二 日本資本主義発達史
一 明治維新の変革
1 意識革命の進展と外患
徳川氏制覇の下における三百年は、その集権的専制にもかかわらず、未だ封建の勢いを廃棄するには至らなかった。否むしろ封建の勢いは、この時代に至って初めて、最も広汎なる範囲にわたって制度化された。従って封建制度そのものに内在せる諸矛盾は、未だ毫も揚棄せられていなかったのみならず、かえってようやくその対立を尖鋭化しつつあったのである。しかしながら新しき時代の諸萌芽もまた、自らその中に成長しつつあったことを見逃してはならない。
既に論及したるが如く、封建制度は、その本質上、土地の封建的領有を仲介とする人的結合の上にその主要なる社会関係を営むものにして、土地の占有は実にその広汎なる搾取の基礎である。そして封建制度は必然的に三個の矛盾を包蔵する。第一の矛盾は、土地の所有権が最高の所有権者から順次にヨリ下の占有者すなわちヨリ直接なる土地の占有者に − その実権とともに − 移行するの必然性の中に、第二の矛盾は、その封建的搾取関係そのものの中に、そして第三の矛盾は、商工業の地方化すなわち普遍化の中に存在する。これらの諸矛盾が、我が封建制度の推移とともに、いかに生成発展したかについては、既に、あるいは概括的にあるいは例示的に展開を試みた。我々はそこに、封建制度崩壊の諸条件が不可避的に成熟しつつあるを観取し、さらに新しき時代の萌芽が既に西風落日の封土の内に成長しっつあるを察知した。我々はここに、進んで、これら諸矛盾の発展が封建武士なかんずく下士軽格や、農民や、町人やの意識にいかに反映し、いかに彼らを革命化したか、さらにまたこれらの意識革命がいわゆる外夷の来寇によっていかなる進展を見たかを考察するであろう。
既に述べたるが如く、第一の矛盾から必然的に生れるのは、割拠の形勢と下剋上の観念とである。しかもこれらは、戦国の乱世を出現せしめたる後、徳川氏による統一とその厳酷なる身分格式の鉄鎖とにより一見全く抑止し得たかの如くに見えた。しかるに、事実これらは、その統一によってさらに広汎なる規模において拡大され、その厳格なる身分の制度によって致命的に深刻化され、かくて封建制度そのものを揚棄すべき条件の本質的発展と成熟とを完成しつつあったのである。封建制度の崩壊と中央集権的国民国家の統一との不可避性は、集権的封建制度なる名辞そのものの表示せる矛盾の中に包蔵されている。室町時代の末期なかんずく戦国時代以降戦術の変化等の結果、数量的に増大せるとともに戦術上にも重要性を有するに至れる下級武士や足軽・卒等の大部分が、始めから卦地を有せず、単に扶持米()ふちまいの給付を受けたにすぎなかったということは、原則上封地を仲介とする人的結合に基づくべき封建制度の本質と背馳するものにして、既に封建的結合を弛緩せしめ、その結合を可動的たらしめたのみならず、これがやがて、封建的覇制に本質的な下剋上の思想をは、非封建的 − 全国民的 − 性質において、封建制度そのものの積極的意識的破壊力たらしむべく発展せしめたるゆえんである。加 之、徳川氏の諸侯に対する伝統的統制策と貨幣経済の発達とが、武士の窮乏なかんずく下層武士の貧窮を堪えがたきものたらしめたるとともに多くの浪人を出すに至ったことは、ますます如上の思想の意識化を激成せしむるに役立った。以上の究明によって、始めて、何ゆえに特に下層武士階級や浪人どもが明治革命の積極的意識的遂行者となったかの理由を理解し得るであろう。
