四、新聞政策

                                    ノ
 ナポレオンは計葺的忙し七大規模な新聞政策を行つた最初の支配者であつた。「新聞政
策」と云ふ言語は眈にそれ丈で、彼が滑極的工作めみならす、積極的工作をも行つたこと、。
換晋すれば自分に気に入らぬ機関紙を瞼閑せしめ、それを鹿追せしめた丈でなく、自分の一
希望することを新聞に掲載せしめる様に巧妙に工夫したことを云ひ素拝してゐる。ナポレ
オンが如何なる意義を新聞に認めたか、叉杢報造境閑を管理することに如何に考慮をめぐ・L。



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らしたか、如何に驚くべき程度に彼が新聞を彼の政策の手段として用ひたかを次に考察しj
て見ようと思ふ。                       −

 彼が生存してゐた時代は、ナポレオンの如き人物に此の全開題の蟄要性を明示するのに
特に遽常であ(つたゃ新聞事業が悌蘭西革命時代程の乱痴気騒ぎを演じた時期は殆んど無か
った。唯新聞の蛮行数のみを考へて見るがょい。常時は凡そ一千種の新聞があつ冬そし
て新聞に雲エなる自由が輿へられてゐた。併しナボレオJは斯の如く無統制無制約の新聞
経費が一嘩どうなるかを看取した。′勿論r彼は極端な統制政策により後には益上道の過失
      ヽ
を犯したので、最後には青論歴迫の過度に俵少自らを書ふに至つた0併し彼がこれに気付
いた時は、既に速かつ女。吾人は次に彼の新聞政策の推移を考究しょう・

   て格渾時代の新聞政策
彼は将軍時代に早くも新聞問題に大なる考慮を沸つた・彼が∴七九六年伊太利に遠征し
舞時、】人の新聞記者に次の如く命じた。「我軍の勝利に閑す′る報道に於ては余のみに、然
                                                                                                                                 。一甘








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り唯余のみに論及する棟忙考へて契れ給へ、分つたかね」と。
毎日彼は人をして濁逸及び英国の新聞々自分の面前で朗讃せしめた。巴里の新聞中の記。
               ヽ 。
事で彼に気に入らぬものがあると−政府に抗議を申包み、衆の事を指摘した。「此等の記事
が教頚金以上に我々に有寄であり、吏に多くの敵を作ることになる。徴準余からは利益が
得られるからまだましである・」其の頃彼は自ら眈に「クーリエ・ド・ラルメー・デイクリー「
へ伊太利軍隊時報)及び「ラ・フランス・グュ・ド・ラルメー・デイクリー」(伊太利駐屯
軍より見たる俳蘭西)と云ふ二偲の横閲統を創刊し、其の後間≠品川く坑及に於て「ル・ク
ーリエ。デジフエ(攻及時報)姦行した0此等の新聞紙では、彼の軍隊の功恩報誉
れたに止まらす、本国に於ける政治的事件に朗しても屋上批判的見解が述べられた■。彼は
例へば挨及で一七九八年警暴(ヤ′軋メツエの饗宴に朗すJるアラビヤ語で書かれた記事
・1その中で彼は壊及人に約束を輿へることに偲虹人止む収捜せヰ亡し悪Vで挙るトを
一般に廣く流布して、禽時眈に簡捷に宜俸工作を行つたのである。。

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  ニ、執政官時代の新聞政儀
 ナポ;ンは執政官となるや直ちに廣汎に雷新聞事業を支配下に置いた・一入〇〇年
七月常時巴皐灯あつた七十三種の政領新聞の中大部分を禁止して−僅かに十三種のみを壌
存せしめた。彼は「≡トウール・ウニグェルセルー(些界報知)を最初の政府の横閲紙と
し、替らくの閏年官紀「ビニタン・ド・バヱをしてそれを援助せしめた0凡ての新聞が
政治的事項に警は報道及び解読に閲して厳格に政府の磯圃統「貰報知」に準慧ねぽ
ならなかつたと云ふことには、非常に重大塗革義があつた・そして新聞は凡て警察の質督
の下にあつた。
ナポレオンは自らも親しく、新聞政策に準心に参輿した0出来る丈多く自ら謹み−自分
の事故室の側に轡諸事務所を設けて_璃逸の新聞及び特に軍国の新聞を琴澤させた0又−
「世界報知」に掲載される論文に仝寧目を通し、廣ま竺父間讐英国との新聞戯に於ては
特に、自分で作つ宴葦を挿入した0彼は英国政府に封してのみならす、個々の新聞紙(例。
                                 、〆

