昭和十五年
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本年一月十四日、阿部内閣は総辞職し、首相の辞職理由に、
不骨昨年八月図らずも大命を拝して輔弼の重責に任じ、白木閣員一致協カ、事襲虚理を中心として内外の政務に励椅し来りたる
ところ、向後眈定の方策を具現するに労り、或は囲務遂行の方法に就き意見の洋一を期し得ざるものあるやを虞る。乃ち時局重大
の場合、政務の運行を遅滞せしめ、日下進行過程の欝一段階に入れる事襲虚理に不測の影響を輿へぎることを念とし、本日閑下に
伏して辟表を捧呈し奉りたる次夢なり。
とあり。湯浅内大臣は後贈首相の御下問に封し、西国寺公及び各重臣の意見を徽し、前海相軍事参議官米内光政大将
を奏薦し、一月十四日、米内に組閣の大命が降下し、十五日、閣員鍵衡を終へ、十六日午前十一時牛、親任式を行は
る¶首相米内光政、外相有田八郎、内相鬼玉秀雄、蔵相櫻内幸雄、陸相(留任)畑俊六、海相(留任)吉田善吾、法
〜
柏木村何達、文相松浦鍔次郎、農相島田俊雄、商相藤原銀次郎、遽相膵正憲、域相松野鶴平、拓相小磯囲昭、厚相吉
田茂にして、濠算再吟味の時日なく、前内閣編成案を其の俵に提出し、無修正にて成立す。
年
五
十
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昭和十五年度漁算(単位千掬)
歳 入 本 珠 算
経 常 部 三、三四五、一一六
追加一洗
ニニ九
追加二統
一九、〇七〇
合 計
三、三六四、四一七
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時 部
普通 歳 入
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剰
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像
合
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金
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計
二、四七七、八四五
七三一、六六七
一、六七一、一七七
七五、00〇
五、入二ニ、九六ニ
五七、四五四
四四〇
五七、〇一四
五入、六入四
一九七、六一四
一四、七四三
一七八、三四九
四、五二一
二一大、六八四
ニ、七三二、九一四
七四六、八五一
一、九〇六、五四二
七九、五二一
六、〇九七、三三一
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合
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常
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計
二、六六ニ、七〇九
三、一六〇、二五三
五、入二ニ、九六ニ
四六、ニ〇七
一一、四七六
五七、六入四
三九、○⊥ぐ八
一七七、六一六
二一六、六人四
二、七四七、九八五
三、三四方、三四五
六、〇九七、三三一
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米内内閣は石衆需給の應急封策、米穀根本問題、税制改革、物憤封策の審議を行ひ、再開議禽に臨めるが、政府に、
政賞に、新事攣の績出し、二月二日、斎藤の言説より問題を起し、政民各派が薫議決定の馬に大動掻し、三月二十一
日、融大の安部賞首以下数人が懲罰に反封して離薫し、世に政薫無用論を口にせしめ、五月四日、政友禽の久原拭総
裁久原が民政薫総裁町田を訪問し、各政焦が解饅して畢一政薫を造るべしと提唱し、町田は政薫連携に依りて現状を
維持するを欲し、久原め申入を拒紀す。久原は政友中島沃、園同総裁安達、大日本青年薫統領橋本等と倉見し、政煮
