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2 明治革命の意義および特殊性
こうはん
明治維新は、明らかに政治革命であるとともに、また広汎にして徹底せる社会革命であった。
それは、決して一般に理解せられるが如く、単なる王政復古ではなくして、資本家と資本家的
つ
地主とを支配者たる地位に即かしむるための強力的社会変革であった。
既に究明したるが如く、封建制度に内在せる三個の本質的矛盾はその発展の過程において、
っいにそれぞれ封建武士ことに非職あるいは薄禄の士、農民、および町人の間に反封建的意識
を醸成するに至ったが、なかんずく下級武士のそれは、最も拓著なる意識革命にまで発展し、
ふんきゆう
先進資本主義国との外交的紛糾を機会に、本質的には反動的ではあるが反封建的意識において
は革命的なるもう一つの不平− すなわち王朝時代の遺物たる公家一派の不平 − を利用する
ことによって、ついに明治革命の物質的権力たるに至った。明治維新が、反動的なる公家と、
同様に本質的には封建意識を脱却し得ない武家との意識的協力によって遂行せられたというこ
とは、後述すべき他のもう一つの理由とあいまって、我が政治的組織が永く今日に至るまで反
動的専制的絶対的性質を揚棄し得ないゆえんである。しかしながら、この事は決して我が資本
主義経済の発達を阻害しなかったばかりでなく、かえってその専制的政治権力は、封建的生産
方法の資本主義的生産方法への転化過程を温室的に助長し、かつその推移を促進することによ
って、我が国をして資本主義国としての驚くべき飛躍的発展を可能にした。だが、この事は、
さんだつ
独立生産者から生産手段と生活資料とを包括的に簑奪して、これを余剰価値搾取の手段たる資
本に転化することによってのみ容易にせられたことはもちろんである。
明治絶新とともに、地主および資本家が新たなる支配者として登場し得んがための全転化の
契機となったものは、封建的身分の制度の廃止と私有権の完全なる立法的確認とであった。も
ちろん、この両者は不可分的に結合されており、そしてその目的とする所は、いずれも、資本
主義的搾取の基礎たる、独立の生産者から生産手段および生活資料を引き離す過程をば − 従
来既に徐々と行われつつあった所を − 革命的に、強制的に遂行するにあった。
封建制度の下にあっては、単に政治上、社会上においてのみならず、経済上においてもまた
厳格なる封建的身分の制度が強制力を有していた。否、既に論及したるが如く、土地の封建的
占有に基づく農業生産と組合的(封建的)手工業生産とこそは、実に、封建的身分制度存続の物
質的基礎であったのである。鎌倉時代、室町時代より江戸時代を通じて、封建制度の下におけ
る農工生産力の発達は −極めて徐々たるものであり、しはしは停滞的であったとはいえ−
21a
次第に封建的財産関係をいくぶん現実に変更しっつあったとともに、やがて革命的変革を余儀
なからしむべき物質的諸条件を醸成しっつあったのであるが、封建的身分関係一般もまた、こ
れに対応して、現実にも既にいくぶん変更せられつつあったとともに、また新たなる財産関係
の自由なる発展の道を開くべく早晩革命的撤廃を必要とすべき事情に迫られつつあったのであ
る。
よしのぷ
慶応三年(一八六七年)十月、徳川慶喜の「大政奉還」に次いで、同年十二月にはいわゆる
「王政復古の大号令」が発せられ、さらに翌明治元年三月には「五分条の御誓文」なるものが
宣せられて、ここに始めて、政治権力の移動と新たなる政治原則の宣布とが遂行せられ、いわ
ゆる王政復古と四民平等の原則とが確立せらるるに至ったのである。特に王政復古が令され、
四民平等が宣せられたという事は、既に論及したるが如く、明治推新が、いわゆる士農工商問
うんじよう
に意識的無意識的に醒醸せられつつあった反封建的情勢と公家の反動的不平との結果であった
事に徹して当然のことであったと言い得る。しかも集権的専制的なる封建制度の下に与えられ
じようらん
た集権的統一を − できるだけ擾乱することなしに − 新たなる国民的統一にまで発展転化せ
スローガン
しめんがために、いわゆる「王政復古の大号令」の下に封建的伝統的身分関係そのものを破壊
したことは、蕃をもって寺を制する意味において極めて策の得たるものであった。だが、そこ