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へぼタイムス)の如きに対しても自分で書いた論文を以て論戦した。彼は英国では新票
如何に特殊の勢力を輿論に対して有するかを知つてゐた0「ナポレオンは彼の故を打倒す
る為に親ら新聞を利用した」と叶相チヤブタルの追想録に記されてゐる。他方に於て彼は
叉「世兎報知」を出来る丈早く流布せしめることに努力した0後は幾度も此の新聞の讃者
となる様に指令を壊した(部下の牌軍にも)0且彼は勢力訂有し卓越した人士に;月分の
                     ●
新聞の綴りを迭附せしめた。             、
                                                                                           廿
そ中富時の彼の新聞政讐考究せんとするならぽ、吾人ば特に宿敵英国との激しい新聞
敬を顧みなけれぼならぬ0彼が常時他め敵圃特に嗅太利を新聞で攻撃することは比較的少
かつ衆のに対して、彼は最大の重鮎を英国との言論戦に遣いた。時々非常に激烈な攻撃が
開施され−英国の信用を無くする為に攻撃したり、英軋の人民を政府に封し煽動せんと企
てため∵英圃は平和を撹乱するものだと欧洲諸圃に向づて盛ん。に宣俸した。・他面に於ては
彼は往そ極めて平和的な調子を出すことに力め、後に敵意を有せるビット政府の次に立つ
た穏健なアデイングトン内閣に対しては特に熱心に秋波を迭つた。併し彼の中和的な働き
                                                                                                       \ゝ′
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かけが英圃に依り度々無線され、嶽の外交的申入れが英国例の新聞攻撃の為に何等の解決
を招来せぬとなると、再び多少カムフラージュされた威嚇が行はれ、要求に應ぜざれぼ侵
入せんぼかりの態度を示して脅かした。後は此の英国との掛率に於ては戦術的に不利な立
場に立つてゐた。と云ふのは「彼の新聞」が公然政府の撥閲紋たる性格を有してゐるに封
し、英固政貯は常に表向き新聞の自由を許し、その背後から新聞を操縦することが出来た
からである。
 英韓政府はナポレオンとの衝突を欲し、抄くとも衝突を不可避と考へたが故に、英国政
                                           ●
府は賓際には、新聞が圃民の感情を陽ることに閲心を有して居り、ナポレオンに封する他
の戦ひ(漫宣戦等)′を行ふことを許したぼかりでなく、それを奨励しさへした。
                                           ′11ノ
 併しナポレオンの方は英圃との紛争を延期しょりと思ひ、巴里で英語新聞「ThのA蒜uS
O均Lo】邑onr望1i仲冬s inロPris」を挙行せしめた。此の新聞は或る英囲め縞帝人に依り編
輯されてゐると蟹表されてゐたが、賓際は悌蘭西外韓省で編鞘されて居り、その使命は英
二囲に於ける「煽動新聞」に封し英国人的見地からの議論が行はれてゐるかの如き覿を一般


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′に輿へることであつた。
 英国例の攻撃が益よ燐烈になると、彼も再び猛烈に應酬し、俳蘭西の長所と敵国たる英
陶の崩鮎終に財政上の雑鮎を新聞紙上で極めて明瞭に論澄した。
 英俳間′の衝突が賭漑爆襲せんとした掛、ナポレオンには、金欧洲諸国の面前に於て戦争
勃黎の責任を英国に負はせるより他の可能性は最早なかつた。そこで彼は或る公の謁見で
英国公使に向つて次の如く叫んだ。「條約を破る者は呪はれてあれ。破約者は欧洲に封して
責任を負はねぽならぬ」と。そして彼は此の言葉を捻く一般に蟄表した。戦争が愈上勃蟹
                                                                     ノ
した時、云ふ迄も無ぐ新聞は全然戦時宣俸に傾注せられ、同氏の反英感情を出来る丈煽つ
た。

   三、皇帝時代の新聞政策

 ナポレオンは皇帝となるや新聞の取締りを一層厳重にした。後の新聞に対する態度1

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消極的側面に脚する卜は彼の次の言葉に最もよく云ひ表はされ領ゐる・



