一月十日、押川方義残(凱十)。松山藩士橋本昌之の二男、先代方至の養子となる。大挙南校に学び、バラ、ブラウン
より英語及び紳革を修め、牧師となり、仙童教禽、東北学院、大日本海外教育禽、京城教堂等を創設し、北樺太石油
禽融の取締役となり、大正六年より衆議院議員となること二回。(訝詣掴願託難柑畑議削が譜娼鮎詣わf博監l蒜岬準
斬新柏鵠増刷柁蒜軒紗那鎚fb贈雌報鮎妙齢ff0。)二十六日、大岡育造残(副腎長州小串村の嘗伺蘭の長男、撃たら
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んとして長崎等寧校に入り、靡校にて上京し、講法学舎、司法省法律学校に学び、十三年代言人となり、同志と「輿
論新誌」を襲刊し、二十三年「江戸新聞」を買収して「中央新聞」と改め、同年帝国議禽開設、山口辟より衆議院議
員となり、西郷徒道を擁して国民協含を創立し、三十二年欧米を祀察し、伊藤博文を授けて政友合を組織し、三十六
年東涼市参事禽貝となり、市長に挙げられ、大正元年以来衆議院議長たること三回、山本内閣に文相となる。二月七
日、九條武子残(講)。大谷光尊の二女、光瑞、光明の抹、十二歳まで京都の師範附属小学校に学び、後は家庭教師に
就き、檜を上村松園、和歌を大口網二、佐々木信網に学ぶ。二十二歳にて九條良致男に嫁し、翌年夫と共に渡欧し、
滞在一年牛忙して畢掲麻朝。歌集「金鈴」は十年杢閏を守るとして世に謳はる。大正十一年夫と共に築地本願寺内に
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住み、翌年の大震火災に邸宅を焼かれ、淀橋下落合に新邸を構へ、眞宗婦人禽長、感化囲六華園長として融合慈善事
業に努め、足跡は殆ど全図に普く、童潜、満鮮に及ぶ。才色兼備の寛人として知られ、歌集として「踏絵」「金鈴」、
戯曲に「洛北の秋」、随筆に「無憂華」あり、印税を基金とする慈善病院アソカ病院が本所に立てらる。美人薄命、薄
命が幸との諺に洩れず。十七日、大槻文彦穀(宗)。磐渓の二男、江戸に生る。通構復三郎、後に文彦と改む○祀父の
業督樟がんとせしも、父より漢学を授けられ、十五歳にて林大学頭の門に入り、開成所にて英語、敷革を修め、十七
歳が時藩学養賢堂に入り、助授となり、慶應二年洋学稽古人を命ぜられ、米人バラ、タムソンに徒学す○明治元年事
欒にて横漬に逃れ、三年大挙南校に入り、五年文部省に出仕、翌年宮城願師範学校長となり、入年文部省の日本新書
編纂に徒事し、十九年脱稿せしも文部省にて出版せず、二十四年「言海」と構して自費刊行す。二十五年宮城書籍館
長となり、尋常中学校長を余任、二十入年東京に締り、「廣日本文典」、「別記」を著はす。「言海」の改訂に徒事せし
も完了せず、黄後「大言海」の名にて刊行せらる。別に「伊達騒動害録」等の著あり。
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三月五日、片上伸技(宗)。愛媛賂の人、明治三十三年上京、三十九年早稗田大学英文科を卒業、早稲田文学記者と
なり、四十年同大学務科講師となり、大正四年同大学留畢生として露囲に在留、蹄朝後ロシア文学科を設置し、次い
で文寧部長となり、翌年軒職して露園に入り、退去命令を受けしも、モスクワの学士院創立二宮年祭に、稲田徳三、
入杉貞利と共に参列、暫く郷里に締りて妻子と共にし、上京して学校生活より融合生活に移らんとし、扁桃腺を病み、
脳溢血にて残す0(b表糾義新`監触攣猷鴻針袋賀守)七日、松川敏胤禁凱十)0仙董乳廿安輔の長男、二松寧舎に学
