日米交渉の経過 (外務省公表)
一、 日米間の交渉は本年春頃より華盛頓に於て開始せられ、四月中旬米国政府より非公式試案の提示ありたるが、右提案の内容は (一)両国の抱懐する国際観念及国家観念 (二)欧州戦争に対する態度 (三)支那事変に対する態度 (四)日米両国間の通商 (五)太平洋地域に於ける経済活動 (六)太平洋地域の政治的安定 (七)此律賓中立化等の項目を含み、之と太平洋全般の問題に関する一般的協定の基礎たらしめんとせるものなり。本案には日本政府に於て受諾し得ざる幾多の点あり、同案中米国政府は日独伊三国同盟條約に関しては米国が自衛に名を藉りて欧州戦に参入する場合、帝国が太平洋方面に於て米国の安全を脅威せざることに付保障を求め、又支那事変に関しては米国の容認する基礎条件を以て日支和平を仲介せんとせり。依て帝国政府は五月中旬、三国条約に付ては我軍事援助義務は同條約規定の場合に発動する旨を明かにし、又支那事変に付ては米国は近衛三原則、日支基本條約及日満華共同宣言を了承し、我が善隣友好政策に信頼して重慶に対し和平を勧告すべく、重慶に於て右勧告に聴従せざれば重慶援助止を申入れあり度旨を要求する等の修正を加へたる対案を提出し交渉を重ねたる処、六月下旬米国政府より前記四月案に比し、米国の主張を更に具体的ならしめたる修正案の提示あり、爾後交渉は同案を繞り継続せられたり。
然るに七月、第三次近衛内閣成立後間もなく、帝国が仏国との間に締結したる議定書に基き、仏領印度支那共同防衛の措置を講ずるや、米国は帝国に対し資産凍結を行ひ経済的圧迫を加へ来れるが、帝国は依然平和解決の希望に促され、八月近衛首相より「ルーズヴェル」大統領に対し「メッセーヂ」を以て帝国政府の平和的意図を開陳すると共に、危局救済の為には一刻も速に両国首脳者会合の必要なる所以を申送りたり。之に対し米国は主義上賛意を表したるも、交渉中の懸案特に三国條約問題、在支日本軍隊駐留問題及国際通商無差別待遇問題に関し、先づ合意成立するに非ざれば之を実行に移し難しとの態度を固執し、且前記六月案を固持して譲歩せざりしに依り、我が方は九月六日局面打開案を提示し、次で同二十五日に至り、之等我が方の主張に前記米国側六月案を参酌せる新案を提出し交渉を重ねたるが、十月二日米国は予て其の国際関係係の基準として固持し来れる四原則即ち (一)一切の国家の領土保全及主権尊重 (ニ)他国の内政不干渉 (三)通商上の無差別待遇 (四)平和手段に依るの外太平洋に於ける現状の不変更なる諸原則の適用に関する帝国の意図、竝に前記三問題に関し帝国政府の見解を更に明示せんことを要求し、交渉は之が為め難関に逢着するに至り、遂に停頓の儘十月中旬第三次近衛内閣は挂冠せり。
斯くの如く両国の見解対立を来したる所以のものは、米国が国際関係処理に付独善的見解に立脚せる架空の原則的理念を強硬に固執し東亜の実情を顧みす、之を其儘支那其他に適用せんことを主張し居ることに起因するものにして、米国にして右の態度を固執するに於ては本交渉の妥結は極めて困難なる状況にありたり。
三、現内閣に於ては太平洋の平和を顧念する為め交渉を継続することに決し、公正なる基礎に於て妥結を図らんとする見地より当時交渉の主要問題たりし三事項に付(一)三国条約に関聯する自衛権問題に付ては米国に於て自衛権の観念を濫に拡大せざる旨明確にすることを要求し(二)通商上の無差別待遇原則に付ては右原則が全世界に適用せらるるに於ては、右が支那を含む全太平洋地域に適用せらるることに異議なきこととし(三)撤兵問題に付ては、支那事変の為め支那に派遣せられたる日本軍隊の一部は日支間平和成立後一定地域に所要期間駐屯すべく、爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間協定に従ひ撤去を開始し、治安確立と共に撤去すべく又仏印に派遣せられ居る軍隊は支那事変解決するか、又は公正なる東亜の平和確立するに於ては直に之を撤去すべしとの案を得、右案により交渉を続行せり。此の間政府は日米交渉成立の際は開係事項に付、英国其他の諸国とも同時に了解の成立方米国側に於て斡旋すべきことを要望し、尚本件交渉に付万全の努力を払はんが為め、来栖大使を米国に急派し野村大使を援助せしむることとせり。
然るに米国側は、日米協定成立せば帝国は三国條約を保持するの要なかるべく、右は消滅若は死文となることを希望する旨反覆力説し、通商無差別原則は無条件に支那に適用することを主張し、列国共同の下に支那の経済協同開発を行ふこと等を包含する経済政策に関する日米共同宣言案を提出せり。依て帝国政府は右に対し、通商無差別原則に付ては帝国は同原則が全世界に適用せらるることを希望し、右希望の実現に順応して、支那に対しても同原則の適用を承認すとの趣旨を答ふると共に、右共同宣言案に付ては、支那共同開発提案は支那国際管理の端緒となる虞あるを以て、受諾し難きことを述べ米国側に撤回を求めたり。
四、十一月十七日以来、野村大使は来栖大使と共に大統領及び国務長官と会見を重ね、交渉急速妥結の要あることを力説せる処、大統領は支那問題に付ては日支間和平の「紹介者」たるの用意ありと述べ、又国務長官は帝国が独逸と提携し居る限り日米交渉は至難なるを以て、先づ此の根本的困難を除去する必要ある旨を強調し、両三回に亘り論議を重ねたるも、難関は依然として三国條約、国際通商無差別待遇問題及び支那問題に在ること明かとなれるを以て帝国政府は両国国交の破綻を回避する為め最善の努力を竭さんとする考慮に基き、枢要且緊急の問題に付公正なる妥結を図る為め十一月l二十日左の新提案を提出せり。