第二の矛盾は、封建的搾取関係そのものに内在するものであって、これは主として先ず農民の意識に反映した。農業は我が封建的搾取の唯一の基礎であるが、武士の窮乏と交互的に加重せられたる苛斂誅求と封建的弾圧とは、農民の窮乏とその反抗とを激成せずにはおかなかった。それが封建制度に対する消極積極二様の反逆となって爆発したことは前述の如くでみる。積極的反逆の主たる形態は、諸種の百姓一揆であって、それには政治的色彩のかなり濃厚なものもあったが、明治革命史の上に占むる重要性においては、かえって遥かに消極的反抗のそれに及ばぬものがある。清極的反抗は、農村脱離による方法と堕胎および棄児等による方法とに分かつことができるが、いずれも農村人口を減少せしめ、農業生産力を減退せしめ、かくて封建的搾取の唯一の源泉を荒廃せしめてその経済的基礎を脅威した。農村人口の減少の生産力に及ぼす影響は、我が国の如く集約的小農経営を特徴とする国においては、特に致命的なるものであった。松平定信が、天明五年より六年に至る(西暦一七八五−六年)一年間に農村を脱離せる人ロを約百四十万と算定しているによってもその一斑を窺知(きち)すべきである。そして、かくの如く、一方において余儀なく生産手段を抛棄して都市の窮民化するものが増大する反面においては、土地の永代売買の禁令やいわゆる限田法なるものがあったにもかかわらず、簒奪さながらの手段による土地の兼併は行われ、しかも土地に対する私的所有権はようやく侵すべからざるものとなりつつあった。かくの如く生産者を生産手段から分離せる結果は、一方においていわゆる二重の意味において自由なる賃銀労働者を作り出したとともに、他方において生産手段を余剰価値搾取の手段たる資本に転化することによって、資本主義発達の前提要件となった点において特に注目を要する。のみならず、かく生産手段より分離せられたる労働者は、既に貨幣流通の手段によって、直接間接に農民から搾取し貨幣化された町人の富をも資本化し、ひいて封建的ギルド的手工業を崩壊せしむる搾取の基礎となった。これを要するに、農民の封建制度に対する意識的反抗は、未だ意識的政治的闘争にまで発展せしめらるべくもなかったが、直接間接に封建制度の経済的基礎を破壊し、しかも新しき資本主義的生産方法発達の前提条件を作れる点において、特に重要性を有せるものと言わねばならぬ。
第三に、封建制度は商工業を地方化すなわち普遍化するものであるが、かく普遍化せられたる商工業が徳川氏制覇の集権的封建制度の下においていかに発達し、しかもその発達が封建制度そのものといかに相容れないものであるかについては、既に論及した。元禄時代以降ことに幕末に近づくに至るとともに、豪富を積む町人の勢いがようやく諸侯を凌ぐに至ったことは、一般に理解せらるる所であって、「日本国を十六分にして、その十五は商賈(しょうこ)の収納、その一は武家の収納」なりとなせる、寛政年間(西暦一七九〇年代)本多利明の算定せる所は必ずしも袴張ではないであろう。しかしながら、未だ政治上の権力をもたぬ町人としては、諸侯武家が百姓から搾り上げた所を、ただ貨幣流通の手段によってさらに招き上げ得るためには、幾多の危険や犠牲を必要としたことはもちろんであるが、それにもかかわらず、常に貨幣の魔力によってこれに対抗し、歩一歩封建制度の基礎を蚕食すべく、意識的努力を怠らなかったのである。
「用達(しおくり)町人に一人借金を返さざる諸侯あれば、例の仲間相談して外人は絶えて用達」せぬが如きは、彼ら町人の常套的威嚇手段であって、それは常に成功した。さらに、貨幣をもって官職を買い士禄および士格を買って、頑固な身分制度の一郭をさえ、黄金の歯をもって次第に蚕食しつつあったのである。もちろん彼らの封建制度に対する反抗は、必ずしも明確なる意識形態
を取っていたということはできない。がしかし、彼らの集積したる貨幣の威力が封建制度の経
きた
済的基礎に対して致命的であったことは無論のこと、さらに黄金の魔力は七百年釆鍛えた大小
とともにその封建的武士的精神をも鈍化してしまった。
これを要するに、封建制度に内在する三個の矛盾は、封建制度発展の!従ってその崩壊の
I−過程において、必然的に、次第に顕著なる対立形態を取るに至り、それぞれ封建武士、農
民および町人の意識の上に反映するに至った。しかしながら、その矛盾がそれぞれに反映せる
程度および性質、ならびにその意識革命の政治革命、社会革命への発展の重要性においては、
必ずしも同一でなかったことはもちろんである。
農民の場合には、単なる不平不満の爆発として、その多くは消極的逃避に終り、積極的闘争