び、明治十三年陸軍士官学校に入学、二十年陸軍大学校を卒へ、二十六年指図に留学、日清戦役に蹄朝して大本営附
となり、垂潜征討に病みて締り、陸軍大学校教官、掲囲公使館附武官となり、三十五年蹄朝して大佐に進み、参謀本
部第一部長に補し、日露戦役に先だち、露囲軍隊及び満洲方面の調査に徒事し、作戦計量に於て松石安治と山此び解せ
らる0戦時に鬼玉参謀総長を輔け、皇軍連時に功あり、戦役中に少将に昇り、戦後再び参謀本部第一部長の職に就き、
後忙中将に進み、師園長、東京衛戌総督、朝鮮駐剤軍司令官を歴任し、大正七年大将に昇り、十四年退命となる。十
日、鳥居素川残(宗)。熊本の人、名は赤雄、済々章に学び、明治十九年上京、翌年掲逸協合に入り、三年忙して追撃
し、上海臼清貿易研究所第一特別生となり、病にて勝因し、京都に療養中、天田愚庵の紹介にて日本新閲融に入り、
日清戦役に従軍記者として病子規に代り、三十年同郷の先輩池遽三山の推挽にて大阪朝日新聞社に入り、特派員とし
て北京に在留、日露戦役に第一軍に従軍、鴨緑江戦捷後節圃し、四十四年英帝戴冠式に特派、大正五年編輯局長とな
り、矯激の文字ありて筆鯛を招き、同七年十月十五日引責尉職し、速決退社する者五十除名、新川侯、藤村男等の後
援にて大阪に「大正日日新聞」を起し、政友合内閣と戦へるも事思はしからず。十四年三たび外遊し、昭和二年支那
を祓察したり。十六日、岩下清周須(北野。松本藩士佐源太の二男、明治十一年商業講習所を卒へ、矢野二郎の推挽に
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て三井物拳骨祀に入り、十三年米図在勤、十六年.ハリに稗任、支店長となりて在職すること数年−蹄朝後三井物産本
店詰となり、間もなく新し、二十二年品川電燈禽融を創立、関東石材合融を経営、二十四年三井銀行に入り、副支配
人より支配人に昇任、二十入年支店長となりて物議が起り、翌年新し、三十年磯野小左衛門等と北漬銀行を創立して
頭取となり、幾多事業に関係し、大阪金融界の玉頑として雄飛し、衆議院議員にも普選せるが、大正三年北濱銀行の
破綻より背任横領の罪に間はれ、一切茸業界より引退し、富士裾野の農園に閑居す。
四月二十二日、大倉喜入郎男穀(諺)。越後新轟田の人、千之助の三男、家は質屋を業とす0幼名鵜苫、藩儒丹羽伯
弘に学び、麻布の鰹節店等に奉公し、下谷上野町に乾物店を開く。文久三年八丁堀の浣谷某に兵器頁買の業を修得し、
潮田和泉橋畔に兵器の販彗店を開始す。偶、、戦乱が起りて一挙に互萬の資財を作る。庵米の商品を輸入して利を得、
明治五年岩倉大使に従つて軟洲各国の商況を祀察、麻朝して大倉組を組織し、七年ロンドンに支店を設け、入年滋澤
柴一と共に朝鮮に第一銀行支店を設く。七年妻潜征討、十年西南戦役に自ら戦地に出張して軍用の賓を供給す○十七
年南洋に製茶を輸出し、米国に於ける製茶の挽回を固る。二十年帝囲ホテル設立に参蓋し、日清戦役に御用達として
活増し、日露戦役に更に一層活躍し、次いで東京に大倉高商、大阪に大倉商業、朝鮮京城に善隣商業を設立、東京赤
坂灯大倉集古館を公開する等、公共事業に貢献して世に重きを成し、傍ら狂歌を作るなど、確かに名物男と知られた
るが、若し今一層公共心の強くんばと心ある常に惜しまれたり。五月三日、石橋和訓残(陀針)。島根願の人、瀧和亭に
商量を寧び、雅原と就し、三十六年渡英、油蓋を研究し、ローヤル・アカデ、、、I禽貝となり、彿囲サロン正禽貝とな
り、辟朝して明治神宮檜童館に、明治大帝がグラント将軍と芝濱離宮に御謁見の壁蓋を作成するに従事し、病を得て
成らず。ロンドン滞在中酒癖、奇行あり、内地より外国に多く知らる。内地には文展第二回「ものおもひ」、同第三
