『所謂「天皇機関説」を契機とする国体明徴運動』より

    第三章 所謂天皇機関説問題発生前の諸状勢

 昭和十年の第六十七議会に於ける論議に始つた所謂天皇機関説排
撃運動は燎原の焔の如く全国に波及し、重大な社会問題政治問題と
なり単純な学説排撃運動の域を脱して所謂重臣プロック排撃、岡田
内閣打倒運動へと進展し、「合法無血のクーデター」と評されてゐ
る程、稀に見る成果を収め革新運動史上に於ける一時代を劃したも
のであつた。所謂美濃部学説は約三十年間の久しきに亙り我が国憲
法学の最高水準の一つとして認められて来たもので、問題発生の当
初に於ては一部の人々よりは「問題にならぬ問題」として評価され、
政府に於ても問題の本質に対する認識に欠くる処があり、学問の事
は学者の論議に委せて置けと言つた態度で、其の処置に遺憾の点が
多かつた。併し乍ら斯る見透は全く覆へされ所謂国体明徴運動とな
つて日に/\重大化し、遂には内閣の運命をも危くするに至つた。
国体明徴運動の経過を観察し運動勃発前の状勢に考察を加へて見る
と、機関説排撃運動は偶発的に発生し偶々政府の処置妥当を欠いた
為め重大化したと云ふよりは、寧ろ起るべくして起つた思想的社会
的政治的必然性を持つた問題であり、其の本質は満洲事変以来擡頭
した思想的社会的政治的革新運動の経過的な表れであつたと共に、
国体に関する国民の再認識再確認を促し、個人主義、自由主義、唯
物主義等の西洋的思想の清算に向はしめた思想的一大変革運動であ
つた事が理解される。

 (一) 日本主義革新運動の勃興と其の原因
 明治十年代の欧化主義に刺戟され反動的に漸次擡頭し始めた国粋
思想は、治外法権の撤廃関税自主権の回復を廻つて対外硬の自主的
観念を強化し、国運の進展と国力の充実を伴ひ遂に日清、日露両役
に勝利を占め、茲に東洋の盟主の実力を発揮すると共に、世界列強
に伍して、一大強国としての国民的確信を把握するに至つた。併し
乍ら一面我が国の経済的社会的発展は西洋の唯物主義個人主義自由
主義浸潤の好条件を為し、国民の自覚は銷痲[ママ]し、日本精神は日に日
に衰退するに引換へ、欧米化の風潮は急激に勢を増し、昭和時代へ
と移行した。
 経済界に於ては世界大戦に乗じて我が国産業は異常な発展を遂げ、
大正二年より大正八、九年頃に至る迄の我が国の戦争景気は、維新
以来政府の保護干渉政策によつて成育発展し来つた資本主義をして
飛躍的に発展せしめ、世界資本主義に於ける巨大な地歩を獲得せし
めると共に、之を独占的段階に入らしめ、金融資本の経済的竝に政
治的勢力を増大せしめ、実権の確保に向はしめた。即ち三井、三菱、
安田、住友等の少数金融資本家が経済界の王座を占めるに至つた。
 又政界に於ては世界大戦の終焉の齎した平和思想とデモクラシー
に乗じて、政党勢力は飛躍的発展を遂げ、藩閥政治家に代つて政局
を担当するに至り、大正七年政友会総裁原敬が内閣を組織してより
は、政党内閣制が実質的に成立し、之を以て憲法の常道なりとし政
党万能の状態となつた。併し原内閣成立当時我が経済界は、既に独
占資本主義の段階に進んでゐた。自由主義的資本主義の副産物とし
ての、政党内閣制、議会中心政治は実現したものの、政党はデモク
ラシーの主張を持ち乍ら、早くもデモクラシー的体制を捨て、独占
資本主義の社会的体制の実質に応じて、総裁其他少数指導者の専断
する処となり、彼等は政党の援護者である金融資本の衛兵として、
党内専制に依つて其の役割を遺憾なく発揮し、茲に少数金融資本家
は政党を傀儡として経済的支配権、政治的支配権を確立するに至つ
たと言はれてゐる。
 更に思想界に於ては欧米に発達した個人主義自由主義は、我が国
資本主義の飛躍的発展と共に時代の主流を為すに至つた。世界大戦
に於ては我が国は殆ど戦争の圏外に置かれ所謂戦争景気は国民を著
しく浮華軽佻に陥らしめ国民的自覚を銷痲[ママ]せしむるものがあつた。
戦争の為め極度に疲弊した欧洲各諸国は軍備の整理、不拡張に依つ
て窮乏財政を救ふ必要上平和思想とデモクラシーとを宣伝したが此
の傾向は我が国にも反映し軍縮の声は、国際聯盟を謳歌する声とな
り、其の平和政策は外交に於ては国際協調主義となり、国内的には
国家発展の基礎を為す国防の重要性は重んぜられず、軍事を軽視す
るの風潮をさへ生ずるに至つた。
 斯くの如くにして此の時代の我が国は経済界に於ける金融資本の
制覇、政界に於ける政党政治の確立があり、思想界に於ては資本主
義制度機構の支柱としての個人主義自由主義唯物主義が横溢し支配
的となつてゐたのであつて、国体に対する国民的自覚は著しく鈍痲
してゐたのである。
 併し乍ら以上の如き政治、経済、社会の秩序諸機構は此に伴ふ欠
陥を内蔵し、其の弊害は間もなく顕在となり、昭和年間に入つて以
来、此等弊害は政治、経済、社会、外交各方面に行詰、不振、腐敗
となつて現はれた。之に対して局面を打開し、所謂国難時代を突破
して新日本の建設を図らんとする気運が漸く国民の間に湧き起つて
来た。
 国民の自覚を促し、革新的気風を発生せしめた原因として指摘さ
れてゐる処を見るに、経済生活の行詰、外交の行詰不振、政党財閥
の腐敗堕落、政治経済の現状に対する根本的疑惑、国民思想の動揺
等が数へられてゐる。我が国の国民経済は昭和四年以来の世界恐慌
の余波を受けて深刻且永続的不況に陥り中小商工業者は漸次没落し、
失業者を増加し、各方面の労働条件は低下し、殊に農山漁村の窮乏
は日々に甚しく此の経済国難の打開は国民の要望となつて来た。外
交方面に於ては、英仏諸国は窮乏財政の立直と戦時中に喪失した権
益回復の為めに平和思想に軍備縮少とを宣伝したのであるが、其の
軍縮政策はワシントン会議、ロンドン会議となりて我が国の大陸政
策を牽制し、戦時中に獲得した大陸に於ける諸権益は当時の平和政
策の為、多くの譲歩を余儀なくされ、多数国民の血を以て獲ち得た
我が満蒙の権益すらも張学良政権の民族主義的攻撃とに挟撃され、
喪失の危険に曝されるに至り、故に我が国外交は退嬰、日和見、追
随外交の名を以て国民の不信を買ひ、殊に極東外交の前途暗澹たる
ものには痛く一部国民殊に軍部の憤激を買ふところとなつた。斯の
如き内外の重大時局に当面せるに拘らず、政党及政党を基礎とする
政府は党利党略のみに没頭して国家を顧るの暇なく、政権の獲得の
みに狂奔して党利民福は無視され、党資金獲得の為財閥と結託し、
利権問題に干与し、選挙に於ける買収其の他の不正行為は頻りに行
はれ、政党の勢力は知事、警察部長は固より地方に依つては下級警
察官に迄及び此等公の機関は政党の私擅[ママ]に蹂躙され、官権の濫用、
行政への干渉攪乱甚しく、政党に対する国民の怨嗟の声は漸次高ま
つた。又財閥は営利の為に中小資本家、勤労生活者、一般消費者を
圧迫し、国利民福を売つて、巨利を壟断するの行為すら敢へて辞せ
ず、政党内閣と結托し金輸出再禁止に依る弗買に巨利を博したとも
言はれ、斯る政党財閥の腐敗堕落に対する一部国民の反感を弥が上
に高からしめた。以上の如き政治、経済の現状に鑑み、国民より
急速な革正が要望さたれが、斯る要望は必然的に政治経済の根本機
構に眼を移さしめ、資本主義機構、議会政治殊に政党政治及び其の
基調を為す個人主義自由主義思想に対して検討が行はれ何等かの是
正乃至変革の必要が強調されるに至つた。又国民思想は世界大戦後
社会主義共産主義思想の影響を受けて甚しく動揺し、此等反国体思
想は国民経済生活の不安に乗じて思想界を席捲し、青年インテリ層
に深く喰ひ込み真に憂ふべき事態を来したのに鑑み、斯る弊風を今
にして一掃せずんば、国家の将来には憂慮措く能はざるものありと
見られ、国民精神を振興して日本本来の姿に立戻らねばならぬと云
ふ声が自ら大となつて行つた。
 以上の如く大正時代末期より昭和の初頭にかけての我が国は、所
謂政治国難、経済国難、思想国難に当面し、所謂非常時局を現出す
るに至つたが、時局の重大性は一部国民の覚醒を促し革新の気運を
孕ましめ、満洲事変以来は頓に日本主義思想勃興し、社会の各方面
に其の鋭鋒を表はし始め、日本主義に基く国家革新運動の興隆を来
さしめるに至つた。此運動は時艱を克服して真に正しい形に於ける
国家の発展を期するものが、其の努力の裡には当然真に日本的な思
想を背景としてのみ可能な事が意識され、国体の開顕が革新運動の
根本目標となり、真に日本的な角度に於て国体に反し国体に背くも
の一切を除去し日本精神日本文化に一貫する調和と綜合の作用に依
り政治、経済、社会、外交、法律等総ての制度機構に日本独自の改
造革新を加へ、以て日本国体の精華、肇国の精神を中外に発揚せん
ことが強調された。かくして従来の社会改造運動の主潮であつた自
由主義乃至社会主義に代つて日本主義国家主義が革新思想の中心を
形成し、反国際主義、反自由主義、反個人主義、反民主主義、反資
本主義、反共産主義等の主張を掲げて国家改造運動の前面に躍進し
て来たのである。

     (二) 日本主義革新運動の概況

 今日の日本主義国家主義革新運動の直接の淵源は大正七、八年代
に求められてゐる。当時の国内に於けるデモクラシー運動及び社会
主義運動に対する反動として国粋運動が盛んとなり、大正赤心団、
縦横倶楽部、大日本国粋会、大日本赤化防止団、大日本正義団、建
国会等の愛国団体が簇出したのであるが此等団体の任務とするとこ
ろは国粋主義国家主義によつて西洋流のデモクラシー、社会主義思
想を排撃するにあつて、現状維持の消極的運動に堕し、彼等の中に
は往々にして既成政党の御用団体として活動し或は資本家の用心棒
として暴力を逞うし世人より擯斥されるものも少くなかつたが、此
の間に於て積極的革新的見解を持し外来異端思想の乗ずるの隙なか
らしめる為、国内改造を断行し、社会矛盾を克服して革新日本を建
設せんとの主張を為すものを生じた。即ち老壮会(大正七年十月)
猶存社(大正八年八月)に拠れる北輝次郎、大川周明、満川亀太郎
等の一派、興国同志会(大正八年四月)に拠れる上杉慎吉博士一派
及大衆社に拠れる高畠素之一派である。猶存社は機関紙「雄叫び」
を発行し全国の有志に呼びかけ、北一輝の『日本改造法案大網』を
公刊し、日本的改造を主張し、其の思想の普及に努め、軍人学生の
一部に強烈な共鳴を得た。帝大「日の会」、拓大「魂の会」、早大
「潮の会」、五高「東光会」等は何れも猶存社一派の指導を受け、興
亜の理想を抱いて組織された。大正十一年中頃から大川周明と北一
輝との間に意見感情の対立阻隔を来し、大川一派の脱退となり猶存
社は自然解散となつたが、其の後大川は満川亀太郎、安岡正篤、西
田税等と共に大学寮を、更に大正十四年三月十一日には行地社を組
織し雑誌「日本」を発行して熱烈な日本主義の鼓吹に努め、同志の
獲得に邁進し、殊に彼等は将来の国家改造運動の行動要素は真の愛
国者なる軍部なりとし、青年将校への接近を図り、各地の在郷軍人、
現役軍人の間に多数の共鳴者を得るに至つた。大正十五年亦も行他
社内部に内訌を生じ分裂し、西田税、満川亀太郎等は北一輝の許に
走り、安岡正篤は戦線より一歩後退し昭和二年一月精神強化運動を
志し金鶏学院を設立した。
 一方上杉慎吉派と高畠素之一派とは大正十二年相提携して経綸学
盟を創立し、日本主義の鼓吹と国体の精華の発揚を目標として新日
本建設の志士養成に努め、大正十四年には上杉博士を中心として帝
大内に七生社が組織され、又上杉門下の天野辰夫は昭和二年行地社
の分裂に依り大川の許を去つた綾川武治、中谷武世等と共に全日本
興国同志会を創立し、更に昭和五年二月高畠門下の津久井竜雄等と
共に愛国勤労党を組織した。
 又一方虎の門事件の不祥事に刺戟されて、時の閣僚たりし平沼騏
一郎男は国民精神振興の目的を以て大正十三年五月「国本社」を組
織して自ら其の盟主となり、各地に支部を設置して活動を続け、こ
れが為多数の日本主義者、国粋主義者は一斉に立つて愛国の叫びを
挙げた。
 次で大正末期より昭和に入るや、我が国の無産陣営の共産主義、
社会主義運動は、政府の峻厳な取締と共に其の活動は組織的且つ潜
行的となつて益々拡大し尖鋭化した。斯る情勢の下に右翼団体の運
動も著しく意識的となり次第に強化し、従つて従来主として社会主
義に対する反動として存在してゐたものが茲に反動時代を脱して意
識時代に入り明確に運動の内容を掲げて行動する様になつた。其の
為単に反動のみを事とし指導原理を欠いてゐた団体は自然影を没す
るか、又は勢力を失ひ、或は政党の院外団乃至会社ゴロの如き暴力
団化し去つたと同時に、一方日本主義国家主義団体として踏み止つ
た確固たるものは、益々其の旗幟を闡明にし、其の主張を理論化し
体系化すると共に運動の組織化に努め、我が国社会運動史上に重要
な役割を演ずるに至つた。殊に昭和三、四年頃を境として、国民生
活の不安、外交の行法[ママ]不振、政党財閥の腐敗堕落等に刺戟されて、
日本主義国家主義諸団は左翼運動に対する反動団体としての地位を
全く清算し、非常時日本を背負ひ日本の現状の行詰、不振、腐敗を
革正打開して新日本の建設に進まんとする革新運動へ進出するの気
運が急激に擡頭して来た。
 大正十一年のワシントン協定及び九ケ国条約は我が国の支那大陸
進出を阻止せんとしたものであつた為、一部心ある者は協定を成立
せしめた政界の現状に痛く憤慨し、之が革新運動に対する刺戟とな
つた。次いで昭和五年浜口内閣当時成立を見たロンドン条約締結に
於て、海軍軍令部の国防上の見地よりする対米七割主張は幣原外相
を戴く外務省の国際協調外交に依つて譲歩が為され、結局日米妥協
案を以て協定を成立せしめたが、其の間に政府に依つて国防用兵の
責任者である軍令部長の意見が無視されたと言はれ、所謂統帥権干
犯の問題が惹起して国論を沸騰せしめ、軍部側の態度著しく硬化し、
殊に陸海軍青年将校の一部は政府の堕弱軟弱外交を痛憤した。此の
問題は日本主義国家主義陣営に反映し、其の運動は一段と活況を呈
し、期せずして軍部側の意嚮に共鳴し、八幡博堂、鈴木善一、西田
税等の日本国民党、天野辰夫等の愛国勤労党を初め、対外硬同盟等
盛んに軟弱外交に対する反対運動を起した。同時に日本主義国家主
義陣営は此の問題を以て自由主義、資本主義に依存する政党、財閥、
特権階級等現状維持の立場にある既成勢力の専恣横暴の顕現なりと
し、現状打開の気運を孕み「強硬外交の展開」「産業大権の確立」
「錦旗革命の断行」「一君万民の無搾取国家建設」「国家統制経済の
実現」「新興亜細亜の建設」を唱えて其の旗職を鮮明にし、財閥膺懲、
既成政党打倒を叫び、反自由主義、反議会主義、反資本主義の方向
に鋭鋒を集注するに至り、之と相前後して戦線統一の問題起り大川
周明等が中心となり、黒竜会系、高畠系の団体を糾合して、昭和六
年三月「全日本愛国共同闘争協議会」を組織し
  一切を挙げて天皇へ
  議会制度を抹殺せよ
  天皇政治を確立せよ
  資本主義を打倒せよ
  錦旗革命を断行せよ
等の標語を掲げて果敢な運動を展開する等、日本主義、国家主義運
動は新な意義と生命とを獲得し、社会運動の一角に力強く登場する
に至つた。
 折柄突発した昭和六年九月の満洲事変竝に同年十月の軍部中堅将
校に依る十月事件は此種運動に拍車を加へ、遂には無産運動陣営に
対しても異常な衝撃を与へ、社会民衆党の赤松克麿一派及び全国労
農大衆党の近藤栄蔵等を始め、下中弥三郎等陸続として国家社会主
義へ転向し、茲に国家主義運動は著しく戦線を拡大し、其の勢力は
全国的に進展し、所謂ファッショ時代を現出する様になつた。次い
で昭和七年三月には上海事変起り、又国内的には同年二、三月にか
けて、血盟団、同年五月には五・一五事件、昭和八年七月には神兵
隊事件等継起し、急迫せる社会情勢及軍部内の革新思想等にも影響
されて、此種運動は凄じき勢を以て勃興し、夥しい数の日本主義国
家主義団体を生ずるに至つた。即ち昭和四、五年以降には、前記日
本国民党、愛国勤労党の外、昭和四年六月津久井竜雄等の急進愛国
党、昭和六年六月黒竜会の頭山満、内田良平、日本国民党の八幡博
堂、鈴木幸一、愛国社の岩田愛之助等に依る大日本生産党、昭和七
年二月行地社の再組織に依る神武会、同年五月赤松克麿、小池四郎
等の愛国政治同盟(旧称日本国家社会党)、下中弥三郎、佐々井一
見等の新日本周民同盟、昭和八年四月陸軍少将黒沢主一郎等退役軍
人と農民の提携に依る皇道会、同年五月石原広一郎及退役陸軍大将
田中国重等在郷将官を中心とする明倫会、同年八月旧日本国家社会
党より脱退した赤松克麿、津久井竜碓、倉田百三等に依る国民協会
等を始め全国各地に有力団体相次いで簇生した。

    (三) 軍部内に於ける革新熱

 大正末年より生じた国家革新の風潮は陸軍部内にも波及した。デ
モクラシー左傾思想防止の為、陸軍大学校、陸軍士官学校等に於て
は大川周明等の国家主義者を招聘して軍隊教育に当らしめ又士官学
校に於ては時勢に応じ狭義的教育を排して、軍事的教程以外に広く
政治経済文化等の基礎智識を与へる為の教科が設けられた。又将校
の多くは農村或は其の他の中間階級出身者で自己の周囲に於ける国
民中堅層の没落の事実には胸を打つものがあつたに達ひない。此等
に依り将校の社会的認識は高められ、此と共に政党全盛時代の政治
の動き、それに伴ふ社会的不安の根源は漸く、明にされ、現状の転
換を計らなければ、社会的不安は益々濃厚となる事が自覚され、又
一方に於ては当時幣原外相の持つ国際協調、追随外交は満洲、支那
に対する何等積極的、自主的対策を立て得ず、問題は急迫化し国防
の重大化は切実なものとなつて来た。国防の充実と其の為の必須条
件を為す国民生活の安定の要望切なるものがあつたに拘らず、ロン
ドン条約締結を繞り軍の生命である統帥権干犯の問題さへ生じ、此
問題に付いて自由主義憲法学者に依る政治弁護が行はれ、立憲政治
確立の為軍部大臣の文官制さへが問題となつた。此処に於て一部少
壮将校の政治的社会的関心は頓に高まり、大川周明、北一輝、西田
税等の革新熱注入と相俟つて軍内中堅、下級将校の間に現状打開、
国内改革、対外政策の確立等の熱烈な要求が起つた。
 軍部はロンドン条約に依つて先づ海軍が硬化し、次いで陸軍部内
に於ても中堅将校殊に参謀本部を中心として強硬な革新熱が起り、
昭和六年には参謀本部の将官級を中心とする三月事件、次いで十月
には参謀本部の佐官級を中心とする十月事件等の直接行動が、大川
周明一派との合作に依り計劃せられたが何れも中途挫折した。十月
事件の挫折を見て北、西田系の菅波三郎、末松太平等の隊付青年将
校の革新分子は之を批判し、革新は国体の原理に徹して初めて可能
なりとし茲に皇道派と称せられる革新熱に燃える青年将校の一団を
形成し、大川系の中堅高級将校派と対立して荒木大将を支持し、之
と密接な関係を有しつゝ国家改造に努力した。昭和六年の満洲事変
に当つては軍部は政府の「不拡大方針」のあらゆる拘束を反撃して、
国外問題の解決に向つて邁進し軍部の重要性は益々増進した。軍部
は満洲の資本主義的植民化を排撃し「搾取なき王道楽土国家」を建
設する旨宣言し、財閥利権屋の満洲進出を阻止した。この事は国民
的熱讃を湧き立たせ、軍部に対する国民の全幅的支持となつたに拘
らず、財界は満洲建設資金を拒否して冷然としてゐた。国内問題は
国防の重要性と相俟つて其の解決が必須なものとされ、斯る切迫し
た状態の内に血盟団、五・一五事件が勃発した。此の事件に依り軍
部の政治的発言は強化され国家革新の推進力としての重要性は益々
加はつて来た。五・一五事件後斎藤内閣成立し、荒木陸相は部内の
革新的圧力を背景として革新政策の断行の為め活躍し、五相会議、
内政会議に於て軍部の希望は披瀝されたが、何等具体的な成果を挙
げ得なかつた。其の為荒木陸相に対する部内の信望は逐次薄らぎ、
又議会に於ては政党の軍部に対する攻勢の的となり、益々苦境に立
ち、遂に昭和九年一月林銑十郎大将に陸相の地位を譲つた。陸相更
迭後林陸相及び永田鉄山軍務局長は部内に存する暗流対立の解消に
努めると共に急進的な革新政策の断行を避け内閣調査局等の如き漸
進穏健な方策に依つて革新政策を実現せんとする方向に進む様にな
り、昭和九年十月十日には陸軍省新聞班の名を以て広義国防と国家
による経済的統制の必要を力説した「国防の本義と其強化の提唱」
なるパンフレット発行せられ軍部の革新方向が明にされた。

     (四) 不穏事件

 大正末年より昭和時代にかけての所謂政治国難、経済国難、思想
国難に当面した国民の時局に関する覚醒と現状の行法不振に対する
不平不満とは一部急進革新分子をして屡々直接行動に出でしめた。
血盟団、五・一五、神兵隊の一聯事件は国民に一大衝撃を与へると
共に国民の愛国的熱情を喚起し、革新熱を助長せしめた。彼等は特
権階級、政党、財閥の横暴と腐敗とが国家を蠢毒してゐるものとな
し、之を芟除して国家革新を図らんとして立つたものである。五・
一五事件の被告人達は「我国現下の状態を目し、皇道扶翼の精神は
日に衰へ国体の尊厳は日に疎んぜられ所謂支配階級たる政党及特権
階級は腐敗堕落し相倚り相助けて私利私慾に没頭し国防を軽視し国
政を紊り外国威の失墜を招き内民心の頽廃農村の疲弊を来せる等皇
国の前途頗る憂ふべきものあるのみならず特に満洲事変の勃発に伴
ふ国際状勢及倫敦軍縮条約の結果我が対外関係の危険は一日の偸安
を許さずとし速に此等時弊を革正し以て建国の精神に基く皇国日本
を確立する為国家革新の必要を痛感し而も叙上焦眉の事態と当時の
境遇上到底合法手段を以てしては之が革正を期し難しとし遂に自ら
国家革新の捨石となり直接行動に依り是等支配階級の一角を打倒し
支配階級及一般国民の覚醒を促し以て国家革新の機運を醸成せんこ
とを欲し」て直接行動に出でたもので、国家の危機は政党、財閥、
特権階級の腐敗堕落を除き、所謂革新政策を遂行することに依つて
救はれ、国家の発展は期待し得るものとされてゐた。五・一五事件
後内閣主班の奏薦について先づ政党は斥けられたが、政党が政治機
構の中より姿を消した訳ではなく、成立を見た斎藤内閣には是迄と
同様参加し政治的一要素たる地位を得てゐた。要するに斎藤内閣は
政党、軍部、官僚の妥協内閣であり五・一五事件の鎮静作用調整作
用を主要目的としたものとされ、現機構を維持する最後の防砦とも
見られた。その為急進的革新分子は更に立つて五・一五事件の企図
した処を実現せんとし天野辰夫、前田虎雄等に依り昭和八年七月十
一日の神兵隊事件が計画されたのである。