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 「印刷所は誰でも入ることが出来ると云ふわけに行かぬ武器魔の如きものである0政府
 が信頼を置き得る如き人々の各が印刷せしめ得可きものであると云ふことを余は極めて
 重要なりと思ふ、印刷物を通じて公衆に語る者は、公の集合で演詮を行ふ人と同様であ
 る。最も秀れた人が国民に向つて長廣舌を振ふのを防止する樺利が支配者灯ない等とは
 確かに誅も云はぬてあらう0」(完C九年十二月十二日上院合議に於て)
 彼が言つたもう;の青菜は彼の新聞政策の傾向を東竺犀よく云ひ表はしてゐる・蓋
しその中に彼の新聞政策の積極的側面が表明されてゐるからである・
 「吾人は輿論を研究するのではなく指導す遷以て旨とせねばならぬ・」 \
 かくて彼は極めて正確に国内及び国外の新聞の諸傾向を観察し、驚く可き程詳細にそれ
専をや味した。今や彼は自ら瓢しく筆を執つて記事を書くことは稀になつたが、常に凡て
の記事を統制し何塵に居ても直接新聞政策に干輿した・衆に吾人は種芸茸例に就いて考
・察して見よう。
 ナポレオンは、爾後凡ての政治記事を従来の如く単に意味の上丈でなく、文字通り政府


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め横閑妖たる「世界報知」から取るべしと命令したbそれと同時に後々此め蝕歯駄を大規模
に組織された通信事汝に依り大いに改良することに意を用ひたのは云ふ迄もない。併しそ
Jれにも拘はらす、時宗快牢記事が新聞にこつそり「滑々込ん空のでト′彼は成る時メッ
テル三ヒに向つて例へば次の様に云つた→此の意塵め如き新弼忍者は圃家内に国家を作つ
てゐる0彼等は康上条に封し余が如何に行動すべ針かを指廃せんと企てゝゐる」と。姑凝彼
は新聞について苦情を云つて居り、新聞は如何なる態度を凍る可きかについて指令を蚤し
た。此の意味で彼が云つた言実は次の如くである。
  「余にとつては、固民を鼓舞して反英的たらしめ、戦に如あると香とを問はす国民をし
 て勇敢に持久戦に堪えしむる棟た激励する彿南西新聞を一つ丈け存在せしめるのが最も
 好ましい。」ハ一入〇三年執政官時代にレグニュに宛て舞香椅)
 「悌蘭西が攻擬される時に、若し新聞記者忙して悌蘭西が決断に迷つてゐる如く報道す
                                      、
 るならば、彼等は鍵蘭西人甘もなく、又粂の治下に掛1淘筆する賓格を有し頂いものと
 老へる=…・・==」ハ一入〇五年フーシ主に宛て衆香)


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 「余は『ガゼツト・ド・フランス』紙の山部を迭附する・その中には伯林から蚤せられ
 た新しい山記事が掲載されてゐる。此の手洗の到着次第、該紋の編輯者を捕縛じて投
 放する様に命ぜょゃ彼は伯林から造られた多くの記事を其の新聞に載せて居り−共等の
 配車の目的は俳蘭西とロシアとの問の同盟を疑旧しいものとし、我が同盟諸国を侮辱す
 るに破る。此の編塀者を一ケ月掛捕縛して置き他の人をその代理に任命せょ0何磨から
 此等の記事が出てゐるかを余に報合せょ。同妖の編輯は概して極めて窓質である〇二ケ
 月以来、同経は欧洲に英国が大速鉦を企て1ゐると云つて欧洲大陸の人々を脅かしてゐ
 る。かムる記事を今道教任して置くとは一憶警察は文字を讃み得ないのであらうか。重
 く掬つた事だ。〓入〇九年、フーシJに宛てたる音簡)
一入ナ○年には最も厳しい言論統制が行はれるに至つた。印刷と書籍版費を取締る篤の
専門の官廃が設廿られた。それは秘密指令に依れぼ干渉と監督と抑魔とを行ふ任路を有し−
てゐた。講演、挽歌、劇場演出物、新聞であると勝叉クラブ、新聞記者、換約講讃者であ
るとを間はす、一般の公的生活は凡て此の様に政府の監督を受けること⊥なつた。併し此


