2 産業革命の進展とその特質

     ろろノしゆう
 「旧来の障習を破り」「知識を世界に求む」る明治維新の革命原則は、産業上において最もよ
く適用され、我が資本主義的商品生産の発達は温室的に育成され、革命的に助長された。
 前述の官営模範工場の設立、その他政府の保護奨励策とあいまって、新生産技術による工場
制工業の離郎は、機械製糸業を始めとして綿糸紡績、網糸紡績、機械織布その他の繊推工業、
造船、車輌および諸機械製造等の重工業、セメント、蹴キ舵貯等の窯業、蹴や製紙、製革、
      しやhソよう


               ビール             ガ ス
ペイント、人造肥料等の化学工業、麦酒、精糖、製粉等の食料品工業、瓦斯、コークス、電気、
  せいれん
金属精煉等の特別工業より印刷その他の雑工業に至るまで、ほとんど全産業部門にわたった。
だが、これら諸工業の発達が、我が資本主義の発達にとって、ことに急速なる産業革命の過程
において占むる重要性は必ずしも同一ではなかった。これらがいずれも新たなる生産技術、新

223

 たなる生産様式の輸入によって発達した点においては同一であるが、しかし各工業それぞれの
 性質、我が在来の同種手工業との関係、他種生産業との依存関係ことに原料関係、その他経済
 組織一般ならびに政治組織ことに産業政策との関係、および先進資本主義国の諸工業との関聯
 における国内および国際市場関係等々幾多の条件に制約せられ、その発達の様式、順序および
 程度にそれぞれ異なるものがあったのは当然である。だが、だいたい次の如き概括的結論に要
 約する事ができると思う。
 各産業発達の生産様式について言うならば、だいたいにおいて、重工業ならびに軽工業中に
 ても綿糸紡績業、洋紙業、麦酒醸造業、精糖業、人造肥料業の如き従来我が国に手工業発達の
                                        よ
皆無または不完全なりしものは比較的大規模なる工場制生産に拠り、軽工業ことに従来我が国
 において手工業的発達を見たる製糸業、織物および染物業、陶磁器製造業、ならびに本来手工
業的生産行程の多き硝子、燐寸、煉瓦等の製造業の如きは比較的小規模なる資本主義的家内工
業制あるいは手工業的工場工業制−マニュファクチュアIに拠った。前者においては始め
 から相対的に−すなわち当該工業全体としての発達はともかくその工業の内部の各企業間の
対比においては−少数の企業に集中して発達した。従ってこれらの工業は比較的進んだ工場
制生産に拠りかつ大部分は会社組織特に株式会社組織によって経営された0ことにこれらの企



                           ーつら
 業の大部分は激烈なる外国商品との競争の裡に発達しなければならなかった事、しかも当時未
 だ関税自主権を有さなかった我が国としては関税障壁による保護は不十分であった事および当
 時既に世界資本主義は独占資本主義への過渡にあった事等の理由により、これらの工業の大部
 分は発達の初期から早くもカルテルあるいはトラスト等の独占形態を採った。例えは、早くも
                                                  こ よ・つ
 明治十三年十二月に製紙聯合会は価格協定、製紙法の改良および職工の使用ならびに雇傭等の
                               ぼうあつ
協定のため成立し、十五年十月には紡績聯合会が販路の拡張、輸入の防邁、価格協定、職工対策
                             はげ せいちゆう  ランプ・.ハーナI
等の共同目的のために成立し、二十三年頃には少数の盟外同業者を烈しく撃肘した。洋灯口金
業は外国品に対抗するため二十年に共同販売の機関を設けた。麦酒業は早くから日本、札幌、
大阪の三麦酒会社が全国を三分していたが、明治二十九年頃から外国麦酒の輸入を駆逐せるの
 みならずかえって輸出するに至ったので、その後三社間の協定破れがちなるに至りついに明治
三十九年三社を合併して大日本麦酒株式会社なる一大トラストを形成した。製麻業また発達の
       おうみ        しもつけ                     ていりつ
初めから近江麻糸紡績、下野製肺、および大阪麻糸の三社鼎立の婆であったが、三十六年つい
に合併して日本製麻株式会社なる全額の八割五分を占むる一大トラストを組織した。人造肥料
業および精糖業においても発達の初期から種々の協定が見られた。重工業は大部分最初から政
府および三井、三華、住友、藤田、古河等の少数財閥により独占的に経営せられていた事とそ