     (五) 対立せる二大思潮

 之を要するに現代日本を指導する国論は大別すれば二つである。
其の一は現状維持論であり、其の二は現状打破論である。
 現状維持論は換言すれば維新反対論である。這は思想的には自由
主義、個人主義であり、政治的には議会中心主義の政党政治であり、
経済的には自由主義的資本主義のものであり、其の外交方針は協調
の名に依る英米追随主義であり、其の国体的信念は英国流に傾いて
ゐると謂はれてゐる。然して是を代表し主張し実行し来つた勢力は、
元老、重臣、官僚、政党、財閥及び之に附和依存する一般の所謂自
由主義者であると見られてゐる。此に対し現状打破論は国家改造論
となり維新断行論となり軍部勢力を中心として朝野上下に群集して
ゐる。畏くも 上御一人は天下万民の中心に於て先頭に於て国家一
切の親裁者に在らせられることを信奉し、従来の政党政治を排撃し
て、資本主義自由主義経済組織を時代錯誤なりとして其の革正を叫
び、英米追随外交を非難して自主的道義的外交を強調する。
 現下日本は実に国家内外の一切に亙つて此相反する二個の思想的
潮流信念的勢力の対立闘争に尽きる。凡ゆる機会あらゆる問題毎に
悉く相争つて居るものが此の二個のものであり、最近の日本史は此
二個の闘争史であるとも言はれて居る程である。
 而して現状打破革新勢力は倫敦条約問題以来政界、官界、軍部其
の他あらゆる階級に強力な素地を形成し、内に於ては血盟団、五・
一五事件等の如き急進的分子による直接行動をも起さしめ、外に於
ては満洲事変、国際聯盟脱退、華府条約廃棄等の飛躍を試み、逐次
旧勢力を圧倒して維新的局面を開拓し来つたのである。五・一五事
件に依り形式的にせよ現状維持勢力の一角を為す政党は政権より遠
ざかり、自由主義、民主主義的思想勢力、社会勢力、政治勢力は頓
に頽勢に傾きかけた。殊に軍部に於ける革新勢力を背景として荒木
陸相が斉藤内閣に列し、革新政策の遂行に努力した時には、革新派
より多くの期待が掛けられた。併し乍ら西園寺、牧野、斎藤、一木
等の元老、重臣を中心とする現状維持派は内部的には急進的な革新
を避け、対外的には戦争の勃発を抑へる為懸命の努力を払ひ、五・
一五事件後には時の陸軍首脳荒木大将、真崎大将等の強力内閣の要
望、陸軍全体の希望する平沼内閣を排し、政党、軍部、官僚の妥協
による斉藤内閣を成立せしめて現機構を維持する防砦たらしめたと
謂はれ、そこには憲政常道復帰が説かれ、政党の軍部に対する反撃
は議会に於て陸相に対する攻撃となつて現はれた。荒木大将に代り
林銑十郎大将が陸相となるに及び、永田軍務局長との協力により所
謂合法改革派の統制が行はれ、軍部に於ける革新派の勢力は抑へら
れ、又政治方面に於ては革新派の中心とたのむ平沼男が重臣層の排
撃により慣例的な枢府議長昇格が卻けられ、又昭和九年七月の政変
には斎藤内閣の延長と見られた岡田内閣が出現して高橋財政が踏襲
され、枢密院に於ける一木枢相と共に政界は重臣以下の現状維持派
に依つて固められたと見られた。併し乍ら満洲事変、国際聯盟脱退
等の如き対外国策を決定せしめ、維新的局面を開拓して来た革新勢
力の圧力を良く阻止し得る筈のものではなく、現状維持派に依り合
法的に締出を喰はされた枢密院、貴族院の一部官界の一角より陸海
軍及民間の愛国団体の革新勢力は何等かの機会を得て、更に飛躍を
試みんとし待期の姿勢を以て昭和十年を迎へたのである。之を要す
るに、満洲事変以来の非常時局に大に国民の覚醒を促したと共に革
新勢力の飛躍的発展を齎らしした。そこには真に正しい国家の発展は、
真に日本的なる思想を背景としてのみ可能なる事が意識され国体の
自覚となり、政治、経済、社会、法律其の他総ての制度機構を我国
体に合致すべき制度機構に建直し、肇国の精神を凡ゆる方面に具現
顕揚せんとする要請となつて来た。此が現状打破革新思潮に一貫し
て流れる根本的基調である。個人主義、自由主義、民主主義等の欧
米思想を基調とする諸制度機構の上に立ち、之を維持せんとするも
のと目せられた現状維持勢力に対し、屡々直接行動が試みられ、其
の一角を為す既成政党は政権より一歩後退を余儀なくされた。現組
職制度及び現状維持勢力の持つ思想自体に対して早晩一大反撃の加
へられるのは必然となつて来た。思想的一大変革運動の起る揚合に
は此に先行すべき事実がある筈であるが、斯る先行事実は前記の如
く既に革新勢力に依り齎されてゐた。昭和十年の初頭に当り議会中
心主義の政党政治を後退せしめた現状打破思潮が斯る政治を可能な
らしめた美濃部憲法学説の否定へと先づ爆発したのは蓋し当然であ
つた。此の機関説排撃運動が国体明徴運動へと発展し、美濃部学説
の背景を為し現制度組織の基底を為すと云はれる自由主義思想個人
主義思想の批判乃至否定へと進み、更に自由主義陣営の中心と目せ
られる重臣、其の奏薦によつて成れる岡田内閣を初め、政党、財閥
等の所謂現状維持派に対し「機関説信奉者」「機関説支持者」「機関
説実行者」の名を冠しての排撃運動へと進展して行つたのも亦必然
の趨勢であつたと言へる。

    第四章 国体明徴運動の第一期


      第一節 所謂「天皇機関説」問題の発生


(一) 美濃部博士の態度

 既に記述した通り帝国憲法は其の起案綱領中に

  一、聖上親ラ大臣以下文武之重臣ヲ採択進退シ玉フ事
     付  内閣宰臣タル者ハ議員ノ内外ニ拘ラザルコト
        内閣ノ組織ハ議院ノ左右スル所ニ任ゼザルベシ

とあり、又綱領に副へられた意見書にも政党政治、議院内閣制の国
体に副はざる所以が強調されてゐる通り、起草当時度に国体上から
政党内閣を排斥してゐた事は極めて明瞭であつて、「憲法義解」にも

   彼の或国に於て内閣を以て団結の一体となし大臣は各個の資
  格を以て参政するに非ざる者とし連帯責任の一点に偏傾するが
  如きは其の弊或は党援聯絡の力遂に以て 天皇の大権を左右す
  るに至らむとす此れ我が憲法の取る所に非ざるなり。

と述べてゐる。往年憲法論争の華かなりし頃、恰も政党政治樹立を
目指す運動の旺盛期であり、資本主義の躍進的発展による自由主義
思想の全面的横溢期であつたが、美濃部博士は当時の思潮に乗り、
自由主義的法律論の上に立つて自己の所謂「天皇機関説」を唱導し、
自らの学説を通説たらしめると共に民主主義的なその学説によつて
政党政治家掩護の重要役割を演じ彼等に学問的根拠を与へた為、制
定当時の憲法の精神は著しく歪曲された。美濃部博士は自己の学説
が支配的となつて後は、恰も政党政治家の御用学者たるの観を呈し、
ロンドン条約を繰る統帥権干犯問題に国論沸騰した当時に於ても、

   統帥大権の独立といふことは、日本の憲法の明文の上には、
  何等の直接の根拠の無いことで、単に憲法の規定からいへば、
  第十一条に定められて居る陸海軍統帥の大権も、第十二条に定
  められて居る陸海軍編制の大権も同じやうに 天皇の大権とし
  て規定せられて居り、しかして第五十五条によれば 天皇の一
  切の大権について、国務大臣が輔弼の責に任ずべきものとせら
  れて居るのであるから、これだけの規定を見ると、統帥大権も
  編制大権も等しく国務大臣の責任に属するものと解すべきやう
  である。しかし憲法の正しい解釈は(中略)統帥大権は一般の
  国務については国務大臣が輔弼の責に任ずるに反して、統帥大
  権については、国務大臣は其の責に任ぜず、いはゆる「帷幄の
  大令」に属するものとされて居るのであつて、憲法第五十五条
  の規定は統帥大権には適用せられないのである。(中略)帷幄
  上奏と編制大権との関係如何が問題となるのであるが、帷幄上
  奏は 大元帥陛下に対する上奏であり、これが御裁可を得たと
  しても、それは軍の意思が決せられたに止り、国家の意思が決
  せられたのではない。それは軍事の専門の見地から見た軍自身
  の国防計劃であつて、これを陸軍大臣又は海軍大臣に移牒する
  のは、唯国家に対する軍の希望を表示するものに外ならぬ。こ
  れを国家の意思として如何なる限度にまで採用すべきかはなほ
  内外外交財政経済その他政治上の観察点から考慮せられねばな
  らぬもので、しかしこれを考察することは内閣の職責に属する。
  (中略)たとひそれが帷幄上奏によつて御裁可を得たものであ
  るとしても法律上からいへばそれはたゞ軍の希望であり設計で
  あつて国家に対して重要なる参考案としての価値を有するだけ
  である。(中略)内閣はこれと異つた上奏をなし、勅裁を仰ぐ
  ことはもとよりなし得る所でなければならぬ。(「東京朝日新
  聞」昭和五年五月二日乃至五月五日附朝刊所載)

と論じて、時の浜口首相が海軍々令部の意見を無視し、内閣に於て
妥協案支持を決定して回訓の電報を発したと称せられ、非難の的と
なつた政府の処置を、得意な憲法理論を以て法律上妥当な処置であ
ると庇護し、大に政府の弁護に努めた。又政党政治に対して、国民
が漸く疑惑の眼を以て眺めるに至つて後も、『議会政治の検討』『現
代憲政評論』等の著述に於て、政党政治は唯 天皇政治の下に於て、
大権輔弼の任に当る内閣の組織につき、議会の多数を制する政党に
重きを置くことを要望する趣旨に外ならず、而も近代的の民衆政治
の思想は、能く我が国体と調和し得べきは勿論、実に我が憲法に於
ても主義としてゐる所であると主張して、政党政治擁護の論議を為
してゐる。昭和九年七月時の斎藤内閣を崩壊せしめた所謂帝人事件
を繞る人権蹂躙問題に関しても、美濃部博士は翌十年一月二十三日
の貴族院本会議に於てその得意とする形式論法を以て、当局攻撃の
矢を放ち、第一検事は違法に職権を濫用して被釈者を逮捕監禁した
ることなきや、第二検事は被告人に対し不法の訊問を為し現に被釈
者に対し暴行凌虐を行ひたることなきやを詰問して院内自由主義分
子の拍手喝采を浴びた。併しながら斯る博士の態度は検察の実情を
無視し、徒に財閥官僚政党政治家を擁護したるものとして、一部有
識者を初め日本主義者の反感を買ふに至つたものの如くであつた。
 第一編に述べた如く美濃部学説が国体に関する国民的信念に背反
する自由主義的民主主義的学説である限り、国民的自覚が喚起され
た暁に於ては早晩再び非難排撃の的となるべきは必然の運命であつ
たとも見られるのであるが、博士自身が最近に於て所謂現状維持派
の為に盛んに法律論を以て思想的擁護を試みたことは、自由主義思
想撃攘の一大思想変革運動の序曲として血祭に挙げられるに至つた
一原因と思はれる。

(ニ) 国体擁護聯合会の活動

 美濃部博士に対する攻撃は既に記述した如く早くより原理日本社
の蓑田胸喜等に依り行はれ、同人等は屡々反駁的著書を刊行して輿
論の喚起に努めてゐたが、此の問題を取上げて積極的活動を開始し
たのは国体擁護聯合会であつた。同聯合会は昭和七年末に於ける所
謂司法部赤化事件の責任者糾弾を直接目的として同年十二月七日在
京日本主義国家主義団体三十余を網羅結成せられたもので、其の後
活動範囲を拡張し共産主義排撃の運動のみに止まらず、五・一五事
件被告竝に佐郷屋留雄の減刑運動に、或は京大滝川教授問題(昭和
八年)、中島久万吉商相の「尊氏讃美論」問題(昭和八年二月)等に
活動を試みると共に組織の拡充を図り参加団体八十余を数へるに至
り革新的聯合団体として重きを加へるに至つた。一方蓑田胸喜はロ
ンドン条約に関する統帥権干犯問題発生当初より貴族院に於ける日
本主義者三室戸敬光、菊池武夫、井上清純等と相識る間柄であり、
菊池の率いる勤王聯盟と同様、自己の日本原理社を率いて国体擁護
聯合会に参加し、同聯合会の活動に大に示唆する処があつた。中島
商相の「尊氏讃美論」問題は雄誌「現代」二月号に掲載された同氏
の「足利尊氏論」に逆臣尊氏を礼讃する章句があつた為で国体擁護
聯合会に依り問題視され、同商相の製鉄所合同に絡る涜職問題と共
に第六十六議会の論議の的となり、同商相は二月九日辞職の止むな
きに至つたのであるが、此の問題に就いては裏面にあつて大に活躍
し、菊池男、三室戸子と共に中島商相糾弾の急先鋒であつた。
 菊池男爵は第六十六議会に於ける中島商相の「尊氏讃美論」問題
に就いての質問中、初めて著者名を言はざる儘美濃部博士の著書
『憲法撮要』を挙げて天皇機関説の反国体学説なることを強調して
斯る言説を為す学者は宜しく高等試験委員より罷免すべきであると
要求した。此の時は政治問題として重大化するに至らなかつたが、
其の後菊池男は蓑田胸喜等と共に出版物に、演説会に盛んに美濃部
学説排撃の気勢を挙げた。一方美濃部博士も二月十二日発行の帝国
大学新聞に「憲法学説辨妄−菊池男爵の演説に附いて−」、「改造」
四月号に「退官雑筆」等の記事を寄せて学説の弁護と菊池男に対す
る反駁を試み、更に菊池男より「政界往来」四月号紙上に「美濃部
博士に質す」と題する記事によつて質疑に就き紙上回答を求められ
たが、美濃部博士は之に対し単なる攻撃の為の攻撃にして故意の曲
解なりとし無抵抗主義をとる旨公表し、攻撃を黙殺するの態度を取
つたのである。(政界往来昭和九年五月号美濃部博士筆「無抵抗主
義をとる−反駁文を書かない理由−」)越えて昭和十年一月下旬に
至り、国体擁護聯合会は蓑田胸喜の起草に係る左記「美濃部達吉博
士、末弘厳太郎博士の国憲紊乱思想に就いて」と題する長文の印刷
物を作成して各方面に配布し輿論の喚起に力め積極的に美濃部博士
排撃の運動を開始した。右の文書は美濃部、末弘両博士の著述に対
する攻撃文であつて、美濃部博士に就いては其の著『憲法撮要』等
に於ける国務大臣の責任、枢密院制度、帝国議会の地位、司法権の
独立、統帥大権の独立等に関する記述を引用し一読して直に其の反
国体的なることを解し得るが如く極めて巧妙に記述されてゐる。此
の文書は要路の大官は素より陸海現役軍人、在郷軍人、学者、教育
家、神道家、日本主義愛国団体等各方面に配布されたのであつて、
其の影響効果は蓑田胸喜自身も予想外とする程大なるものがあつた。

 左 記
   美濃部達吉博士、末弘厳太郎博士等の国憲紊乱思想に就て
天皇輔弼の各国務大臣に問ふ
  大日本帝国憲法発布の上諭に曰く『国家統治ノ大権ハ朕力之カ
  祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ』
  『朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ』
  と。
  陸海軍軍人ニ下シ給へル勅諭ニ曰ク『夫兵馬の大権は朕か統ふ
  る所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬
  り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子子孫孫に至るまで篤く斯
  旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降
  の如き失体なからむ事を望むなり』と。
  かゝる畏き『天皇親政』の聖詔の前に美濃部博士は『天皇は親
  ら責に任じたまふものでないから国務大臣の進言に基かずして
  は、単独に大権を行はせらるゝことは、憲法上不可能である』
  (有斐開発行、『逐条憲法精義』、五一二頁)『国務大臣ニ特別
  ナル責任ハ唯議会ニ対スル政治上ノ責任アルノミ』(同上、『憲
  法撮要』、三〇一頁)といふ。天皇『輔弼』の国務大臣の責任と
  は果してかくの如きものなりや?
 枢密院議長以下顧問官に問ふ
  美濃部博士は云ふ、『要するに、わが憲法に於けるが如き枢密
  院制度が世界の何れの国に於いてもその類を見ないものである
  ことは、此の如き制度の必要ならざることを証明するもので、
  わが憲政の将来の発達は恐らくはその廃止に向ふべきものであ
  らう』(岩波書店発行、『現代憲政評論』、一二八頁)と。かくの
  如き言論の内容を妥当なりと思考せらるゝや? 殊にこの論理
  をそのまゝ『世界の何れの国に於いてもその類を見ない』現人
  神天皇統治せさせ給ふ日本国体に適用せるものが美濃部博士の
  本状に一端を指摘せる大権干犯国憲紊乱なることを銘記せられよ!
 貴衆両院議長以下議員に問ふ
  美濃部博士はいふ、『帝国議会は国民の代表として国の統治に
  参与するもので、天皇の機関として天皇からその権能を与へら
  れて居るものではなく、随つて原則としては議会は天皇に対し
  て完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではな
  い。』(有斐閣発行、『逐条憲法精義』、一七九頁)『而も議会の主
  たる勢力は衆議院にあり』(東京朝日新聞昭和十年一月三日所
  載、現代政局の展望)と。
  かくの如きが 天皇の『立法権』に『協賛』し奉る帝国議会の
  憲法上の地位に対する正しき解釈なりや?
 司法裁判所検事局に問ふ
  美濃部博士はいふ『裁判所は其の権限を行ふに就て全く独立で
  あつて、勅命にも服しない者であるから特に「天皇ノ名ニ於
  テ」と曰ひ云々』(有斐閣発行、『逐条憲法精義』、五七一頁)と。
  司法権を行使する裁判所の権能なるものは果して斯くの如きも
  のなりや?
  猶美濃部博士は『治安維持法は世にも稀なる悪法で』『憲法の
  精神に戻ることの甚しいもの云々』(岩波書店発行、『現代憲政
  評論』二〇八頁二一〇頁)といひ末弘博士は『法律は如何にそ
  れが法治主義的に公平に適用されようとも、被支配階級にとつ
  ては永遠に常に不正義であらねばならぬ』ものにして『法律』
  と『暴力』との関係は『力と力との闘争であつて正と不正との
  闘争ではない』(日本評論社発行、『法窓漫筆』、一〇三頁一〇六
  頁)といひ、『小作人が何等かの手段により全く無償で土地の
  所有権を取得出来るならば、彼等をしてこれを取得せしめんと
  する主張運動は正しい』(改造社発行、『法窓閑話』、一五四−
  五頁)『小作人が唯一最後の武器として暴力に赴かむとするは
  蓋し自然の趨勢なり』(日本評論社発行、『法窓雑話』、九八頁)
  といへり。かくの如き言論と其著者等を放置しつゝあることは
  『司法権威信』の根本的破壊にあらずや?
 陸海軍現役在郷軍人に問ふ
  美濃部博士はいふ『統帥大権の独立といふことは、日本の憲法
  の明文上には何等直接の根拠が無い』『立憲政治の一般的条理
  から言へば統帥権の独立といふ様な原則は全く認むべきもので
  はない』(日本評論社発行、『議会政治の検討』、一〇六頁一二七
  頁)と。末弘博士はいふ、『軍隊は要するに……一の厄介物、
  謂はゞ「已むを得ざる悪」の一に外ならない』(改造社発行、
  『法窓閑話』、三九九頁)と。
  かくの如きは陸海軍軍人に給へる勅諭に『其大綱は朕親ら之を
  攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす』と詔らせ給ひたる統帥
  大権の憲法上の規定第十一条第十二条及軍令を原則的に無視否
  認し『天地の公道人倫の常経』詔らせ給ひたると皇国軍隊精神
  に対する無比の冒涜として之を放任するは軍紀の紊乱にあらず
  や?
 学者教育家教化運動者に問ふ
  美濃部博士はいふ『いはゆる思想善導策の如きは、何等の効果
  をも期待し得ないもので、もしそのいはゆる思想善導が革命思
  想を絶滅しようとするにあるならば、それは総ての教育を禁止
  して国民をして、全く無学文盲ならしむる外に全く道は無い』
  (岩波書店発行、『現代憲政評論』、四三一頁)。
  かくの如き言論を放置することはそれ自身学術と教育との権威
  を蹂躙するものにあらずや?
 神職神道家に問ふ
  美濃部博士はいふ、『宗教的神主国家の思想を注入して、これ
  をもつて国民の思想を善導し得たりとなすが如きは、全然時代
  の要求に反するもので、それは却つて徒らにその禍を大ならし
  むるに過ぎぬ』(岩波書店発行、『現代憲政評論』、四三三頁)
  かくの如き言論を放置する事はそれ自身皇国国体の本源惟神道
  の冒涜にあらずや?
 岡田首相、松田文部大臣、小原司法大臣、後藤内務大臣、林陸軍大臣、
 大角海軍大臣、外全閣僚に問ふ
  東京帝国大学名誉教授、国家高等試験委員、貴族院勅選議員た
  る美濃部博士、又東京帝国大学法学部長たる末弘博士の思想に
  就いては既に指摘したが同じく東京帝国大学教授、国家高等試
  験委員たる宮沢俊義氏は日本臣民として『終局的民主政=人臣
  主権主義』を信奉宣伝し(外交時報、昭和九年十月十五日号参
  照)横田喜三郎氏は『国際法上位説』を唱へて『国家固有の統
  治権、独立権、自衛権』を否認(有斐閣発行、『国際法』上巻四
  六−五〇頁参照)しつゝあり。此等幾多の国憲国法紊乱思想家
  等を下の帝国大学法学部教授及国家高等試験委員の地位に
  放置してその凶逆思想文献を官許公認しつゝあるといふことは
  国務大臣竝に各省大臣としての『輔弼』『監督』の責に戻る所
  なきや?
 元老重臣に問ふ
  前記の如き大権干犯国憲紊乱思想家たる美濃部博士、末弘博士
  等を現地位に放置することによつて人臣至重の輔弼の責任を果
  し得らるゝや?
 全国日本主義愛国団体同志に訴ふ
  本聯会全加盟団体は美濃部博士、末弘博士等は日本国体に反逆
  し天皇の統治=立法・行法・司法・統帥大権を無視否認せる不
  忠凶逆『国憲紊乱』思想の抱懐宣伝者として、末弘博士は先に
  告発提起を受け時効関係にて不起訴となりたる実質上の刑余者
  なるが、斯るものらが恬然として帝国大学教授の国家的重大地
  位にあり何等の処置をも受けざる所にこそ現日本の万悪の禍源
  ありと信じ、屡次共産党事件は勿論、華府倫教条約締結、満洲
  事件、五・一五事件激発の思想的根本的責任者たる彼等に対す
  る国法的社会的処置を訴願し其の急速実現を期するものなり。
  希くは本運動の対外国威宣揚不可避の先決予件たる国内反国体
  拝外奴隷思想撃滅−国際聯盟離脱、華府条約廃棄の思想的徹底
  の内政改革に対して持つ綜合的重大性を確認せられ、この目的
  貫徹の為めに挙つて参加協力せられんことを?
    昭和十年一月
             東京市芝区田村町二丁目内田ビル
                   国体擁護聯合会