には、それだけに恐るべき危険も蔵されていたことを知らねばならぬ。制せらるべき寿が既に
久しく自己分解を遂げ弱められていたがために、制すべき睾に生じた相対的過剰は、ついに四
しんしよく
民平等の原則そのものまでを侵蝕してしまったのである。
かくて、我が国においては、いわゆる四民平等の原則も自由民権の叫びも、未だ十分に封建
けいがい
的身分制度の形骸そのものを一掃することはできなかった。従って、身分関係の外被が撤去せ
らるる事によって、始めてそれ自体の形相において暴露せらるべき階級関係は永く神秘の雲に
とぎ
鎖されざるを得なかったのである。そしてこの神秘の裏こそは、我が被支配階級の階級意識へ
かくせい
の覚醒をば − その客観的条件の成熟にもかかわらず − 永く今日に至るまで阻書し、従って
支配階級の搾取と弾圧と暴虐とを容易ならしめつつあるのである。
たど
一応、明治の社会的変革の跡を辿って見よう。明治二年(一八六九年)一月、薩・長・土・肥
の四藩が達者して版籍奉還を上香したのを始めとして、同年六月までに全国の封土が奉還され
くぎよ−つ
たが、その間諸侯公卿等の称号が廃されて諸侯と堂上公卿とは一律に華族と称せらるることと
じ よ とな
なり、そして爾余の武家および公家は士族または卒と称えられることになった(もっとも卒は
五年一月以降廃せられ一部は士族に一部は平民に編入された)。他方、明治三年九月には平民
みようじ え た
にも苗字を許し、さらに四年八月には犠多、非人の称を廃して平民としたので、.身分上の族称
21b
としては華族、士族、平民の三級となった。だが、次いで行われた変革、なかんずく明治六年
一月の徴兵令の施行によって、「士族なる者の官職一時に解散しまた三民と異なる事」なきに
かんりん あいかな
至った。「しかしてその禄はすなわち依然これを官廉に仰ぐは名実相協わざる」に至ったので、
明治九年(一八七六年)八月、ついに家禄(および賞典禄)の制度を全廃して、その代りに一時に
一億七千余万円の公債証書を給与した。ここにおいて、封建的特権は実質的に廃せられ、明治
革命の実質がほぼ備わるに至ったのであるが、家禄の制度を廃止するに当って特に公債証書を
もって一時的代償を給与したということは特別の考察を必要とするであろう。
公債制度の確立は、封建制度の下においては極めて不安定な状態にあった貨幣に対して一の
ふ よ
生産性を人為的立法的に賦与し、これを余剰価値搾取の手段たる資本に転化せしめることによ
って、生産手段および生活資料の資本化の過程!すなわちこれらを直接の生産者から引き離
し彼らを賃銀奴隷として搾取する過程−を人為的に助長するものであるが、公債が演ずるこ
の魔術は我が国の場合においては特に鮮やかなるものがあった。既に明治六年三月、公債証書
発行条令を定めて、弘化元年(一八四四年)以降の各藩の債務を整理してその代りに公債を発行
し、これを債権者たる富家に与えて、その私有財産権を確認するとともに貨幣を資本化せしめ
たのであったが、今また一億七千万円の公債は封建的搾取階級を資本家的搾取階級たらしむベ
く発行せられたのである。もちろんその際遊閑的利子生活者たり得たのは華族と極めて少数の
士族だけであって、約四十万戸(約二百万人)の士族の大部分は小生産者または無資産貨銀労働
者および小作人に転化せざるを得なかった事は、華族の二戸一年平均の収入が約一万円に達し
た時、士族のそれはわずか三、四十円にすぎなかったことに見ても明らかである。かくて諸侯
および堂上公卿よりなる四百八十六家の華族なるものは、もはや単なを封建的残存勢力でも王
朝時代の遺物でもなくして、全くの近性的貨幣資本家になりきってしまっていたことを知らな
はんペい
けれはならぬ。皇室の藩屏をもって任じている我が国の華族のこの特質を明確に認識しておく
事は、我が国における二院制度の本質および意義、ならびに議会開設以来今日に至るまでの貴
‥衆両院の関係なかんずく金融寡頭政治を特徴とする帝国主義的発展段階に逢せる最近において
貴族院 − 特に旧領主の華族と多額納税議員とよりなる研究会の少数幹部が政機に対する寡頭
かぎ
的支配権を把握するに至れる理由等々を理解すべき解決の鍵を獲ることになるであろう。