224

 の全般的発達は日露戦争後のいわゆる第二の産業革命期まで残されたという事とのために、第
               *          ひ
一次の軽工業中心の産業革命期には余り一般の注意を惹くに至らなかったと言い得る。
 しかるにこれに反して、後者は従来手工業として相当発達せる工業が新たなる技術の採用と
社会制度の変革による需要の変化等により必然的に生産様式の変化を喚起したもの、ならびに
明治維新の諸変革により生産手段と生活資料とから一時に分離せられたる無熟練の労働者の搾
取を目的として新たに発達せるもの等であって、これらにも機械の利用は行われたが、しかし
未だ手工的部分が生産過程の主要なる部分を占め、従って各企業の経営の規模は一般に小さく、
                                  スエツチ/〆・システム*
しかも明治推新後急速なる発展を遂げた商業資本の支配下にいわゆる膏血制度によって生産
せられた。特にこの種の工業は、前者中の軽工業とともに、明治時代なかんずく日露戦争前に
おける我が工業生産の主要なる部分をなしたのであるが、ことに発達の順序から言うも、大規
模経営による諸外国との競争の激しき工場制生産が移植後日なお浅く未だ萌芽的発達状態にあ
る時、早くも我が工業生産、なかんずく輸出工業生産の主要部分を占めた点において注目を要
するものがある。
 明治絶新の革命とともに政治上、社会上、経済上の諸制度が一時に変革せられた結果、従来
の手工業的生産は、新たなる技術の輸入を待つまでもなく、その生産様式に変化を生じた。す
なわち封建的手工業は資本主義的家内工業に転化した。かかる変化は製糸業、織物染色業、陶
磁器製造業、その他各種工芸品製造等に見られた所であって、それらは封建的保護の撤廃や社
会制度の変化による需要の変化または喪失等のために新たなる需要の変化に応じてことに外国
市場の需要に応じて資本主義的商品生産に転化するの必要に迫られたのであったが、この転化
はなかんずく小農の土地からの分離による相対的過剰人口の収容によって促進された。これら
の封建的手工業の商業資本主義的家内工業への転化はまた新たなる生産技術および生産方法の
                            ぎ ぐりき
輸入によって革命的に助長せられた。製糸業における従来の塵繰器に対する新機械の採用、織
物業におけるジャカード、バッタン等の織機の輸入、染色業におけるアニリン染料次いでアリ
ザリン染料の使用、陶磁器その他窯業における洋式窯の採用および顔料の輸入、漆器における
色漆の発明等による生産力および生産方法の変化はかなり祀著なるものがあった。これらの変
化は主として商業資本1ことにかなりの外国の貿易商の資本をも含む − によって家内工業
的に遂行せられたが、機械製糸業、機繊業、窯業等においてはさらに産業資本による工場制工
業にまで転化したものも多かった。例えば生糸製糸工場数について次の如き統計を引用するこ
とができる。

225

  工  場    明治二十六年  明治二十九年
十人繰竺…醐ニ、いg 一、…g
五十人繰望…細 三粥  五m巾
百人繰以上…醐  二一い ニ…代
書人繰望…細 …‥山  試
 合 計…醐 二、約c】 ニ、紙f
     動 力 別         明治二十六年     明治二十九年
 人    力  使用工場    「雲九       九九日
 水    力  同      一、;一     「○宅
 蒸 気 カ.同        五ニュ       入二九
  合  計           三、ニ≡     ニ、九〇〇
 右両統計によって、日清戦争前後における製糸業の機械化の程度の→鮮を推知する事ができ
 るであろう。だが、なお当時にあっては商業資本家的家内工業が主要部分を占めていたと言い
                                    はなむしろ ばつ
得る。上述の諸工業のほか、それらとほぼ同様な生産様式の発展を遂げたものに、花産業、麦
 かんさなだ      きようぎさなだ                                        ガラス
梓真田業および経木真田業等欧米の需要に促されて新たに急速なる発達を見たるもの、硝子、
鰍呼蹴髄等の製造業の如く欧米の生産技術および生産様式の採用によるもの等があった0す
                                 スエッチング・システム
ベてこれらの諸工業の革命的発達の過程における通弊は、いわゆる膏血制度をもって呼ばる
るが如き最も劣悪なる労働条件の下における労働者なかんずく婦人および幼年労働者の酷使と
     らんぞう
商品の粗製濫造とであるが、我が国の産業革命時には特に甚だしきものがあった。粗製濫造の
                                      きようせい
弊は同業組合準則(明治十七年)その他の検査または監督の制度によりある程度まで匡正され得
                          ひ       とど
たが、労働者の虐使は自由党員の一小部分の注意を惹いたくらいに止まりなんらの改善策も講
ぜられなかった。
 これを要するに、明治維新とともに生産様式の変革1産業革命1が最も早く行われたの
は、製糸業、繊物染色業、陶磁器製造業の如き従来既に手工業として相当の発達をなせる産業、
および、次いでこれらとほぼ同性質の花蓬、漆器、麦揮および経木真田、および燐寸等の製造