 更に二月十五日入江種矩外十四名の代表者は小石川区竹早町一二
四番地美濃部邸に同博士を、帝大法学部長室に末弘博士を夫々訪問
して一切の公職を辞し恐懼謹慎すべき旨の決議文を手交し、次いで
十八日代表者入江種矩、増田一悦、薩摩雄次三名は文部大臣官邸、
内務大臣私邸に松田文相、後藤内相を訪問して両博士の著書の発禁
処分、竝両博士の罷免を要請する決議文を手交した。
 一方当時革新勢力が中心と頼んでゐた平治男の直系と目せられる
衆議院議員陸軍少将江藤源九郎は国体擁護聯合会と呼応して二月七
日衆議院予算委員第二分科会に於て美濃部博士の『逐条憲法精義』
の章句を引用し「原則として議会は天皇に対し完全なる独立の地位
を有し天皇の命令に服するものではない」(同書一七九頁)といふ
博士の解釈は 天皇の大権を干犯する妄説であつて、出版法第二十
六条の国権紊乱の罪に該当するが故に速に発禁処分に附すべきであ
るとして、後藤内相の所見を訊したが、内相は憲法学上の論議の是
非は遽に判断し得ずとて明答を避けた。

 (三) 男爵菊池武夫等の帝国議会に於ける質問

 越えて二月十八日貴族院本会議の国務大臣の演説に対する質疑に
於て菊池議員は社会の木鐸を以て任ずべき帝国大学の教授の著述に
して、皇国の憲法の解釈に関して金甌無欠の国体を破壊するものあ
りとして、末弘厳太郎教授の著書及び美濃部博士の著書『憲法撮要』
『逐条憲法精義』等を列挙し、美濃部教授は一木喜徳郎博士の独逸
憲法学説の亜流を汲み、其の天皇機関説は国体に対する緩慢なる謀
叛明なる反逆であつて、同博士こそは独逸直輸入の学問を売る学匪
なりと痛罵し、美濃部博士改其の著書に対する政府の処置如何を質
問し、井上清純、三宝戸敬光両議員も同様政府の所信を質した。之
に対し岡田首相は

    美濃部博士の著書は、全体を通読しますと国体の観念に於て
   誤ないと信じて居ります、唯用語に穏当ならざる所があるやう
   であります。国体の観念に於ては我々と間違つて居ないと、斯
   う信じて居ります。

 或は

    私は先程から申上げて居る通り、是は用語が穏当ではありま
   せぬ、私は天皇機関説を支持して居る者ではありませぬけれど
   も、学説に対しては、是は私共が何とか申上げるよりは、学者
   に委ねるより外仕方がないと思ひます。

と述べ、松田文相も亦、天皇概関説には反対であるが天皇が統治権
の主体なりや、国家の機関なりやに付いては学者間に議論の存する
ところであるから学者の論議に委し置くを相当とする旨答弁し、本
問題に対する政府の態度には極めて消極的回避的なるものが見られ
た。

 (四) 美濃部博士の所謂「一身上の弁明」

 併し当初菊池義員の為した質疑を見るに、同議員の態度は極めて
慎重であり、寧ろ積極性に欠けてゐたかの観さへ見えた。即ち色々
の学者の色々の著書には国民思想上香しからぬものがある故政府は
宜しく之が取締を為せとの趣旨を述べたに過ぎなかつたが、之に対
し松田文相が著者と著書を指摘しなければ答弁出来ぬと逆襲した為、
菊池議員は美濃部、末弘両博士の名を口にした程であつて、若し文
相がその時適当な政治的答弁を為して置けば、再質問もなく問題は
起らなかつたであらうとの説を為すものさへあつた程で、兎に角問
題は未だ急迫したものではなかつたが、其の後美濃部博士の態度に
火に油を注ぐに等しいものがあつた為、問題は急速度を以て展開さ
れて行つた。即ち美濃部博士は二月二十五日の貴族院本会議に於て
約一時間に亙り「一身上の弁明」に藉口して所謂天皇機関説は我が
国体に背反するが如き不敬凶逆的思想に非ざる所以を釈明し、自説
の正当性を主張した。其の観念的形式的法律論を以てする精緻な論
法には流石に議場を魅するものがあつたらしく、博士は拍手に送ら
れて降壇したのであつたが、美濃部博士が貴族院に於て而も玉座の
御前に於て、機関説を論じた事は却つて日本主義者を初め国体に目
醒めた国民を刺戟し憤起せしめる結果となり、問題を一層重大化せ
しめるに至つた。当時の議事速記録によれば所謂「一身上の弁明」は
左記の通りであつた。

 去る二月十九日の本会議に於きまして、菊池男爵其他の方から私の著書のことに付きまして御発言がありましたに付き、茲に一言一身上の弁明を試むるの己むを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とする所であります。菊池男爵は昨年六十五議会に於きましても、私の著書の事を挙げられまして、斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜いと云ふ様な激しい言葉を以て非難せられたのであります。今議会に於きまして再び私の著書を挙げられまして、明白な反逆的思想であると云はれ、謀反人であると云はれました。又学匪であるとまで断言されたのであります。日本臣民に取りまして反逆者であり謀反人であると言はれますのは侮辱此上もない事と存ずるのであります。又学問を専攻して居ります者に取つて、学匪と云はれます事は等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。私は斯の如き言論が貴族院に於て公の議場に於て公言せられまして、それが議長からの取消の御命令もなく看過せられますことが果して貴族院の品位の為め許される事であるかどうかを疑ふ者でありまするが、それは兎も角と致しまして貴族院に於て貴族院の此公の議場に於きまして斯の如き侮辱を加へられました事に付ては私と致しまして如何に致しても其まゝには黙過し難いことゝ存ずるのであります。本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適当であると存じまするし又貴重な時間を斯う云ふ事に費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、私と致しましては不愉快至極の事に存ずるのでありまするが万己むを得ざる事と御諒承を願ひたいのであります。凡そ如何なる学問に致しましても、其の学問を専攻して居りまする者の学説を批判し其の当否を論じまするには其批判者自身が其学問に付て相当の造詣を持つて居り、相当の批判能力を備へて居なければならぬと存ずるのであります。若し例へば私の如き法律学を専攻して居まする者が軍学に喙を容れまして軍学者の専門の著述を批評すると云ふ様なことがあると致しますならばそれは、唯物笑に終るであらうと存ずるのでありますが菊池男爵の私の著に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依つて拝見いたしますると同男爵が果して私の著書を御通読になつたのであるか仮りに御読みになつたと致しましても、それを御理静なされて居るのであるかと云ふ事を深く疑ふものであります。恐らくは或他の人から断片的に私の著書の中の或片言隻句を示されて、其前後の連絡も顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて軽々と是は怪しからぬと感ぜられたのではなからうかと想像されるのであります。若し真に私の著書の全体を精読せられ又正当にそれを理解せられて居りますならば斯の如き批判を加へらるべき理由は断じてないものと確信いたすのであります。菊池男爵は私の著書を以て我国体を否認し君主主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますがそれこそ実に同君が私の著書を読まれて居りませぬか又は読んでもそれを理解せられて居られない明白な証拠であります。我が憲法上、国家統治の大権が 天皇に属すると云ふ事は天下万民一人として之を疑ふべき者のあるべき筈はないのであります。憲法の上論には「国家統治ノ大権ハ朕力之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と明言して居ります。又憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。更に第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条記二依り之ヲ行フ」とあるのでありまして、日月の如く明白であります。若し之をして否定する者がありますならば、それには反逆思想があると云はれても余儀ない事でありませうが、私の著書の如何な場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、却てそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。例へば菊池男爵の挙げられました憲法精義十五頁から十六頁の所を御覧になりますれば、日本の憲法の基本主義と題しまして其最も重要な基本主義は日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之は西洋の文明から伝はつた立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である。即ち君主主権主義に加ふるに立憲主義を以てしたのであると云ふ事を述べて居るのであります。又それは万世動かすべからざるもので日本開闢以来曾て変動のない、又将来永遠に亙つて動かすべからざるものであると云ふ事を言明して居るのであります。他の著述でありまする憲法撮要にも同じ事を申して居るのであります。菊池男爵は御挙げになりませんでありましたが私の憲法に関する著述は其外も明治三十九年に既に日本国法学を著して居りまするし、大正十年には日本憲法第一巻を出版して居ります。更に最近昭和九年には日本憲法の基本主義と題するものを出版いたして居りまするが、是等のものを御覧になりましても君主主権主義が日本の憲法の最も貴重な最も根本的な原則であると云ふ事は何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、凡そ二点を挙げる事が出来るのであります。第一点は、此天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるが、又は 天皇が国の元首たる御地位に於て総攬し給ふ権能であるかと云ふ問題であります。一言で申しますならば 天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか権能と見るべきであるかと云ふ事に帰するのであります。第二点は 天皇の大権は絶対に無制限な万能の権力であるか、又は憲法の条章に依つて行はせられまする制限ある権能であるか、此の二点であります。私の著書に於て述べて居まする見解は、第一には 天皇の統治の大権は法律上の観念としては権利と見るべきものではなくて、権能であるとなすものでありまするし、又第二に万能無制限の権力ではなく、憲法の条紀によつて行はせられる権能であるとなすものであります、此の二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を解く事に努めたいと思ふのであります。第一に天皇の国家統治の大権は法律上の観念として天皇の御一身に属する権利と見るべきや否やと云ふ問題でありますが、法律学の初歩を学んだ者の熟知する所でありますが法律学に於て権利と申しまするのは利益と云ふ事を要素とする観念でありまして自己の利益の為に……自己の目的の為に存する法律上のカでなければ権利と云ふ観念には該当しないのであります。或人が或権利を持つと云ふ事は其力を其人自身の利益の為に、言換れば其人自身の目的の為に認められて居ると云ふ事を意味するのであります。即ち権利主体と云へば利益の主体目的の主体に外ならぬのであります。従つて国家統治の大権が 天皇の御一身の権利であると解しますならば、統治権が天皇の御一身の利益の為め、御一身の目的の為に存するカであるとするに帰するのであります。さう云ふ見解が果して我が尊貴なる国体に通するでありませうか。我が古来の歴史に於きまして如何なる時代に於ても天皇が御一身御一家の為に、御一家の利益の為に統治を行はせられるものであると云ふ様な思想の現はれである事は出来ませぬ。天皇は我国開闢以来天の下しろしめす大君と仰がれ給ふのでありますが、天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であると云ふ事は古来常に意識せられて居た事でありまするし、歴代の天皇の大詔の中にも、其の事を明示されて居るものが少くないのであります。日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には「惟フニ我ガ皇祖諸々ノ天皇ノ宸極二光臨シ給ヒシハ豈一身ノ為ナラズヤ蓋シ人神ヲ司牧シテ天下ヲ経倫スル所以ナリ」とありまするし、仁徳天皇の詔には「其レ天ノ君ヲ立ツルハ是レ百姓ノ為ナリ然ラハ則チ君ハ百姓ヲ以テ本トス」とあります。西洋の古い思想には国王が国を支配する事を以て恰も国王の一家の財産の如くに考へて、一個人が自分の権利として財産を所有して居りまする如くに、国王は自分の一家の財産として国土国民を領有し支配して、之を子孫に伝へるものであるとして居る時代があるのであります。普通に斯くの如き思想を家産国思想、「パトリモニアル、セオリイ」家産説、家の財産であります家産説と申して居ります。国家を以て国王の一身一家に属する権利であると云ふ事に帰するのであります。斯の如き西洋中世の思想は、日本の古来の歴史に於て曾て現はれなかつた思想でありまして、固より我国体の容認する所ではないのであります。伊藤公の憲法義解の第一条の註には「統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり」中略「蓋祖宗其の天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在つて一人一家に享奉するの私事にあらざる事を示されたり、是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり」とありますのも、是れ同じ趣旨を示して居るのでありまして統治が決して 天皇の御一身の為に存するカではなく、従て法律上の観念と致しまして 天皇の御一身上の私利として見るべきものではない事を示して居るのであります。古事記には天照大神が出雲の大国主命に問はせられました言葉といたしまして「汝カウシハケル葦原ノ中ツ国ハ我カ御子ノシラサム国」云々とありまして「ウシハク」と云ふ言葉と書き別けしてあります。或国学者の説に依りますと、「ウシハク」と云ふのは私領と云ふ意味で「シラス」は統治の意味で即ち天下の為に土地人民を統べ治める事を意味すると云ふ事を唱へて居る人が あります。此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが若し仮りにそれが正当であると致しまするならば、天皇の御一身の権利として統治権を保有し給ふものと解しまするのは即ち 天皇は国を「シラシ」給ふのではなくして国を「ウシハク」ものとするに帰するのであります。それが我が国体に適する所以でない事は明白であらうと思ひます。統治権は、 天皇の御一身の為に存する力であつて従つて 天皇の御一身に属する私の権利と見るべきものではないと致しまするならば、其権利の主体は法律上何であると見るべきでありませうか、前にも申しまする通り権利の主体は即ち目的の主体でありますから、統治の権利主体と申せば即ち統治の目的の主体と云ふ事に外ならぬのであります。而して 天皇が天の下しろしまするのは、天下国家の為であり、其の目的の帰属する所は永遠恒久の団体たる国家であると観念いたしまして 天皇は国の元首として、言換れば、国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬し給ひ、国家の一切の活動は立法も司法も総て 天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身で一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以てせば一つの法人と観念いたしまして 天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在しまし国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ 天皇が憲法に従つて行はせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずると云ふことを云ひ表はすものであります。国家を法人と見ると云ふことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、是は憲法が法律学の教科書ではないと云ふことから生ずる当然の事柄でありますが併し憲法の条文の中には、国家を法人と見なければ説明することの出来ない規定は少からず見えて居るのであります。憲法は其の表題に於て既に大日本帝国憲法とありまして、即ち国家の憲法であることを明示して居りますのみならず、第五十五条及び第五十六条には「国務」といふ言葉が用ゐられて居りまして、統治の総べての作用は国家の事務であると云ふことを示して居ります。第六十二条第三項には「国債」及び「国庫」とありまするし、第六十四条及び第七十二条には「国家ノ歳出歳入」といふ言葉が見えて居ります。又第六十六条には、国庫より皇室経費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。総べて此等の字句は国家自身が公債を起し、歳出歳入を為し、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体であることを明示して居るものであります。即ち国家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない処であります。其の他国税と云ひ、国有財産といひ、国際条約といふやうな言葉は、法律上普く公認せられて居りますが、それは国家それ自身の租税を課し、財産を所有し、条約を結ぶものであることを示してゐるものであることは申す迄もないのであります。即ち国家それ自身が一つの法人であり、権利主体であることが、我が憲法及び法律の公認するところであると云はねばならないのであります。併し法人と申しますると一つの団体であり、無形人でありまするから、其の権利を行ひまする為には、必らず法人を代表するものがあり、其の者の行為が法律上法人の行為たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、斯くの如き法人を代表して法人の権利を行ふものを、法律学上の観念として法人の機関と申すのであります。率然として 天皇が国家の機関たる地位に在はしますといふやうなことを申しますると、法律学の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、其の意味するところは 天皇の御一身御一家の権利として、統治権を保有し給ふのではなく、それは国家の公事であり 天皇は御一身を以て国家を体現し給ひ、国家の総ての活動は 天皇に其の最高の源を発し 天皇の行為が 天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言ひ表はすものであります。例へば憲法は明治天皇の欽定に係るものでありますが、明治天皇御一個御一人の著作物ではなく其の名称に依つても示されて居りまする通り 大日本帝国の憲法であり、国家の憲法として永久に効力を有するものであります。条約は憲法第十三条に明言して居りまする通り、天皇の締結し給ふところでありまするが、併しそれは国際条約即ち国家と国家との条約として効力を有するものであります。若し所謂機関説を否定いたしまして、統治権は 天皇御一身に属する権利であるとしますならば、その統治権に基いて賦課せられまする租税は国税ではなく、天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、天皇の締結し給ふ条約は国際条約ではなくして、天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。その外国債といひ、国有財産といひ、国家の歳出歳入といひ、若し統治権が国家に属する権利であることを否定しまするならば、如何にしてこれを説明することが出来るのでありませうか。勿論統治権が国家に属する権利であると申しましてもそれは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣旨ではないことは申す迄もありません。国家の一切の統治権は 天皇の総攬し給ふことは憲法の明言してゐるところであります。私の主張しまするところは只 天皇の大権は天皇の御一身に属する私の権利ではなく、 天皇が国家の元首として行はせらるゝ権能であり、国家の統治権を活動せしむるカ、即ち統治の総べての権能が 天皇に最高の源を発するものであるといふに在るのであります。それが我が国体に反するものでないことは勿論、最も良く我が国体に通する所以であらうと堅く信じて疑はないのであります。第二点に我が憲法上、天皇の統治の大権は万能無制限の権力であるや否や、この点に就きましても我が国体を論じまするものは、動もすれば絶対無制限なる万能の権力が 天皇に属してゐることが我が国体の存する処なると云ふものがあるのでありまするが、私は之を以て我が国体の認識に於て大いなる誤であると信じてゐるものであります。君主が万能の権力を有するといふやうなのは、これは純然たる西洋の思想である。「「ローマ」法や十七、八世紀のフランスなどの思想でありまして、我が歴史上に於きましては如何なる時代に於ても、天皇の無制限なる万能の権力を以て臣民に命令し給ふといふやうなことは曾つて無かつたことであります。天の下しろしめすといふことは、決して無限の権力を行はせられるといふ意味ではありませぬ。憲法の上論の中には「朕力親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ」云々と仰せられて居ります。即ち歴代天皇の臣民に対する関係を「恵撫慈養」と云ふ言葉を以て御示しになつて居るのであります。況や憲法第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依り之ヲ行フ」と明示されて居ります。又憲法の上諭の中にも、「朕及朕力子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章二循ヒ之ヲ行フコトヲ愆(あやま)ラサルヘシ」と仰せられて居りまして 天皇の統治の大権が憲法の規定に従つて行はせられなければならないものであると云ふことは明々白々疑を容るべき余地もないのであります。天皇の帝国議会に対する関係に於きましても亦憲法の条規に従つて行はせらるべきことは申す迄もありませぬ。菊池男爵は恰も私の著書の中に、議会が全然 天皇の命令に服従しないものであると述べて居るかの如くに論ぜられまして、若しさうとすれば解散の命があつても、それに拘らず会議を開くことが出来ることになると云ふやうな議論をせられて居るのでありまするが、それも同君が曾つて私の著書を通読せられないか、又は読んでも之を理解せられない明白な証拠であります。議会が 天皇の大命に依つて召集せられ、又開会、閉会、停会及衆義院の解散を命ぜられることは、憲法第七条に明に規定して居る所でありまして、又私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。私の申して居りまするのは唯是等憲法又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、それ以外に於て即ち憲法の条規に基かないで、天皇が議会に命令し給ふことはないと言つて居るのであります。議会が原則として 天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして「原則として」と申すのは、特定の定あるものを除いてと云ふ意味であることは言ふ迄もないのであります。詳しく申せば議会が立法又は予算に協賛し緊急命令其の他を承諾し又は上奏及建議を為し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、何れも議会の自己の独立の意見に依つて為すものであつて、勅命を奉じて勅命に従つて之を為すものではないと言ふのであります。一例を立法の協賛に取りまするならば、法律案は或は政府から提出れ、或は議院から提出するものもありまするが、議院提出案に付きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言ふ迄もないことであります。政府提出案に付きましても、議会は自己の独立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つてゐることは、誰も疑はない所であらうと思ひます。若し議会が 陛下の命令を受けて、其の命令の儘可決しなければならぬもので、之を修正し又は否決する自由がないと致しますれば、それは協賛とは言はれ得ないものであり、議会制度設置の目的は全く失はれてしまふ外はないのであります。それであるからこそ憲法第六十六条には、皇室経費に付きまして特に議会の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。それとも菊池男爵は議会に於て政府提出の法律案を否決し、其協賛を拒んだ場合には、議会は違勅の責を負はなければならぬものと考へておいでなのでありませうか。上奏、建議、質問等に至りまして、君命に従つて之を為すものでないことは固より言ふ迄もありませぬ。菊池男爵は其御演説の中に、陛下の御信任に依つて大政輔弼の重責に当つて居られまする国務大臣に対して、現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言はれまするし、又 陛下の至高顧問府たる枢府院議長に対しても、極端な悪言を放たれて居ります。それは畏くも 陛下の御任命が其の人を得て居らないと云ふことに外ならないのであります。若し議会の独立性を否定いたしまして、議会は一に勅命に従つて其の権能を行ふものとしまするならば、 陛下の御信任遊ばされて居ります是等の重臣に対し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが、許され得るでありませうか。それは議会の独立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。或は又私が議会は国民代表の機関であつて、 天皇から権限を与へられたものではないと言つて居るのに対して甚しい非難を加へて居るものもあります。併し議会が 天皇の御任命に係る官府ではなく、国民代表の機関として設けられて居ることは一般に疑はれない所であり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と法律上の地位を異にする所以であります。元老除や枢密院は、 天皇の官吏から成立つて居るもので、元老院議官と云ひ、枢密院顧問官と云ふのでありまして官と云ふ文字は 天皇の機関たることを示す文字であります。 天皇が之を御任命遊ばされまするのは、即ちそれに其の権限を授与せらるゝ行為であります。帝国議会を構成しまするものは之に反して、議員と申し議官とは申しませぬ。それは 天皇の機関として設けられて居るものでない証拠であります。再び憲法義解を引用いたしますると、第三十三条の証には「貴族院は貴紳を集め衆議院は庶民に選ぶ両院合同して一の帝国議会を成立し以て全国の公議を代表す」とありまして、即ち全国の公議を代表する為に設けられて居るものであることは憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。それが元老院や枢密院のやうな 天皇の機関と区別せられねばならぬことは明白であらうと思ひます。以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めて居る所であり、又近頃に至つて初めて私の唱へ出したものではなく、三十年来既に主張し来つたものであります。今に至つて斯の如き非難が本議場に現はれると云ふやうなことは、私の思も依らなかつた所であります。今日此席上に於て斯の如き憲法の講釈めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、是も万己むを得ないものと御諒察を願ひます。私の切に希望いたしまするのは、若し私の学説に付て批評せられまするならば処々から拾ひ集めた断片的な片言隻句を捉へて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明にし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります。之を以て弁明の辞と致します。(拍手)

 

 此演説は流石に議場を圧し、排撃の議員間にすらこれなら差支へ
ないではないかとの私語が交されたと噂されてゐる位である。

 (五) 代議士江藤源九郎、美濃部博士を告発す

 美濃部博士の所謂「一身上の弁明」は俄然囂々たる物議を醸し、
美濃部博士の態度は三千年来の伝統の我国民の国体観に挑戦し、済
し崩し的に国体破壊を意図する思想的反逆であり、議会に於ける岡
田首相以下の答弁も亦甚だ誠意なきが故に徹底的糾弾の要ありとの
叫びが起り、国体擁護聯合会等は直に機関説排撃の為活発な活動を
開始した。一方江藤代議士は二月二十七日衆議院予算総会に於て再
び立つて『逐条憲法精義』中の憲法第三条に関する解釈の部分を読
上げ、美濃部博士が「天皇の大権行使に付き、詔勅に付き、批判し
論議することは、立憲政治に於ては国民の当然の自由に属する」と
為してゐるのは、国民の信念に背馳して居る許りでなく憲法の条章
に照すも許すべからざる兇逆思想であると断じ、政府の断乎たる処
置を要望したが、首相、内相、文相等の答弁は貴族院に於けるのそ
れと略々同様であつて、依然として誠意が示されなかつた。或に於
いて江藤代議士は翌二十八日美濃部博士の著書『憲法撮要』『逐条
憲法精義』を以て不敬に当るものとなして、東京地方裁判所検事局
に告発し、更に三月七日追加告発をなした。此の為問題は一層重大
化し、愛国諸団体は一斉に立つて或は演説会に或は宣伝文書に「学
匪」「反逆者」「悪逆学説」排撃打倒の叫びを挙げ活発な運動が展開
されるに至つた。

