29                                   ▲
  ニ、言語を繰る文化闘争
瀾題瀾凋瀾佃野節付偲人及玖艮掛α鹿町原本肘掛史化権利たる音苧文字・教育者数々蹄サ甘
 最も激Zに行はれる。一首語及び畢校はその際主要なる攻撃及び防禦の目標上なるものであ
 る。外国語を歴迫し白銅語を宣俸することに依り、自国内の少数民族を最も容易に共の古
 い文化から引離し 少数民族の経常する畢校を願迫して自国の畢校に通拳せしむることに
 依り、青少年の精神を牧撹虹長期間に五つて破壊作業を行ふのである0
  大戦後、少数民族の原本的倍利たる固有の言語に封し最も鋭い攻撃が歴制的な諸民族や
 諸国毅に依つて行はれたことは、グェルサイユ條約及び国際瀾盟の少数民族條項と監督の
 失敗を示して為る_少数民族の言語を公用語として認めないぼかりでなく、それを反意法
 的方法で公的生活から出発る丈排除せんとす椅運動が行はれたゃこれは英国のハイシソヒ
 ■人世が一五三五年の第二寸七定款でゥふ−ルス語を用ふる者は英国及び其の領土内で官職
 或は偲職に就くことを禁止せるを想起せLむるものである。此の規定の目的は、何等反埠
 的では頂いが猫裁君鼻的組絨の統一々好げる不僚船な民族を国家に吸収せんとするに在つ
 た.然るに此の■歴迫の為却つてクエールス語を語る少数民族は反抗力を強化し共の自由を

30

 要求した。
 百残養圃の建設以来、和蘭譜が絶えす脅威を受けてゐたフランデルン此於ては事情は琴
 つてゐる¢一入三〇年自耳義首相はフレーミシさ語の撲滅を以て白耳義と悌圃との統一戦
 線結成の前線なりと唱へ、自耳義の圃語は悌蘭西語なりと揚言した。一入三一年の憲法に
 於て規定され空三豊仰の平等に閲する原則は貨行されすにゐた。そこでフレーミシ孟叩の
へ.平等橙磐求の戦ひは兜づ純文化的領域に於てフrミシユ語の小説や年鑑の公刊に依り行
                                                                 か・
 はれ、逮に一入四一年和蘭語に関する最初の言語合議が開催された。一入七三年のコI・ル
 マン法令ハ一入七八年のテ・ラエート津令、一八八三年のヂ・プアγ・コールマン法令に
 依り刑法・行政・教育の領域に於ける二国語制が自耳養に拾て採用される・灯至り、貨幣・
 切手及び政府の公示此も二図譜が併用されることになつた。d併し大戦迄aローン人ハ南自
                             ノ
 耳義の住民)の反封超勤と宜俸が次第虹勢力を得て、一入入八年には其の萱俸協合が作ら
 れたり、一九〇六年には白井義の偲正等は上級畢校に於ける和蘭語の使用計り不適首なりと
 して賓止したりしたが、大戦はフレーミシ一芸叩忙有利な影響を蘭し、一九〓ハ年グント大i
                                                                        ′
瀾瀾瀾瀾瀾瀾凋瀾瀾瀾欄欄渦淵欄瀾萌凱l郎り、大戦後フランeン這`れ∴ノト孟
 の・みが用ひられることになり、一九三二年には軍隊でも山部用ひられ、一九三四年には法律
 方面でも用ひられるに至つた。
  大戦後、到る虞に多くの言語歴払方法が頚足し、ラトゲィヤ、リトワニヤ、ポーランド、
 チェッコ、伊太利、自挿義に於ては猶逸語に封し、チェッコ、ル」マニヤ、ユーゴースラ
 ヴイヤに於てはハンガリー語に封し、マルタ.島に於ては伊太刺語に封し、ソ聯に於ては多
 くの音卦に多し歴迫が加へられたいチェッコ人は自国内の少数民族に勤し最も竣酷な方法
 を用ひた.ポーランドでは公用語は唯ポーランド語のみで、凡ゆる懲的の猫逸語数授は、
                                       j
 秘密裡に行はれる所謂「埜矯教授」(内邑旨ombg・亡已のrけ訂Ft) でさへも追及され厳し
                                                             ヽ
 く崩せられる.ポーランド語を商業用語及び日常語として使凋する様に凡ゆる手段を以て
  奨励されてゐる。            ′
  公用及び商業上等に礪逸語を用ふる権利を或る程度認めてゐるチェッコに於ける従来の
                                                                 一
 言語法令は欠から次に行政官厳に伐つて破られてゐる▼.チ■エツコ語を唯一の図譜と決定す・
                                                                  / ′