封建的身分関係の廃止と関聯して施行せられた公債制度が、資本家的搾取の基礎たる資本の
こうかん
原始蓄積の有力なる一横梓となったことは上述の如くであるが、この公債制度を始めその他す
べて生産者から生産手段および生活資料を引き離してこれを資本に転化した所の全過程の基礎
をなした所のものは、実に、土地の封建的領有の廃止と資本家的私有権の確認とであった。
21c
慶応三年十二月、「王政復古の大号令」を発するに際して、「拝領地ならびに社寺地等除地の
ほか、村々の地面はもとよりすべて百姓持ちの地たるべし、しかる上は身分違いの面々にて買
みようだい
い取り候節は、必ず名代差し出し村内の諸役を差し支えなく相勤めさせ申すべき事」を布告し
て、土地に対する私有権を認め、従って土地の売買も一定の制限の下に消極的にこれを黙認し
せい
た。しかるに、版籍奉還、廃藩置県等を経て、ようやく「政権一に朝廷に帰し、凡百の政務斉
いつ
〓するや、「治国の枢要なる税法における均一の法則を設けざるべからず」とし、そのために
えいたい こ けん そうがく
は、「先ずもって地所永代売買を許し各所持地の活券を改め、全国地代金の惣額を点検ししか
る後さらに簡易の収税法を設く」(土地売買解禁の理由書)べしとなし、ここにおいて、明治五年
二月十五日に至って、寛永年間以来の地所永代売買の禁制を解き、「自今四民とも売買いたし
所持候儀差し許し候事」になり、かくて土地の私有権とその売買の自由とは完全に立法的確認
しかのみならず
を得るに至った。加 之、明治八年五月には、さらに従来の限田法すなわち土地の分割および
兼併の制限を解き、かつ土地を自由に抵当に入れまたは小作地となすことを許したので、土地
の所有は完全に資本主義的搾取の手段と化し、しかもそれは資本一般と等しく次第に少数者の
所有に兼併せらるるに至ったのである。そして土地の資本化とその兼併集中との勢いを助長し
と ひ
たるは、貨幣経済の急速なる発達、ことに都邸の間における不均衡なる発達と並んで、明治六
年七月の地租改正令をもって、従来収穫高に応じて定めたる地租額を一定して年々同一の額を
納めしめたる事および地租の米納を改めて金納としたる事であった0
租税制度の確立は、前述したる資本の原始蓄積の一積梓たる公債制度および同じく手工業者
および小農民を収奪して大資本家および大地主を強大ならしむるための保護制度の支柱たるも
のであるが、維新の土地制度の改革がまたこれらの目的と密接にかつ意識的に結合していたこ
とは、大蔵省からポ桝叡に提出した土地売買解禁の理由書その他において明らかに観取し得る
所である。かくていかに多くの中小農民が土地を失い単なる小作人となったか、そして彼らの
生活はいかに不安なるものであったかは当時のあらゆる文献に徹して明らかである0ただ統計
しやはん
的数字の示し得るものが全く欠如しており、間接に這般の消息を示し得る数字も明治十四年前
には全く見出し得ない。だが、明治十四年の土地売却口数が九十余万ロに上り、その抵当差入
れ口数が約二百万ロ、その借金額約一億四千万円に上り、しかも一口の借金額は平均七十一円
六十銭であったということが何よりも雄弁に小農の困窮とその小作農化を示しているではない
か。しかもここに注意すべきは、明治十三、四の両年は前後十数年間になく穀物価格が騰貴し
こ ふく
農民の最も鼓腹した年であったのである。さらにこれらの傾向を示すものとして「府県会譲員
統計表」を挙げることができる。それによれは明治十七年より十九年に至る三方串間において、
21d
地租額五円以上十円以下を納むる選挙権者の数は、八四六、二五八人より七二二、〇七二人へ一
二四、一八六人すなわち席数の七分の一を減じ、十円以上を納むる選挙権および被選挙権所有
者の数は、八七一、七六二人より八〇九、八八〇人へ六一、八八二人すなわち席数の十四分の一
を減じている。しかも地租総額はこの間に減少していないのであるから、一方に失っただけ他
方に集中せられたわけである。のみならず、この数字は地租五円以上を納むる者すなわち地価
二百円以上の土地を有する比較的富裕なる農民についてであるが、それ以下の小農については
さらに甚だしきものがあったであろう。
かくの如き中小農の土地喪失と大地主の土地兼併の結果は、必然的に小作農の増大となった
