昭和十三年
昨年十二月二十六日第七十三回帝国議合召集。南京陥落の後とて、勅語に、
朕が瀞兵は毎職捷を奏し、大いに勇武を中外に著はし、両して朕が銃後の臣民亦克く協力一致して時難に富れり。朕は拳固臣民
の忠誠に信侍し、速に終局の目的を達せむことを期す。
とあり。衆議院の賀表中に、
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一斉・
昭
曙懲の歩武渦に神速、所在の民心安定し、東洋平和の聖業済に英の緒に就かむとす。是れ偏に陛下稜威の飴らしむる析、臣事感
激の至に膠へず。唯未れ皇歓を侠弘して全局の目的を達成するは前途伶遼遠なり。臣等益、、堅忍持久、報囲の至誠を致し、以て整
明に應へ奉らむことを期す。
鼻ツり。二十七日、貴族院にて皇軍将兵に封する感謝決議案、衆議院にて陸海軍将兵に封する感謝の件、戦死者に対
する敬弔の件の南議案が上程せられ、執れも満場一致にて可決す。一月二十二日、貴族院にて首相、外相、衆議院に
て、首相、外相、蔵相の演説あり。筒性陸海軍南柏は両院に戦況の報告と軍の所信を披歴す。近衛首相は事欒に封虚
する帝国政府不退増の決意を表明し、東亜の安定勢力たる帝国の重大使命を果すため、今後とも多大の犠牲を覚悟し
て目的達成に邁進する旨を開明し、挙国一致、堅忍持久、事欒終局の目的達成への協力を求め、廣田外相は駐支掲囲
大使の斡旋にて瀬踏を行ひし封支講和條件の基本條項四箇條を明か忙し、賀屋蔵相は未曾有の戦時濠算の編成に閑し、
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莫大なる公債の挙行、増税案の提出、其の他の財政経済政策に就きて詳解の説明を行ふ。貴族院にて二荒伯が質問し、
衆議院にて民政薫代表川崎克が事攣対策につき、政友禽代表島田俊雄が財政政策につき、関係閣僚との間に質問應答
があり、埠康次郎も質問して第一日の論議を終る。賀屋蔵相に封する衆議院の空気が前途の多難を思はしむ。電力国
家管理関係話法案と囲家総動員法とが二大難粘となり、幾度か危機を苧みたるが、他の諸提案は四十八億の臨時軍事
費、三十五億の一般追加南濠算も異議なく承認、ただ三億に上る増税案に若干の修正を加へたるが、七十誘禽以来の
懸案たる国民健康保健法案も叢合前に安協を了り、務算案遊に政府提出法律案入十六件を可決し、他に議員提出法律
案一件も両院を通過する好成績を示す。電力国家管理案が禽期一日を延期したるも、波瀾を重ねつゝ抒案も成立し、
政府は上乗の成績にて戦時譲合を乗り切れること1なる。されど近衛首相は議禽直後健康を害し、荻窪の別邸に引寵
りて兎角の風評を招き、・四月十入日、風見書記官長を招き、
月初以来健康を害し、今なほ臥味を飴儀なくされ、陛下に封し奉り渦に恐倖措く能はぎるところ、国民諸君に対しては相済まぬ
次第、今少し静養すれぽ必ず登鹿執務し得る確信がついた。
と襲表し、五月十九日徐州陥落の大勝利を以て一段階を完成し、内閣改造を断行するに決意し、賀屋蔵相、吉野商相−
泣に廣田外相の勇退を求め、執れも快諾して辞表を提出、右三人の後任と共に専任厚生大臣を補充すること1し、外
相に宇頴二成大将、蔵相東商相に池田成枠、厚相に木戸侯が専任となり、文相後任に荒木貞夫大将を推し、五月二十
六日、親任式を行はる。引績いて杉山陸相が病気にて勇退し、戦線の板垣中将が招電により六月二日東京着、軍状奏
上後、撃二日、杉山陸相と倉見、陸相後任に推薦の経過を聴取し−承諾して同日午後、親任式を行はる0国内各方面
の一流人材を網羅せる戦時挙国一致内閣の出現として封外的に反響を呼び、欧米各囲にて支那事攣に対する日本囲民
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不過埠の決意を再認識せりと云ふ。政府は消費節約の主旨を徹底せんとし、十三年度採算の節約を苦行し、一般合計
珠算節約各省別(畢位千囲)左の如し。
外務省】、三〇〇 内務省一三、七〇〇 大蔵省二七、九〇〇 陸軍省四〇、二〇〇 海軍省三〇、一〇〇 司法省二〇〇 文部省