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回「芙人頭書」等あり。四日、松村堕二残(弐鞋。松岡藩儀夫の長男、幼名辰次郎、貢造生として大学南校に入り、明
治六年開成学校に法律を修め、中途追撃、十年東京植物園に出仕、御用掛となり、理学部補助を命ぜられ、十六年東
京大学助教授となり、十九年掲囲に留撃、ハイデルベルヒ、アバーデンに学び、二十一年辟朝、理科大学助教授、次
いで教授となり−三十年帝大植物園長に補し、大正十一年停年にて引退す。(既槻琳`駒紛謝紙`郡部純物”夢ナ鵬物夢博
騒準諾補講報新畑朗銅∽協)二十一日、野口英世残(講)。頑島騒猪苗代湖畔の小農代助の長男、幼名清作。(配舶酌
謂‥陀附gは拡浣け宗ほ蒜帽凱針新懐炉海齢桝調和舶如駒bl鸞覿よほ輔馴謂托鳩)明治二十九年東京済生孝舎に入学、二
十二歳にて撃術開業試験に及第、三十一年停染病研究所に入り、海港検疫醤官として横漬にペスト患者を襲見す。同
年十一月清園牛荘園際ペスト務防委員禽中央醤院に勤務、翌年七月辟朝、東京歯科拳学院講師となり、同年十二月渡
米、フレッキスナーの厚意にてペンシルヴァニア大挙に研鎮すること三年、蛇毒に関する業績を費表し、カーネギI
研究所より奨勒金を受く。三十六年デンマルク国立血清研究所に入り、辟米後新設のロックフエラー撃寧研究所貝に
挙げらる。大正二年、掲国萌有科学大倉に招待され、翌年ロックフエラー研究所部長に昇進し、四年七月帝国学士院
より恩賜賞を受く。七年エクアードル囲に赴き黄熱病研究に徒事し、同国名審陸軍軍醤監に任じ、昭和二年阿弗利加
に赴き、黄熱病源研究に轟カし、遽に之に感染して残す。蛇壱、狂犬病、小見離痔、痘瘡病に関する研究、微香スピ
ロヘータ純粋培養、麻痺狂及び脊髄療の原因確定等の外、襲表論文古人十六篇に達す。
六月二十三日、物集高見穀(宗)。杵築藩士高世の長男、幼名素太郎、後に善五郎と改む。藩害辻玄洋に学び、翌年
藩儒元田竹渓に学ぶ。慶應元年長崎に蘭学を学ぶ。同二年京都へ出で、玉松操に囲寧を学ぶこと三年、明治二年東京
に出で、平田鉄胤に国学、東條琴牽に漢学を学ぶ。伺ほ攻玉融に入りて英寧を修む。三年宣教史生に任ぜられ、教却
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省に出仕、月山、湯殴山紳融の宮司、東京高等師範学校御用掛となり、二十年文科大学教授に挙用、其の同支部省の
編修局記録課に勤め、学習院教授となる。二十一年「ことばのはやし」、二十七年「日本大尉林」を刊行す。晩年「廣
文庫」「峯書索引」の出版に専念し、大正五年二十三筋を完成し、伺性皇寧叢書十二巻を縮輯す。八月二十六日、佐藤
停蔵穀(姫針)。熊本解の人」二十入年東京帝大地質学科卒業、理学部助手に任じ、三十年学習院教授嘱託、翌年東京
高等師範学校教授に鴇じ、特に農商務技師として本邦国産珪藻土の研究、温泉調査、固幅作製、天然記念物調査等に
毒し、地質学合、地学禽の禽長たること数度、長野解に講師として出張中、尿毒症にて集る。(硝野伽確針糾鞭鰻轍詣軒
執畑針卵鉢嘲加硝針贈鮒勒倒)九月二十入日、大島久直子残(講)。秋田藩臣源次の二男、江戸に出で、明治四年陸軍中尉に任
じ、陸軍卿参謀副長、東京衛戌司令官、近衛歩兵第三聯院長、陸軍大学校長、歩兵第五旗園長、監軍参謀長、歩兵第十
一旗園長、近衛師園長等に塵補す。日清の役に歩兵第六旗園長として男雷を授けられ、日露の役に第九師園長として
子爵を授けらる。十月一日、遠山棒吉穀(謡)。山形麟の人、明治十六年東京帝大別科卒業、山形懸留学校教論として