31

 1ること自身が既にグェルサイ土手和條約の規定に甚しく反するのである.敷石常を質する・
 ズ、デーテン†ドイツ人は第二に言語的自治の樺利を持つてゐるが、それは丁向に顧みられな
 い0内ペ、−メンは云はすもがな、ズデーテン璃逸のホテル・保養地・停革揚にはチェッコ
 語を語る人のみが働いて居り、メニー」ゃ‥ワノロぞフム等の最初にはチ;コ語が記されて
                                                                                        ●
 居・り、薬学病院・基地もチェッコ語他見1ゐる0チnコ語せ解せきる者は職巣をうまく
 蓮行し得ない0礪逸語の出来る者は、璃逸人のみならナチdッ‘コ人ですら、危険思想を有
 するとの嫌漁打受ける0チェッコと親密な麒係に在る囲例へぼ俳蘭西やソ聯も同じ方法で
                                                    、
 少数民族の嘉抑を歴迫してゐる。俳蘭西ではエル、ザス・サートリングン人やプレ十ン人に
                                                                  \
 封して苛酷払魔迫が加へられてゐる。
 ソ聯の董叩政策も相笛苛酷でぁるが、スヰスに於七は高地猶逸語が歴迫されて方言のみ
 が許されてゐる・若干の囲では言語考査が官吏や更には凡ゆる}般の職業に砕事してゐる
 人々に封して行はれてゐる。加之、言語考査は多くの囲に於て、冥の因に移住し来る人々
 に封する政治的闘争手段として採用されてゐる。豪洲は亜細亜人に対する防衛の為に言語
                  も
層瀾州瀾欄欄欄欄瀾欄瀾悩瀾崩頂H}一d増∴。讃づ−鸞軍繋望、▼丸一美`▼1「憑。`‖雲._、†■           袖   ノ、?T 三
 考査を施行しでゐる.
  英国はヤルタ島に於て伊太利に封し苛願な手段で歴迫む加へ、その土語たるマル孟芸
・嘆励してゐるが、それは原准民を伊太利から分離せし濁る為であ名。南阿聯邦はプーア人
  及び猶逸人(西南アフリ・舟)に封し言語闘季を逢行したが、今日では一定の−事項に関して
  は譲歩せねぼならなかつた。
                                                                                 、■
    .、                            叶  ト
  スヰスに於て灯高地猶逸語々歴迫する為にアレマン語を文章語となさんどする邁動が行
  はれてゐる。                            ぐ
  言語圃季に於ける他の攻撃手段は自圃語を世界に普及せしめることである。それに依り
 嘉のみならす国家の政治的勢力が撰雲しれるい自璧叩の世界的普及は蒜外国に於て閑
                                                                     「
 催される公開の言語講習軋に伐つて行はれる。例へば、ハンガソ」、嘆太利その他の圃に掛
・て伊太利語講習禽がファシズムの凄外機関に依り開催せられ、嘉叩の普及と共に伊太利に
                              l
 封する■ょり書き理解と伊太称勢力α薪揚が企国される。他面に於て右の如せ方法や共の他
  の言語宜俸的方法からして、自図譜を世界語として認めしめんとする企固が生れる。就中、

