初版  日本資本主義発達史 (上)
     野呂栄太郎著

本書を慈愛と正義と真理とのために五十二年の生涯を窮乏の裡に畢れるわが母に献ぐ。
   ―― 一九三〇・五・九 ―― 
  


   緒  言


 戦後世界資本主義は、なかんずくヨーロッパ資本主義は、その発展の第二期における一時的、 相対的均衡の時期に至って、過ぐる大戦中およびその直後の直接的革命の時期において一旦低下せる生産の水準を、戦前のそれにまで恢復し、さらに一九二七年を転機としてかえってそれ を突破するに至り、ここに発展の第三期を開始するに至った。大戦参加の戦勝国としての政治的利益と中立国としての経済的利益とをあわせ享有し得た米国および日本の著大なる生産増加 が、なかんずく、この傾向を一層顕著にしていることは言うまでもない。
 資本主義の生産は、たしかに、単に大戦前の水準を恢復したばかりでなく、今や明らかに、 それを突破して増加しつつある。しかしながら、この生産の躇著なる増大が、直ちに、労働の社会的生産力の発展と正確に一致し、少なくともほぼこれと対応するものとさえ速断してはな らない。資本主義世界における今日の生産増大が、生産手段ならびに生産方法の技術的改善による労働の生産力の発達に負う所あるは、疑いもなく、真実である。しかしながら、われわれ は、資本主義的トラスト化、カルテル化の急激なる進行によって、またいわゆる資本家的合理化の強行によって遂行せられつつある生産の増大が、他面においては、かえって巨大なる社会 的生産力を破壊し、また労働の生産力の発展を阻止し、停滞せしめつつあることを知らねばならぬ。それは、巨大なる失業群の急激なる増大により、労働者階級の生活水準の不断の低下に よってのみ可能にせられている。従って、かくして獲られた生産の増大は、既に国内市場関係において、生産と販路との矛盾を致命的に激化せしめねはならぬ。しかも、労働の生産力の向 上によるよりも、むしろ労働の緊張度の増大によって可能にせられつつある今日の生産増大においては、個々の商品価値そのものに取り立てて言うほどの低落のあり得ないことによってば かりでなく、需要の相対的または絶対的減少による市場価値低落の傾向に卸して独占価格が反作用することによって、市場価格は、需要の減退にもかかわらず、顕著なる低落を見ることが ない。この事は、生産と市場との矛盾をいよいよ激化せしめるばかりでなく、労働者、農民および小市民の生活苦をますます堪えがたきものとし、彼らの多数を飢餓線に彷徨せしめている。 階級的諸対立は激化するばかりである。ようやく昂りつつある経済闘争の波が、そのますます政治闘争化しつつあることが、これを立証している。そして、これとともに、ブルジョア的階 級支配はますますファシズム化し、社会民主主義者は社会ファシスト化しっつある。
 合理化と大衆の窮乏化との下における生産増大の過程は、同時に、消費資料生産より生産手 段生産への重心移行の過程であり、また資本家による資本家の収奪の過程であり、従って生産と資本との金融資本家的独占の過程である。これらの過程は、不可避的に、原料資源の絶対命 令的独占に赴かしめ、生産とともに資本の相対的過剰を生ぜしめる。かくして、市場のため、原料資源のため、資本輸出とその投資圏のための死に物狂いの闘争は、不可避的に、帝国主義 列強間の戦争に、植民地再分割のための戦争に導かずには措かぬであろう。この帝国主義者間の不可両立的対立の激化を、その急激なる鋭化による均衡の破局的動揺への危機を、一時的協 定によって脱出し、延期せんとする努力を、われわれは、今ロンドンに開催中のいわゆる海軍軍縮会議において見ることができる。
 植民地および半植民地における資本主義は、戦中戦後の旧資本主義国における生産低下の過 程を通して、帝国主義者の資本によってのみならず、また自国ブルジョアジーのそれによっても急速に発展せしめられたが、戦後資本主義の一時的、相対的安定化への発展の第二期が、な かんずく市場のための、原料資源のための、また資本の投資圏のための植民地収奪を強化することによって可能にせられ得たということのために、それは、同時に、植民地および半植民地 の労働者、農民および小市民大衆を、その資本主義の発達によってのみならず、またその発達の困難によって、二重に苦しめ、二倍の速度をもって窮乏化せしめる過程であった。従って、 旧資本主義の一時的、相対的安定化によって特徴づけられる戦後資本主義発展の第二期は、直接的な革命的事件の植民地的周囲への移行の過程であり、そこにおける反帝国主義的国民革命 勃興の時期であった。それらを、われわれは、モロッコに、支那に、インドネシアに、ニカラグアに見た。そして、今や、インドに、また朝鮮に見ている。かかる反帝国主義的国民革命運 動の進展は、決定的な資本主義列強の安定化をますます困難にし、ようやく不可能にしている。植民地における反帝国主義運動は、帝国主義者間の対立をますます陰険ならしめる。自由なる 植民地搾取の困難は、改良主義の物質的基礎を縮小し、社会民主主義的支配の基礎を狭隘にする。改良主義と社会民主主義とは社会ファシズムに転化せざるを得ず、また現に転化しつつあ る。