226

工業にして、これらはいずれも多く外国市場の新たなる需要の抑郎によって変革と発達とを遂
 げたのである。
 これに反して、むしろ外国商品と国内市場において競争関係にある綿糸紡績業、綿織物業、
                                 ランプ・バーナ1
麻糸紡績および繊布業、製紙業、精糖業、麦酒醸造業、人造肥料業、洋灯口金業の如き全然新
たなる生産技術と生産様式との輸入移植によった産業の発達は、だいたいにおいて、政治上、
社会上の諸変革が一応完了し、財政上の整理統一が進行し、新たなる生産様式1近世資本主
義的生産様式!に対応すべき金融および運輸交通の機関の発達普及がほぼその緒についた後
   せんえん                      しやはん
まで遷延せられざるを得なかった。そして這般の準備は、既に前節に述べたるが如く、明治革
命の直後より政府の保護奨励と民間の協力とによって著々進められていたのであって、明治十
八、九年の交においてほぼその緒についたが、多年の懸案であった不換紙幣の整理がだいたい
完了して十九竺月から銀貨軒蹴が開始され金利が引き下げられたのを機会に、新生産業は油
                                              血ノ・つ
舵として成長を開始し、ここに我が生産様式は根本的に−真に革命的にl変革せられたの
である。そしてこの発展の中心となったものは、諸外国の産業革命において見らるるが如く、
我が国においても、綿糸紡績業であった。綿糸紡績工場が始めて設立されたのは、前述の如く、
         じ らい
文久三年であるが、爾来明治十年頃まではさしたる発達なく、紡績工場はわずか三方所、錘数

 は八千二百余本を数え、産額は約二十万円ばかりであった。しかも綿糸および綿織物の輸入は
                  、                          ぽうあつ
 約一千万円に上り、輸入品の大部分を占めた。そこでその輸入を防適して貿易の逆調を改むる
 ため、十三年来、紡績機械を輸入して、あるいは官営模範工場を設立し、あるいは民間に貸与
 し、さらに資金と保護とを与えたので十五年頃から次第に発達し、十八年頃から躍進的発展を
 遂ぐるに至った。
  年 次   工場数   職工数   甑酎帥  綿糸生産高
               箇所         人         本         文
 明治十五年    ニュ            ニ入、云四
 同 二 十年     完     ニ、三三〇     害、ニ喜  一、宗五、〇七三
 岡 二十五年     三九     二五、ニ三二    三入五、三−四   九、九宅、ニ宍
 同 三十年     富     四国、九九二    芙入、三二八   美、一三四、一云
 同 三十五年     入○     セ「入入入   コ萱、〓入   天、望入、九署

 かくの如き綿糸紡績業の規模の拡大と生産高の増加とは、やがて国内の需要を満たして余り

300

Y ぁるに至らしめた。
 明弊h綿糸輸銚 湖 綿湖 祁銚
  同 三十二年  二八、至】   ≡六三   三、喜   入、真
  岡 三十六年  至、≡    芙大   七、≡   セ、蔓