32

ー鍼小固民は自国譜に対する大なる誇りを持つてゐる、併し英国人の自図譜に封する誇りは
 極めて攻勢的であつて、射小圃民の揚合とはその趣を異にする。彼等は語畢的天分が無い
 と稲して他国譜を使用せぬが、貨際は多ぺの英国の語聾者や教官の聖書郵澤を行つた英国
 俸道協禽の存在が示し七ゐる如く、英国人も語畢的才能を有するのである。英国人の自国
 藷に封する藷りは寧ろ政治的優先権獲得の意慾をその背後に惜してゐるのである.日本で
 は英語が封外貿易用語及び欧潮人との常用語として用ひられ、熱帯地方の港では所謂ピジ
 ャン英語が用ひられてゐる0英圃人の自国語に封する斯の如き執りは北米合衆圃に英語を
 璧冒して輸入哲しむる横線を作つたが、賓は今少しの所で猫逸語が公用雷とLて採用さ
                                                 ●
 れんとしたのであつた。
  北米合衆圃に於ては\母国語を育成せねぼ極めて迅速に滑滅する恐れがある.北米では
 猫逸語の使用が特に歴迫されてゐるわけではないが、猫逸語は永続的に使用されす、純粋
 猫逸人でも英語を使用してゐる。云ふ迄もなく言琴の維持方法は個々人の意志に依存する.
 文書、家庭教授(猫逸語の畢校が禁嘗りれてゐる揚合には)、家庭用語、商業用語及び常用
.召彗。ヨ瀾瀾瀾[淵凋欄渦瀾瀾瀾瀾凋潤 郎酢郡耶札aことが駄璧蒜持の唯左手段†計る・廃園譲維持の
                                                        l†
  手段は地方的な言語的自治を徒得するか、二圃語制或は多図譜制を確立するかの何れかで
   ある.    /
  トルコに於ける一重叩政策は興味ある事例である.トルコが小亜細盤を取り回数を国教と
 して採用して以来締著となつ頂ノラビヤの文化的影響に封して鹿治的圃挙が行はれた。前
                                                                   ●
 せ記の終りにツラy遥勤が起り、ペルシャ、アラビヤの混成静をトルコの文献から除ませ
                                                       ♂
  んとする企てが行はれた.これはロシアの南部から非常に強い国民意識を有す渇トルコ人
  が移住し来つたことに依り特に喚超された.青年トルコ纂は廿せ組に入るや此の思想を珠
                 、
  り入れ、ツラン超勤を帝国主義的目的の為に縛換し、文化浄化の方法に伐つて政治的浄化
  を行はんと企てタ.此思想は大戦後にケヤル・アタテュルクに依り資践に移され、今日で
 はトルコ語潮新しく構成されつゝある。今や官更たる者は悉く新エ晶灯精通しなけれ
  ぼならぬのである。而して此の新トル孟mは†ルコ人でさへも文法及び願書の助けを借少
  て漸く修得し得るものである.

33

                                    ∧′
 此れ上並んで盲激Aラビヤ文字に封する攻撃が行はれてゐる川新トルコ語の表現形式と
                           /
 してラテン文字が採用された。タイルランド自由囲もそれに似た政策潅採用し、英国の文
 化領域から出発る丈遠ざかる為にグーレd文字(ケルト文字)を採用した。勿論、此の思
・想の税抵虹は、異国のものと見傲される文化及び政治に対して自圃の文化及び政治を防衛
 しこれを維持せんとする希望が存在したのであ福。
 書方自身も政治的圃彗ナ段として用心られた0合衆囲では英語芸る攣音的攣化む書方
 に於ても表現せんどする町室つたが、それは新しいアメリカ語彙を作るこ止に償って徐々
                                                                    ヽ
 にアメリカ的文語を作らんとするに在り、それは叉政治的意義を有するものである。同じ
                                                                             ■
 悪因の下にソ聯政府はヴォルガ潟逸人の共和圃に封して新しい書方を凍用せんと企てゝゐ
 るが、それはヴオルガ猫逸人と猶逸との問に布すa几ゆる閑聯を切断せんとの政治町意教
 を有するものである。
 \他民族の言語に封して行はれる最も釈量な政策は、碑文・地名・人名琴の改変及び新囲
 鰻に封する規則の改欒の如き最も一般に普及した方法旬ある。地名の分野に於て行はれる
                                                                                                    一
瀾瀾】用凋1用和d瀾盛儀感   遜び武儀的頗鵜を秦魂し′ね地名の抹殺は有名やあ為審
                                                                   −
 論、その目的は魔迫され空音譜を完金に排除し▼開家粂鰭の政治的統一を外に向つて立澄
 せんとするに在る.或る名稀に就いて黎音の愛東若しくは耕渾に依つて地名の改欒が行は
 れた。叉新しい名稲が考案されたヵ、自己民族に俵少既に度々用払られてゐる名稀が採用
 された.大戦後、名稀攻撃の数は何千と云ふ故に上る。その政治的意義は明瞭であるから
 今更何等の詭胡を必婆としない.
 此等の新しい名稲針凡ゆる手段によつて宜俸され、新興大チ:コの地囲にはチェサコ
 め名璃のみが記載aれ、僅か一部分丈沸蘭西語の名稀が記されてゐる・
  背い地名又はイタyック書慣で宛名の書かれてゐる手紙は、ラトゲィアでは全然配達さ・
 れす、チェッコ、伊太利、、ルー三ヤでは廣々配達されぬことがある・チェッコ丸ログァ
 キヤをブュッコとスログァキヤに分けて連結符を以てつないで書き規はす七とも厳禁され
 て居り、か▲る書方で記された手紙は漁牧されて経ふ.大戦後の新興国では倉批の表札・
 鹿骨・造梼・交通梼・停車場の立札・焚止札専を放め、一部分は暴石の碑文に至る迄も新