ことはもちろんである。だが、明治維新の変革の直接の影響によって小作農と化した者の数が
いくばく よ
幾何に達したかは明治二十年以前には統計の拠るべきものがないので知り得ない。ただ明治十
六年に十八県の耕地に関し、十七年には十六県の耕地に関する調査があるが、これらをそれぞ
れ二十年度のこれらの諸県の分と対比して見るに、それら諸県の耕地総反別に対する小作地反
別の割合は、前者においては三四・二〇%より三八・〇九%へ、後者においては三九・八〇%よ
り四二・四〇%へいずれも増大している。これら両者の各一年の小作地増加率はいずれも約〇・
九%に当るが、明治二十年における全国小作地の割合は田地四三・五四%、畑地三三・三七%、
平均三九・三四%であるから、これらより推算する時は明治初年の小作地の面積は最大限度全
耕地の五分の一に達せざるべく、従ってわずか二十年間に小作地が倍以上増大したことを知る
であろう。すなわち明治十九年における小作農の戸数は約二百万戸であるから、少なくとも百
万戸の小作農が二十年間に増大したことは推察するにかたくない。だが、この約百万戸の小作
農の増大が土地を失った農民のすべてでなく、その一部分にすぎないことは、五円以上の地租
を納める中農以上の農耕地を失える者または小農と化せる者の数だけでも上例より推算する時
は、二十カ年間に百二十余万人(二十歳以上の戸主だから戸と見ることができる)に達するのに
じ よ
見ても明らかであって、爾余の小農民の全く土地を失える者は最小限度二百万戸に逢すべく、
従って少なくとも百余万戸、数百万人はこの間小作農たることさえできずして都市へ洗出し推
ぽつこう
新後新たに勃興せる近代工業の賃銀労働者となったのである。
要するに、明治維新の変革により、なかんずく土地改革の結果、多くの中小農が耕地を失い
たる反面において、わずか十数年間に少なくも百万戸の小作農の増大したことは推算するにか
たくないが、小作農は数において急激に増大したのみならず、その性質においてもまた、封建
制度の下における小農と著しく異なるものあるに至ったのである。封建制度の撤廃が地主およ
び小作人の地位に及ぼした変化は、我が国においては、欧洲諸国一般に見られた所に加うるに、
21e
さらに我が国独特のものがあり、そしてこの持珠性は我が資本主義の発展および変革の過程に
おいて重要なる意義を有するものである。
明治維新の改革特に土地改革は私有権の確認、地租改正等によって土地をして純然たる資本
ごう
家的搾取の手段たらしめ、資本家的地主の存在を可能ならしめたが、恩恵は竜も自作農および
いりあいけん
小作農には及ばざりしのみならず、披らはかえって耕作権の不安定、諸種の入会権の没収等に
遭遇したる上、資本主義的価格変動の最も不利なる影響を受けなければならなかったのである0
ちゆうきゆう
封建的誅求を免れ得た者は、小作農や小農民ではなくして産業資本家化せる地主だけであっ
た。徳川時代においては土地永代売買禁止や分割禁止によって−たとえそれが封建的誅求の
目的からであったにせよ−耕作権だけは確保され、たとえ「生きすぎる」ことはできなかっ
たとしても、少なくとも動物的最低生活は保証されていたのである。しかるに、今や彼らは全
くこの保証さえ失ってしまったのである。のみならず、資本主義的企業経営の危険をさえ自ら
じようとう
負担しなければならなくなったのだ。しかも穀価上勝による利益は、小作料の穀納制と我が国
* きようゆう
農業の特徴たる絶対および較差両地代法則の完全なる作用とにより、ことごとく地主の享有す
る所となったのである。
明治推新の変革によって我が農業技術の上にはなんら取り立てて言うほどの革命的変革は見
られなかった。それは我が国の地理的人種的諸条件によって制約せらるる我が農業そのものの
特質上不可能であったといい得る。従って、明治以降における我が農業経営は、依然封建的小
とど
規模経営に止まり、ただますます集約化されたにすぎなかった。しかるに、上述の如く、封建
くつが
的所有関係そのものだけは革命的に根本から覆えされ、資本主義的所有関係がこれに代ったの
である。ここに我が農業の特殊性があり、我が資本主義の発達および変革の過程における農業
の特別なる重要性が潜む。ことにこの特殊性は帝国主義的発達段階に達し、国家資本主義トラ
せんえい