解饉の信念を披癒す。阿部内閣を倒せる各派有志代議士合なる聖戦貫徹聯軋ば久原に賛成し、六月三日、現政糞は解
消して新薬を結成すべしとの申合せをなし、他に大日本青年賞、東方合、囲同その他を結集して東亜建設聯盟が組織
され、末次大将が合長となる。畑陸相が東亜新秩序の馬に高度国防囲家の建設と外交刷新の敢行を期すべく、特に国
内新饅制の確立を大前提とし、之を強化敢行するに大乗約見地より協力すべしとの進言に射し、米内首相は反封の意
思を表示し、陸相の畢掲辞表提出となり、総辞職に及び、書記官長は次の如く費表す。
現内閣は組閣以来、閣僚一致内外重要国務の逢行につき全力を挙げて努力し来りたるも、陸軍大臣は近時の政情忙経み辞表を提
出したるにより、米内は辟意を決し、各閣僚の辞表を取纏め、本日閑下に捧呈すること人なれり。
有馬伯は近衛公の出馬を語り、石渡書記官長が米内首相の命にて近衛公と倉見し、眞意を質し、公は新聞記者囲に、
眈成政真の襖と障子を取りはづしただけでは困る。強力なる新政治膿例の確立が必要である。
と語る。近衛公の決意表明が各政真の一再解糞を促し、六月四日、政友合一沃解鰻し、民政糞を除く各浜の解消成ら
んとし、二十四日、近衛公が椙相職を去り、一介の個人として新政治鰭制に微力を表す決意を表明す。
米内内閣は七月十六日、絶新職を決行し、十七日、組閣の大命が近衛公に下り、公は自邸を組閣本部とし、東條儀
相、吉田海相、松岡外相を決定して最高国策合議を開き、二十二日近衛内閣成立すい首相近衛文麿、外相乗拓相松岡
洋右、内相乗厚相安井英二、蔵相河田烈、陸柏東條英横、海相(留任)吉田善吾、法相風見章、文相橋田邦彦、農相
石黒忠篤、南柏小林一三、遽相乗錬相村田省戒、無任所相乗企室院総裁星野直樹、とあり。基本囲策大網を襲表し、
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年
五
十
和
昭
世界は今や歴史的一大蒋増に際曾し、数個の国家群の生成数展を基調とする新たなる政治、経済、丈他の創成を見んとし、皇国
亦有史以来の大試錬に直面す。この秋に嘗り、眞に拳固の大椅紳に基く皇国の囲是を完逢せんとせば、右世界史的蚤展の必飴的動
向を把握して、庶政首般忙亙り速かに根本的刷新を加へ、高難を耕して国防国家捜例の完成に邁進することを以て、刻下喫緊の褒
務とす。よつて基本国策の大綱を策定すること左の如し。
とて、根本方針、国防及び外交、国内餞制の刷新を掲げて宣明し、九月三日、吉田海相は璧息を表明、後任は及川古
志郎大将と決す。
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之に先んじて六月二十四日、近衛公が棍相職を許し、後任は同副議長席亭道が昇進し、副議長に顧問官鈴木貰太郎
が親任せらる。十二月二十四日、貴衆両院が手績を終へて成立し、二十六日、天皇陛下親臨の下に閉院式を行ひ、勅
語中に、
帝国と締盟各国との交際は益ミ親厚を加ふ。険深く之を炊ぶ。飴れども世局は吸音の騒乱其の底止する析を知らず。股は拳固臣
民が愈ミ忠誠公に奉じ、億兆心を一忙して朕が事を賓衰せんことを望む。
とあり。時局の愈ミ重大性を加ふることが明白となる。
本年の物故者は、一月四日、根津嘉一郎(蒜)。十六日、本因坊秀哉(桝撃。二十七日朝田丹陵(嫡撃二月十九日、
頼母木桂吉(東京市長元遽相二批腎二十三日、藤田平太郎労(表)。三月二日、正木直彦(枇腎十三日、山室軍手
(賦腎十入日、明珍恒男(奈良美術院長二講)。四月三日、藤澤幾之輔(表)。十五日、鈴木梅四郎(枇腎六月五日、
徳川家達公(仙鞋。二十四日、鈴木喜三郎(批針)。井深梶之助(桝針)。七月十入日、小柳司気太(巾暫。十九日、市川松蔦
(宗)。九月二十三日、湊野應輔(講)。十月十七日、小村雪岱(帖腎十一月四日、西国寺公望公(加腎十二月二十四
日、湯浅倉卒男(状鞋。三十一日、大島宇音(新愛知社長二桝鞋。
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