 (六) 貴衆両院の建議及び決議

 此の問題に関し民政党は終始平静な態度を取り、寧ろ消極的でさ
へあつたが、政友会は逸早く党議を以て機関説排撃に出づることに
決し、貴族院の公正会、研究会所属議員も猛然活動を開始し、貴族
院に於ける三室戸敬光、菊池武夫、井上清純等各議員、衆議院に於
ける山本悌二郎、竹内友治郎、江藤源九郎等各議員等は本会議及び
予算分科会を通じ此の問題を掲げて政府に迫り之を苦境に陥らしめ、
殊に衆議院に於ける治安維持法改正委員会の如き同法第一条の「国
体ノ変革」なる字句に関聯して天皇機関説が終始論議の中心となり、
三月七日より同月二十五日迄の間前後十三回に亙り開会せられたに
拘らず此の為法案は遂に審議未了となつてしまつた。
 此の如く天皇機関説は議会に於て次第に政治問題化し、三月二十
日貴族院に於て政教刷新建議案が上程可決された。
     政教刷新建議
  方今人心動モスレバ軽佻詭激二流レ政教時ニ肇国ノ大義二副
 ハザルモノアリ、政府ハ須ラク国体ノ本義ヲ明徴ニシ、我古来
 ノ国民精神ニ基キ時弊ヲ革メ庶政ヲ更張シ以テ時難ノ匡救、国
 運ノ進展ニ万遺憾ナキヲ期セラレンコトヲ望ム
 右建議ス

 次いで衆議院に於ても三月二十三日次の如き国体明徴決議案が上
程採択された。

     国体二関スル決議
   国体ノ本義ヲ明徴ニシ、人心ノ帰趨ヲ一ニスルハ刻下最大ノ
  要務ナリ、政府ハ崇高無比ナル我カ国体卜相容レザル言説ニ対
  シ直二断乎タル措置ヲ取ルベシ
  右決議ス

 茲に於て政府も天皇機関説に対し何等かの措置を講ぜざるを得な
くなり、岡田首相も右の建議決議の趣旨に副ふやう慎重考慮の上善
処する旨言明するに至つた。

 (七) 機関説排撃の要点

 議会に於て論議の的となつた美濃部学説中攻撃せられた主要点を
見るに (1)機関説 (2)天皇と議会との関係 (3)国体と政体の関係 
(4)国務に関する詔勅批判の自由等であつて、之を貴衆両院に於け
る演説について見ることにする。
 (1) 天皇機関説、 天皇の大権につき、
 「我国で憲法上、統治の主体が、天皇になしと云ふことを断然
公言する様な学者、著者と云ふものが一体司法上から許さるべ
きものでござりませうか、是は緩漫なる謀叛になり、明かなる
反逆になるのです。」(菊池男二月十八日演説)
 「美濃部氏は、 天皇は国の元首として言換へれば国の最高機
関として此国家の一切の権利を総攬し給ふと申されて居ります、
国家は統治権の主体であり、天皇様も国民も其機関であり、唯
君主は最高のと云ふ字が附いてゐる丈けであります、之が美濃
部氏の国体観念であるのであります、機関といへば全体の一部
分でありまして、又何時でも取換へ得る意味を持つのでありま
す、此言葉は如何に堅白異動の弁を揮ふとも、又如何なる場合
に於ても学問的にも論理的にも、御上に対し奉り最大の不敬語
であります、日本臣民に対して我が尊貴の国体を辱かしめる最
大侮辱の言と言はなければならぬのであります。」(井上清純男
三月八日演説)
 「天皇は統治の大権を皇祖皇宗より継承せられまして、万世一
系帝国に君臨し給ふ所の主権者であらせられ、同時に我が帝国
国家の主体であらせられるのであります、是が即ち我々の信ず
る所の天皇観・国体観であります、天皇は故に万代不易の統治
主権者であります、而して吾々臣民は過去に於けると同じく、
将釆万世に渉りて子々孫々 天皇統治の下に国家生活を継続す
るものであります、随て 天皇は国家の主体であらせられ、吾
吾臣民は国家の客体であつて、此主客両体は堅く相結んで分離
すべからざる関係に置かれてゐるのであります、即ち我が日本
の国家は、此主客両体の絶対的不分離の結合に依つて存在する
ものでありまして、天皇と申す主体を別にしては、日本の国家
は絶対に考へ得られないのであります……遠き建国の初めに遡
つて、歴史上の事実を見まするに、初めに国家あつて、後から
天皇を戴いたのではなくして、其反対に 皇祖皇宗が国を肇め
給うて、茲に始めて国家が出来たのであり……領土は初めより
皇祖皇宗の領土であり、民族は、皇祖皇宗より血縁的に分派せ
る、吾々大和民族の祖先であつたのでありまして、之に 皇祖
皇宗が 天皇として自ら君臨遊ばされたのであります、随て領
土も人民も皆其源を 皇祖皇宗に発して居るのでありまして、
爾来 天皇を家長と致しまして、主権者と致しましたる此一大
家族国家が拡大発展して今日を致したのでありますから、此歴
史的事実より見ましても、国家と 天皇とは、初めより一体不
可分のものたるや、極めて明瞭であるのであります、……此国
民信念と、此歴史の沿革より見まして、我が日本帝国と云ふ国
家の主体は 天皇であらせられ、統治の主権は 天皇にあると
云ふことは、三千年来伝統的の吾々の国体観念であり、又動か
すべからざる歴史的事実でありまして、同時に万世将来に亙つ
て渝らざる鉄則であるのであります、憲法発布の勅語に『国家
統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ』
と宣示遊ばされ、更に憲法第一条に『大日本帝国は万世一系ノ
天皇之ヲ統治ス』と、斯様に規定せられたのは、皆此国体より
出発せる天皇主権の観念と事実を明白にされたのであります
……機関説は既に其立論の根柢に於て、全然我が国体と相容れ
ざるものであることを発見するのであります、即ち機関説は 
天皇と国家を別々なものと見てゐるのであります、 天皇を御一
身上の 天皇と見て、国家と対立せしむるのであります、斯く
別々に見ればこそ、茲に統治権は 天皇御一身の為に行はせら
れるのではなくして、国家の為に行はせられるのであるから、
即ち統治権の主体は統治の目的の帰属する所の国家にあるので
あつて、天皇は唯其機関たる地位に在らせられるものであると
云ふ結論に到達せざるを得ないのであります、而して国家を法
人とし、天皇は此法人を代表して統治権を行はせらるゝ機関で
あると云ふことも、亦此 天皇と国家とを別々に見る所に抑々
重大なる錯誤、錯覚があるのであります、此区別観念は全く我
国体の現実と合致せざるものであります、否、我が国体を無視
するものであります……即ち 天皇の御地位も、会社の社長の地
位も、其機関たるに於ては全然同一のものとなるのではありま
せぬか、さあ是で 天皇の尊厳が傷けられず、是で国民の伝統
的観念が攪乱せられずして止みませうか。」(山本悌二郎代議士
三月十二日演説)
(2) 天皇と議会との関係につき
 「然るに美濃部博士にしても一木喜徳郎博士のものに致しまし
ても、恐ろしいことが書いてある『議会は天皇の命に何も服
するものぢやない』斯う云ふやうな意味に書いてある、それなら
ば解散の詔勅が出ても我々共集つて此処に議事を開いて大に決
議をしてかゝると云ふやうなことが起らぬとも限らぬ。」(菊池
男二月十八日演説)
 「美濃部博士は『議会は原則として天皇に対して完全なる独立
の地位を有し、天皇の命令に服するものではない』と断言して
居るのであります、即ち議会は 天皇に属する概関に非ずして、
天皇に対立する独立機関であると言うて居るのであります……
而して議会の憲法上に於ける地位に付いては第五条に『天皇ハ
帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ』とあります通り、立法の
大権は 天皇に属し、議会は此大権の行使に協賛し奉る以外に、
独立の権能を有するものではないと思ふのであります、……議
会は原則として 天皇に対し完全なる独立の地位を有し、天皇
の命令に服するものではないと妄断することは、即ち、天皇の
大権を干犯したるものでありまして、出版法第二十六条の国憲
紊乱の罪を犯せるものなること明かなりと信ずるものでありま
す。」(江藤源九郎代議士二月七日演説)
(3) 国体につき
 「一部の機関説論者は、倫理的国体観念は、憲法論としては之
を採入るべきものでないと言うてゐる、所が何処迄も倫理的
に出来上つて居る所の我が国体の観念を除外して、一体どうし
て我が憲法を解釈することが出来ませうか、此国体論は憲法の
法律論に採入れる必要がない、採入れるものではないと云ふ此
論旨は憲法発布の御聖論を一体どう心得て居るでせう、『憲法
義解』の一冊も精読致したならば、我が憲法は我が国体を骨髄
とし基本観念としで組立でられてゐる位のことは第一に承知し
て居らなければならぬ筈である、然るに拘らず、強て之を無視
しよう、強て国体論を憲法論から排撃して除外しようと云ふの
は、それは外に理由があると信ずるのであります、それは何か
と申しますれば、若し国体論を採入れると云ふことになれば、
機関論者の機関の殿堂と云ふものは根柢から崩れてしまふと云
ふ虞があるのであります、元来機関論は西洋の君主政体を説明
するやうに出来てゐるのでありますからして此理論を日本に持
込んでさうして日本の国体と組合せようとした所でそれは中々
辻褄が合ふべき所のものではないのであります、仍て之を憲法
論より除外するか、然らずんば極めて曖昧な継合をして理論を
糊塗するより外途がないのであります。」(山本悌二郎三月十二
日演説)
(4) 国務に関する詔勅批判の自由について
 「憲法発布以前に於ては、国民は 天皇の詔勅を非議論難する
ことは不敬であつたが、憲法制定後は、国務に関する詔勅に対
しては国民は自由に之を非議論難しても不敬ではないのである。
何となれば国務に関する詔勅に対しては、総て国務大臣が其の
責に任ずることになつた為め、詔勅を論議することは国務大臣
の責任を論ずる所であるから、不敬ではないと云ふのでありま
すが、此美濃部博士の思想は、日本国民の信念と致しましては
勿論でありますが、又私素人ながら憲法を研究しまして、我が
憲法の条章に照しても、是は断じて許すべからざる兇逆思想で
あると信ずるのであります。」(江藤源九郎代議士二月二十七日
衆議院予算総会に於ける演説)


      第二節 愛国諾団体の運動状況


 (一) 愛国諸団体の排撃運動
 美濃部博士が帝国議会に於て「一身上の弁明」に籍口して自己の
唱導する天皇機関説を説明した事は天下の輿論を沸騰せしめ、之を
契機として問題は急激に拡大し、皇国生命の核心に触れる重大事件
として全国の日本主義国家主義諸団体は殆ど例外なく機関説排撃の
叫びを挙げ、演説会の開催、排撃文書の作成配布、当局或は美濃部
博士に対する決議文、自決勧告文の交付、要路者訪問等種々の方法
に依り運動を展開した。誠に同年三、四月中に此運動に立上つた団
体を見るに次の通りである。

東 京

国体擁護聯合会、国民協会、大日本生産党、新日本国民同盟、愛国政治同盟、明倫会、政党解消聯盟、昭和神聖会、恢弘会、皇道会、勤王聯盟、大日本経国聯盟、皇道発揚会、黒竜会、維新懇話会、十六日会、昭和義塾、大日本愛国青年同盟、建国会、愛国青年聯盟、愛国労働聯盟、維新会、大日本国家社会党、勤労日本党、皇民新聞社、皇大日本、憲政擁護聯盟、愛国革新聯盟、皇明会、正道会、池湧日本社、原理日本社、辛未同志会、愛国労働農民同志会、惟神館、日本精神協会、三六倶楽部、南町塾、日本精神研究会、内外更始倶楽部、皇政会、日本塾、直心道場、鶴鳴荘、大日本愛国義団、日本主義研究所、日星社、改造日本社、国士会、愛国学生聯盟、国粋大衆党関東本部、政教維新聯盟、皇化聯盟、日本皇遭会 立憲養正会

北海道

全日本護国聯盟、北海愛国団体聯盟、愛国勤皇隊、日本社石坂支部、愛国政治同盟野付牛支部

京 都

洛北青年同盟、里見日本文化研究所、国体主義同盟、皇国青年同盟、全京都愛国団体聯合協義会、京都愛国社、愛国政治同盟京都聯合会

大 阪

新日本青年党、国粋青年同盟、国民社会党、大日本公正会、日本一新同盟、国粋塾

神奈川

天照義団、横浜愛国団体懇談会、国民協会横浜特別支部、橘樹郡聯合青年団、愛国政治同盟横浜支部、政党解消聯盟横浜支部

兵 庫

護国新報社、神戸愛国青年聯盟、国民明治会、兵庫県愛国社同盟、亜細亜青年同志会

長 崎

皇道義盟長崎盟団、長崎古武士会

新 潟

明治会

埼 玉

内外更始倶楽部埼玉支部、愛国皇道聯盟、日本皇道会久喜支部

茨 城

桜州公論社、十日会、稲敷村青年団

栃 木

明治会

奈 良

大日本国粋会奈良県本部

愛 知 

大日本建国義勇団、正劒社、皇道宣揚市民聯盟、大日本国家社会党愛知県党務局、国家主義同盟名古屋支部、大日本守国会豊橋愛国社同盟

静 岡

碧色同盟、里見日本主義文化研究所静岡支部

滋 賀

滋賀県神職会

岐 阜

愛国大道団、岐阜県愛国団体聯合会、中正会、政党辟消聯盟大垣支部

長 野

信州郷軍同志会、南信皇国青年同盟、南伊那郡聯合青年団

福 島

明治会福島支部

岩 手

明治会盛岡支部

青 森 

陸奥興国同志会、青森県愛国運動総同盟

宮 城

明治会気仙冶支部、在仙愛国団体協議会

山 形

庄内行地社、山雨会

秋 田

明治会秋田支部、政党解消聯盟沼館支部

福 井

福井行地社

石 川 

金沢至誠会

富 山

国柱会鯖江局、明治会富山支部、伏木愛国青年同盟、新湊愛国青年同盟

鳥 取

皇民義会

岡 山

昭和神聖会岡山地方本部、皇道義塾

広 島 

広島興国同志会、福山市時局研究会、明治会呉支部、政党解消聯盟広島支部

山 口

熊毛郡歴戦会、大日本護国中国本部

愛 媛

愛媛県神職会、大日本国家社会党松山支部、明治会松山支部

福 岡

大日本愛国団、皇道義盟、大日本護国軍、皇国日本社、九大皇道会

佐 賀

佐賀県大同団結、大詔実践団、佐賀市護国青年聯合会

熊 本

皇道学盟、美濃部説撃滅聯合会

鹿児島

鹿児島市報徳会

大 分

大日本古神道実行団

 此等諸団体の裡で当初より最も清澄に活動したものは国体擁護聯
合会、国民協会、大日本生産党、新日本国民同盟、愛国政治同盟、
明倫会、政党解消聯盟等であつた。
 排撃運動の中心たる国体擁護聯合会は三月上旬には国務大臣の議
会に於ける答弁速記録を引用せる長文の声明書竝にポスターを発行
して全国各方面に送付して諸団体の蹶起を促し、三月九日青山会館
に会員三百余名参会して本問題に関する聯合総会を開き、言論、文
書、要路訪問、地方との連絡、国民大会開催等の運動方針を定めた
る後、総理大臣以下内務、文部、陸軍、海軍各大臣に対し「順逆理
非の道を明断すると共に重責を省みて速かに処決する処あるべき」
旨の決議を、一木枢相に対しては「邪説を唱導したる大罪を省み恐
懼直に処決する所あるべし」との決議を為し代表者は之を夫々各関
係官庁に提出する等運動に拍車を加へた。
 赤松克麿を理事長とする国民協会は三月十日開催せる全国代表者
会議に於て、美濃部思想糾弾に関する件を上程して「機関説思想を
討滅すると共に之を支持する一切の自由主義的勢力及制度の打破に
進むべきこと」を決議し翌十一日同趣旨の決議文を政府当局竝に美
濃部博士に提出し、次いで同月十六日「美濃部思想絶滅要請運動に
関する指令」を全国支部に発送し、各地に於て天皇機関説排撃演説
会を関催して旺に輿論の喚起に努むると共に、要請書署名運動を起
し、約二千五百名の署名を獲得し、代表者は首相を訪問して左記の
如き要請書を提出した。

         要 請 書

 美濃部博士の唱導する天皇機関説が我が国体の本義に背反す
る異端邪説なることは既に言議を用ゐずして明かなり、此説一
度び貴族院の壇上に高唱せらるゝや、全国一斉に慷慨奮起して
其の非を鳴らし之に対する政府の善処を要望しつゝあるに拘ら
ず政府は徒らに之を糊塗遷延し以て事態を曖昧模稜の裡に葬り
去らんとしつゝあるは忠節の念を欠き輔弼の責を辞せざるの甚
しきものと認む。政府は速かに斯の思想的禍害を努除して国民
の国体観念を不動に確立せんが為め左の如き処置を講ぜんこと
を要請す。
 一、天皇機関説が国体と相容れざる異端の学説なることを政
  府に於て公式に声明すべし
 一、軍部大臣として国体及統帥権擁護を明示せしむべし
 一、美濃部達吉をして貴族院議員竝一切の公職を辞せしむべし
 一、美濃部博士其の他天皇機関説を主張する一切の著書の発
  行頒布を禁止するは勿論之を永久に絶版せしむべし
 一、美濃部説を支持する一切の教授、官公吏等を即時罷免一掃すべし

                                  国 民 協 会
      内閣総理大臣
       岡 由 啓 介 閣 下


 内田良平を総裁とする大日本生産党は、早くも三月十一日美濃部
博士に自決勧告書を手交すると共に岡田首相、松田文相に対しても、
機関説の徹底的掃滅方の勧告書を提出し、更に各支部に指令を発し
て、排撃運動を慫慂し、他面本部内に憲法其他法律的時事問題研究
機関「木曜会」を設置して機関説を中心として憲法学の批判検討を
行ひ又同時に関西本部に於ても排撃文書を配布し、連日に亙り演説
会を開催して輿論の喚起に努むる等東西呼応して熾烈な運動を展開
した。
 新日本国民同盟(委員長下中弥二郎)は早くも三月三日東京府支
部協議会第一回評議委員会に於て美濃部学説反対の決議を為し、同
盟本部に於ても其の後「本問題は窮極に於て三千年来伝統せる我国
民の国体観念に挑戦せるものたると同時に、忠孝一本を体系とし来
れる国民精神を喘笑惑乱するの甚だしきものたるは明白にして我等
は故に斯の如き学説を以て許すべからざる不逞思想なりと断じ、美
濃部博士に対して速かに其の良心よりする自決を促すと共に之を今
日迄荏苒看過し、国論漸く沸騰するに至りても尚且蔭に同博士を庇
護せんとする岡田内閣の曖昧なる態度を不臣の極として弾劾するな
り」との態度を決定し、闘争目標を(一)美濃部博士の著書の発禁
(二)美濃部博士の公職辞職(三)岡田首相の引賛辞職(四)一木
枢府議長の引責辞職等に置き早くも倒閣の旗幟を現はして強力な闘
争を全国的に展開し、又「美濃部達吉博士の天皇機関説を排撃す」
と超するパンフレットを発行して一般的な啓蒙運動に努めた。
 愛国政治同盟(総務委員長小池四郎)は「天皇機関説が国民的の
問題となつたことは昭和維新への一条件たる昭和の勤王論の国民的
確立期の到来」を意味し、同博士の排撃は勿論近世日本七十年来国
内に浸潤し毒害を流し来つた亡国的なる自由主義個人主義思想の根
元を絶たしめ、国民の国体観念を白熱的に再認識せしめ、之が不動
の確立を期せざるべからずと為し、三月二十日全国各支部に「反国
体憲法排撃に関する指令」を発して之亦全国的に運動を展開した。
 明倫会は大川周明の神武会に財的援助を為した石原広一郎が陸軍
大将田中国重と共に予備役将官級を中心に結成した有力団体である
が、美濃部学説が問題となるや、逸早く態度を決定して断乎たる処
置を要望する決議を為し、之を関係各大臣其の他に送付し、次いで
全国支部に対し、各地支部は所在の郷軍其の他と適宜聯繋し、国民
指導の重任に邁進せよと指令し、或は美濃部博士に対し議員辞職要
請書を、軍部大臣に対しては皇軍の嚮ふ所を誤らしむることなきを要
望せる決議文を提出する等当局鞭撻と輿論の喚起にカを尽し、更
に四月に入るや、田中総裁以下の幹部は関西、中国、九州地方に遊
説して大に国民の奮起を促すところがあつた。
 松岡洋右を盟主とする政党解消聯盟は当初は自重的態度を持して
ゐたが、問題の拡大せるに鑑み、三月十九日緊急幹部会を開催して
機関説撲滅に邁進する方針を決定し、決議文を作成して首相以下の
閣僚及び一木枢府議長に手交すると共に、同日上野精養軒に開催さ
れた機関説撲滅同盟有志大会には松岡洋右出席して激励演説を為し、
更に四月上旬松岡洋右著『天皇政治と道義日本』と題するパンフレ
ットを各方面に配布し、其の後中央、地方を通じ専ら他団体と提携
協力して果敢な運動を展開した。
 機関説問題は愛国団体が結束し協同闘争を展開するに好箇の題目
であつた。所謂日本主義国家主義陣営には指導理論を異にする多数
の団体があり、而も従来より感情の齟齬、特別な人的関係等の為、
陣営に統一なく其の活動は個別分派的に傾いてゐたのであるが、階
級闘争を主張する国家社会主義から進歩的革新的日本主義更に極端
な復古的日本主義に至る迄その色調は何れも日本的であり、其の真
髄を為すは国体の開顕、国体の原義闡明にあつた。されば美濃部学
説排撃に関しては、全く小異を捨てゝ大同に就き、国体の擁護、国
体の原義闡明なる大目標に向つて戦線を統一して、猛然憤起するこ
とが出来た。三月八日結成された「機関説撲滅同盟」は機関説排撃
の為一大国民運動を展開する意図の下に黒竜会の提唱に依り頭山満、
葛生修吉、岩田愛之助、五百木良三、西田税、橋本徹馬、宅野田夫、
蓑田胸喜、江藤源九郎、大竹貫一、等東京愛国戦線の有力者四十余
名の会同を得て、黒竜会本部に開催せられた「美濃部博士憲法論対
策有志懇談会」を恆常的組織としたものであつて、運動目標を(一)
天皇機関説の発表を禁止すること (二)美濃部博士を自決せしむ
ることに置き、而して運動方針として (一)貴衆両院の活動によ
り政府に実行を促すこと (二)国民運動により直接政府に迫るこ
と (三)有志大会を開き国民運動の第一着手とすること等を定め、
次いで同月十九日には上野静養軒に於て左記の如き有力人物外六百
名の出席の下に機関説撲滅有志大会を開催して大に気勢を挙げた。

