六、思想戦の指導機関

30

  就中、資践と研究が特に注目し重要視せるは方法である。方法は先づ第一に目標の種琴
                   、
 及び作用領域の性質に/より決定され、方法の選揮は政略に依り決定される。椅紳的武器の
 指導が栽人的な饉名の非組繊的・勢力に委任されないで、政治的樵力の牛官年民的若しくは
 公的組織が秘密でなく公然と思想戦政策を指導すると云ふ乙とが、現世紀に於ける精紳固
 率の重大性を…撃不してゐる。それは無責任と無統制の原理から思想戦の領域忙於ける武力
 戦の領域に於てと同様の道徳的法律約原則の承認への本質的歩みを意味する。併し思想戦
 に紺する国際法は未だ蟄達してはゐない。而⊥て思想政策の組織的基礎工事は、民族や国
 家の問に行はれ穎故治敬に於ける思想政策の適用と同様新しいものではない。世俗的組織
 の原型は、宗教的組織濫、即ち一六二二年六月二十日法王グレゴリー十五せに依つて琵琶
                                                        一▲▼
 された「信仰宣俸省」(Con雫戌州已ぎdのヨ」OPむ海PロdaFidの)に見られる」 カトリック教・
穏浣郁耶那郡齢雛獣朴酎掛の掛督下町軒つれ郷トトをれ晰都針併都が攣桝針目朴レすlる掛臥ぐかJ
 つた。此の組織の基礎に如何に規則正しい戦略的計董が横たわつてゐたかは、俸造地域のl
 「数恒」即ち所謂俸造直(Tのr【籍mis巴○ロ付与) への恒分及び俸造組織の猫特な構成が笹
 明してゐる。「俸造直」に十分俸造が行はれ、俸道事業の成績が確立されると、それは使徒
 傾域(守○<どciPS乱isA召StOLicaユに高められて、飯倉の通常の行政横閑の中に合
 併される。以上の簡畢な説明からして、数禽の思想政策の基礎には非常に古い鳳統に由来
 する充分熟慮された組繊が存することを洞察せしめる。
  此の方面に於ける国家的企風は未だ非常に新しい。それは大規模の礪立組織として沈本
 来大戦中聯合図側に蟹生し、中験諸国に対する攻撃に役立つ′た。光度か攣遽を蟄ねた多く
 の英体の公的及ガ年官牛民的組織の中から、掛には一九高年英国外務省に晩り設甘言れ
 た「戦時宣俸局」(寿rワ3召面P已畑胃袋亡)−ウエeグトンハウスーー完六
 年三月四日設立されビーグ′−ブルック卿の監督下にあつた「情報省」 (‥芦已賢q of
 lnform已ioロ) 及びノースクリフ脚に依り一九一八年に設立された 「英開戦時宜偉部←

1f

 (山野iti∽Fd宅腎富issioロ)−トトク少ユーハウスTを奉げるに止める。「眈に一九一五冬の
 秋頂イムス練は所謂精神町時奨(m寛邑sn訂√訂uロ賢○已の欝の省を撃止する掛に要求
 した。而して該者は内閣中広袴子を有し観ての新開及び報道横閑を積極的方針に基いて改
適すべき任哲右する一人の大臣を持つのである0」(グァりn−シエヅク著「世界大戦と
 宣俸」、侍此の替軒には多くの組繊及びその頚展の総括的勉速がある)梯圃漑於ては既に論
 及したメゾン・ド・ラ・プレスが指導的組織であつた。
 タイムス統や要求は、思想政策が磨名性から公的性格へ移行した鮮で特筆すべきもので
 ある、所謂金鰹主義国家が此の組繊の教明君であると外国で山、般に好んで為される非難は、
 純粋に時間的な理由から反隠される。郎ち此の組織を党に潰明した権利は古い経験を持つ
 てゐる管ての聯合図に在る。英圃の思想政策組絨は情報の方面に掛てはその根源を英国梯
 密部ハ串s已息のStyj句○蒜i叫ロPロdot訂r∽のCrのtS平氏∩仲S) に、有し、此の撥帝都は苗
」から普通の問課事韓のみならす、輿論の翻案を待つたが、此に射し積極的方南の兜騒は。
一入五一年に設けられた牛官年民的ロイタL電報通信社(河芸t巧jt已蒜訂計nom冨ロq
′ Ed)凝壌規模の情報統制であり?更に遡れぽ強大な英因俸道路禽雷るゃ款中二七九
 五年南洋諸島の異数徒を改宗せしめる為に設けられたロンドン俸造教禽は、世界観的宴樽
 と商柴的搾取との混和と云ふ横力政策上から見て注目すべき梯能を有するを以て頼著であ
                                                                                                       ノ
 恵一アaン・ヤングは」九二二年収出版された「南洋に於廿る基沓教主文明」∵忙朗する著
                                \
 書に於て世界観望産と商菓的凝取の混和を英磯偉造の個別の功顔として褒めたゝへてゐ
 る(カール1・ハウスホーフ7−)。大戦中も偽強いカーリザク教的色彩を帯びセゐた俳困の
 思想政策は−その由来をカ†リックの経験に求めをことが出来、その本来の創始者は大偲
 正ゾ、〆ユリユー及びマザリンである。中には教官年の盲さを有するものもある。此等凡て
 の組絨に関する経験は、「思想参謀本部」(TFiロkiロ的〔苫巧已St邑)を生み、ぺ′ンリー。
 モイセットに伐わ捉案された中欧諸固に対する「思想敬」(Hd発已kl訂杓)を統轄すること
・になつた。此の場合思想政策は聯合政策的形態を探り、他の凡ての敬季遽行方殊に封し鴻
 ゼ由性を獲錮したが、このことはその指導撥瀾が「思想参謀本部」(〔の琵邑st旨d柑Pn?
 √せロ訂ロ)と呼ばれることを見て針明かに分る0且此の組織が完成された結果、歪の

20

 r取季状態」を平時に於ける政治的闘争方法から明かに直別し得るに至つた。(平時と戦時
 た於ける直別は経済政策的閉季には見出されぬ。)