 明治二十三年始めて二千三百六十四円の輸出を見たる綿糸は、爾来跳躍的にその輸出額を増
大して、日漕戦争後においては輸出総額の一割前後を占め、半製品たる生糸を除くときは我が
国最重要なる輸出品となった。他方綿糸の輸入は加速度的に激減して今や極めて少額の高級品
の極めて重要ならざる額を占むるにすぎなくなった0かくて我が綿糸紡績業は日露戦前にあっ
て、相対的には、既にその生産技術において、その工場組織において、その経営の規模におい
て、その生産額において、はたまたその国際貿易上に占める地位において、我が国における最
も代表的な資本主義的生産業たるに至ったのである0
 これを要するに、資本主義商品生産発達の、ことに産業資本家的商品生産発達の最重要なる
指標の一たる綿糸紡績業について見る限り、我が資本主義的生産は既に日清戦争前において本
質的変化lすなわち産業革命!を経験し、日清戦争後の熱病的企卦驚によって数量的に
激増し、かくてその発展の性質おょび限度は、相対的には、当時既に決定せられたことを知る
のである0各工業について一々分析する舵を避けねはならぬが、その他の大規模軽工業につい
ても、各工業それぞれの特質および諸条件を考慮に入るるならば、綿糸紡績業とほぼ類似の発
展傾向を見出し得るのである。
 以上略説せる所の藷考察を総括するならば、明治維新の革命によって開始せられたる我が生
産様式の変革!産業革命1は、だいたいにおいて日清戦争前後においてほぼ完了したもの
と青い得る0もちろんかく言う事は決してその後において我が産業上の発展なかんずく生産様
                    ごう
式における変化がなかったという事を竜も意味しない。後に詳述する如く、日露戦争後および
世界大戦中において我が産業はさらに第二の1しかり第二の一発展変化を遂げている。だ
が、かれとこれとの間には明確な分界線が設けられなければならぬ。その聞にはある本質的な
相違が横たわるのである0第一の生産様式の変化発展を、マンチェスター的の1軽工業中心
の1蒸汽カの産業革命とも言うならば、第二のは、バーミンガム的の−重工業中心の1
電力の産業革命とも言わるべきであろう0もちろん、我が国の如き後進資本主義国はおいては、

301

m すなわち先進資本主義国が既に第一の変化を完了して第二の発展段階に進出せる時においてこ
 れら先進国の影響の下にその生産様式を変革せる国においては、両段階は常に必ずしも時間的
                     亡うさく
 に明確なる順序を有する事なく、互いに交錯しており、時にかえって逆転している工業さえ見
 出し得る。そして、ここに我が資本主義発達の一特殊性とも言わるべきものを認め得るのであ
                             かつき
 るが、それにもかかわらず、両発展段階はだいたい日露戦争を劃期としていると言うことがで
 きる。日清戦争前後、なかんずく戦前における我が産業革命の − 工業の機械化の − 進展が
 いかに急激であったかを示すために明治三十年を一〇〇とする人力(職工数)と原動力との増加
 率を、それから日露戦争の前と後における我が産業革命の性質の相違を示す一指標として同じ
 く三十年を一〇〇とする原動力と石炭消費高との増加率を挙ぐれば次の如くである。


           明治十九年   同二十二年    同三十年   同三十五年    大正元年
   人力(職工数)  ニ六     喜    岩○    〓四    一九七
   原 動 力   セ     ≡     岩○     ;九    コ一三一
   石炭消費高               岩〇     二望     三完

 職工数は、十九年より二十二年までの三方年間に倍加し、さらに二十二年より三十年に至る
八方年間に倍加している。しかるに三十年より三十五年に至る五カ年問にはわずか一割四分を、
増加し、三十五年より大正元年に至る十カ年間に七割二分を増加しているにすぎない。これに
よって見るも明治三十年前、なかんずく日清戦争前の五、六年間にいかに我が軽工業 − 労働
力を比較的多く要する − の発達が迅速であったかを想見し得る。しかもそれらの大部分が工
場制工業の発達であった事は、職工数の増加率に比して動力の増加率が常に大なる事によって
明らかである。ことに動力の増加率は三十五年より大正元年の問に激増しているが、しかもそ
の増加は従来のそれと著しく異なるものあるは石炭消費高の増加率と対比する者の容易に観取
し得る所であろう。三十年より三十五年に至る間においては石炭消費高の増加率の方が動力の
それよりも大であったのが、三十五年より大正元年の間において動力の増加率が石炭消費高の
   ぎんぜん
それを斬然抜いているのは、主として電力ことに水力電気の動力化せるためである。しかも動
力の増加に対して人力すなわち職工数の増加が遥かに及ばぬものあるは、この間における工業
 の機械化が主として重工業中心に行わるる傾向を有するに至ったこととようやく資本の有機的
構成が高度化せることとを意味する。だが、この傾向が明確な現象形態を採ったのは、もちろ
ん、世界大戦時に入ってからの事であることは、後学に詳述する如くである。

