増補四版はしがき



 本書は著者が明治三十五年より四十四年に至る十ケ年の間に、種々
の雑誌に寄せた短篇や、折々の学会で話した講演の筆記の中から二十
だけを集め、多少順序を正して列べたものである。先般来、品切と成つ
て居た所、諸方から頻りに新版を要求せられ、中には一部分を予約で引
き受けても宜しいから、書店に交渉して速かに新版を出して貰ひたい
などと、頗る熱心に申し越された方も有るので、今回更に之を刊行する
こととした。此の機会を利用して巻末に新に三篇を追加したが本文
の方は全部従来のまゝで、少しも増減した箇所は無い。
 初版の「はしがき」にも断はつて置いた通り、本書に述べてあることは
総べて著者が聊かながら自然と人生とを直接に観察して獲た所を忌
憚なく書いただけで、悉く著者一人の意見である。常々読む書物が、著
者の思想に間接の影響を及ぼしたことは争はれぬ事実であらうが、本
者を書き綴るに当つては、他人の考へは一切眼中に置かず、単に実際の
世の中と対座して居る心持に成って自身に直接に学び得たことを記
したに過ぎぬ。それ故世上に持て囃されて居る、所謂権威ある学説と
全く相反する様な考への多いのは止むを得ない。本書の第一版が初
めて世に出たとき、某氏は或る新聞紙上に詳しく之を紹介し、且つ在来
の倫理教育の学説に対する挑戦状であると附け加へた。また或る雑
誌記者は「先生の倫理、教育罵倒論を承りたい」と云うて著者に談話を求
めた。著者は素よりこれ等の学問に関しては全く無智である故、その
学説を攻撃しやうと云ふ了見などは毛頭なかつたが、物の考へ方が根
本から聊か違ふので、第三者からは其様に思はれたのかも知れぬ。な
ほ「所謂文明の弊の源」はドイツ国ライブツィッヒの「新聞紙に抄訳転載
せられ、「人類の将来」は米国セントルイスの一新聞紙に抄訳転載せられ
た事を、何れも其地の知人から送つて呉れた切り抜きによつて知つた
が、後者の方は随分丁寧な反駁文であつた。之から考へると、我らの説
く所は、海の内外を問はず一般の人々からは頗る受けの悪いものらし
いが、それは我らの知つたことではない。
 今回の新版には各篇ともに其の執筆の年月を終りに書き添へて置
いたが、之を比べて見ても分かる通り、最も古いものは今より約二十年
前に、最も新しいものでも已に満十年前に書いたものである。斯くの
如く、甚だ古いに拘らず、校正の際に一通り読んで見た所では、改正を要
する点は一つも発見せぬ。言を換へれば我らの物の考へ方は二十年
以前も今日も少しも変らず、我らの思想は其の間に一歩も進まなかつ
た訳に当る。学校の生徒には学業不進の廉を以て退学を命ぜられる
者が往々あることを思へば、我らの如き二十ケ年も思想が原の級に止
まつて居る人間は思想不進の廉を以て、当然言論界から隠退すべき筈
である。我らは斯く考へる故に、本書に追加した一文を最後として今
後は一切何も書かぬことに定めた。他人の新しい書物を読む毎に、ま
たは思ひがけぬ事件の突発する毎に、前説とは大分違ふた新説を発表
する世の学者達は、其の度ごとに自身の思想の一歩づつ進み行くこと
を自覚し得て、定めて愉快であらうと羨ましさに堪へぬが、久しく其の
経験を持たぬ我らは何と思うても致し方が無い。
 我らが今までに著した思想方面の書物は最初から一冊づつとして
書き綴つた「進化論講話」と「生物学講話」及び後に集めて一冊づつとした
「進化と人生」と「煩悶と自由」との四種だけである。今後は最早何も書か
ぬゆゑ、以上の四書が、我らの一生涯に著した全部に当る。昔から、是非
は棺を覆うて定まると云うて、人の一生は死んだ後でなければ判断を
下し難いが、今後決して続篇も出なければ、増補せられることも無いと
定まつた書物は最早過去の歴史に属するものとして、終結的の批評を
下されても少しも差支へは無い。我らも今後は著者としてではなく、
単に一人の傍観者として此の書物の成り行きを眺めて居るつもりで
ある。
 我らの著した書物の特徴は総べて其の独創的なることである。説
の当否は素より読者の判断に任すの外は無いが、何れにしても、他人の
考へを其のまゝに受け継いで述べた如き所は決して無い。即ち全篇
が悉く著者の頭脳から生じた産物であるから何人も未だ云はなかつ
た新な考へが到る所に説いてあるが斯様な独創的の思想は恰も時期
が到来したために樹木の梢に生じた果実の如きものである。之が後
に成長して各一本の樹木と成るや否やは全く其の偶然落ちた地面の
性質によつて定まる。同じ種子でも石の上に落ちたものは終に出芽
するに至らず、たゞ肥えた土の上に落ちたものだけが芽を生ずる如く
に、新な思想も、之を受け入れるだけの下地のある人間に出遇はなけれ
ば、其のまゝ凋び枯れるの外は無い。されば有力な人々が力を協せて
土地全面に石を敷き詰めた地方では、僅に敷石の隙間に落ちた種子だ
けが辛うじて生命を保ち得るに過ぎぬ。本書に述べた著者の思想の
如きは、全部枯れ失せても決して惜むべき程のものではないが、それが
将来根を張り、枝を拡げ得るに至るか否かは、偏に之に適する沃土の露
出した場所が有るか無いかによつて定まるであらう。

   大正十年四月
                著   者