頭 山  満

入 江 種 矩

松 岡 洋 右

寺 田 稲 次 郎 

五 百 木 良 三

宮 沢  裕

狩 野  敏 

南 郷 次 郎

四 王 天 延 孝

大 竹 貫 一

竹 内 友 治 郎

増 田  一  悦

岡 本 一 己 

大 沢 武 三 郎

葛 生 修 吉

安 芸  晋

三 井 甲 之

赤 尾  敏

佐 藤 清 勝 

赤 池  濃 

塩 谷 慶 一 郎

金 子 力 三 

馬 場 園 義 馬 

蓑 田 胸 喜

今 泉 定 助 

下 沢 秀 夫

香 渡  信

飯 田 甲 資 郎

鬼 倉 重 次 郎

佃  信 夫

池 田  弘

佐 藤 正 吾

井 口  広

柳 町 義 道

内 藤 順 太 郎

青 山 憲 史

皆 川 三 陸 

薩 摩 雄 次 

井 上 四 郎

下 山 治 平

広 瀬 義 邦

 而して同大会は左記宣言決議を可決し委員を選出して、首相、内
相、陸海両相等を訪問決議文を手交せしめた。

         宣 言 文

 上に万世一系の天皇を戴き万民其の治を仰ぎて無窮なるは是
れ我が国体の本義なり 天皇機関説は西洋の民主思想を以て我
が神聖なる欽定憲法を曲解し国体の本義を攪乱するものにして
兇逆不逞断じて許すべからず。
 斯の邪説を正さずして何の国民精神の振興ぞや。吾人は茲に
国体の本義を明徴にし億兆一心誓つて此の兇逆なる邪説の撲滅
を期す。

         決  議

  一、政府は天皇機関説の発表を即時禁止すべし
  二、政府は美濃部達吉及其一派を一切の公職より去らしめ自決
    を促すべし



(二) 革新陣営の主張
 斯の如く愛国諸団体は全国的に排撃運動を展開し、国論は沸いた。
当時に於ける此等愛国諸団隊の主張する所を綜合すれば

  一、政府は速に機関説に関する著書の発売頒布を禁止すると共
    に機関説思想の普及及び宣伝を禁止すること
  一、概関説の不当なることを天下に声明すること
  一、美濃部博士は一切の公職を辞し自決すること
  一、岡田首相、一木枢府議長は夫々引責辞職すること

等であつて、早くも現状維持派と目せられてゐた一木枢府議長、岡
田首相に攻撃の矢が向けられた事は注目に値する。
 日本主義国家主義を標榜する革新陣営に於ては言論、文書を総動
員して排撃運動を捲起し輿論の指導権は全く右翼論壇の占むる処と
なり、往年の政党政治隆盛期にあつて輿論の指導に華かな活躍を見
せた自由主義的な新聞雑誌は、何等かの影に怯えた如く美濃部学説
を擁護するものとてはなく完全に回避的態度を取り沈黙を守つてゐ
たことは社会思潮の変遷を如実に物語るものであつた。次に所謂右
翼新聞雑誌に現はれた美濃部学説排撃の理由を瞥見する。
 (1) 国民的信念、確信より許すべからずとするもの
 中谷武世曰く
 「是は学説として若くは思想として批判の対象となる前に、先
 づ私共日本国民の情緒、国民的感情、此の方面から観ても非常
 に痛みの多い一つの出来事だと思ふのであります。この天皇機
 関説と云ふ言葉そのものが私共日本国民の情緒の上に、非常に
 空寒い感じを与へる所の、あり得べからざる言葉であります。
 一般国民大衆にとつて私が今申しましたやうな国民感情の上か
 ら衝撃を受けたらうと思ふのであります。……従つて所謂知識
 階級は別として、素朴な国民大衆の胸の中には、美濃部説、天
 皇機関説に対して非常に大きな憤りの情が脈搏ちつつあると思
 ふのであります。即ち美濃部説は、法理的批判や、是非の論を
 超越して先づ日本国民信念上の、国民感情上の深刻な問題なの
 であります。」(月刊「維新」四月号「美濃部学説検討座談会」)
 山下博章曰く
 「天皇機関説に於ける天皇の地位は株式会社に於ける取締役社
 長の地位の如きものと為り、株式会社といふ独立の生命が社長
 といふ其機関によりて活動する如く、日本国の有してゐる統治
 権が統治権の主体にあらざる天皇と云ふ機関に依りて運用され
 ることになるのであるから、天皇即日本国の伝統を蹂躙する結
 果とならざるを得ない。」(「国策」四月号「天皇機関説の根源
 と国体の本質」)
 雑誌「大日」(第九十九号)の社説「神聖国体原理」に曰く
 「機関と云ふ語は根本に於て尊崇の意を欠く、普通に、機関は
 からくりと言ふが如く、機械的の意であつて、社会普通の事実
 に就ても機関の語に来用するは慎しまねばならぬ場合が多い、
 或は機関新聞といひ機関雑誌と云ふ場合其の当事者にとつては
 迷惑を感じ不快を感じ社会よりは一種軽笑の意を以て取扱はる
 る事実が少くない、一家に於ても一家の主人を捉へても、汝は
 汝の家の機関なりといはば、其主人なる人は果して心に快く感
 ずるや如何、社会普通の事実に於ても、機関の語を使用するは
 よほど注意を払はねばならぬ。」
 下中弥三郎曰く
 「天皇機関説と云ふことを我々はすでに二十数年前からちらほ
 ら耳にしては居りましたがそれは、広い国民の立場では問題に
 されなかつたと考へて居たんです。即ち国民的信念に於ては
 『天皇が国家の道具であり、国民に使役せられる』と云ふやう
 な感情に於て有り得ざること当然であつて、左様な考が国民的
 信念に入り得ないと信じてゐたからである。」(月刊「維新」四
 月号「美濃部学説検討座談会」)
 此の如く統治権は常に国家に属する権利であつて 天皇は国家
に属する統治権を総攬する権能を有し給ふ国家の最高概関である
とする美濃部学説に対しては法理を超越して先づ国民的信念確念
の上から見て国体の尊厳を冒涜する不敬思想なるが故に絶滅しな
ければならぬとしてゐる。
(2) 法理的見地より排撃するもの
 (a) 思想的背景及び根拠に対する批判
 沢田五郎曰く
 「拝外思想から単なる外国憲法の一解釈をそのまゝに、帝国憲
 法の解釈上の真理の如く説くに至つては重大な問題である。
 ……。抑々外国憲法は、君主の権限を拘束し、制限するために
 民意に依つて設定されたものである。之に反して日本では明治
 維新の大業完成後 天皇御親政を制度化すべく、万世一系の
 天皇の大御心のまゝ定め給へる欽定憲法である。……天皇機関
 説は肇国宏遠天壌無窮の我が国の国家事実を興亡常ならざる諸
 外国の国家事実と同一のものなりとし、樹徳養正最高絶対の明
 津神たる 天皇を専制横暴、或る一定の権限を与へられてゐる
 に過ぎない諸外国の君主と同一視する拝外主義者亡国主義の妄
 説であり、憲法論に於ける国体論と政体論とをも区別し得ない
 もので実に国体を否認し之が変革をも可なりとする理論の根抵
 を為す思想学説である。」(「明倫」四月号「天皇機関説を排撃
 す」)
 今泉定助曰く
 「美濃部氏の根本思想は第一が独立なる個人が単位であつて、
 その個人が相互に精神的又は物質的の交渉を有する生活を社会
 生活なりと為す個人主義思想、第二は人間の意志は本来無制限
 に自由なもので法に依つて規律せらるゝと為す自由主義思想で
 ある。此の個人主義と自由主義とが一切の誤謬錯覚の根源であ
 り、根本的の誤謬である。その根本思想が誤つてゐるから、美
 濃部氏の思想は即ち西洋個人法学の板本思想であるが、それに
 従へば人類の団体生活は、独立自由なる個人の利害の集合分散
 の態様であり、国家は株式会社を拡大した様な法人となり主権
 者はその機関とならざるを得ない。これは個人主義法学を以て
 国家を律し、主権者を律する当然の結果である。」「日本思想の
 基調を為すものは自我の確立にあらずして彼我一体、我境不二
 である。之れを皇道の絶対観、全体主義と云ふ。凡てがこの全
 体主義から出発するのである。故に人生々活に於ても全体的国
 家生活が本質的なもので個人生活はその分派たるに過ぎない。
 人間は絶対無限の団体生活を営むものであつて、この団体は中
 心分派帰一一体の原理によつて統制せられ、個人がこの全体に
 帰入し、同化することが人生々活の真の意義であると見る。こ
 れは日本思想である。この思想を表現したものが大和民族の霊
 魂観であつて、万有同根、彼我一体、我境不二、中心分派帰一
 等の大原理がこれより流出するのである。これは宇宙の最高絶
 対の真理であつて、世界無比、万国に卓絶せる大思想である。
 而してこの絶対性と普遍妥当性とは自然科学、精神科学上の無
 数の例示を以て証明せられる所である。」「分裂対立の個人主義、
 即ち美濃部氏の思想に於ては、人生は個人生活が本質的なもの
 で、国家国体生活は例外的なる束縛である。正に日本思想の反
 対である。故に法律の解釈に於ても国体的なる制限規定を例外
 的なるものと見る。これは個人の利害自由を基調とする西洋思
 想の当然の結果である。美濃部氏が『議会は原則として 天皇
 の命令に服するものでない』と云ふが如き非常識な議論をされ
 たのは、これに依るのである。然るに日本思想に於ては国体的
 の制限規定は例示的なものである。これは人間が国体に帰入し
 同化することがその本性であると見る日本思想の当然の結果で
 ある。 天皇は国家の中心であると共に、全体であらせられる。
 『原則として 天皇の命令に服するものでない』といふが如き
 ものは我が日本には一つもあり得ない。美濃部氏の根本思想そ
 のものが、日本国家と相容れないものである。全体西洋の個人
 主義的法学を以て日本の国体を論じ、日本の社会を律すること
 が根本的に間違つてゐる。日本の国体を論じ、日本の社会を律
 するものは、全体主義法学でなければならぬ。」(同氏著『天皇
 機関説を排撃す』)
 作井新太郎曰く
 「統治権は一の権利なりと云ふは良し、然れども法律上権利な
 るものは自己一身の利益を追及する為にのみ認められたる意思
 の力であるが故に、若し 天皇を統治権の主体と解すれば 天
 皇は自己御一身の利益の為に統治を遊ばすこととなり、統治が
 決して一身一家の私事に享奉するものでないといふ統治の性質
 に反する結果となる。斯るが故に統治権の主体は国家にして天
 皇はその国家の意思を決定せられる所の国家の最高機関である
 と説明するに至つては、遂に吾人の確信と相去る甚だ遠きもの
 であるに驚かざるを得ないのである。……権利と義務以外には
 一歩も出ることの出来ない法理論、個人主義自由主義を最高の
 指導精神とする近世欧米資本主義社会に発生せる斯の種法律論
 を以てしては、遂に純粋なる日本の本質は之を説明し得ないも
 のとなることを、暴露するに到つたのである。……法律の分野
 に於ても亦純粋日本主義的なるものの出て来るべきは当然の要
 求である。西洋流の個人主義自由主義に基調を置く自由法学が
 憲法論を契機として今や其の没落の第一歩を踏み出したのであ
 る。」(「社会往来」四月号「憲法論争と其思想的背景」)
 五百木良三曰く
 「自由民権思想に立脚せる欧米の近代国家が主権在民を共通観
 念とするは当然の帰結である。彼等に取つては寧ろ人民あつて
 の国家であり、国家あつての統治者である。彼等の統治者が自
 ら国民の公僕と称するのも亦この観念の発露であると共に、彼
 等の元首なるものは国家統治上の一機関たるに過ぎぬ。美濃部
 一派は此の直訳思想を尺度とするが故に、全然その本質を異に
 せる我が特殊の欽定憲法を論ずる上にも、尚ほ一様に仮定的な
 る国家法人観を基準とし統治者に擬するに恰も株式会社に於け
 る社長の類を以てするに至り、主権は国家に存して 天皇に属
 せず 天皇は唯その統治権を総攬せらるゝ一個の機関に止ると
 云ふが如き大曲解に陥るものである。」(「日本及日本人」四月
 一日号「所謂機関説問題は昭和維新第二期戦展開の神機」)
 蓑田胸喜は曰く
 「議会が 天皇に対して、完全なる独立の地位を有し、天皇の
 命令に服しないといふ、それは、一体どこから出て来るか、是、
 全く美濃部氏の外国憲法の立権在民の民主主義妄信思想から出
 て来たものに外ならぬのであります。」(同氏著『天皇機関説を
 爆破して国民に訴ふ』)
 斯くの如く美濃部学説が個人主義思想自由主義的思想、主権
在民的思想等西洋思想を思想的背景と為してゐること、而もこ
の為に国体に副はざる憲法の解釈論となつたことが指摘強調さ
れてゐる。
(b) 機関現及び天皇の大権に就いての解釈に対する批判
 美濃部学説は個人主義、自由主義、形式主義的法理論を基調
としたる結果、世界万邦に冠絶せる国体を閑却するの誤謬を犯
し、肇国の精神に悖り、国体に背き、甚しく国民の信念確信に
反する学説なることが一般に強調され、建国以来、天皇即ち国
家、君臣一体の国柄として統治権は『万世一系ノ天皇』の大位
に存することは炳乎たる国史の事実であり、肇国の精神、我が
国体の本義に基き 天皇は統治権の主体にあらせられることは
寸毫の疑義なく帝国憲法第一条は斯る日本国体を宜明し給うた
ものに外ならず、而も現人神に在します 天皇に在らせられて
は、『御一身上の権利』と『国家統治の大権』とは本来惟神に
不可分であり 天皇の大権は絶対無制限不可分である者が論ぜ
られ主として穂積八束博士の天皇主体説皇位主権説の立場より
批判が為されてゐる。
 異色のあるものとしては、里見日本文化研究所の里見岸雄で
ある。同氏は、国家は社会的基盤の上に立つところの法的構造
であつて、基盤を為す社会は生活体系に関する時代社会と生命
体系に関する基本社会とあり、国体とは実に日本国家の窮極的
基盤たる基本社会の実体であり、之を法学的に言へば、国家の
基本社会的実体の必然性に基く歴史的発展としての天皇統治の
体法であるとし、更に「統治実」と「統治権」なる二個の概念
を分ち、統治実とは基本社会的深愛によつて、民族を結合せし
め、体系化せしめ、一体としての発展を促進しつゝある無限、
普遍、不変、本有、本来、根本の意志的行為であるとし、憲法
第一条の統治とは実に国体に即し、専ら 天皇の統治実を法的
に宣言したものであり、第四条の統治権は統治の為の権力、権
能、権限、権利、権勢の意にして政治法律的概念であるが統治
実は純社会的概念であると論じ天皇は憲法第一条の統治即ち統
治実の主体であると言ひ、
 「第一条の天皇は断じて所謂国家機関ではない。『大日本帝国
 ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と言ふは純乎として純なる基本
 社会的国体的信仰的精神的事実であつて、権限権力等に比する
 時、余りにも深い全人格的、全生命的事実である。然もこの統
 治実の所有者こそ『万世一系ノ天皇』にましますのであるから
 この意味に於て第一条の天皇は統治実の主体であらせられる。」
 (同氏著『天皇機関説の検討』)
 氏は第四条の「天皇」は憲法の制定によつて、始めて確立さ
れた「制度としての天皇」であつて、天皇の政治国家的機能を
職能的に規定し、この規定せられた職能の法上の執行者を意味
するとなし、此の意味に於て第四条の 天皇は国家機関として
之を理解すべきであると言ひ、
 「この統治権は国の統治権であり而して天皇に依つて総攬せら
 れるから 天皇の統治権とは別個のものである。天皇の統治権
 と云ふ時は国家統治権を総攬られるゝ天皇の大権を言ひ総攬
 大権とも言ふ。而してこの天皇大権、天皇統治権と云ふ場合の
 権は権能であり権力でありそして権勢である。然らばこの権能
 は憲法又は国家に依つて与へられたかといふに、これこそはこ
 の第四条の天皇が直に第一条の万世一系の天皇であらせられる
 ことに依つて本具してゐる所の本来的、本有的、根本的統治実
 より直流し来れる権能である。即ちこれ天皇統治実の権能であ
 る。さればこの条に於ける天皇はこの意味での統治権の主体で
 ある。」(同上)
最後に機関説に関し、
 「機関説は憲法第四条の関する限りに於て殊に国家の統治権と
 天皇との関係に於て之を是認せらるべきである。機関といふ語
 そのものに就いては人に依つて好悪があるとしても機関といふ
 語そのものが不敬であると云ふが如き客観的理由は発見し得な
 い。然し第四条でも『統治権総攬』即ち『天皇の統治権』換言
 すれば『天皇大権』に於ける天皇は『主体』にましますのであ
 る。若しそれ第一条の統治に到つては統治権でなく統治実であ
 つて、その主体は『万世一系ノ天皇』であり、この場合に於け
 る天皇は『国の元首』ではなく国よりも大きく、国よりも高き
 神聖儀表者、現人神にまします。学者は憲法第四条にいふ統治
 権即ち国家統治権と、統治総攬権即ち天皇の統治権とを混同し、
 然して更に天皇の統治権国家統治権及び天皇の統治実とを全く
 辨別して居らぬ。それだから主体だ機関だといつても少しも理
 論が徹底せず又理論と客観事実とが合致しないのである。」(同
 上)
 斯くの如く里見岸雄は従来の天皇主体説及び天皇機関説何れ
の立場も取らず独自の立場を闡明して従来の両説を止揚し新な
る憲法学説を建設せんとする努力が見られる。
 右の外「天皇を国家の機関なり」とする美濃部学説に就いて
の多数の論説は 天皇と国家とを分離せしめ、天皇即国家の伝
統を蹂躙し其の結果は忠君と愛国とを分離せしめて忠孝一体の
理を破り、又其の所説は国家を主とし 天皇を従として本末主
従を転倒せしめ、国体を破壊し 天皇の御本質を無視せるもの
なりと痛烈に論難してゐる。尚蓑田胸喜、鹿子木員信博士等は
美濃部学説に従へば統治権は永遠恒久の団体たる国家に属し而
も国家は「人類の団体」であるが故に、統治権の主体は必然的
に「人類の団体」たる「国民」であることに帰着し、我が憲法
を民主主義的に変革するものであると為して攻撃してゐる。
(月刊「維新」四月号「美濃部学説検討座談会」)
(c) 議会観に対する批判
 美濃部博士の「議会は独立機関にして独自の権能を有し原則
として 天皇の命令に服するものではない」との 天皇と議会
とを対立的に見る議会観も痛烈に論難を加へられてゐる。此種
議会観は西洋思想の個人主義自由主義に由来せる誤謬であり、
或は西洋の主権在民思想に基くものであり、或は君主の大権を
剥奪又は制限せんとする外国流の法理論を以て我が議会を論じ
たものであり、従てそは大権を干犯する不逞思想に外ならずと
論ぜられてゐる。例へば沢田五郎は「核心」(四月号)の「天皇
機関説の兇悪性」に於て
 「美濃部博士は議院提出の法律案の協賛等を例示して議会は 
 天皇の命令に服するものでないと言ふことを説明し議会は又 
 天皇の御任命に係る官府ではないから 天皇の機関でなく、 天
 皇から権限を与へられた機関ではないと言つてゐるのは、どこ
 迄も諸外国の君主と之に対立するその国会との関係を我が万世
 一系の 天皇陛下と其の大御業を翼賛し奉らうとする帝国議会
 との関係とを完全に同一視し、帝国義会をして万世一系の 天
 皇に対立せしめんとするの理論を主張するもので、其の不逞理
 論の浸潤に依り、帝国議会の本義が破壊せられ、現在の如き、
 帝国議会の行動の堕落を招来した其の基本的責任者であること
 を自白するものである。」
と論じてゐるが如きである。
(d) 国務に関する詔勅非議自由説に対する批判
 此の点に関しては代議士江藤源九郎に依り議会に於て攻撃せ
られ、後に告発せられ検事局に於ても出版法上の 皇室の尊厳
を冒漬せんとするものに該当するとして犯罪性を認めたところ
である。
 蓑田胸喜は
 「詔勅こそは法令国務に関するものにて国務大臣輔弼したるも
のなりとも、聖断を経、御名御璽をツし給ひたるものとして至
尊の玉体大御心の直接の発露表現、『みことのり』であつて、
これに対する非難論難の不敬行為は、精神的従つて本質的には
鳳輦等の器物に対する不敬行為よりも重要性のものであること
を熟考すべきである。」
と批判を加へてゐる。
(e) 国体論に対する批判
 美濃部博士が「国体は倫理的事実、歴史的事実にして憲法的
制度にあらず」としてゐる点も攻撃の主要点となつてゐる。斯
の如き所説は国体の本義、肇国の精神に基き制定せられた帝国
憲法の根本義を無視する謬説であると非難してゐる。
中谷武世は
 「美濃部博士が依つて以て自らの憲法学の特質なりとすること
 は憲法解釈より国体を揆無[ママ]せんとする点にあるを知らしめられ
 るのである。即ち憲法学に於ける国体否認に彼の誇りとする学
 説の特徴があるとして、国体なるものは倫理的の観念にして
 現在の憲法的制度を示すものにあらずと断言するのである。茲
 に吾等とは倶に天を戴かざる根本的対立が存するのである。我
 等日本国民の信念に従へば、憲法其の他の制度組織法律典章悉
 く国体の発現ならざるは無く、国体の註脚ならざるはないので
 ある。国体こそが一切の法、一切の制度組織法律典章が派生し
 発現する原理であり、法源なのである。当然の帰結として日本
 憲法学、日本国法学、日本国家学は常に国体学であらねばなら
 ぬ。日本の国家諸学は等しく日本国家の特異性に関する組織を
 以てその出発点とし且つ到達点とせねばならぬ。此処にこそ真
 の日本学があり且つ真の学がある。而して斯くの如きはひとり
 我等の主観的信念たるのみならず又新しき而して正しき国家諸
 学の態度である。」(月刊「維新」四月号「美濃部学説の思想的
 背景」)
(f) 法源論に就いての批判
 美渡部博士は憲法の法源として判定法及び慣習法の外に理法
なるものを揚げ之が独立に国法の淵源たるカを有するとしてゐ
るが此の所説につき蓑田胸喜は
 「憲法『制定法規』は実に『歴史的の事実』と『社会的の条理
 意識』そのものをも併せて表現させ給へるものにして、憲法は
 特にそれ以外の普通国法とは異り『不磨の大典』としてその成
 立の根拠由来効力また改正手続よりするも『制定法規の文字
 に絶対の価値ある』こといふまでもなく、『歴史的の事実』と
 『社会的の条理意識』なるものは憲法の条章のうちに包含せら
 れ内在せしめられ居るものにして、断じて成文憲法の『他に』
 『別に』『之と相竝んで等しき』価値を有するものとして別個
 の法源となるものではない。」(「美濃部博士の大権蹂躙」)
(g) 国務大臣責任論に就いての批判
 美濃部博士が国務大臣に特別な責任を議会に対する政治上の
責任に求めてゐる事に関し蓑田氏は
 「国務大臣の 天皇に対する責任を形式化し実質的に無視した
 るものであるが、それは『天皇は……国務大臣の進言に基かず
 しては、単独に大権を行はせらるゝことは、憲法上不可能であ
 る』といふに至つては、天皇統治の実権は全く国務大臣の手中
 に帰し終るのであるが、更にこの国務大臣の責任は唯『天皇に
 対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服せざる』
 『議会に対する政治上の着任あるのみ』といへるを『而も議会
 の主たる勢力は衆議院に在り』といふ一文とを結合する時、美
 濃部氏の憲法論はこゝに一糸も纏ふなき『憲政常道論』の基く
 『主権在民』信奉宣伝の兇逆意志を赤裸々に露呈したのであ
 る。」(同上)
と非難してゐる。
(h) 司法権の独立に関する所現につき
 尚蓑田氏は美濃部博士が「裁判所は……其の権限を行ふに於
いて全く独立であつて、勅命にも服しない者であるから、特に
『天皇ノ名ニ於テ』と曰ひ、以てそれが裁判所の固有の権能で
はなく、源を 天皇に発し、天皇から委任せられたものである
ことを示して居る」(逐条憲法精義五七一頁)と論じてゐるの
を、至尊の尊厳を冒漬するものとして左の如く非難してゐる。
 「氏は司法権の独立の権能をこゝに 天皇勅命にまで対立抗
 争的に強調して忌憚なく裁判所は『勅命にも服しない者であ
 る』といふが如き重大不敬言辞を吐いたが、氏自身と裁判所の
 権能は『固有の権能ではなく源を 天皇に発し、天皇から委任
 せられたものである』ことを認めざるを得ないにも拘らず、そ
 の『裁判所が権限を行ふに於いて全く独立であつて、勅命にも
 服しない者である』といふのは裁判所をして『天皇ノ名ニ於テ』
 天皇に対してまでも反逆せしめんとする大不敬兇逆思想である。
 これは勅命にも違憲違法または国利民福に背反する場合あり得
 べしと、想像するだに不臣不忠の忌々しき大不敬である。美濃
 部氏が忌憚なくかゝる大不敬言辞を公表したといふことは、免
 るべくもなく『指斥言議ノ外ニ』在します 至尊の尊厳神聖を
 冒涜し奉りたる重大不敬罪である。」(同上)
(3) 美濃部学説排撃の歴史的意義
 美濃部学説排撃の叫びが挙げられるや早くも右翼論壇に於て
は此の運動が昭和の思想維持の遂行であり、更に日本主義に基
く新日本の建設の第一段階となるべきものであるとして其の歴
史的意義が強調された。
中谷武世は
 「貴族院の壇上より美濃部貴族院議員によりて天皇機関説が強
 調せられたことは、帝国大学に於て法博美濃部教授及びその学
 的党与に依りて 天皇機関説が講ぜられ来り講ぜられつつある
 事実とは、不可分ではあるがまた自ら別個の新しい意義を附加
 するものである。……この事実は、一面に於て、満洲事変以来
 著しく頽勢にあつた自由主義的思想勢力、自由主義的社会・政
 治勢力が猛烈なる攻勢移転に出でつゝある事を意味するもので
 あると共に一面に於ては、我が国民大衆の伝統的国家観念が如
 何なる程度に根深く根強いものであるかに関し逆縁乍ら好箇の
 機会を供するものである。……自由主義思想勢力がその政治的
 支持勢力の掩護の下に----貴族院に於ける岡田首相や松田文相
 の答弁の如きは美濃部説の通俗的妥当化を保障するに充分であ
 る----従来の地盤たる知識階級の圏外にも氾濫して国民思想の
 分野に圧倒的な支持を獲得するか、それとも国民大衆の意識下
 に伏在する伝統的民族感情が自由主義の反撃攻勢を押し返して
 之に最後的打撃を与へるかの、国民思想史上の重大なる転機を
 今回の美濃部学説問題は提供するものであると認めることが出
 来る。天皇機関説問題の思想史的意義は這の点に求められねば
 ならぬ。美濃部学説の批判なり排撃なりは、斯の如き思想的背
 景に於て且つ之を包含しつゝ、行はれねばならぬ。即ち問題の
 対象は単に美濃部博士個人に在るではない。個人の思想学説に
 在るのではない。美濃部博士の学説だけが問題なのではない、
 約言すれば、天皇機関説、国家法人説は、明治以来の自由主義
 的思想体系、個人主義的教養体系、唯物主義的文化体系の根茎
 に生えた醜草の一種である。此の根茎に向つて、その『根芽つ
 なぎて、』の抜本的清算が必要なのである。即ちこの問題を逆
 縁として、日本国民の思想的撥乱反正、思想維新、学説維新の
 契機たらしめねばならぬのである。」(月刊「維新」四月号「美
 濃部学説の思想的背景」)
と論じて其の思想革命たる意義を強調し、又近山与四堆は
 「我等国民は、天皇機関説〔思想〕の徹底的剪滅に依る皇道新[真]
 日本の建設に猛進撃するものである。然らば、岡田内閣も、政
 党も、資本主義財閥もそしてその金融資本の独裁的移行を計画
 しつゝあるファッショ派も、凡て我が国体の本義の前に×××
 ×せらるべきものであることを知るのである。……天皇機関説
 思想の剪滅とは只管なる忠誠心の発露に基く政党、財閥、特権
 階級等現支配群に曲げられたる現状日本の革新、昭和維新の達
 成を云ふ・・・」(「核心」四月号「機関説思想駁撃剪滅の政治的
 実践の態度に就いて」)
と論じてゐる。
 斯の如く革新的日本主義者は美濃部博士が「一身上の弁明」に藉
口して機関説の正当性を主張したことは、満洲事変以来頓に頽勢に
傾きかけた自由主義的な思想勢力、社会的勢力、政治的勢力が其の
勢力を盛返へさんとして、躍進しつゝある日本主義陣営に向つて最
後の挑戦を試みたものであると為し、従つて美濃部学説排撃運動は
単なる一学説の問題に止らず、その根抵を為す自由主義思想の一掃、
更にその思想勢力、社会的勢力政治的勢力の掃滅を意味するもので
あり、斯くすることによつて我が国体に基く指導原理を確立し、以
て昭和思想維新を遂行し、更に日本主義に基く新日本の建設に迄進
展さるべきものであることが強調されたのである。