 資本主義体制における叙上の諸矛盾激化の現時期において、ソヴエート同盟の社会主義的建 設はますます鞏固なる基礎の上に着々と進行している。この事は、全地球表面の六分の一を占める広大なる地域を資本主義支配の体制から切り離したことによって、それだけその市場と原 料資源と投資圏とを絶対的に縮小せしめたはかりでなく、ソヴエート同盟の存在そのものが、その理論的、実践的指導が、ようやく昂りつつある階級対立闘争に、また反帝国主義革命運動 に国際的統一を与え、それらを鼓舞し、激励し、その闘争の組織を拡大し、鞏固にしている。従って、今や、また、帝国主義者間の不可両立的対立抗争にもかかわらず、また国民ブルジョ アジーの反帝国主義的利害の対立にもかかわらず、帝国主義列強を先頭とする全ブルジョア国家のソヴエート同盟に対する抗争は最も基本的にして、最大の対立としてようやく歴史の表面 に現われて来ている。支那軍閥による東支鉄道の掠奪、ソヴエート労働者および従業員の逮捕、監禁は、明らかに、国際的金融資本のソヴエート同盟に対する直接の戦争陰謀である。今爾の 海軍軍縮会議が、帝国主義者間の危機的対立の激化を一時的に緩和し、隠蔽し、しかもいわゆる軍縮の名に籍口して各自その相対的軍備充実のための海軍力の再編制をなさんとするにある ことは言うまでもないが、しかも彼らをしてこの挙に出づるのやむなきに至らしめた他の原因は、彼ら各自国内における階級対立の激化であり、植民地における反帝国主義運動の勃興であ り、そしてソヴエート同盟に対する戦争準備の必要である。これらの危機に対する共同の利害のために、しばらく休戦し、協同せんとするにある。ともかくも海軍軍備縮小を問題とする彼 らが、陸軍軍備の縮小についてはなんら積極的努力を払わんとさえせず、かえって、いわゆる平時編制の下にいよいよその充実を期しているのはこのゆえである。
 すべて叙上の諸対立が、生産増加の過程を通して、ようやく決定的に尖鋭化しつつある現時 期は、資本主義世界がその戦後の第二期において到達し得た所の一時的、相対的均衡が根柢から掘り崩されつつある過程である。もちろん、未だ、資本主義世界におけるその相対的、一時 的均衡は、もはやいかなる力関係においても快復し得ぬものとして、最終決定的に掘り返されてしまったというのではない。しかしながら、現時期においてなお保たれており、不断に動揺 しつつもまたわずかに恢復されている所の、一時的、相対的均衡は、常に、そのいかに小なる均衡の破壊からさえも資本主義全体制の破局が脅威せられているような状態の下にあるという 点において、第二期のそれとは本質的に異なるものである。対立の客観的諸条件は、既に、帝国主義者間の戦争を、帝国主義者のソヴエート同盟に対するそれを、帝国主義国における革命 的躍進を、そしてまた植民地における反帝国主義的国民革命を、単に蓋然的にしているばかりでなく、不可避にしている。これらの諸対立の尖鋭化が、いかなる形態と時期とにおいて、大 破局に導かれるかは、今や、一に主観的条件の成熟いかんにかかっている。帝国主義者間の、帝国主義者と植民地間の、資本主義世界とソヴエート同盟間の、そしてまた各資本主義国内部 の諸階級間の力関係が、いかにしてその一時的、相対的均衡を保ち、また破壊しつつあるかによって決定される。
 かくして、われわれは、今や、現時期における一切の矛盾の客観的諸条件を本質的に、かつ 具体的に分析、究明するとともに、その上に生成し、発展しつつある力関係の変化を詳細に分析しなければならぬ。本書は、遺憾ながら、かかる当面切実なる階級的要求に、直接回答を与 えてはいない。しかしながら、これは、少なくとも、叙上の必要なる研究をいくぶんなりとも容易にするために、一応の道を開いているものと思う。既にそれぞれの機会に、その時々の必 要に応じて、一度発表した過去の諸論稿を纏めて、ここに上梓を決意するに至ったのは主として、この理由からである。
 私は、過去の貧弱なる研究を本書に再録するに当って、誤植の修正と最小限度の形式統一と をなした以外には、内容に関するなんらの改変をも加えなかった。それは私がこれらの研究に今なお満足しているからではない。否、反対に、もし加筆、訂正を試みるならば、それほ結局 全然書き直されねばならぬからである。本書の個々の論文は、多かれ少なかれ現在とは異なる事情の下で、異なる要求の下に書かれたものであるからである。現実当面の必要からそれに部 分的修正を加えようとすること、それは、無意義であるばかりでなく、愚かなことであり、かつマルキシズム的研究方法に反したやり方である。歴史を単に説明することではなく、これを 変革することの必要なわれわれマルキシストにとっては、現実当面の闘争の条件、要求が異なるに従って、客観的な歴史的事実の評価においても、その重心の置き所が異ならねばならぬか らである。本書においても、既に、第一編と第三編とにおける展開、叙述の方法が、また第二編の高橋氏に対する場合と第四編の猪俣氏に対する場合とにおける批判の方法、問題の取上げ 方が、それぞれ、異なるものあるを見られるであろう。それゆえに、私は、本書各編の始めに、それらが、それぞれ、いつ、いかなる事情の下で、いかなる必要から書かれたかを明らかにし ておいた。かくして始めて、本書の各編が過去において果し得たかも知れぬ、そしてまた現在なお有し得るかも知れぬ極めてわずかの意義が正当に評価し得られるとともに、分析ならびに 展開の方法において、またその論断において犯しているであろう幾多の誤謬もまた徹底的に再批判し得られると思うからである。本書のこの貧弱なる研究の基礎の上に、しかしその大胆か つ卒直なる自己批判の上に、私は、当面われわれに課されているより困難なる研究に入らんとするものである。この意味において、読者諸氏の、特に階級的闘争に参加している同志の、本 書に対する忌博なき批判によってのみ、本書の出版は始めてなんらかの意義をもち得るであろう。

 一九三〇年二月十二日夜