一、日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及び南太平洋地域に武力的進出を行はざることを確約す。
二、日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の確保が保障せらるる様相互に協力するものとす。
三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし、米国政府は所要の石油の対日供給を約す。
四、米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし。
五、日本国政府は日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は、現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本軍隊を撤退すべき旨を約す。日本国政府は本了解成立せば現に南部仏領印度支那に駐屯中の日本軍は之を北部仏領印度支那に移駐するの用意あることを閘明す。
右に対し国務長官は帝国が三国条約との関係を明かにし、平和政策採用を確言するに非ざれば、右第四項を受諾し援蒋行為を停止すること不可能なりと云ひ、又大統領の所謂日支間和平の「紹介者」たらんとの提案も、日本の平和政策採用を前提とするものなる旨を述べ、第四項に付大なる難色を示したるを以て、我が方は両大使をして国務長官に対し、大統領の紹介に依り日支直接交渉開始せらるる場合和平の紹介者たる米国が、依然援蒋行為を継続せんとするは平和成立を妨事するものにして、其態度に矛盾あることを指摘し、米国政府の反省を要請せしめたり。
五、然るに此間米国政府は英濠蘭及び重慶代表と協議する所あり、十一月二十二日、国務長官は両大使に対し、南部仏印よりの撤兵のみにては南太平洋方面の急迫せる情勢を緩和するに足らずとする旨、竝びに大統領の所謂日支間の紹介は時機未だ熟せずと思考する旨を述べたり。米国政府は其後も前記諸代表と協議を重ね居りたるが、二十六日国務長官は両大使に対し、二十日の我が提案に付ては慎重研究を加へ関係国とも協議せるも、遺憾乍ら同意し難しとて今後の交渉の基礎案として大要左の如き案を提出せり。即ち
一、日米相互間に於て実際に適用すべき根本的原則として、政治関係に於ては前述の四原則として、政治関係に於ては前述の四原則を再述せるが、唯其の中第四点を紛争の防止及び平和的解決竝びに平和的方法及び手続に依る国際情勢改善の為、国際協力及ぴ国際調停遵拠の原則と改め、経済関係に於ては主として前記政治的原則の第三通商上の機会均等及び平等待遇の原則を敷衍し
二、日米両国政府の採るべき措置として
(イ) 日米両国政府は英、蘭、支、蘇、泰と共に多辺的不可侵条約の締結に努む。
(ロ) 日米両国政府は日、米、英、支、蘭、奉国政府との間に仏印の領土主権を尊重し仏印の領土主権が脅威さるる場合必要なる措置に関し即時協議すべき協定の締結にと努む。
右協定締結国は仏印に於ける貿易及び経済関係に於て特恵待遇を排除し平等の原則確保に努む。
(ハ) 日本政府は支那及び仏印より一切の軍隊(陸、海軍及警察)を撤収すべし。
(ニ) 両国政府は重慶政府を除く如何なる政権をも軍事的、政治的、経済的に支持せず。
(ホ) 両国政府は支那に於ける治外法権(租界及び団匪議定書に基く権利を含む)を抛棄し他国にも同様の措置を慫慂すべし。
(へ) 両国政府は互恵的最恵国待遇及び通商障壁低減の主義基く通商条約締結を商議すべし(生絲は自由品目に置く)。
(ト) 両国政府は相互に資産凍結令を廃止す。
(チ) 円弗為替安定に付協定し両国夫々半額宛資金を供給す。
(リ) 両国政府は第三国と締結し居る如何なる協定も本協定の根本目的即太平洋全地域の平和確保に矛盾するが如く解釈せられざることに付同意す。
(ヌ) 以上の諸原則を他国にも慫慂すること。
と提案せり。
右に付両大使は其の不当なるを指摘し、強硬なる応酬をなせるが、国務長官は譲歩の色を示さず、越えて二十七日大統領は両大使に対し今猶日米交渉の妥協を希望せざるに非るも、暫定的方法に依り局面打開を計るは、両国の根本主義方針が一致せざる限り結局無效と思考する旨を述べたり。依て帝国政府は米時に対し、十一月二十日の我が方提案は最も公正なる基礎に於て従来の彼我主張を充分考慮の上作成せられたるものなるにも拘らず、米国が之に同意するを得ずと為し、東亜の現実を無視せる新案を提出し、殊に支那問題に関し其の態度を豹変せるは米国の誠意を疑はしむるものなるに付、米国側に於て反省せんことを要求せるが、国務長官は従来の態度を固執するのみにて交渉の本質的問題に付更に商議を進めんとする色なく、越えて十二月二日に至りウェルズ次官は大統領の命なりとて、情報によれば最近仏印方面に於て日本軍隊の移動増強行はれ居れりとて、右に関する帝国の真意を紹会し越したり。依て帝国政府は、右は最近仏印と支那との国境附近に於て支那軍が頻りに蠢動し居るに鑑み、之に備へんが為め北部仏印に於て一部兵力の増強を行ひたるものなる処、之と関連して自然南部に於ても部隊の移動が行はれたるものなる旨を回答したるが、此の間米国政府は対日包囲陣を急速に増強すると共に、輿論を指導し交渉決裂の場合の地固めを為すに至れり。
六、従て前記米国提案に対し、帝国政府は十二月七日附を以て別添「対米覚書」を以て其の態度を明かにせり。