302

 前節においては主として我が国へ新生塵技術、新経済組織が輸入移植せられた過程を、そし
 て本節においてはその結果我が産業上に起れる本質的変革をそれぞれ考察した。そこでさらに
 進んでかかる生産技術、生産様式の上に起れる変化が、我が全資本主義的経済組織の上におい
 ていかなる地位を占め、いかなる作用を営んだかを極めて概括的に考察して見よう。だが、我
 が資本主義経済組織およびその各要素を、全面的にかつ交互的に展開することは、たとえ概括
 的にでも、紙数の許さぬ所であるから、ここにはただ、資本主義経済の発達程度を比較的よく
 示す一指標たる会社資本について分析を試みるに止めよう。



               明治十七年末       同二十二年末       同二十六年末
              社 数 払込資本金   社 数 払込資本金   社 数 払込資本金
                        千円            千円            千円
   農 業 会 社    犬一  「二言    望○  入、〓入   一七一 二、五竺
   工 業 会 社    三宝  五、○宍   二、ニ責  芸、一九九  ニ、九完  七入、ニ天
   運 輸 会社   ニ.〇四  大、入空    二九九 究、入五九   一九五  九〇、言○
   商 事 会 社    登四  入、九入セ   「宕九  三五、望入    入買  天、七二田
   銀    行   「〇九七  入セ、;O r〇四九 九四、○苫    七宝  九四、五三
  取 引 所    云  「宗五   一入  「;五    二四  「六三五
  ほか所属不明    〓四  四、七空ハ
   合  計   ニ、至九 〓五、ニ二三   五、二言 二天、七会   四、入六〇 喜六、〇三

              明治二十七年末      同三十二年末       同三十六年末
              社 数 払込資本金   社 数 払込資本金   社 数 払込資本金
                       千円            千円            千円
  農 業 会 社    〓入  「天入   一芸 ニ、萱一一   二買  三、完大
  工 業 会社    七天  田四、宍九  ニ、ニ重 言セ、七入三  ニ、四竺 一芸、三買
  運 輸 会 社   ニ;  入ニ、芙○    宍三 完入、蒜六   七宝 二竺、三入二
  商 事 会 社   「○突  二五、セ三  ニ、大真  空、九三   三、宍○  芙、九九四
  銀    行    八雲 ;一、三宝  一、九望 二九「宍ニ ニ、ニ宝 三吉、宍五
   合  計    三、冥七 二重、望○   セ、至一 宍三、入云   九、二軍 入入セ、犬宗
   (備考=右二十七年末の数字が同表二十六年末のに比して減少せるは、商法制定の結果、
   従来個人的商社および工場にして漠然会社形態を採っていたのが除かれたからである。)


         すうせい
 右会社資本増加の趨勢を一層明確ならしむるために十七年および二十七年をそれぞれ一〇〇

303

 とする増加率を算出すると次の如くである。


            十七年末 二十二年末 二十六年末 二十七年末 三十二年末 三十六年末
  農業会社   喜  登七  云五・ 喜 一九四  二宍
  工業会社   喜  コ喜  ≡喜  喜  三≡  三人二
  運輸会社   喜 一、≡三  コ喜  喜  喜  ≡ハ
  商事会社   喜  喜  望○  喜  喜  二九九
  銀   行   喜  衰  岩入  喜  二入七  宗九
  合 計    喜  蔓  二歪  喜  二宅  芸セ