34

 此れ上並んで苗代アラビヤ文字に封する攻撃が行はれてゐる。新トルコ譜の表現形式と
                         /
 してラテン文字が採用された。Lアイルランド自由囲もそれに似た政策潅採用し、英国の文
 化領域から出来る丈遠ざかる為にグーレノン文字(ケルー文字)を採用した。勿論、此の思
・想の税抵虹は、異国のものと見傲される文化及び政治に対して自圃の文化及び政治を防衛
 しこれを維持せんとする希望が存瀬したのである。
 轟方自身も政治的闘争手段として用心られた0合衆圃では英語の成る攣音的攣化む書方
 に於ても表現せんどするに吏つたが、それは新↓いアメリカ語彙を作ることに磯って徐々
                                                                    ヽ
 にアメリカ的文語を作らんとするに在り、それは叉酔治的意義を有するものである。同じ
                                                                            ■
 悪因の下にソ聯政府はヴォルガ猶逸人の北ハ和圃に封して新しい書方を据用せんと企て、ゐ
                                                                                                         〕
 るが、それはヴオルガ璃逸人と周逸との問に掌る凡ゆる閑聯易断せんとの政治町意教
 を有するものである。
 \他民族の言語に封して行はれる最も数量な政策は、碑文・地名・人名等の改変及び新囲
 鰻に封する規則の改変の如き最も一般に普及した方法凪ある。地名の分野に於て行はれる
                                                                                           一
点用凋凋礪瀾瀾瀾凋憫胴憫戚謂感瀾瀾欄瀾感欄働耶    耶那那舶椚耶耶‥耶媚鴻
 論、その目的は魔迫され空音譜を完金に排除し、国家金鰻の政治的統一を外に向つて立澄
 せんとするに在る.或る名稀に就いて黎普の愛東若しくは耕洋に依つて地名の攻撃が行は
 れた。叉新しい名稀が考案されたゎ、自己民族に焼身既に度々用ひられてゐる名稀が採用
 された。大戦後、名稲改変の数は何千と云ふ故に上るPその政治的意義は明瞭であるから
 今更何等の訟胡を必婆としない.
 此等の新しい名稲灯凡ゆる手段によつて宜偉され、新興大チ:コの地固にはチェ三
 の名稀のみが記載aれ、僅か表分丈沸蘭西語の名稀が記されてゐる・
  嘗い地名又はイタyック書慣で宛名の書かれてゐる手紙は−ラトゲィアでは全然配達さ・
 れす、チェッコ、伊太利−・ルー三ヤでは廣々配達されぬことが・ある・チェyコ丸ログァ
 キヤをブュッコとスログJキヤに分けて連結符を以てつないで書き規はす七とも厳禁され
 て居り、か▲る書方で記された手紙は漁牧されて紘ふ.大戦後の新興圃では合敢の表札・
 鷹合・造梯・交通梼・停革場の立札・焚止札等を鶴め、一部分は纂石の碑文に至る迄も新