スhの形成を遂げ、階級対立が尖鋭化するとともに決定的な意義を有するに至るのである0我
が国における小作農は、英国における資本家的小作農とはもちろん違うが、といって農業労働
者とも同一ではない。いわばある意味において両者の中間性を帯びている。農業経営上の全危
険を負担する点において前者に等しい。だが、その危険の負担にもかかわらず、企業利得の全
部を地主に収奪され、ほとんど全くその分配に参与し得ないという点において後者に等しい。
しかも我が小作農が一種の農業労働者として受ける所の賃銀は、決して定額の貨幣貨銀ではな
くして、年の豊凶と農産物の最も投機的なる価格変動とによって影響を受ける所の現物賃銀な
のである。豊年には小作農の手元に残る収穫はいくぶん増大するが、大部分国内食糧品たる我
が農産物の如き無伸縮性常要の特徴として価格は暴落1それも特に収穫期において1する
21f
6
8
からかえって貨幣収入は減少するが、一般物価特に工業品の価格は、我が農業の豊凶が全然関
知し得ない世界市場の影響を主として受けるので、必ずしも低落しない。凶年には、穀価が暴
騰するが、売却し得る何物も残らぬのみか、かえって購買者の地位に転じなければならぬとい
うのが、我が国一般農民のしばしば当面する余りにも厳酷なる皮肉である。
要するに、明治維新の変革の結果、我が農民なかんずく小作農は、封建的誅求と資本家的搾
しっこく しんぎん
取との最悪なる桂楷の下に坤吟すべく「解放」せられたのである。従って、我が農民は、一面
においては欧米諸国の農民以上に保守的であるが、また他面においては西欧の農民よりは遥か
に革命的たり得る生産関係に入り込んでいるといい得る。ゆえにプロレタリア革命の乱雲低迷
期に入るとともに、彼らはファシスト的反動の経済的階級的基礎ともなれは、またプロレタリ
ア革命の積極的支持者ともなり得るであろう。
同様な両面性は当然地主階級においても見られる。明治の前半における自由民権の主張者が
新興ブルジョアジーではなくして地主階級であったということ、しかも彼らは不平士族と提携
しやはん
していたということは遺憾なく這般の特質を表明している。のみならず、やがて彼らが専制的
こ・つご・つ
絶対勢力と筍合するに至ったこと、および最近に至って完全に金融資本の寡頭的支配下に従属
するに至りつつあること等々は、世界資本主義の一般的傾向たるとともに、また明治革命の持
史
達
発
義
主
木
谷ハ
▲本
日
編
⊥
第
7
8
殊性の必然的発展であることを知らねはならぬ。
以上略説する所によって、封建的財産関係、封建的身分関係の揚棄による新しき生産関係、
新しき階級関係への全転化の基礎的過程とその特殊の重要性とは展開し得たことと思う。だが、
かくて家禄を離れた封建家臣団と土地を収奪された過剰小農民とを近世的工場労働者として搾
こうはん
取し、広汎なる産業革命を遂行するためには、なお封建的制限の破壊せらるべきものが多々あ
った。資本の自由な搾取のために必要な「自由」、いわゆる移動、職業、契約等々の自由もまた
如上の諸転化とともに実現せられなければならなかった。先ず、移動の自由は明治二年一月の
ふ か
各開門の廃止によって可能にされた。四年四月における座および株への新税賦課の禁止と保護
き はん
の撤廃とによって職業上における封建的裔絆と特権とは除去され、しかも同年十二月には在官
者以外は華士族も農工商に従事することが許された。次いで五年八月には、いわゆる契約「自
たなちん
由」の布告が発せられた。すなわち、「地代店賃の儀、従来東京府下を始め間々その制限を立て
や あいたい
置き候向きもこれあり候哉に相聞き候処、以来は双方とも相対をもって取り極め貸借いたし候
ようふ
儀勝手たるべき事。諸事公諸職人傭夫等給金雇料の儀これまた自今双方とも相対をもって取り
やと
極め候儀勝手次第たるべし。もっとも諸職人等これまで得意あるいは出入り場と唱‥ぇ常に備わ
れ先を極め置き候分、蔵王方にて他方の職人雇い入れ候節かれこれ故障の筋申し掛けの者もこ
220
れあるよし_向後右様の心得違いこれなきよういたすべき事0…=・」というのであった0かく
ていわゆる「二重の意味において自由なる」プロレタリアの搾取の上に我が資本主義の自由な
る発達を遂ぐべき条件の一半は完備せられたのである。