                                      ていぞう
 明治十七年より三十六年に至る二十カ年間において、全会社資本は常に加速度的に逓増して
いる。そして、各業別に見るならば、最も増加率の顕著なるものは、工業会社および運輸会社
等の新生産業である。これによっても我が資本主義的生産業の発達−産業革命の進展−が
               しかのみならず
いかに迅速であったかを想見し得る0加之その発展がかくも顕著に会社資本なかんずく株
式会社資本の上に現われているという事は、我が国の如き後進資本主義国の一時徴であって、
 これ英国の如き先進資本主義国の産業革命が、個人資本の徐々たる集積とあいまって、ほぼ前
後一世紀にわたる「緩慢なる革命」であったのに対し、我が国の産業革命がl真に革命的に
 −わずか十数年間またはヨリ短期間に遂行し得られたゆえんである。ことに工業会社、運
 輸会社始め銀行および商事会社等の株式払込みまたは持分出資の・−なかんずく株式払込みの
 − 資金は、永き封建制度の下に徐々と町人豪農の手に集積せられた貨幣によったというより
 も、明治継新の変革なかんずく土地改革を枢軸としてなされた独立生産者からの −生産手
 段と生活資料との!収奪に基礎を有する公債制度と租税制度とそして保獲制度とを通じて人
          ねんしゆつ
 為的−強制的−に捻出せられた所によったものが多かった。公債の発行なかんずく明治九
 年禄制全廃のために一億七千余万円の公債証書を発行せる事が、封建諸侯および少数の上級武
 士をして直ちに近世的資本家階級に転化せしめたことは既に述べた所であるが、その転化の過
 程は、単に彼らをして公債利子の収得者たらしめたのみならず、最初は銀行の次いで運輸会社
 および工業会社等の株主または出資看たらしめた事によって遂行せられたのであった。既に述
 べたるが如く、我が国の産業革命−詳しくはだいたい軽工業中心の産業革命1が最も急速
 に進展したのは明治十五、六年より日清戦争前までで、戦後においては早くも一定の発展傾向
 が安定したとなせる論拠は、会社資本の増加および相互比率の変化においてもこれを見出し得

304

  しやはん
 る。這般の関係を一層明確ならしむるために各種会社資本の百分比の変化を示せば次の如くで
 ある。



              十七年末 二十二年末 二十六年末 二十七年末 三十二年末 三十六年末
  農業 会社    TO  ニ・九   〇・セ   〇・四   〇・三   〇三
  工業会社    四・三  二五エ ニ五・五  寺内  二一・六  ;T一
  運輸会社    五・九  二五・〇  ニ九・五  三ニ・三  二入・九  二九・五
  商 事会社    七・入  三・セ  ニラ木  与○   大・四   人・大
  銀   行    蓋・犬  三三・セ  三D・入  三九・大  望・六  竺・ニ
   合 計   一票TO  岩〇・〇  岩?○  岩?○  喜・〇  喜・〇
   (備考=二十六年までの合計が正確に一〇〇にならぬのは取引所その他所属不明会社を除
   いたからである。)


 明治十七年末においては、会社資本の七割五分は銀行業によって占められ、工業会社資本は
四分三度、運輸会社資本は五分九厘にすぎなかった。ところが去年後の二十二年末にはそれぞ
れ約十四倍および十倍の激増をなし、いずれも全払込み資本の二割五分すなわち四分の一を占
むるに至った。しかるに銀行資本にはこの間大なる増加がなかりしため、その会社払込み総資
本に対する割△頂かえって四分の三から三分の一に激減した。次いで二十六年末に至る四方年
間においては、二十三年末の経済恐慌−真の意味における我が国最初の恐慌1のために工
業会社資本増加の勢いは多少鈍ったが、販路拡張の必要は運輸会社資本において最も大なる増
加を見た。そして二十六年末における会社資本総額中二割五分余を占めるエ(鉱)業会社資本の
五分の四は軽工業会社資本であり、なおそのちょうど半分すなわち工業会社資本全体の五分の
二は繊推工業会社資本であり、さらにその過半は綿糸紡績会社資本であった0そしてまた二割
九分余を占める運輸会社資本の大部分すなわち二割二分余は鉄道および軌道資本であった0こ
れらの事実は我が資本主義が日漕戦争前までに到達した地位を明確に反映しているものと言い
得る。
 日清戦争後の経済の発展は真に目覚しきものがあり、会社資本の増加も全体としてさらに加
速度的となった。だが、その発展の内容ことにその相互関係においては、ようやく日清戦争前
と異なるものあるに至った。これを各種会社資本の増進率に見るに、だいたい平均して均衡を
保つに至った。すなわち一方日清戦争前において一時発達が停滞した銀行業が二十六年におけ