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め年に出された次の指令は特に痛烈なものであつて、それに依れぼ、俳蘭西の各館に於て
騰衆は唯一程の新聞の畝が許可されることに定められたのである。巴里に於ても僅かに四
魔の新聞が許可されることになつた。彼は益}新聞を制限し、途には次の如き命令を教し
た。
               −
 「璃逸に於て印刷され流布されてゐる凡ての外国新聞は匂今ラ小ンを越えて我が圃に入
 るを許さす。それ等は郵便局に留め置かる可せものなり。」
 更に皇帝に関する外国通信員の私事を掲載することが禁ぜられた。ナポレオンが人民の
摘心を政治的事件から他へそらさんと如何に試みたかを知ることは又興味あることであ
                    ■
る0その目的の為吃彼は特に社交生活の種々の軟禁を奨励した。そ吼ことは次の如き彼の
青葉に俵つて知られる。
 「新聞がそれについて大いに書き立てる棟に余は此の歌劇舞頗合の開催を許したのであ
 る。新聞がさうしてゐる間は、彼等は政治の事等には束を配らぬであらう。余の望む所
 は正にこれである。新聞記者達は大いに軟禁を轟して踊るがょい。だが政府の計葦等に

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ついてはとやかくと首を舞込まぬ様にすべきである。」
ナポレオンがロシア遠征の為の軍備に一生懸命になつてゐた時、
彼は一般の関心を無事
な方面に向けることに特に努力を沸つた。それ故、一検閲官が警察犬臣に上申した提案は
正に通常なものであつた。彼はその中で次の如く云つてゐる。      、
              ′
 「現在新聞紙には文畢や劇の上の新奇な事に関する記事が誠に抄う御座ゐます。併しそ
                                                                                    /
 れ等の事は巴里の閑人には最良の糧です。若しそれ等の事が無けれぼ、彼等はすぐ政治
 上のことに関心を持つ様になります。蜃術や文畢上の事に閲し活気ある論議をすること
 が現衆の所特に適切でありませう・かトることを新聞紙を通じて盛にすることは容易で
 せう。併し都合の憩いことには新聞は皆劃一的に縞輯されてゐて、少しも一般の興味を
 引きません。今若し夫々の新聞に一定の役割を分塘せしめるならば、意見の衝突を憲起
 せしめることが出来ませう。すると此の小さな論季はしばらくの聞続き、その為に大き
卜な故事に人心を向けて置くことになるでありませう。」(一入一二年五月十二日、レモ。y・
                                                          I
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 此の撞案は皇帝の採用する所となり、早速菅行に移されて、所期の成績を奉げることが
出来た。吾人は右の論述に於て新聞政儀が一般に而して特に悌蘭西に於て如何に行はれた
かを見たのであるが、ナボレオγがその属領の新聞統に封して待つた干渉につい。て考察し
て見るのも有益であらうべ此の地方の官冷概閑は大膣に於て沸蘭西に於けると同様の漁律
の下に制約されてゐたけれども、此の地方は暫時悌蘭西とは異つた程度に於て後の監督の
下に密かれてゐたから、彼の言論政策は英の地方に於ては複雑極まるものであつた。
 ライン同盟が成立する・ハニ入〇六年)迄の事情は大館に於て次の如くせあつた。ライン
左岸の璃逸新聞は其の地方の占頗後直ちに彿蘭西の為に利用されることになつた。溜時著
名であつた。ヤ√ンツ及ケ、ルソの新聞に封しても其の他の中小新聞に射しても同じくかゝる
鹿砥が探られた。ナポレオンが執政官に成つた時、特に難しい事情が生じた。そこで警察
犬臣フーシエは新聞を厳重に取締り、各新聞の傾向を注意して見、好ましからぎるものを
描磨し、或は賄賂に依り買収する様に命ぜられた。
 併しライン同盟成立後はその時の事情に適癒して新聞には或程度の猫立性が輿へられて

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ゐたことが認められる。勿論此の時よわ璃逸領内に於けるナポレオンの新聞政策は別の革
義を有するに蜜つた。                ノ′
 今故にある多くの材料の中から特に代表的な若†の貨例を挙げて見よう。
 俳蘭西の歴迫が偽蘭西に併合された猫逸領に封七て特に強く加へられたのは常然であ
る。例へぼ「マインツ新聞」は二ケ圃の音譜で蟄行されねぼならなかつた。そしてケルン
では魂粋に悌蘭西蘭の新聞が創刊され、三種の猫逸新聞は憮雑作に弾歴されて了つた¢多
くの新聞はナポレオンを大いに謳歌する態度を凍つたにも狗はらす、途にそれ等は全然禁
                         ▲
止されて了つた。
 常時比較的高度に頚達した新聞を有するハムブルグは特殊の立場にあづね。■該市は猫逸
の利害関係の圏外妊立つてゐたαで、やれ丈容易に俳蘭西の歴迫に甘んじた。例へば一入
〇三年に早くも「ハムケルグ泡膚」(辞mb専管q内○【rのS召ロd3t)は英因数府を侮辱す
る記事に飴自を輿へる様に強制された。叉該新聞は「最近彿蘭西に移住した或る資本家が倫
教の成る銀行家に宛てた二通の手紙」を掲載せねばならなかつた。その内容は英国の信用・