35

しく書き愛へられた遥チてル言璃逸誓書かれた墓石を建てることが禁ぜら、れズデ
トテン地方の都市は自警篭語蒜された術の辻札最はすし、チェッ晶を最初町審
               \\
きそれに礪逸譜の附加された辻札を懸けねばならなかつた・ルー三ヤではルー三ヤ語
を以て記されてゐない争敢の表札に対しては代金の八倍を罰金どし遍する跡皮が計誉
れた・量に名稀が潮辞された苓なく、「国家に危険な」名稲は禁ぜられ、別の名稀が附
けられた・以前の国家の王や政治家芸稀を附けられた鋳造名は表に禁止されたが、此
の他エガー地方(澤註−チェ…内に在斗礪逸人の居住してゐる地方)では愛圃詩人ケル
ナーや郷土詩人芸ッガーの名普附けられた構造名も禁止された.カイザー(安sユ
・妻子(苧○見せ・モムぜ蒜の名畏つたホテルはその名稀を攣更すること豊
求された・益名に帥しても同等あつた・エコはギyシヤ名を抹殺し∴シアはべ−チ
 ルスブルグをペニグラードに愛東し後東にレーIlyグラー下と改稿し、ノールウエーは
 ヂン了ク語のクリ音三ヤをオス是攣へ、伊太利はフランツ;スフ三テをフォ
 アアブツナに変へた.


 から始つてゐた。猫逸の民族性が鎗り浸潤してゐない家族の場合と圃内の経済的歴迫が強
 い場合に、その現象は著しかつた.チェッコでは濁逸流の名前は全然戸格簿町記入されぬ
 か又は故意に偽作して記入され、後日身分澄明に際し問題が起きる様に企頗をれた.姓名
 や地名の愛東は、茸際は全然別の民族性徒つて別の文化に廃する地域を、皮相的な観察者
 をして、該国家の民族の一部であると思はせることを目的としたのである。
                                        凝
 少数民族への所属を確定する為に特にユーゴースラブイヤとポトランドに於ては姓名分
 析(欝m3S賀已qsの)と云ふ政治闘争に於ける最も尖鋭な手段が用簡られた.仮令本人
 は自己の属する少数民族に忠誠を誓つても、姓名分析に依わ自己の民族共同懐から引離さ
 れたならば最早如何とも施す術が無い.斯の如き手段でユ」ゴースラゲイヤでは多くの濁
           一爪
 逸人や洪牙利人が其の民族から引離されて、南スラヴ族の中に算入された。此の姓名分析
 は民族所属性を決定する所謂「客観的」な方法である。家系の中でスラグ名を有する組母
 を探し、それを探し首てると共の孫をスラヴ人の拳校に迭つたり、叉明かに璃逸名たるに

36

拘はらず、それスラヴ名として強制的に決定して終ふと云ふ風に極端に走つた。
 自国語に対する矜持の顕著な然も政治的效果を有する言語的表現は多分にラテン諸民族に見出される。ゲルマン諸民族と反対に彼等は名称・地名・人名をも自国語に変へる。伊太利人はかのモツアルトの名をイタリー語化してヴォルフガンゴ・アマデオ・モツァルトと呼び、仏蘭西人はマインツをマイヤンスと呼ぶ。独逸人は各国の固有名詞を尊重し、伯林・羅馬間の国際列車をミュンヘン、ボルツァーノ経由フィンツェ、ローマ行と称するが、伊太利人は凡て固有名詞を伊太利語化して、例へばポルツァーノ、モナコ、ペルリーノ等と呼んでゐる。ここに他の国に自国語を強制せんとする言語的矜持の宣伝的作用が見られる。テヘランの政府は自国をペルシヤと呼ばないでイランと呼ぶ様に請求した。ペルシヤと呼ぶことは彼等の国民的自尊心を傷けるからである。米国は、移住し来れる人々は自分の姓名をアメリカ式の名前に変更することに依つて、アメリカ文化従つてアメリカ政府に忠実を誓ふことを要求した。かくて例へばフリードリヒ・ミラーはフレッド・ミラーとなり、ハンス・シュミットはジョン・スミスとなつた。
 名称政策に対する抵抗は事実的には全然無效果である。新しい名称と並んで旧名を用ひる位が閑の山である。例へばスイピウ=ヘルマンスシュタット、ブルノー=ブリュンの如くである。