外に道は無いのである。
 戦勝国の日本は、忽焉として、一等国の伴伍(はんご)に列(れい)した、凡そ列国と覇を争ふに就ては戦闘に依つて勝利を博することも必要である。併しながら、兵器の戦ひは、一時的のものである。世界の平和と、世界の文明とに向つて永遠に生命を賦与するところの学術上の戦争に、打勝たなければ、真の文明国、真の一等国と言はれぬのである、日本は果して此域に達したか、遺憾ながら、未ださうは行かぬのである。見よ、学術の叢淵(さうえん)と目されて居る、我官学の東西、大学、コヽニ教鞭を執つて居る大学者達も、少くとも三年に一度、欧州の学園に赴かねば、学生に教ゆる材料が、欠乏するといふではないか、日本の前途は尚ほ遠い、戦いに勝つたのみでは、未だ世界に威張ることは出来ないのである。

(『大隈伯百話』に拠る)