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一。⊥


を失はしめる如き傾向を有してゐた。
 皇帝が如何に詳細に属領に於ける新聞事情に気を配つたかは、「パイロイト新聞」と云ふ
極めて小さな新聞に対して彼が珠つた措竜を見れば明かに分るであらう。−
顔新聞が一入〇八年ナポレオンの忌簿に憐れた時、濁逸町駐在せる俳南西軍の少滞に次
の如き指令が襲せら■れた。
 「パイXイ下新聞を禁歴し縞碍者の通信を俳蘭西の牌校により封ぜせしめる様に命ぜ
 ょ。直ちに此の文書から按蕃を作り、彼め英国人との書簡往復に関係ある書類を巴里へへ
 遮るべし。縞碍者は獄につないで筐き、彼の英図に対する関係及び数年来英国人と共に
 企て1ゐる陰謀に就いて訊問せょ。」
 加之、凡ての・新聞編蝉者の手元に造られる「世界報知」には次の如き威嚇的記事が掲げ
られた。
                                      ′ 寸
                                                                  し1−
 「数年来英圃の代持者の口授町依り書かれた、才能も智力も道徳も無き人々に依り編瞬
 されてゐる名も無きパイロイト新聞が禁止されたJ これにより将来は少くとも欧洲大陸

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憫働潤周濁州袖欄濁。、宅1−勺彗。月小護、。碩謂丑旺盛周憎笥J
では虚構を宜俸する新聞が一つ減少したことになる0此の好い賓例が一般編輯者に封す
る警魯として役に立つことを希望する・商人−市民、正直な投横業者は、虞資を薇ひ到
る鹿で不穏を企てんとしてゐる陰謀者の競季に対して公平な取扱を受けることを要求す
 る樵利がある。」              。′
ライン同盟の諸侯は勿論彼等の庇護者たむ皇帝に依存する朗係に在つたから、ナポレオ
ンは根本的には此の地方の新聞の監督榛を本国と同じく、確貨に掌振してゐた。但し厳格
な恒久的取縮撥閑は其の地方には無かつた。
 フランクフルト公園に於てはカール・フォン・ダルペルダ公は彼の庇護者たるナポレオン
皇帝の依託した事務を特に徹底的に取扱ふことに窒息した。一入一山年以後は政府の唯二
               ノ
の機関統たる「フランクフル十大侯圃の新聞」掛俳攣言囲語で蟄行されてゐた0それ掛主
として「世界報知」の枚挙であり、特に様々の事について畜き、例へぼカラカスの革命や
ロシア人と支那人の間の貿易等について報造したが、此の危撥を学んだ時代に於ける露併
   ≠
間の事件に就叶ては少しも書かなかつた。バイエルンの新聞はコック敢行の新聞以外は特

】7
。丁†

\\

に重要恵ものはなく、可成従順に新しい支配者たるナポレオンの命に徒つた∵それにも拘
はらす、爽に鴻げる命令に伐つても分る様に、ナポレオンの忌誇に濁れることも往々あつ
た。一入〇七年ナポd・オンはタレイラン旺永の如き委任状を費した。
「エルラングン慧びミュンヘン新聞は秀れた才警有する人物に依つて針かれてゐな
 い様に余には思はれる由をオツーー氏豊目釘造るべし・ミ…/′ヘン新聞は、ロシアがア
 イラクの戦闘に於て勝つたと報じてゐる。」
一入二二年の春、バイエルン図の人気が塊太利及びプロシヤの方に傾きはせぬかと鹿惧
した時、ナポレオンは大臣マレーに衆の如き指令を輿べた。
                                              ≠
 「バイエルン政府が、キュールソペルグ、パイロイ\アウグスブルグ及び共の他のバ
 イエルン圃の新聞に於て何れも甚だ不快極まる報道針蟄表せしめてゐるのは怪しれらぬ
 とバイエルン鞋在の彿蘭西公使に壊せょ。同公使がバイエルンの大臣諸公に厳重な洗
 議を申込み今後はか1ることの無き様にせしめるべく偉音すべしJ     ・
 大鰭に放て新聞はナポレオンに不満の念を抱かしめる様なことを飴り書かなかつた。ロ