赴任、同校長となり、二十一年新任、翌年東京帝大留学部選科生となり、二十四年東京顧徴鏡院を創立し、講習を卒
欝る者三千飴名に達す〇二十七年東京市本所病院長となり、三十三年より大正五年まで東京市技師、東京市衛生試
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験所長として衛生事業に薗り、四十一年欧米に出張、翌年辟朝、大正五年東京市技師を新任、顛微鏡院の経営に専念
す。(琵酢誤博詣鮎確藍祀囁、)整五日、廣津柳浪穀(肪針)。久留米藩士俊蔵(後に弘信)の二男、本名直人、幼
名金次郎、外国語学校に掲逸語を修め、東京帝大醤学部に入り、中途磨撃、十四年農商務省に出仕し、十入年退官、
二十年友人山内愚仙の勤めにて小説に染筆、翌年博文舘に入る。二十入、九年「欒目停」「黒晰錫」「亀さん」「河内
屋」「今戸心中」等に深刻小説の名が高まり、「段よ染」、「河内屋」、「今戸心中」等にて掲自の地位を占め、三十入年
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脚本「目黒巷談」を執筆し、本郷座に上演。四十一年二六新聞に長篇小説「心の花」を三宮飴回に及んで掲載、後に
「人」と改題す。晩年厭世思想を抱いて文壊と交渉を断ち、大正三年肺を病みて海漬に療養、途に起たず。
二月二十七日、西郷菊次郎残(畑野。西郷隆盛の長庶子、隆盛が大島へ流謁中に生る。鹿鬼島の英語学校に学び、
明治五年より七年まで米国に遊撃、西南戦役に父に徒ひ、城山に負傷して片脚を失ふ。二十入年董輝宜蘭支廃兵に任
じ、後に京都市長に挙げられて在職六年、島津家の山ケ野金山に入りしも健康を害して退職、鹿鬼島に飴生を造る。
(帥醐f郁ヨ駈斡詔綜凱b斬l帽酢預)二月十三日、廣澤金次郎伯穀(宗)。山口藩士兵助の長男、父の停功にて伯雷を
賜はる。明治二十一年英国に留寧、ケムブリッヂ大学に法律、政治、経済を修む。蹄朝後井上全権公使に随行して演
繹し、翌一一十七年山騒内閣に総理大臣秘書官となり、後にスペイン公使となり、辞任後第五銀行、東武鉄道、城東電
気軌道等に重役となる。若し薩の西郷菊次郎が特別に言ふべきことなく、父の故を以て世に知らる1ならば、長の廣
渾金次郎も均しく然りとすべくして、共に幾分にても容貌に父を偲ばす所ありとして興味を若けり。十二月二十三日〔
高畠素之残(講)。前橋の人、前橋中学を卒へて京都同志融に入り、一年飴にて退学、明治四十一年筆偶にて入獄中
マルクスの資本論を讃み、四十四年責文祀に入り、堺利彦、山川均等と「新融合」に執筆し、大正入年、堺、山川と
訣別して国家融合主義を唱道し、前と正反封の行動に出づ。大正入年七月「資本論」の礪詳に着手、全三巻を同十三
年七月刊了、資本論の研究にも姦したり。(増増兆がが″髭惑表針が野確媚媚b憫肘ポ藍硬、)二十五日、小山内
薫残(畑針)。炭島衛戌病院長健の長男、五歳にて父を失ひ、東京に移り、明治三十九年東京帝大英文科卒業、前より一
面に内村鑑三に近づき、一面に新流俳優と柏ひ知り、伊井の座附作者となり、間もなく許し、洋行締りの市川左園次
と自由劇場を組織す。大正元年軟洲劇盤を見学し、モスクワ劇場に感銘し、翌年蹄朝、市村座の顧問となり、九年松
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竹キネマ研究所の顧問に迎へられ、十二年大阪に増居し、翌年土方輿志と築地小劇場を創立し、維持、経営及び演出
に苦心し、露国事命十周年記念祭に国賓として卦へられ、締りて身心疲労し、クリスマスの夜「晩春騒夜」上演記念
舎に倒る。著書は全集入巻。(耶帽詣欠bl媚‰摘胱け棚詫覿鵬柚叫尊も、)