      第三節 当初に於ける政府の態度


 機関説問題に関し政府が極めて消極的態度を取つた為、問題を一
層紛糾せしめた事は既に述べた処であるが、当初の政府の所見は美
濃部学説は非難せらるゝが如き不逞思想を根柢に持つた反国体的の
ものではなく、従つて同博士の著書につき出版法上の処置を為す要
あるを認めざるのみならず、学説の当否は宜しく学者の論議に委ね
るを相当とし政府の関与すべき限りにあらずとの見解を持してゐた。
 三十年の久しきに亙り大学の教壇に立ち、学界に寄与した功績少
からずとして勅選議員に選ばれ、昭和七年の御請書始には御進講者
として奏薦され、次いで勲一等に叙せられた憲法学の重鎮美濃部博
士の著書が、出版法上の犯罪を構成するといふが如きは、当然一線
的には殆ど想像し得なかつたに相違なく、岡田首相が議員の質問に
答へて「用語に穏かならざるものあるも国体観念に誤なし」と述べ
たのも当初の情勢としては無理のない答弁であつたとも言へる。当
初の政府の所見を記載した資料には次の如く記述されてゐる。

         其 の 一

 美濃部達吉博士著『逐条憲法精義』第百七十九頁に憲法第七
条に関し
 「帝国議会は国民の代表者として国の統治に参与するもので
天皇の機関として 天皇から其の権能を与へられて居るもの
でなく随つて原則としては議会は 天皇に対して完全なる独
立の地位を有し 天皇の命令に服するものではない」
との解説あり。
 右引用文句は用語簡に失せる為め或は「帝国議会は 天皇に
対立する機関なり」と説明したるが如く速断せらるゝ虞なしと
せざれども、同著書の全般に亙りて通読し、殊に第五十五頁、
第五十六頁に於ける憲法発布勅語の一節『又其ノ翼賛ニ依リ与
ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セシムコトヲ望ミ』の解説に於て「立
憲君主政治は君主が国民の翼賛に依つて行はせらるゝところの
政治に外ならぬ、而して国民の翼賛を求むる手段として設けら
れたるものは即帝国議会であり、議会が国民の代表者として国
民に代つて大権に翼賛するものである云々」と説き、又第百二
十八頁に於ける「我が憲法はイギリス又はアメリカの例に倣は
ず国家の一切の権利が 天皇の御一身に統一せられ、天皇は総
ての関係に於て御一身を以て国家は体現せらるゝものとする主
義を採つて居る、『統治権を総撹し』といふ語は此の意味を云
ひ表はす云々」、第百二十九頁に於ける「立法権は議会の協賛
を要するけれども、協賛とは唯君主が立法を為し給ふ事に同意
することであつて、君主と議会とが共同に立法者たるのでなく
立法は国民に対しては専ら君主の行為として発表せらるゝので
ある」、第百三十頁に於ける「立法司法、行政の総てが或は君主
に依つて行はれ、或は君主に其の源泉を発してゐるのであつて、
君主が統治権を総捜するとは此の事を意味するのである」「わ
が憲法の下に於ては立法権も行政権も等しく 天皇の行はせた
まふところで、唯立法には原則として議会の協賛を要するが行
政権に付いては原則として要しないといふ区別があるだけであ
る」の説明等を綜合して判断するには、前記引用文句は
  「帝国議会の地位は 天皇の行はせ給ふ立法権に対し国民の
 代表者として翼賛し奉る機関にして 天皇に直接隷属する行
 政官庁及裁判所とは別異の地位を有すること、及び帝国議会
 の活動形態が一般行政官庁の如くに直接天皇の命令を仰ぎ若
 くは天皇より委任を受けて職務の執行を為すものとは異り欽
 定憲法に基く権能を行使して行政権、司法権等の制肘を受く
 ることなく議決に従事するものなること」
を説明したるものと了辞せらる。
 従て出版法第二十六条の「皇室の尊厳を冒涜し政体を変壊し
国憲を紊乱せんとする文書」として処置する要なきものと思料
す。

        其 の 二

 美濃部達吉博士著『逐条憲法精義』の第五百七十一頁に於て
憲法第五十七条の解説中
  「裁判所は之に反して其の権限を行ふに於て全く独立であつ
 て勅命にも服しないものであるから特に『天皇の名に於て』
 と曰ひ以てそれが裁判所の固有の権能ではなく源を 天皇に
 発し 天皇から委任せられたものであることを示してゐるの
 である」
と説明し、
 又同博士著『憲法撮要』第三百五十一頁に於て帝国議会の説
明に就き
   「議会は君主の下にある他の総ての国家機関と其の地位を異
  にす。裁判所、行政裁判所、会計検査院の如き其の権能の行
  使に付き君主の命に服せざるものと雖も尚君主より其の権能
  を授けらるるものにして云々」
  と説明す。斯の如く「勅命にも服しないもの」或は「君主の命
  に服せざるもの」なる語を以て司法権の独立を説明するは措辞
  妥当を欠くの嫌あり、或は出版法第二十六条に触るゝに非ずや
  との疑問を生ずるも、該者書全般の趣旨を吟味し、就中『逐条
  憲法精義』の第五百六十五頁に「而して司法権の独立とは或は
  実質的作用が行政機関の支配を受けず独立なる裁判所に依つて
  行はるゝを要することを意味するものである」と明記しある点
  より解釈すれば、前記引用に係る解説の内容は伊藤公の「帝国
  憲法義解」に於て第五十七条の解読として、「君主は裁判官を
  任命し裁判所は君主の名義を以て裁判を宣告するに拘らず君主
  自ら裁判を雄行せず不意の裁判所をして専ら法律に俵達し行政
  権威の外に之を施行せしむ是を『司法権の独立とす』」と説明
  せると同趣旨に帰するものと理解せらるるを以て出版法第二十
  六条に違反する点なきものと思料す。
 然し乍ら院内外の情勢は政府の斯る態度を許さず、一方軍部両大
臣は議員の質問に答へて相当強硬な意見を述べ、為に外部よりは閣
内に意見の対立を来したかに見られ、政府としても議員の猛烈な追
及に如何ともすることが出来ず、遂に岡田首相は機関説問題に就い
ては慎重考慮の上善処するを明言せざるを得なくなつた。機関説問
題は事柄の性質上、軍の深く関心を有する所で陸海商相は議会に於
ける質問に答へて早くより「機関説といふが如き思想は、我が国体
に反すると信ずる、軍統督の立場からも斯る思想の消滅を図ること
が必要だと思ふ」と其の意志を明にした。三月三十日には軍部の意
見が機関の徹底的排撃を希望する意嚮に一致し、斯る軍部の要望は
直に林睦相、大角海相より閣議に於て披渥されたと報ぜられた。
 (東京朝日新聞三月三十日附夕刊)
 四月四日真崎教育総監は大義名分を正し、機関説が国体に反する
旨を明にした左の如き訓示を部内に発した。

         訓   示

   恭しく惟みるに神聖極を建て統を垂れ列聖相承け神宮に君臨
  し給ふ 天祖の神勅炳として日月の如く万世一系の天皇かしこ
  くも現人神として国家統治の主体に在すこと疑を容れず是実に
  建国の大義にして我が国体の崇高無比嶄然万邦に冠絶する所以
  のもの此に存す。斯の建国の大義に発して我が軍隊は天皇親ら
  之を統率し給ふ是を以て皇軍は大御心を心とし上下一体脈絡一
  貫行蔵進止一に大命に出づ是れ即ち建軍の本義にして又皇軍威
  武の源泉たり。曩に 明治天皇聖論を下して軍人の率由すべき
  大道を示し給ひ爾来幾度か優渥なる聖勅を奉じて国体、統帥の
  本義と共に洵に明徴なり聖慮宏遠誰か無限の感激なからん。夫
  れ聖諭を奉体し寤寐[ママ]の間尚孜々として軍人精神を砥礪して已ま
  ざるは我が軍隊教育の真髄なり。皇軍外に出でて数々征戦の事
  に従ひ内にありて常に平和確保の柱石となり皇猷扶翼の大義に
  殉じたるもの正に軍人精神の発露にして国体の尊厳建国の本義
  真に不動の信念として皇国軍人の骨髄に徹したるに由らずんば
  あらず。然るに世上民心の変遷に従ひ時に国体に関する思念を
  謬りしものなきにあらず。会々最近時局の刺戟と皇軍威武の発
  揚とに依り国体の精華弥々顕現し来れる時国家は以て統治の主
  体となし 天皇を以て国家の機関となすの説世上論議の的とな
  る而して此種所説の我が国体の大本に関して吾人の信念と根源
  において相容れざるものあるは真に遺憾に堪へざるところなり。
  惟ふに皇軍将兵の牢乎たる信念は固より右の如き異説に累せら
  れて微動だもするものにあらず然れども囂々たる世論或は我が
  軍隊教育に万一の影響を及すなきやを憂ひ之を黙過するに忍び
  ざるものあり。世上会々此論議あるの日、事軍隊教育に従ふ者
  須らく躬ら研鑚修養の功を積みその信念を弥々堅確ならしむる
  と共に教育に方りては啓発訓導機宜に適ひ国体の本義に関し釐
  毫の疑念なからしめ更に進んで此の信念を郷閭民心の同化に及
  し依つて以て軍民一体万世に伝ふべき国体の精華を顕揚するの
  責に任ぜんことを茲に更めて要望す。邦家曠古の難局に方り皇
  軍の精強を要することいよいよ切実なる秋本職国軍教育の責に
  膺り日夜専心その精到を祈念して已まず此際敢て所信を明示し
  以て相倶に匪躬の節を効さんことを期す。
                        真崎甚三郎

 次いで四月十三日南関東軍司令官より関東軍国体観念明徴に関し
左記の訓示が与へられた。

          訓   示

     最近我が国体観念に関し美濃部学説云々等程々議論の行はる
    るものありて我が崇高無比の国体に対しその明瞭を凝はしむる
    が如き言説の流布せられあること諸官既に熟知の如し。 大元
    帥を頭首と仰ぎ奉る我が皇軍就中外の重任を承け日夜軍人に
    賜りたる勅諭を奉体して皇国大業の成就に邁進しつゝある我が
    関東革にありてはか1る学現に基く誤れる国体観念の如き固よ
    り一顧だもするものなしと信ずと雖も現下益々重大性を加へつ
    つある内外一般の情勢に鑑み諸官は本職屡次の訓示を体し愈々
    部下に対する指導を適切にし確乎不抜の国体観念、皇軍意識を
    堅持せしめ以て関東軍の重大使命の達成に聊かの遺憾なきを期
    すべし。
    右訓示す。

 又此と相前後して軍部の機関説批判及び排撃の理由を明にした
「大日本帝国憲法の解釈に関する見解」と題するパンフレットが陸
軍省軍事調査部長山下奉文の名に依り帝国在郷軍人会本部より発行
された。
 斯の如く軍部は此の問題に関しては当初より相当強硬態度を示し
此の際国体に関する疑惑を一掃せんとする悪幣を以て臨んでゐたも
のと見られる。


      第四節 美濃部博士の著書発禁等の処置


 機関説排撃運動は日を追うて激甚を加へて待つたが四月六日満洲
国皇帝陛下の御入京の御事があつた為め、都下の愛国諸団体は御滞
京中一斉の運動を停止し、又各地も概ね之に倣ひ四月上旬に於ては
一時運動は休止された。
 此の間検察当局に於ては四月七日美濃部博士を召致し、司法省構
内刑務協会に於て主任検事戸沢重雄、検事太田耐造両氏に依り長時
間に亙り取調を行ひ、内務省に於ても四月九日同博士の著書中『逐
条憲法精義』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』の三者を発売頒布
禁止、『現代憲政評論』『議会政治の検討』の二著書には次版改訂を
命じた。斯くて三十年間の永きに亙り自由主義的時代思潮に乗つて
学界を風靡した美濃部博士の天皇機関説は日本主義思想の猛撃に遭
つて脆くも敗退の第一歩を印した。此の間に於て一部自由主義的な
新聞或は評論家の多少同博士に同情を示したものを除いては、学者
の立つて美濃部学説を弁護せんとする者一人とてなく、議会に於て
も之を庇護する一議員すらなく、往年の憲法論争に際し穂積八束博
士が発した孤城落日の歎声は茲に其の儘勝利に酔ひ続けた美濃部博
士の歎声となつて発せられたであらうことは、かくあらしめた「時
の勢」と国民の胸奥に潜在する国体観念の偉大なる力とを感ぜしめ
ずには置かない。
 議会に於て慎重考慮を約した政府は先づ著書の発禁等の処分につ
ぎ、訓示訓令等に依り議会の建議決議の趣旨に副ふべく努めた。即
ち松田文相は美濃部学説に関聯して学校及び一般社会教育について
国体の本義を一層明徴にするため四月十日北海道長官、各府県知事
帝国大学総長、直轄詔学校長、公私立大学専門学校長及び高等学校
長に対し左の如き訓令を発した。

   方今内外の情勢を稽ふるに刻下の急務は建国の大義に基き日
  本精神を作興し国民的教養の完成を期し由て以て国本を不抜に
  培ふに在り我が尊厳なる国体の本義を明徴にし之に基きて教育
  の刷新と振作とを図り以て民心の潜ふ所を明かにするは文教に
  於て喫緊の要務とする所なり。此の非常の時局に際し教育及び
  学術に関与する者は真に其の責任の重且つ大なるを自覚し叙上
  の趣旨を体し筍くも国体の本義に疑惑を生ぜしむるが如き言説
  は厳に之を戒め常に其の精華の発揚を念とし之に由つて自己の
  研密に努め子弟の教養に励み以て其の任務を達成せんことを期
  すべし。

 次いで五月二日には召集された全国地方長官会議の第一日(三
日)岡田首相は国体明徴に関する訓示を述べ更に同月中に開かれた
警察部長会議(十六日)全国中等学校長会議(二十日)等に於ても
岡田首相、後藤内相より同趣旨の訓示が為された。

         全国地方長官会議に於ける首相訓示

    上に万世一系の皇統を奉じて万民奉公の赤誠を効しまするこ
   とは我が国体の真髄でありまして、肇国の本義洵に炳として明
   であります。百般の事総べて此の大義を基とするに依つて初め
   て誤なきを得ることは、改めて申すまでもない所であります。
   然るに近時学説の論議より延いて国体の根基にまでも群疑を挟
   むの余地あるかの如き事象に接しますことは真に遺憾の極であ
   ります。学問研究の大切なるは固よりでありまするが、之が為
   に国家の大本を謬るが如き言議を将来するが如きは厳に戒めね
   ばならぬ所であります。方今人心動もすれば邀に趨つて中を失
   はんとするの風潮あるに鑑み、愈々国体の本義を明徴にし、民
   心の潜ふ所を正しうすることに勉めねばなりません。地方指導
   の重貴に任ずる各位は特に此の本義を以て庶政の根本と為し時
   弊の匡正と国運の進展とに力を増されんことを望んで已まない
   ものであります。

 又高等文官試験の憲法学科担当試験委員の銓衡方法に付いても先
例を破つて金森委員長の手許に於て一括銓衡が進められ、機関説学
者及び機関説排撃学者雙方が退けられた旨報ぜられ(東京朝日新聞
五月四日付朝刊)更に文部省に於ては七月十五日より全国高等学校
専門学校の各校長、法制修身担当教員及び生徒主事、帝国大学官公
私立大学々生主事等三百数十名を召集して一週間に亙り「国体明徴
講習会」を開催した。

 