月r
一J






澗mで
筋∵

ツタ挙行の「アルグ†イネ・ツアイツング」統は率先してナポレオンを全幅的に支持した。
程々共の報道は甚だしく歪曲され、歴史的な囲民戦役の折に現はれたものは特に甚だしか
つた。該統は俳蘭西側が華々しい態鯛を行つた如くに報じ、例へば次の如く書いた。「十六
日及び十八日の戯圃に於て演絨の也警口H・に塵つた敵は十九日の我軍の敗北の為に再び勇気を
盛り返し勝利者の如く粧aてゐる。」その後間もなくナポレオンが敗北したことが最早疑ふ
鎗地がなくなつた時になつても、公の悌蘭西側の報道すら虚構であるとした。
 此れは非常に多くの中の偲んの一例に過きない。ヴ主ルチンベルグ、バーデン、ペルグ
大公圃、ヴエストフ,−レン王圃及びライン同盟等共の他の圃に於ける新聞事情も大饉に
於て同様であつた。中には屈従的態度を採るものがあつ泉。時々は反杭を企てるものがあ
つたが、その鴎は沸蘭西の官威からそれに封す▼る干渉が行はれた。反抗的束蓬に蚤瑞を輿
へたのは除り名もない「フライブルグ新聞」であつた。該紋は俳蘭西軍の戦季状態が不利
なることを報じたスペイン戦揚に閑する東園の報道を掲載し衆。皇帝は女。ヘイン、に放ける
戦ひの不利なる状況が廉く一般に知れ渡ることを全然欲しなかつた。そこで彼は大臣シヤ

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ムバニイに宛て1次の如く書いた(一入一〇年十月)。
 「フライブル〆新聞及びバーヂン大公圃に於て挙行されてゐる其の他の新聞は、カトル
スルーエで政府の監硯竺下に縞塀されてゐるもの以外は、轟く禁座する様に、カ」ルス
 ルーエに居る余の事務代理に俸達せキかくしてのみ俳蘭西政府が曝されてゐる凡ゆる
侮辱と意意の宜倦も止むであらう。ダルムシユタツナ及び国境に於ても同様の虚置を採
 る様に命令せょ。」
                                               ●
 バーヂン政府の方からそれに対して抗議を行つた時、該大臣は同政府に常て1次の如く
書いた。「塵帝陛下は其の要求を再び反復せねぼならぬとは漁期されてはゐぬ−それ故に
バーヂン政府は直ちに完金に皇帝陛下の要求に徒はねぼならぬ。これが陛下の決意であ
る」と。そこでバーヂン政府はそれを承諾する他なかつたのは云ふ適もない。
 ザクセンに於ける唯山の著名な新聞である「ライプチヒ新聞」は非常に攣化に富んだ歴



史を持つてゐる。該紋の影響力は相音大きかつた。
用したのは常然である袖  ■ 。、
徒つて時の樺力者が出来る丈それを利
。」・れ頑瀾朋椚朋舶朋朋朋
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ィエーナ及びアワエルそチテットの敗戦後ライプチヒは悌蘭西の総督の治下に置かれ、
「ライプチヒ新聞」は其の筆督を受けることになつた0直ちに所謂「不偏不纂」の報道が
挿入された。該紋は自己・の嘩上で自己を革倒せしめねぼならなかつた0即ち衆の如き文句
が掲載されねぼならな・かつたのである・        、
 「偶蘭西人はライプチヒに到着するや、此の地方の新聞識者特にラープチヒ新聞の主筆
が流布した仮峯的凰訟を大いに嘲笑した・俳蘭西人は哉揚に於て凡ゆる敵を克服するこ
と訂を望んでゐる0慧革質の芸が存するので、此の記事の筆者は名著にかけて共
の虞賓なるこ・妄保詮する0筆者は彿蘭西人であり、彼の彗口は彼にと牢紳豊である・」
加之、該紋はタレイランの命に伐ヱ俳蘭西とプロシヤ問の戦争に野する蓋Eを攣表
せねぼならなかつた。勿論、畢帝の政策に適つたもの1みが頚表されたのである・ザクセ
ンが沸蘭西塞・和緒誓零すことに成功した後も、該新聞に対する沸蘭西の干渉は蛸還し
て行はれた。
「ナポレオン的思想傾町」が大品に採用されたにも拘はらす、種々物議を髄すに至つた。
                    ¶