一、二〇〇 農林省九、二〇〇 商工省二、七〇〇 遽信省三、五〇〇 柘務省一、二〇〇 厚生省二、000 合計一三三、入四一
本年の物故者は、一月二十九日、枢密院副議長荒井賢太郎(宗)。二月十一日、漢学家簡野道明(批腎三月二十六日、
基督数長老小崎弘道(謡)。三月十六日、三宅秀(袖腎五月四日、講道館長嘉納治五郎(仙腎二十六日、佐々木忠次
郎(講)〇六月十二日、鳩山春子(仙腎九月七日、片山春子(撃)。十月一日、元田畢(ペ鞋。十月十六日、野間清治
(⊥彰。十古人日、入渾達音(批腎十入日、門野幾之進(訊腎十二月十九日、藤仙嘗太(鬱。二十二日、武富時敏
(醐針)。二十入日、益田孝男(畑野。
(昭和十〓年より十三年を通じ、事故ありて史料紛失し、他日の補充を待つ。)
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破者
廣田内閣は二・二六事件の後を承け、最初より、国内革新を唱ふる陸軍と議曾政治の復興を恩ふ政賞勢力とを如何に調整安協せ
しむるかに苦心したりしが、第七十譲合の開幕と共に、寺内陸相と漬田圃松議員との「腹切問答」をキツカケに、果然軍部、政真
の正面衝突となり、永野海相の居中調停も陸軍の容る1ところとならず、一月二十三日途に総辞職するに至る。
次で宇垣陸軍大賂が後継内閣の首班として奏請されたるが、陸軍は、宇短大賭の懇請にも拘らず、故ら反宇垣の雰囲気を部内に
醸成し、陸軍大臣の推薦を拒香したる結果、宇塩は努力五日の後、逢に組閣不能の故を以て大命を拝辞す.
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宇垣内閣流産の後を承けたる林銑十郎内閣は、全く不準備に組織され、初めより短命を務想せられしが、二十四名の昭和曾を唯
一の輿貴として、無計壷に第七十試合を解散し、総選挙の結果、政真の分野が欒ぜず、興業の逆に減ぜるを見て、「解散奏議に閑
し衆譲院の一部との間に一種の行き懸りを生じたるは誠に遺憾とするところ」と並べて桂冠す0
林内閣瓦解の結果、湯漆内府は西園寺公の意中を徴したる上にて、貴族院議長近衛文贋公を後継内閣首世として奏薦す0近衛公
は是より先き、二・二六事件直後にも秦薦され、不健康の故を以て大命を拝辞したることあり、問題の健康は「従来と別に襲りが
ない」も、四囲の事情は再度の秤尉を不可能忙し、こ1に第一次近衛内閣の出現となる0陸海軍は前内閣の杉山、米内、元首相の
廣田を起して外相としたる外、内務に馬場鉄一を、文部に安井英二を、農相に有馬頼寧を、拓務に大谷尊由を、書記官長、法制局
仙
長官に風見睾、瀧正雄を据うる等、概ね近衛陣営と見らる土人物を配置し、大森、商工に最初の大物主義を貫き得ぎりしも、大鰭
において近衛意中の顔頗れといふを妨げず。しかし、流石の近衛も軍部の空気を十分に偵知すること能はず、組閣直後、新聞記者
囲に封し、「政綱政策といふやうな兵饉的なことは出来ないが、大凡の意味の軽い気持のことを述べる0大命を拝した日にお話し
たやうに、従来のやうな対立柏剋を国内で績けて行くのは国外で侮りをうける0出来るだけ相泡摩擦を緩和して行きたい0利害に
ょる封立、情箸賞状因縁による封立は、出来るだけ非常時局に鑑みて各人の自省によつて少くすることが望ましい」と国内相剋の
解消を説けるの時、北支において唯ならぬ空気の醸成せられつ1ありしこと、後にて知らる0
謂ゆる日華事攣は、産溝橋における第二十九軍第三十七師(師長鵡治安)の不法襲砲によつて火蓋は切られたるも、中日の間、
爆築はたゞ口火を待つのみとなりゐたる情勢を蔽ふべくもなしカ国内相剋解消を説く近衛内閣は、ために事攣虞理について事毎に
後手となり、窮飴途に十三竺月十六日、「国民政府を相手にせず」の聾明を中外に襲するに及び、L事攣は漸く収拾すべからぎるに
至り、「大東亜戦牢」への勢ひを加ふ.(編者レ
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