    第五章 国体明徴運動の第二期


      第一節 第二期戦の展開


 (一) 愛国諸団体の動向
 美濃部博士の著書の発禁処分等の政府の処置は行はれたけれども、
前記の如く此の運動の主体は現状打破の所謂昭和維新を眼指す革新
勢力であつたが為め、著書の発売処分に依り運動の終熄さるべき筈
は無かつた。四月十五日満洲国皇帝陛下の御退京と共に中央の愛国
諸団体は果然第二期戦を呼号して運動を再開した。
 是より先当初より此の運動の中枢を為して来た国体擁護聯合会は、
四月十二日「所謂機関説問題は昭和維新第二期戦展開の神機」と題
するパンフレット一万部を発行し、各方面に配布し運動の進むべき
方向を示唆した。このパンフレットは極めて含蓄あるもので、爾後
の所謂国体明徴運動の方向に影響する所大なるものがあつたと考へ
られる。
 其の要旨は
   機関説問題の重要性は一学者の愚論にあるのではなく、同様
  の西洋思想に侵された時代思潮を如何にして一新し、久しく汚
  瀆された我が国体の尊威を快復し、上下をして悉く 天皇の国
  民としての本性に立返へらしむべきかに在る。従つて事件の解
  決方法は単なる美濃部一派に対する措置よりも、彼等を産出し
  た時代思潮の革[ママ]を主題とすべきであつて、此の観点よりすれば
  機関説の厳禁竝に美濃部博士一派の処断は差当つての応急手段
  であること勿論であるが、更に現内閣の責任を糾さざる限り正
  当な解決方法とは云ひ得ない。問題重大化の原因は首相が議会
  玉座の御前に於て邪説容認の意思を公言したことに在る。従つ
  て輔弼の重責にある閣僚は此際美濃部一派の処分を敢行すると
  共に自己の責任を痛感して罪を闕下に待つべきである。是れが
  本問題解決の第一義である。
   一面より見れば機関説問題の紛糾は、要するに倫敦条約以来
  先鋭化した二大思潮の継続戦線に於ける一現象に外ならぬ。即
  ち従来の支配者たりし自由主義、国際主義の消極的旧勢力に対
  し、敢然奮起し来つた皇道主義、日本主義の積極的新勢力は内
  外に幾多の事件を生みつゝ一戦毎に旧勢力を圧し、歩々維新的
  局面を開拓して来つたのであるが、端なくも機関説を第二の導
  火線として、一層其の対抗を激化し、茲に昭和維新の聖戦は当
  に第一期戦より転じて第二期戦の展開を見るに至つた。此の場
  合に於て岡田首相は倫敦条約当時に於ける浜口首相の役割であ
  り、美濃部氏は幣原氏に此すべき役割である。蓋し岡田首相等
  が問題を曖昧模糊たらしめんとする所以は其の背後に在る支持
  者掩護の任務がある為である。問題は一転して一木枢相に、更
  に牧野内府に更に/\西園寺元老に迄波及するは必至の勢であ
  る。此の三元老重臣は現状維持派の砥柱である以上、此の崩壊
  は正に時代の転換であり、彼等一流の滅亡である。茲に首相の
  煩悶苦悩がある。
   而も大局より見れば、此の戦の数は業に明白であつて、此の
  決戦により国体意識の闡明につれ、思想の改善統一は劃期的進
  展を見るべく、茲に漸く日本民族本来の面目と天授の一大使命
  に覚到する結果、内外に対する根本的大国策の樹立もやがて其
  の緒に就くべきは予想に難くない。此の意義に於てすれば、機
  関説問題も亦倫敦条約と同じく、日本民族覚醒の天機であり、
  昭和維新促進の神機である。
満洲国皇帝陛下御退京の翌四月十六日には早くも帝都の各所に
 一、舶来機関説直輸入の元祖一木喜徳郎。国体明徴の為徹底的対
   策を講ぜよ。
 一、機関説直輸入元祖一木喜徳郎。国体明徴は元祖の処断から。
 一、美濃部思想は一木が元祖。之を絶やさにや国立たぬ。
等の立看板ポスターが国体擁護聯合会に依り掲示され、美濃部博士
に対する徹底的処置を講ずると共に其の根源たる一木枢相をも処断
し、以て問題の徽底的解決を期すべしとする主張に進展し、爾余の
愛国諸団体も亦之に倣ひ、同様の要望を懐き或は演説会に依り輿論
喚起に努め、或は関係官庁を訪問して徹底的解決を要請し、或は決
議文勧告書文等の形式に依り、関係官庁又は関係個人に郵送する等
運動は益々活発となり、四月十七日には機関説排撃運動を昭和維新
断行の契機たらしめる意図の下に日本皇政会道場(今泉定助)、日
本塾(宇山岩城)、無名士倶楽部四谷支部(直原豊四郎)、飛躍塾
(高幣常平)、日本精神宣揚会(寄田則隆)、中央維新義塾(村井弘
侑)の六団体に依り
   政教維新聯盟
が結成された。
 殊に機関説排撃運動を思想維新、昭和維新に関聯発展せしめた国
体擁護聯合会は決議、要路訪問に効果の見るべきもの少く、且つ司
法処分の遷延せる事情に鑑み、寄々対策を捏り、貴衆両院議員と聯
絡して五月十六日及び六月一日の二回に亙り日比谷陶々亭に時局懇
談会を開催し、
貴族院より
   赤池 濃  井上清純  井田磐楠
   大井成元
衆議院より
   山本悌二郎  川上哲太  大竹貫一
   西村茂生  竹内友治郎  宮沢 裕
   牧野賤男  江藤源九郎
聯合会より
   増田一悦   外八名
出席懇談した結果、現内閣には国体明徴を期する誠意なきが故に其
の引責辞職を以て国体明徴の先決要件と為すべき旨の申合を行ひ、
主要目標を倒閣運動に置き換へ、此に適応する為、新に、
  国体明徴達成聯盟
を組織した。同聯盟の常任委員は左の通りであつた。
   赤池 濃  井田磐楠  福原俊丸
   南郷次郎  石光真臣  等々力森蔵
   若宮卯之助  小林順一郎  五百木良三
   葛生能久  岩田愛之助  竹内友治郎
   宮沢 裕  林 逸郎  山田耕三
   香渡 信  入江種矩  増田一悦
   薩摩雄次
 斯くて国体擁護聯合会は「国体明徴達成聯盟」の中心的指導的勢
力を為し、七月九日には上野静養軒に於て中央竝各地愛国団体有志
五百余名の参会を得て
   国体明徴達成有志大会
を開催し
 一、岡田内閣総理大臣は速かに引責辞職して、罪を闕下に謝し奉
   るべし。
 二、吾人は全力を尽して国体明徴の達成を期し、以て皇道宣揚の
   実を挙げんことを誓ふ。
 右決議す。
なる決義を為すと共に、貴族院議員井上清純、菊池武夫、衆議院議
員宮沢裕、其の他蓑田胸喜、小林順一郎等の演説に大に気勢を挙げ
輿論の誘発に多大の効果を収めた。
 又一方機関説排撃の指導者格たる蓑田胸喜、井上清純、井上磐楠、
菊池武夫、江藤源九郎等は国民に憲法の正しい認識を把握せしめる
と共に国体明徴の達成に資する趣旨の下に
  憲法学術研究会
を組織した。
 次に著書発禁処分以後八月三日政府の第一次国体明徴声明迄の間
に於ける帝都下主要団体の主なる活動を摘記すれぼ左の通りである。
(1) 機関説撲滅同盟
 (a) 四月十七日本部に世話人会を開催、「政府の態度極めて曖昧
    なるを以て此際首相、法相等を訪問激励を為す要ある」旨を決
    定。
 (b) 翌十八日代表者塩谷慶一郎等首相官邸を訪問国体明徴の声明
   発表を要望す。
    小原司法大臣を訪問美濃部博士に対する司法処分を要望す。
(2) 国民協会
    各地支部に指令し演説会を開かしめ又美濃部思想絶滅の署名
   運動を展開せしむ。
(3) 大日本生産党
  (a) 四月九日井上四郎等代表者岡田首相を訪問美濃部学説殲滅の
    勧告書を提出、次いで美猥部邸に至り自決勧告書を手交。
  (b) 六月三日常任委員会に於て首相宛挂冠勧告書、法相宛断乎処
    分方申言書及一木枢相宛辞職勧告書を決定、代表者に依り夫々
    訪問提出す。
(4) 黒 竜 会
  (a) 四月十四日「反国体思想を根絶して明治神宮の御神霊を安じ
    奉れ」と題するパンフレットを各方面に配布。
  (b) 同月十八日「美濃部処分に就いて全国民の奮起を促す」と題
    する邀文多数を配布。
(5) 新日本国民同盟
  (a) 四月二十四日代表者神田兵三等十八名は司法省、大審院検事
    局を訪問、司法処分に依り国体の本義に関し全国民の帰一する
    所を明示せらるべき旨の決議文を司法大臣以下検察首脳者に交
    付。
  (b) 同日同趣旨の決議文の提出方を各地支部に指令す。
(6) 明 倫 会
  (a) 四月上旬より総裁田中国重以下幹部は近畿、中国、九州各地
    の支部を一巡し各所に於て機関説排撃、国体明徴の講演を為す。
  (b) 同月二十一日青年部全国大会を開催、機関説排撃、機関論者
    の官公職辞職等を決議す。
  (c) 五月十日緊急理事会を開催、国体明徴に関する運動方針を決
    定、直に全国支部に指令す。
  (d) 同日代表者芦沢敬策外六名は首相、内相、法相を歴訪断乎た
    る処置あり度き旨進言す。
  (e) 同月二十七日「国体明徴運動を徹底せしめよ」と題するパン
    フレットを各方面に発送す。
  (f) 七月中全国役員の署名を取纏め、首相宛「明確なる声明と徹
    底処置を要望する」勧告書、陸海両相宛政府鞭撻方勧告書に附
    して提出す。
(7) 建 国 会
    赤尾敏発起に依り五月十五日青山会館に故上杉博士の慰霊祭
   竝機関説排撃講演会を開催す。出席者頭山満翁以下約三百名。
 此等中央愛国諸団体の活動に呼応して、地方各地に於ても猛運動
が継続され、関西方面に於ける国粋大衆党、日本一新同盟、兵庫県
愛国社同盟等十五団体を以て結成せられてゐる「維新倶楽部」に依
り七月三日大阪市中央公会堂に於て
   国体明徴全関西国民大会
が開催され、次いで七月十日九州地方に於ける大日本護国軍等愛国
団体主催の下に福岡市に於て
   天皇原義宣明西日本国民大会
更に同月十二日北海道小樽市に於て
   国体明徴北海道国民大会
等相次いで開催され、運動は全国的大衆運動化し一大国民運動へと
進展した。

 (ニ) 政友会の動向

 政友会は機関説排撃に積極的態度を示し、第六十七帝国議会開会
中党内有志代議士を以て「国体明徴実行委員会」(委員長山本悌二
郎)を組織し、爾来引き続き政府に対し天皇機関説排撃の方針を閘
明し国民の嚮ふべき所を知らしめる為剴切な措置を要望し、総裁及
び党幹部に対しても所見を進言し其の決意を促すところがあり、党
幹部亦之に応じ、六月二十七日国体明徴実行委員会を開催して対策
を協議し、先づ第一段の方策として実行委員は九月中旬迄の間連日
に亙り首相、法相、文相、内相、陸相等を訪問して
  (イ) 機関説は国体の本義に反すとの声明を為す意思なきや
  (ロ) 機関説の元祖一木枢相及機関説論者金森法制局長官を処断
    する意思なきや
  (ハ) 今後各学校に対して機関説の講義を禁止する意思なきや
  (ニ) 美濃部博士の司法処分は何故遅延しつゝあるものなりや
  (ホ) 軍部は国体明徴に関し速かに適当なる方法を講ぜんことを
    望む
 叙上の如き詰問或は要望を為して促進運動を試み、更に第二段の
方策として七月三十一日党本部に所属議員の臨時総会を開き
  現内閣は 天皇機関説排撃の誠意なし。国家の為に深憂に堪へ
  ず、我党は国民と共に之が解決に邁進す。
 右の如き決議を為し、引続き同夜日比谷公会堂に「国体明徴、天
皇機関説排撃演説会」を開催し、大に機関説排撃及び岡田内閣打倒
の叫びを挙げて、愛国諸団体の大衆的運動に拍車を加へた。

 (三) 郷軍の動向

 帝国在郷軍人会は美濃部学説が議会の問題となるや早くも機関説
が我が国体に惇る所以を表明し、文書又は講演会に依り国体の明徴
を期する方針を取り、政争の渦中に陥ることなきを警戒しつゝ運動
を続け、各地の聯合支部分会は本部の通牒に基き一斉に排撃運動を
開始した。殊に信州郷人同志会は同県下に於て輿論の喚起に努める
に止らず、四月二十五日会員有余名を動員上京し、明治神宮に機関
説排撃祈願祭を行ふ等極めて積極的に活動した。四月十五日には帝
国在郷軍人会本部より「大日本憲法の解釈に関する見解」なるパン
フレットが各方面に配布され、五月十五日名古屋市に於ける
    東海郷軍同志大会
を初め各地支部は講演会座談会に、文書の配布に機関説排撃、国体
観念の明徴の叫びを挙げ、六月頃よりは、東京、京都、八幡、小倉、
久留米、佐賀、三重、奈良、石川、愛知、静岡等各地聯合会、支部
より陸海軍大臣竝郷軍本部に対する進言書が頻繁に発送され、其の
活動には目覚しいものがあつたが、一般的には不純な政治的目的を
有する運動に利用されることを警戒しつゝ飽く迄む国体に反する機
関説を排撃し国体観念を明徴にし、皇国の基礎と日本精神との確立
を期しての運動であつた。


      第二節 天皇の原義宣明の要望


 美濃部博士の著書発禁処分以来国体明徴運動の裡に問題解決方法
として現はれた主張を綜合すれば
  (一) 政府は 天皇機関説の国体の本義に反する所以を明かにし、
     「天皇の原義」を宜明し以て国体の明徴を期すべし。
  (二) 速かに美濃部博士の司法処分を断行すると共に同博士を一
     切の公職より辞退せしむべきこと。
  (三) 機関説の根瀕たる一木枢柏をも処断すべし。
  (四) 金森法制局長官は機関説論者と認めらるゝを以て同様処断
     すべし。
  (五) 岡田首相は速かに引責処決して罪を闕下に謝し奉るべし。
  (六) 各学校に於ける機関説支持学者の罷免及今後機関説の講義
     を厳禁すべし。
  (七) 機関説を信ずる官吏、貴衆両院議員又は此の学現に依り登
     用せられたる一般官吏に対し速かに断乎たる方法を講ずべし。
等の要望を見ることが出来るのであるが、右の主張の内、天皇機関
説が明に我が尊厳なる国体を紊るものであることを国家に於て断定
し以て、天皇の原義を闡明ならしむべしとする「天皇の原義宣明」
の要請と、概関説論者の厳罪の主張とは、此の間に於ける国体明徴
運動の中心的要求であつた。国体明後とは「天皇の原義」の再認識
再確認の謂に外ならぬ。天皇機関認が排撃される理由は其の反国体
性の故であつた事は勿論であるが、此の運動を斯く迄拡大せしめた
根本的原由は個人主義自由主義唯物主義の西洋思想が時代の主潮を
為し、「天皇の原義」を不明瞭ならしめた機関説を支持し庇護し、
他面此等思想の上に立つ社会的勢力、政治的勢力は之に依り弁護さ
れる関係下にあり、而も機関説が三十年間に亙り放置された為め、
官界政界財界教育界言論界其の他社会の各部面に亙力移しい数の信
奉者が送出され、自由主義陣営の主要部分が此等税関説信奉者に依
り形成せられてゐると見られたことにある。従て「天皇の原義」を
歪曲紛更せしめた概関説思想を一掃し、我が国固有の 天皇統治、
天皇政治の真意義を国民に徹底せしめ、国民の国体観念を確乎不動
のものたらしめる事は喫緊の急務として要求され、其の具体的方策
として、「天皇の原義宣明」と「機関説論者の厳罰」の要望が国体
明徴運動の全面に亙つて現はれたのである。
 左に当時の宣言決議文等二、三を紹介する。
          宣   言
             (昭和十年七月三日全関西国民大会)
   皇祖国を肇め給ひてより連綿茲に三千年其の国体の神聖荘厳
  なる万邦に此類なく宇内に冠絶す即ち上に万世一系の 天皇を
  奉戴し下皇恩を仰ぎ一君万民相総和して生々化青天壌と共に窮
  る処なし。
   然るに一木、美濃部の徒輩外来自由主義に基きて機関説を唱
  へ故意に欽定憲法歪曲の妄説を流布し遂に 天皇の尊厳を冒涜
  し奉り国体の精華を毀けんとす。
   而も政府の態度徒に躊躇逡巡し荏苒日を閲みし斯る不達の逆
  説を曖昧模糊の裡に葬り去らんとするは真に吾等国民憤激赫怒
  禁じ能はざる処也。
   今や皇国内外の危局愈々深度を加へ上下協和して以て是が克
  服に邁進すべき秋此処に吾等相倚り相議して邪論の撲滅を企り
  神聖無比なる国体の明徴を期せんとするは愛国の至誠凝結する
  処将に当然なりと信ず。
   即ち全関西国民の愛国的圧力下誓つて皇国の本旨を顕現し国
  家存立の大本を極めんと欲す。
   若し夫れ政府諸公にして尚一片の国民的良心存するあらば断
  乎一木の職を奪ひ即刻美濃部を縛る可し。
   敢て右顧左眄して吾等が要求に応へるを憚らんか烈々焔と燃
  ゆる吾等が愛国の熱血は唯一途国体明徴の聖戦を闘はん。
   右宣言す。
        宣   言 (東海郷軍同志会)
   皇祖の御神勅炳として日星の如く 皇宗肇国の大義尊厳万世
  一系の 天皇畏くも現人神として皇国統治の主体に在ますこと
  惟我国体の精華にして皇幹臣民、君臣一体、家族国日本のこの
  無比の国体の中心生命たる 天皇が断じて「統治の機関に非ざ
  る主体」たること論議の余地なし。
   然るに此神聖冒すべからざる 「天皇の原義」に於て「国家
  を以て統治の主体となし、天皇を以て其の機関となす」反逆亡
  国的邪説、学説の美名に隠れて公然三十年を跳梁し、之が主張
  者信奉者に依る僭上の行動、国家の指導的立場に依拠して為さ
  れ皇国の上下を覆ふ現状将に皇国最大の危機と云ふべし。而も
  国体の明徴を使命遂行の第一先頭の問題たる現政府当局が、満
  洲事変を契機として復活覚醒せる国体信仰の国民的体認に基く
  「国体明徴、天皇機関説排撃」の熾烈なる希求を開かず、その
  処置優柔不断、徒らに此重大事をかの黒白両説対岐論争の紛議
  に委せて既に半歳、今日に至るも未だ解決し得ざるは我等国民
  の断乎容認し得ざる不忠と云はざるを得ず。国体の明徴とは
  「天皇の原義」再認識再確認の謂ひに外ならず。即ち「皇権の
  復活強化」なり。我等は本問題に対する政府当路の態度不徹底
  を指摘し、いまや全国に澎湃たる 「天皇の原義」確立の国民
  的希求を結集して之が即時実行を迫るの絶対緊喫事たるを確信
  し先づ起つて天下に之を宣し併せて当局に迫らんとするものな
  り。忠良至誠の同胞夫れ我等と共にこの聖戦に直参せよ。
   右宣言す。
        決  議 (同上大会)
   反国体的邪説「機関説」問題に対する政府当局の態度は洵に
  不徹底極まるもの之が紛議既に半歳に亙るを放任して顧みざる
  如きは将に輔弼の重責を欠くの甚しきものなり。宜敷くその不
  忠を万謝すると倶に速かに国体明徴の本義たる「天皇の原義」
  を政府の名に於て宜明し、併せて反逆思想「機関説」主張信奉
  者を断乎厳罰に処すべし。右即時実行を要求す。
   右決議す。
 右の外現役の青年将枚の一部も次の如き撒文を飛してゐる。
       全国同期生諸兄に送るの書(抜粋)
  前略
   然して日本肇建の理想に於て、其の千万年の進化史を集結し
  たる帝国憲法の告文勅語及第一条乃至第四条に於て、軍人に賜
  りたる勅諭に於てこの無比の国体の中心生命たる「天皇の原
  義」は「統治の機関に非ざる主体」にして国家の根柱たること
  自ら明白なり。(中略)
   天皇機関説思想を以て畏れ多くも 天皇を敬して遠ざけ奉り
  事実上の国家の中心体は実に歪曲の甚しきに非ずや、噫。国体
  の大義が蹂躙され喪失して何の日本の存在あらん。今や国勢滔
  滔として混乱衰頽に趨き眼前見る曠古の内外非常時局大国難時
  代に遭逢せる、禍根一に只此処に発す。
   一国家の現勢是の如し。此の反逆思想の支配指導に生へる国
  民を挙国皆兵精神に於て徴募し、而も「国運の隆替」を負へる
  軍なり。而して更に時難克服の主動に置かれたる軍なり。吾人
  は軍自らの国体の明徴に万全を竭尽すると共に進んで軍存在の
  基礎たる国家に向つて----先づ速かに先頭第一の問題として
   「天皇の原義」宜明を要望せざるを得ず実に国家と国軍のため
  に万世不動の根本確立を庶幾するに在り。然り、一美濃部の著
  書の発禁と「疑惑動揺なからんことを望む」の論告を以てして
  は一掃する能はざる国体侵蝕の亡国的跳梁なるを如何せん。
  (中略)
   通観し潜思すれば、謂ふところの昭和維新とはこの国体明徴
  の別称なり。維新を庶幾するものは更に切実に此問題を検討し
  把握し希望し実行する所なかるべからずと爾か云ふ。(以下略)

     第六章 国体明徴運動の第三期


       第一節 国体明徴第一次声明


(一) 政府の声明及び首相談話
 機関説排撃国体明徴運動は七月に入り益々拡大し、政府に対し、
問題の徹底的解決を要望する運動は熾烈を極め、美濃部博士を告発
した江藤代議士は機関説排撃に関し上奏文を内大臣府に繰出したと
伝へられた。殊に軍部は強硬態度を持し、屡々陸海両相より岡田首
相に善処方を要望したが、七月三十一日の非公式の軍事参議会に於
ては林陸相の「政府をして先づ機関説排撃を明示すべき正式声明を
為さしむる」方針は支持され(東京朝日七月三十一日付朝刊)、全軍
一致の要望として岡田首相の声明が要求された。
 斯る情勢の裡に、種々の迂余曲折を経て遂に八月三日政府は国体
明徴に関し左の如き声明及び岡田首相談を発表した。
       政府の国体明徴に関する声明(全文)
   恭しく惟みるに、わが国体は、天孫降臨の際下し賜へる御神
  勅に依り明示せらるゝ所にして、万世一系の 天皇国を統治し
  賜ひ、宝祚の隆は天地と與に窮なし。されば憲法発布の御上論
  に「国家統治ノ大権ハ之ヲ組宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナ
  リ」と宣ひ憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ
  統治ス」と明示し給ふ。即ち大日本帝国統治の大権は儼として 
  天皇に存すること明かなり。若し天れ統治権が 天皇に存せず
  して 天皇は之を行使する為の概関なりと為すが如きは是れ全
  く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。
   近時憲法学説を繞り国体の本義に関聯して兎角の論議を見る
  に至れるは是に遺憾に堪へず。政府は愈々国体の明徴に力を効
  し其の精華を発揚せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べ
  て広く各方面の協力を要望す。
新聞紙上に報道された岡田首相の談話は左の通りである。
       岡田首相談話
  一木氏は三十余年前広く国法学を講じて居られたが特に日本
 帝国の 天皇の御地位のことに就いて云々せられてをらぬと聞
 いてゐる。しかし其後学者たる地位を棄てゝ永年宮中に奉仕せ
 られ学問とは縁を絶つて今日に及んでをられるものであるから
 この問題のために同氏の身上に影響の及ぶが如きことは断じて
 ない。又金森法制局長官は機関説ではないと聞いてゐるからこ
 れまた問題は起らぬ。

(ニ) 政府声明及び首相談話の反響
 右の政府声明及び首相談話の各方面に及した反響は、其の立場に
依つて区々たるを免れなかつたが、之を概括的に綜合すれば大体次
の諸点に帰着してゐた様である。
 (1) 全面的に好意的なるもの
   政府が国体明徴に関する声明を発した事は我が国体の本義に
  鑑み適切妥当の処置であつて、政府が斯の如き誠意ある態度を
  示した以上、国体明徴運動は其の目的の大半を達したものと謂
  ふべく、政府の措置を諒とし今後政府の為す処を監視するに止
  むべきものであるとするものである。公正会、民政党、国民同
  盟を初め実業家全国の主要言論機関等多くは斯る意嚮を示し、
  機関説問題を以て政争或は党略の其に供せんとするが如き事な
  き様国民の戒慎を要望してゐる。
 (2) 声明を非難せず首相談話を攻撃するもの
   発表された国体明徴の声明書に「天皇は之を行使する為の機
  関なりと為すが如き」学説は「国体の本義に惇る」旨を明にし
て機関説を排除した事は相当であるが、之と同時に首相談話の
形式に依り、一木枢相及び金森法制局長官の身上に関し擁護す
るが如き発表を敢てしたのは、政府の国体明徴に対する信念と
誠意を欠く証左であつて、政府の声明は偽瞞に外ならぬと為し、
或は一木枢相、金森法制局長官等機関説論者の処断と之を支持
する一派の掃滅に及ばなければ、政府の声は全く無意味である
と為すものである。斯る主張は当初より此運動を継続して来た
愛国諸団体の大部分、郷軍の一部、貴衆両院議員の一部の主張
した処で、政友会の国体明徴笑行委員会、明倫会等も略同様の
主張を為してゐた。
 例へば月刊「日本及日本人」(三二七号)は「更に一大追撃を
要す」と題し
   「更らに首相が、右の声表発明と同時に、一木枢相、金森法
   制局長官等の為に特殊の弁護を公にしたる一事と、且つ此の
   声明を以て問題解決一段落と為すが如き宣伝振りとは、明白
   に彼等が陋劣無反省の心情を暴論せるものと云ふべく、以て
   今次の声明の本質を察するに余りある。」
   と述べてゐる。
(3) 声明及び政府の態度を全面的に反駁するもの
 以上の傾向と全く異り、声明の内容及び政府の態度を全面的
に反撃したものに郷軍同志、陸軍大佐小林順一郎の率いる三六
倶楽部、之と裏面に於て提携活動してゐた直心道場系の一派が
ある。其の主張する所は、政府の声明なるものは聊かも機関説
及び思想を排撃してゐるものではなく、却て表に排撃を装ひ、
裏に美濃部説を擁護し、而も声明の第二項に於て、美濃部学説
排撃に闘つた者に対し、「兎角の論議を見るに至れるは寔に遺
憾に堪へず」と反対に戒め国民を愚弄したるものと云ふに在る。
即ち美濃部博士一派と雖も未だ曾て「統治権が 天皇に存せ
ず」と声明文にあるが如くに 天皇に統治権のあることを否定
したことはない。只天皇に統治権があるといふ言葉の解釈に於
て 天皇の保有し給ふのは統治権そのものでなくして、統治の
権能であるといふのである。又概関説にても「統治権が 天皇
に存せずして 天皇は之を行使する為の機関なり」と云ふが如
き意味に於て 天皇を「機関」なりと云つたことは未だ曾てな
い。従つて声明文は未だ曾て問題となつたことのない事を故ら
に内容としてゐるもので、声明文前段は美濃部説排撃どころか
反対に政府が美濃部博士の代弁を勤めてゐるに外ならぬと云ふ
のである。
 蓋し問題の中心は 天皇が統治権の主体に在しますか、それ
とも国家が統治権の主体であるかにあつたに拘らず、声明文は
毫も此の点を明かにせず、従つて美濃部学説の排撃を意味して
ゐないのみか却つて之を許容する余地を残した不徹底極まるも
のであつて、美濃部博士自身ですら之を許して「あれは大変結
構です、私もあの声明には全然同意します、併しあれだけ差障
りのない声明をするまでには随分苦心したでせう」と或新聞記
者に語ったと当時の「やまと」新聞、帝国新報等に報道されて
ゐる。
 此の種の攻撃の代表的なものを左に掲げる。此の赦文は八月
二十四日、大井大将以下十七名の在郷将校の連名にて軍部内に
配布されたもので政府に一大衝撃を与へ遂に第二次声明をも余
儀なくせしめた一契機を為したものと見られる。此の檄文は三
六倶楽部の機関誌「1936」九月号及び小林順一郎著『軍部
と国体明徴問題』にも掲載されてゐる。