時、ザクセン政府は卜驚く巴蓋府宗認の↑にあて£らうと思はれるが!新聞
                                       _

の遵守すべき方針を輿へた。その中に衆の如きことがある・
 「俳蘭西の帝室に葺障りのある事は凡て掲載せぬ棟に芽豊され度い・徒つて彿腐西
 にとり都合の意妄は不快な事件に閲する報道は卑立つて掲載してはならぬ0「世界報
知」に教義され墓是「ライプチヒ新聞」蒜載すべきである計界報知」から誓
                                                        ′
れた記護ばらくに勿晶されす−完箸なけれぼならぬ0更に追加書加へ遍載
 されねぼならぬ云々。」
 】八一二年該統にと少苦難を極めた時期が警つた0例へばロシア琴征に封する大規模
                        ●
の準備に閲しては表も観れてはならなかつた0そ与何時も虜茸に背いて;アに於け
                               一
る悌蘭西軍の勝利に閲する嘘の報邁を行はねぼならなかつた0
フ;ヤに黎ける新聞事情は首都伯林の重大性と精紳生活とにふさわしく可成蛙へ目で
ぁった。新聞紙は完〇六年写甘言軍の敗戦に関しては最初竺顔の政治的筈覚に
封應して威厳ある取扱ひをしなかつたが−「シユベーネルシエ・aデイツング」Sp碧rs巾




」一■頂ヨ。「JH一」J“ヨ
訂N算定及び「フオツスィシエ・ツアイツング」ぎssin訂〜軋計口約の二妖はやがて
再び組望識岩苧る豊つた・国民竺般的羞は在基固的となつたけれども、新
鮮は俳蘭西の歴迫の為に最早芸的霊に乗じて論陣姦ることは袋なかつた0例へば
      ヽ
ヲエルヂナンド・フn・シルの行為(澤鼓、伯林の少佐にして一入〇九年ナポレオンに
                    ノ 。
苧る表的暴動を企て、マグデブルプの俳雷守凛と哉ひ、メックレンブルクヘ移り−
次いでシここフルズンドに赴き、和蘭、↑抹の優勢な軍隊と戦ひ霊す0箕の撃た少
し十丈蒜校はグエーゼルで鋲誉れた)に閲しては怯んの吉報道し待たのみで、葡
                                                            ノ
もシルの名瀞蒜せられなかつた0左慧墓で、新聞竺八一〒三年冬のナボレオ
丸ン軍の敗北に関しては何も報苧るを許されす、彗て賠の俳蘭西側軍隊蓮をそのま▲
椿載せねぼならなかつた・そ完に愛国的熱情を吐苧る手宕慧荏現はれるに至つ
た。
実の有名なビニ?ン・ド・ラルメーの第廿九娩が靂を慧せねぼならなくなか言時
にさへ、伯林の新聞は虞誉慧し得なかつた0共の理由は、首瀾ハ芸ツベルグが危険な


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矩凄r

二枚舌を使つてナポレオンを瞞著する為に新聞を利用したからである。義勇軍募集の椒を
壊した後始めて新聞は鎮極的に動き出し「組圃愛」と云ふ棟題を掲げた。すると直ちにア
ウグロイの禁止命令が蟄せられた0併し間も無く開放の秋が迫り、新聞にとつても国民の
虞茸の感情を蟄表する時が来た。
 ナポレオンは塊太利を第二の主要な敵国と考へたが、此の囲に封する彼の全戦術徒つて
共の言論政策は英因に射する湯合とは根本的に異つてゐた。ナポレオンは時には中絶する
                                                                       ノ
こともあつたが、常に塊太利を味方に引入れることに努力した。
 彼がウィーンを占領してゐた頃如何に同地の新聞を利用したかに就いて考察するのは輿
嫁がある。           。
 ナポレオンは一入〇五年に初めてクィー・ンに於て新聞政策を資施した。彼は政策の撥閑
紋「ウィーン新聞」を掌中に収めた。
 「君が先づ最初にやらねばならぬ事は、「ウィーン新聞」を獲得することである:。≡。。。;
 此の(今立に蓼げる名前の)記者は君が捉磯するウィーンのニュースを報道せねぼなら