形態を取った際にも闘争の目標は明確を欠き、従って政治闘争にまでは発展し得なかった。し
かし、これは封建制度の下における隷農としては当然のことであり、しかもこの消極的逃避こ
そ、前述の如く、封建制度の存続には致命的にして、資本主義の発達のためには必要不可欠の
前提要件であったことを知らねばならぬ。
町人の反封建制度の意識もまた明確を欠いた。従って我が国の町人は決して明治絶新の政治
的革命の積極的、意識的遂行者ではあり得なかった。しかしながら、彼らの手に集中せられた
しんしよく
る貨幣は、封建制度の経済的基礎を根本的に侵蝕した、のみならず、多少とも意識的に封建的
びんらん
身分関係そのものの莱乱に役立った。
右両者の意識革命の程度に比する時は、武士なかんずく下級武士のそれは極めて明確なる
ものがあり、それは究極においては封建制度そのものの政治的変革の不可避性と必要とを明確
に認識し、かつそれを遂行するに至らしめた。この点は、西欧の革命、なかんずく、英国の
〆ローリアス・レボリューション
光 輝 革 命(一六八八年)およびフランス大革命(一七八九年) − これとは実質において
も多少異なるが1等と多少外観を異にする所であって、間々明治維新に我が国特有の意義を
見出さんとする者に一応の論拠を提供する所である。しかれども、これは我が民族特有の伝統
のあってしからしめたのではなくして、我が封建制度発達の地理的および歴史的条件のいかん
よ
によるものである。この点は別に詳論を必要とすべく、この小論の能くする所でないが、これ
を一言に尽せば、我が封建制度は封建制度として極めて典型的なものであり、かつその発達は
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温室的に助長せられたという点に存する。例えば、我が国の農業は、主としてその地理的確墳
の結果として、封建制度の典型的発達を可能にするが如き小規模農業の集約的経営に適してい
た。この事は、多数の農業人口とともに、多数の封建武士の包容を可能にし、かつ貨幣資本の
集積にもかかわらず、商業資本家的家内工業の発達を遅らし、従って町人の手に集積された貨
幣は主として高利貸資本として作用した。これらの事情はまた、我が封建制度発達の歴史的条
件、なかんずく徳川時代における永き鎖国政策によって影響せられ、その内在的矛盾の発展を
けいがい
極めて徐々に1かつ完全に − 成熟せしめ、その外部的形骸の厳存にもかかわらず、 − 否、
むしろ外被の厳存のゆえに − その内部的自壊作用と変質とを徹底せしめた。この事は、先ず、
何者よりも封建武士ことに下層武士 − 形式上のみにおける政治的支配者Tをして、封建的
うつせき
毒素の鬱積に堪えがたからしめた。そして、この内部的矛盾の革命的爆発の直接の導火線とな
ったものは、実に、欧米資本主義国との接触であった。
だが、ここに、幕末外交史の詳細を論述することは必要でない。ただ、外交問題を直接の機
スローガ/ じようい
縁として明治の政治的革命の合言葉となった所のいわゆる尊王撰夷論なるものの本質を究明す
れば足るであろう。
専王論をもって、あるいは国学研究の斬斯に帰し、あるいは徳川氏が自己の覇業を‡自ら
そんのうせんば
は王道と信じて−−絶持せんがため奨励せる漢学なかんずく朱子の註による儒学の尊王桟覇の
*
説に帰し、あるいはまた朱子学に対する陽明学の輸入に帰する等、論拠とする所必ずしも一で
ないが、専王論の勃興をもって学問の研究に帰する点において一致しており、しかもいずれも
一応の論拠を有することは、これを認め得る。しかしながら、ただ、これら諸学の勃興の事実
こうはん
だけでは、尊王論が何ゆえ撰夷論と結び付くことによってのみ広汎なる政治革命のスローガン
たり得たか、という事の説明には不十分である。
尊王論、穣夷論は結局討幕論に落ち着き、.討幕論は必然的に封建制度そのものの崩壊と新た
なる中央集権的民族国家の建設とを予図したことを知る。問題の核心は、討暮にあって尊王穣