。止丁
少〃
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 ぬ。」壷帝の委任の下に参謀慧ペルチエがウィーンの普完てし言)、,
                                    々′           串
 かくして今や全く「世界報知」の報道通是新聞に掲誉れた0塊太利の特筆情に應
七て巧妙な若が用ひられた0塊太利の囲民に対しては懇切に、嘆太利政府に習ては攻
勢的に封虚した0王室に封しては貨に振舞つた0然らぎる時望室に封し大・い濫を寄
せてゐた国民の機嫌を損することになつたであらうからである・
 完〇八年塊太利がナポレオンと再び戦端を開かんと欲してゐるとの確雷得た時−後
森閑を通じて塊太利を誹誘し、禁利に封する輿給を態馨しめようとした0豊の新
聞は魂太判に封する猛烈晶筈閑地し、嘆太利の諸制度に閲し批判し、棄利靂幣相
揚にけち各けた・その為に俳雷の新朗はウィーンでは慧された・ナポレオンは「ウイ
_ン新聞」が蜜勃若)彼のスペイン纂ける敗戦を公表したことに封して特に憤慨
した。封嗅太利新聞翠の為に彼が黎した衆の指定それに質があ少、それは貰大臣
   ’ r       ′  。●  。。 rL一。



野」ノ′
一方′、
肪耶ツ′。
フーシエに宛て1音かしめたものである・          。。」≡三ノf
「ウィーンの王室に腎飴豊くの諾に誉事嘉陶に載せない様に著せよ0嘆太
壷′
・塵
  針塾l一l■

175


 利王室を栴杏せんとするのも行きすぎである・反之、ハンガリーの募兵の事を載せたり、−
 セゲイラの新聞や其の他の新聞から取材して謀飯人達に依り流布されたこさ−スを載せ
 てゐ竜王室新聞を嘲笑すべきでぁる。又Tウィーン新聞」の慎重振わに灘いても冷笑を
 あびせねばならぬ。」
 ∵八〇九年ナポレオンが再びクィーンに滞在して虜た時、彼は尊び新聞を掌中に収めた・
彼は新聞政策を変化した新しい情勢に適應せしめ、圃民の間に喚起された愛国的感情を裁
分願渡したが、此の度は嗅太利政府に射する攻撃を壌太利き室1▼に封する改革と結合せもめ
た。彼が嗅太利政府の新聞検閲を中止させ、嗅太利の内的尉係に反倒する出版物を許可し
                                                                          \
たのは巧働な作戦であつた。彼は此の「自由な」措置に依り国民の同情を得んとしたので
ぁる。かくして嘆太利圃民を分裂せしめてこれを支配せんとしたのであるゃ嗅太利の官度
                                                                        ヽ
は勿瀾此等の印刷物を禁止せんと努力した。
一入〇九年にメッテルニヒが嘆太利の指導的人物となつた時、彼も亦新聞政策に非常に
留意した。巴里及び伯林に於て公使となつてゐた時、彼は特にナポレオンの新聞政策から

新聞の重大性卦し強い印象を受けた・彼は衆の如く云つてゐる・
 「掛蘭西人は何の苦や至極簡畢婁慧壷は縞帝都を占領し防衛力警場所
 姦して了ふ妻にとつでは宴華る如く見え蓋を給差て、それを我
 々に対して用ひる・」
 ナボレオ孟洗し蓑も大なる敵手竺人であるメ妄二皐フリー首・フ
ォ三ンツと云ふ新朋政策辱て優秀な藷を有する人物の助力を警、嘆太利の
新鮮警彼の婁な政治手段掌るこ室生驚に且慧に轟力し芸ふことは世
人のよぐ知る研であ告
皇レオンは最後の後藤誉迄常蓋的蔓草して新聞を掌中の武器として考
りへ、それ靂蓋し舞表易霊屋卦を雷婁た蓋ことノ1、彼が最後
に待つた露の靂には必サよからぬ報いがあると云ふ蒼馨した0
彼が「百芙下」の間完び椿力を掌彗蒜、検閲濱苗し、新聞の窒なる自由を
許した。彼は後に嘗虚欝閲し衆の如く語つた・r


                                                  \
 「エルバから帰つて来た後に於ける新聞の放埒な言論が、余の没落を惹起するに至つたとは信ぜぬ。」と。
 勿論、期間が余りに短く且つ言論的武器の喧騒が余りに充満してゐたから、新聞政策に放て彼が採つた極瑞から極端への変化が長続きしたか否かの結論を引出すことは出来ない。