夷にあったのではない。討幕を、従って集権的封建制度そのものの倒壊を必要不可欠たらしめ
た内在的矛盾の発展累積が、ついに討幕の意識的表現を専王論に見出し、討幕の具体的戦術を
穣夷論に求めしめたのである。
我々は既に三個の反封建的意識の醸成せられつつあるを見たが、ここに見逃してはならぬ第
く げ
四の反蓉府的不平分子があった。それは王朝時代の遺物たる公家の一団である。彼らには革命
き はく
的気塊があったわけでも実行力があったわけでもないが、それだけにまたかえって、彼らの反
かんたん
幕府的不平には神経質的尖鋭さがあった0これがやがて同じく反幕府的不平分子とが間に肝胆
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柏照すものあらしめたるは当然の帰結であった。しかも討幕の適当なる口実をもたぬ下層武士
くつきよう
に取っても尊王論は個強なスローガンであった。
しかるに、彼らの尊王論が単なる反幕府的不平のロ実たる限りにおいては、未だ広汎なる反
封建的意識革命のスローガンたることはできなかった。いわんや、討蓉の現実的カたり得べく
もなかった。王朝時代の遺物たる公家の不平は別として、封建武士なかんずく下級武士や、農
民や、町人やの不平不満は封建制度の内在的矛盾そのものの反映たる点において、それらはや
がて、封建制度そのものを揚棄すべき物質的カたらしめらるべきものであった。単に徳川幕府
とど
を倒壊するに止まらず、封建制度そのものを廃棄しなければならぬ。のみならず、封建制度の
廃止は決して王政復古ではなくして、新たなる中央集権的民族国家の建設でなければならなか
った。しかるに、単なる専王論をもってしては、個々の反封建的意識に国民的統一を与え、こ
れを封建制度倒壊の物質力に転化せしめることはできなかった。尊王論には討蓉を − しかも
ある条件の下に − 正当化する力以外にはなかった。
封建制度の下における個々の不平が潜在的に包蔵せる反封建的意識に明確なる国民的自覚を
喚起せるものは、実に、諸外国の存在に対する認識、ことに敵対物としての諸外国の認識にあ
った。明治推新の革命的スローガンとしての穣夷論の意義はここにあった。特に下級薄禄の武
士や浪士によって唱道せらるる穣夷論が、尊王論と結び、かつ幕府および各藩政府の開港論に
対する時、穣夷論は政治的革命戦術として驚くべき奏効力を有するに至ったのである。
徳川氏制覇の下に集権的封建制度が、その内的矛盾の成熟にもかかわらず、よく二百余年の
たまもの
存続を得たるは、実に寛永十六年(一六三九年)の鎖国令の賜物であった。しかるに天明、寛政
しげ とき はやししへい
の頃(一八〇〇年前後)ょりようやく外人の来航する者繁きを加うるの秋、林子平の如き辺防の
急を唱うる者を生ずるや、世人を迷わす者なりとてこれを罰したが、文政八年(一八二五年)、
ついにいわゆる外船撃穣令を出して鎖国を厳行した。しかも国際的情勢が永く鎖国を許さざる
あお かくせい
を知るとともに、いたずらに排外熱を掘るはかえって国民的覚醒を促し、封建制度の存続に危
険なるを感ずるに至って、幕閣の方針は開港論に傾き、諸侯また多くこれに追随した。かくの
如き情勢の下における穣夷論が、幕府始め封建諸侯をいかに致命的窮地に陥れたかは明らかで
あろ六ノ。
これを要するに、撲夷論は、先ず国民的覚醒と統一国家への欲求を喚起することによって、
既に潜在的にあるいは個別的に醸成せられつつあった反封建的傾向に全国民的統一を与えたが、
次いでそれが尊王論と結合することによって政治革命的スローガンとなった。しかも現実的必
要に立脚せる幕府および藩政府の開港論に対する時、それは革命的政治戦術として最も有効に
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かつ微妙に作用して、ついに明治推新の政治的、社会的革命の勝利を見るに至ったのである。