        檄   文

  謹啓国事多難の折柄愈々御清祥欣賀此事に奉存候。
  陳者国体明徴問題は皇国活動の全面に亙り堅確なる道義日本の
 真の姿を再現せしむる事に有之、之が為には当局としては、先づ
 美濃部学説及び其の学説の根基を成す思想が、全く我が尊厳なる
 国体を破壊に導く凶逆なるものなり、といふ確乎たる断案を以て
 之に臨むを先決問題と致すべきは論を俟たざる儀と奉存侯。
  過去半歳に亙り、忠良なる愛国民が、之が為に、当局に向つて
 先づ其の声明を迫りたるは、全く之が為めなりと奉存候。而して
 政府は終に其の要望を容れて、去る八月三日御存知の如き声明を
 発表致し申侯。
  斯かる声明を発するだけに、約半歳の躊躇をなしたる政府の態
 度は既に識者の均しく了解に苦しむ処に御座候も、兎にも角にも、
 問題解決の第一歩に入りたるものゝ如き感想を一般国民に与へた
 る事だけは明白なる事実に有之申侯。
  然るに焉ぞ図らん、該声明は聊かも美濃部学説及び思想が、我
 が国体に反するものなりとの断案を下したるものにては無之、美
 濃部氏一派の学者も、悉く本声明に対しては、未だ曾て異存を挿
 みたること無之ものに御座候。
  此儀は別紙書類中、今回の声明と美濃部博士の言説と御対照下
 さらば明瞭に御座侯。
  要するに声明文中「統治の大権が 天皇に存す」といふことは
 如何なる学者と雖も、未だ曾て是を否定したる者は無之、本春以
 来、紛糾を重ねつゝある問題は、其「大権」なるもの、法律的解
 釈に於て、美濃部氏及び其一派の学者が統治権の主体に異説を挿
 み、皇国の国体を破壊する許すべからざる観念を基礎と致したる
 事に有之申侯此儀は別紙小林大佐の所論のみにても既に明瞭の事
 と奉存候。
  又如何なる学者と雖も声明に在るが如き「機関」なる意義にて
 未だ曾つて 天皇を「機関」なりと主張したるものは無之候。従
 て声明文第一項は、未だ曾て問題とならざりし事を、殊更に声明
 の内容と致したるものに有之、従つて之に依りて戒めらるゝもの
 は、一名もなき次第に御座候、夫れ故に此第一項のみにては全く
 意義を壊さず、止むを得ず「近時」以下の第二項を附して、前述
 の如く問題に非ざる事を問題として兎角の論議を成す者を成しむ
 るの形式を採るより外途なき事と相成候ひし事は、何人も容易に
 推知し得る事と奉存候。
  換言すれば、此声明文は一般国民が、四囲の環境より概念的に、
 美濃部学説を国体違反なりと断言せしものと考へたる事実を全然
 裏切りて、実は過去半歳の間、本問題の為に奮闘し来れる軍部及
 び国民を却て戒めたるものにして、之を愚弄したるの甚だしきも
 のなる事は、一点の疑を挿む余地無之侯。
  特に国体擁護問題に関しては、他の一切の事(政治も世論も)
 顧ずして、ひたすら其の重責を辱かしめざる事に、敢然邁進すべ
 き筈の軍としては、尚更の事と奉存侯。
  勿論本声明には、軍当局としては、予め其協議に参与し従て共
 同の責任は、表面上明に免れ難きも、然しながら、軍は其純なる
 本質上、斯くの如く字句末節に拘泥して、不純不逞の企図を以て
 斯かる声明文を草するが如き一部専門家とは、大に其趣を異にす
 る事は熊本県郷軍同志会の陸海商相に対する建白書に記述しある
 通りと奉存候。
  又軍内殊に軍の首脳部に於ては、軍当局の体面問題を国体擁護
 問題よりも先にするが如き不忠の漢は、一名も無之事は申す迄も
 なき儀に御座侯。
  従つて、軍当局としては、此際は専門家ならざる為に、研究不
 足なりし事を、アツサリと謝すると共に、政府当局に向つては内
 容が何を意味するか知悉しつゝ、斯かる許すべからざる声明をば、
 而も、如何にも重大声明の如き振りをなしつゝ、発表したる事実
 に対して極めて唆厳なる態度を表示する必要あるべき事は、明瞭
 の儀と奉存侯。
  実に、天皇の御地位に関し、又政治、経済、思想其他国家活動
 の全面に亙り従来の物質至上観念に抗して、皇室を中心としたる
 道義至上の荘重和淳の日本を再現せしめ得るや否や、而かも夫れ
 が国防的見地よりしても、統帥権の独立問題、茲に軍総体の精神
 力の興亡にも関する此重大問題を、仮にも軍が今日の如き立場に
 於て、軟弱なる態度に出づる事あらんか、夫れこそ重大事と奉存
 候、斯くては軍部として明治十五年軍人に賜りたる勅諭違反とな
 るべきは明かの事にて、許し得ざる議にて可相成と奉存侯。
  軍の統制問題が、近頃、八ケ間敷相成侯は、誠に遺憾至極の儀
 に存候も、実は、斯くの如く総てを超越したる重大国事に処する
 軍当局の態度が現実問題として、軍内の一致を維持し得るかの境
 界とも可相成かと奉存侯。
  軍内に於ては、坊間に於て、噂さるゝが如く、決して軍紀、秩
 序の紊乱されあるが如き事実は、聊かも無之、今日演習、勤務、
 或は満洲の野に於ける皇軍の健闘の有様を一見すれば、此儀は明
 明白々の事にして、我が国民として、皇軍の此威容を誇とせざる
 者は恐らくは無之と奉存候。
  然るに数年来、軍部の関係したる色々の事件の惹起したるは、
 軍を超越したる重大問題に対する一般の態度と、及び義勇奉公の
 念に満ちたる至誠純真なる軍人精神とが両立せざるもの往々有之
 候事に因由するものなる事は勿論の儀に有之申侯。
  然るに、之を一般社会内に於て、屡々見るが如き、私利私慾を
 中心としたる闘争と、混同するが如き事は、決して有之間敷儀と
 奉存侯。
  此儀は、此の際に於て、特に一般国民に了解せしめ置く必要有
 之と共に、今回の声明問題に対しては、軍部内の統制上より観察
 しても頗る断乎たる処置を採るの必要ある事は、論議の余地無之
 と奉存侯。
  勿論国体明徴問題は、軍の統制上に絶対重大なる問題に有之、
 従つて後者を主として申す如き考にては毛頭無之、此儀は御誤解
 なき様奉願上候。
  内外共に、時局は頗る重大に有之中候、最早右顧左眄、躊躇の
 時機には無之と愚信罷在候真に恐懼憂慮の至りに堪へず、茲に不
 敏をも顧みず、至誠を以て各位の至誠に訴へ、協力戮力、陸海相
 を扶けて、軍としての動向を誤るが如き事なき様祈願罷在候次第
 に御座候。
  昭和十年八月二十日
                    (順 序 不 同)
              陸軍大将  大 井 成 元
              陸軍中将  両 角 三 郎
              陸軍中将  等々力森蔵
              陸軍中将  菊 池 武 夫
              陸軍中将  二子石官太郎
              陸軍中将  四王天延孝
              陸軍中将  渡 辺 良 三
              陸軍少将  草 生 政 恒
              海軍少将  南 郷 次 郎
              陸軍少将  松 江 豊 寿
              陸軍少将  松 本 勇 平
              陸軍歩兵大佐 香 川 桜 男
              海軍大佐  井 上 清 純
              陸軍歩兵大佐 小林順一郎
              海軍大佐 渡 辺  汀
              海軍大佐 有 馬 成 甫
              陸軍砲兵少佐 井 田 磐 楠

 (三) 板橋菊松の法制局長官金森徳次郎告発

 拓大、法大講師板橋菊松は機関説排撃の為め、四月中旬単独「憲
法学説再検討の会」(十月一日「帝国憲法学会」へと改称)を創設し
国体明徴達成聯盟、憲法研究会其の他と連絡行動しつゝあつたが、
政府の第一次声明発表直後前記諸団員江藤源九郎、菊池武夫、井田
磐楠、井上清純、蓑田胸喜等の来会を求め懇談会を開催し、政府声
明に対しては聊か誠意の認められるものあるも、之が発表直後為さ
れた首相の談話は金森法制局長官等の擁護論であり却て声明の価値
を滅却せしめたものであつて、今後共学究的立場より機関説信奉者
の徹底的粉砕に邁進すべきであるとの申合を為したが、越えて八月
十四日板橋は金森法制局長官著『帝国憲法要綱』を以て出版法第二
十六条、第二十七条違反として東京刑事地方裁判所検事局に告発状
を繰出し、更に同月二十八日告発状の内容を敷術した上申書を同検
事局に提出すると共に「美濃部博士及び金森長官の天皇機関説」と
題する文書を各方面に配布して輿論の喚起に努めた。

 (四) 国体明徴達成聯盟、三大倶楽部の活動

 国体明徴達成聯盟は六月一日結成以来、機関説排撃運動の中枢を
為した国体擁護聯合会に代り此運動の中核的存在を為して来たが、
八月三日政府声明の行はれるや、、直に五百木良三等幹部は世話人会
を開催し
 (一) 政府の声明発表の動機は外部的圧力に依り已むなくこゝに
  到れるものにして不純の譏を免れず。
 (二) 議会に於て明確な説明を為す能はずして而も荏苒今日に至
  り声明を発表するが如き態度は醜態なり。
 (三) 声明の内容は巧に問題の核心を避けたる偽瞞的のものなり。
 (四) 軍部が斯る偽瞞的声明に承認を与へた限り軍部と雖も信頼
  するに足らず。
 (五) 声明発表後の首相の談話は却て声明自体の意義を失はしめ
  且つ問題を後日に残したり。
と為して強硬な態度を示し、政府声明を機として愈々其の所期する
昭和維新の遂行に向はんとする動向を示した。
 一方在郷軍人を中心として組織せられてゐる三六倶楽部は運動の
当初より国体擁護聯合会其の他と呼応して機関誌「三六情報」「1
936」を以て屡々政府の措置を難じて来た。同倶楽部の重要人物

  常務理事 小林順一郎    松 江 豊 寿
  主 事   吉 見 隆 治
  理 事   井 田 磐 楠   井 上 清 純
         堀口九万一     小 原 正 忠
         大 井 成 元    渡 辺  汀
         香 川 桜 男   南 郷 次 郎
  会 員   松 本 勇 平  二子石官太郎
         藤田茂一郎   有 馬 戌 甫
         佐 伯 正 梯  菊 池 武 夫
         志 賀 直 方   四王天延孝
         両 角 三 郎
等であつて、陸海諸将官、貴族院議員等の多数有力者を擁し国体擁
護聯合会と共に国体明徴運動の主流を為し其の郷軍に与へた影響に
は大に見るべきものがあつた。殊に主幹陸軍大佐小林順一郎は屡々
各地を遊説して常に強硬な意見を発表し、輿論の喚起、運動の白熱
化に努めて来たが、政府声明後同倶楽部は帝国在郷軍人会全国大会
を前にして右声明文を攻撃した檄文を在郷軍人会を初め各方面に配
布して中堅郷軍層を硬化せしめることに努めた。

 (五) 帝国在郷軍人会全国大会

 斯くして各地の郷軍は全国大会を前にして頻りに活溌な活動を開
始し、盛に決議宣言等を行つて之を軍部大臣、或は郷写本部に送付
し軍首脳部の徹底的解決を要望し情勢は愈々緊迫して来た。
 右の情勢下に八月二十七日、国体明徴を目標とする帝国在郷軍人
会全国大会が東京九段下軍人会館に開催された。林陸相、大角海相
は「統治権の主体が 天皇ならずして国家なりとする所謂機関の如
きは我金甌無欠の国体の本義を悖るものにして吾人の信念と絶対に
相容れざる所なり、帝国在郷軍人会は此の機会に於て更に三百万全
員の結束を強化し一致協力国体の明徴に邁進し併せて広く国家思想
を喚起向上せんとするは寔に機宜の処置にして本職の本懐とする所
なり、諸士須く国内の世相と国際の情勢とを究め常に確乎たる信念
を以て一意其本分の達成を期すべし」との訓示を示し、会長鈴木荘
六大将は我が国体を破壊する 天皇機関説竝欧米流の個人思想、自
由思想を一掃し、更に進んで挙国一致の 皇室中心主義を徹底し皇
国日本の真姿を顕現して一大眼目たる精神的国防の強化を図るべき
旨を強調すると共に政府声明は統治権の主体が 天皇なることを明
にせず、従て機関説を根本より芟除したものと認むべからざるに依
り一層国体明徴を徹底する要ありとの訓示を為し、更に満場の拍手
裡に左の如き強硬決議が可決され、該決意宣明書は大会終了後代表
者に依り首相、文相、内相、法相、枢密院、宮相に夫々提出された。

         決意宜明

  一、皇国統治権の主体は 天皇なり此れ我が国体の精華にして吾
   人の絶対信念なり 天皇機関説は 天皇の尊厳を冒漬し奉り統
   帥の大権を紊り我国体を破壊せんとするものにして断乎排撃せ
   ざるべからず、然るに這般之に関する政府の声明は統治権の主
   体を閘明せず頗る吾人の期待に反す我等会員は愈々協力一致機
   関説の絶滅を期す。
    (二項及び三項は本問題と関係なきを以て省略)
     昭和十年八月二十七日
                       帝国在郷軍人会



      第二節 美濃部博士の司法処分を繞る事態の紛糾


 (一) 美濃部博士の起訴猶予迄
 此の間に美濃部博士の司法処分は刻々に迫つてゐた。美濃部博士
に対する断乎たる処断は国体明徴運動に従ふ者の斉しく要望すると
ころであり、其の処分の如何は多大の関心を以て注視の的となつて
ゐた。されば検察当局は其の処置に慎重を期し、其の決定前なる九
月十四日再度博士の出頭を求め司法省構内刑務協会楼上会長室に於
て主任検事に依り心境の打診が行はれた。当時の博士の心境は次の
如くに報ぜられた。
   「心境の変化は断じてない」(東京朝日新聞九月十五日附朝刊)
 次いで同月十七日発行の東京市内新聞の夕刊には起訴猶予が報道
された。これに対し蓑田胸喜は早くも「大日本新聞」に於て「学説
不変更を高唱するまゝに起訴猶予の決定にでもなるであらうならば
それは啻に司法検察当局のみならず軍部大臣も含めての現内閣全体
の重大責任となりまた実に国民全体の不忠となる」と論じた。
 (二) 発表された起訴猶予決定理由と美濃部博士の声明の齟齬
 検事局は九月十七日美濃部博士に対する告発事件を起訴猶予処分
に付し、其の旨を同博士及び告発人江藤代議士に通告し、同時に板
橋菊松の告発に係る金森法制局長官に対する出版法違反被疑事件も
不起訴処分に付し、翌十八日検事総長談の形式に依り起訴猶予理由
を発表した。一方美濃部博士は十八日貴族院議長宛に貴族院議員の
辞表を提出すると共に其の心境に関し一般新聞記者に声明を発表し
た。
 此の光行検事総長の談話と博士の声明とは同日発行の都下各新聞
の夕刊に一斉に報道されたが両者の間には著しい相異があつた。
        光行検事総長の談話
        ◇不敬罪処置につき
   美濃部氏の憲法に関する著書論文中に刑法不敬罪に該当する
  記述ありとして告発があつたが検察当局において慎重検討した
  る結果によれば、同氏の右著書論文中には 皇室の尊厳たる所
  以を随所に叙説し故意に 皇室に対し不敬の言説をなしたるも
  のと認め得ざるを以て刑法不敬罪に問擬すべきものに非ずと決
  定した。
        ◇機関説処置につき
   次に告発のあつた同氏の著書『逐条憲法精義』『憲法撮要』
  等に記述せられてゐる憲法学説の解説を検討するに行文用語妥
  当を欠きその機関説の如き現下の社会情勢に於て国民思想に好
  ましからざる影響を与ふる事少なからず、従つてその内容の安
  寧秩序を妨害するの嫌疑なしとせず、然れども右『憲法撮要』
  初版の如きは大正十二年四月三十日の発行にかかり、爾来十数
  年の久しき世間一般は殆どその所説に対し介意せざりしものな
  りしが近時社会情勢の変化により論議の対象となつたものであ
  り且つ出版法改正の結果昨年八月一日より始めて犯罪と認めら
  れたものであつて今直ちに刑責を問ふが如きは苛酷に失するの
  みならず美濃部氏は謹慎の意を表しをる点に鑑みこれを起訴せ
  ざる事を相当なりと決定した

        ◇詔勅批判につき
   次に右『逐条憲法精義』中の国務に関する詔勅非議に関する
  記述は叙説妥当を欠き改正出版法第二十六条に規定する 皇室
  の尊厳を冒涜せんとする罪に該当する嫌疑ありと認め得るも本
  著書は昭和二年以来引続き出版せるものなるに拘らず世間一般
  の物議を醸す事なく看過せられたものであるのみならず、美濃
  部氏も亦その解説に不十分なる処あるを認め将来その言説を慎
  むと共に貴族院において同氏のなした言議を契機として世間を
  騒し今日の如き情勢を惹起したる事につき極めて重大なる責任
  を痛感し居る旨を言明し深く反省の実を示したる事を認める事
  が出来たので起訴せざる事に決定したのである。(東京朝日新
  聞九月十九日附夕刊)
        美濃部博士声明
   私が貴族院議員を拝辞しようとしたのは余程以前のことで前
  議会の終つた頃から既に相当の時期には進退を決し庇いと思つ
  てゐたのであります、私の説が正しいか香かは別問題にしても、
 ともかくも貴族院で私のなした演説が議員中一部の人々の反感
  を買ひ激しい言葉をもつて私を非難するものがあり之に対して
 別段の排撃も加へられず全院之を寛容する態度をとつて居りま
 す以上、私が引続き在職してゐる事は益々貴族院の空気を混乱
 せしむる惧あるものと考へましたので貴族院の秩序の為にも私
 は職を退くのが至当であらうと思つたのであります、唯当時の
 私の学説の根本に対して世間の攻撃が甚だしく、一方には起訴
 不起訴といふ様な問題が起つて居りましたので若し当時直に辞
 意を申出たとしますれば私が自ら自分の学説の非なるを認めた
 ものであり起訴を免れる為に公職を辞したるものと解せらるゝ
 事は必然でありまして、それは私の学問的生命を自ら地棄し醜
 名を千歳に残すものと考へますし、一方には私自身としては私
 の著書が法律に触れるとは夢にも思ひませんが若し検察当局の
 意見として法律にそむくと認めらるゝならば潔く法の裁を受け
 万一有罪と決するならば甘んじて刑に服するのが私として当然
 とるべき態度であらうと思ひましたので今日までその決心を実
 行することを差控へて居た次第です、然るに今回司法処分も最
 後の決定を見るに至り司法省から不起訴に決した事の通知を受
 けましたので愈々予ての決心を実行する時期が来たものと考へ
 て今日辞表を提出したのであります。くれぐれも申上げますが
 それは私の学説を翻すとか自分の著書の間違つてゐた事を認め
 るとかいふ問題ではなく
、唯貴族院の今日の空気において私が
 議員としての職分を尽すことが甚だ困難となつた事を深く感じ
 たがために他なりません。今後は自由の天地に立つて一意自分
 の終世の仕事として学問にのみ精進したいと願つてをります。
   (東京朝日新聞九月十九日附夕刊)
茲に於て叙上の司法処分と当局発表の理由に矛盾せる博士声明とは
囂々たる物議を醸し司法処分の公正に疑惑さへ生ぜしめた。即ち為
された司法処分を寛大に過ぎると非難し、或は検察当局は 天皇の
御地位に関する問題を決定するに当り「社会情勢」を顧慮し「世間
ノ般の物議」を標準としたが斯の如きは明に不敬極る機関説思想に
外ならぬと論難し、又起訴猶予理由と全く矛盾せる声明を為した美
濃部博士は不謹慎極まるが故に起訴猶予の取消を為すべきであると
し、此を機として再び猛烈な反撃運動が起された。
 又告発者江藤源九郎代議士は起訴猶予処分決定の翌々日再び検事
局を訪れ、美濃部博士に対する「政体変壊国憲紊乱罪」の告発状を
提出すると共に、司法部の措置を難じ司法権の威信は甚だしく失墜
されたとして小原司法大臣に対する公開状を発表し、同時に一木枢
相に対しても機関説の開祖なるのみならず、昭和七年一月十五日宮
中御請書始の御儀に於ける御進講者として美濃部博士を奏請した事
実は、 陛下に対し奉り重大不敬を犯した責任あるに拘らず、恬然
として自己の安泰に腐心し、而も憲法を擁護すべき最高の枢府議長
の重職に踞座して策謀を続けつゝあるのは、赤誠匹夫野人にも劣る
徒輩である、赤誠あらば再思三考して速かに処決せよ、と激越な文
字を列ねた公開状を発表した。

 (三) 美濃部博士の声明の結末

 前記美濃部博士の声明には、司法当局も意外としたものの如く、
小原法相は九月二十日の閣議終了後次の如く語つたと報じられた。
  「前略。大角も折角うまく行つたのに美濃部博士の声明は誠に
  困つたものだと云はれ、其の他の閣僚もあの声明は剛情我慢、
  敗け惜みの強い博士の性格から来たものだらうが誠に困つたも
  のだと非常に遺憾の意を表されたが……今後どうするかについ
  ては陸海両相からも司法権干渉になるので何も註文はなかつた、
  声明を取消させ謹慎の意を表させることも出来るがこれもこれ
  からの研究問題だ、毀れた茶碗はつぎ合せても傷は残るが打つ
  ちやつておくよりよいからね」 (東京朝日新聞九月二十一日附
  夕刊)
検察当局に於ては二十日法相官邸に首脳部会議を開き博士に自発的
再声明を期待する方針を決定したと報ぜられた。
 次いで翌二十一日小原法相談の形式に依り同日美濃部博士は小原
法相に書翰を寄せ十八日に為した自己の声明を取消した旨左の如く
発表された。
  「美濃部氏に対すす告発事件につき検察当局に於て為したる不
  起訴処分に抵触したる記事が美濃部氏の談として各新聞紙上に
  掲載せられたことは、誠に意外のことであつたが本日美濃部氏
  より『去る十八日自己の談話として新聞紙上に掲載される記事
  につき新に物議を惹起したることは衷心遺憾とするところであ
  る、自己の心情については、過般検事に対し、又書面を以て司
  法大臣に申述べた処と何等変更なく、右談話は自己の真意に副
  はざるものがあるから取消し度く左様御諒承相成度右書状を以
  て貴意を得候』の書面が参つたので其の旨を御話する。」(東京
  朝日新聞九月二十二日附朝刊)
 併しながら美濃部博士の声明取消文を基礎として発表された二十
一日の法相声明は必ずしも世間の疑惑を氷解せしめるには足らなか
つた。即ち声明取消に依つて表面は一応解決した如く装うてゐるが、
一旦発表した声明こそ博士の真意ではないかとの疑惑は当然何人も
抱く処で、其の取消も「自己の真意に副はざるもの」があると云ふ
が如き消極的表現であり、殊に此の不起訴処分決定については、第
三者が中間に立つて劃策した事実があり、其の取消に付いても裏面
に如何なる工作があつたか判らぬ、故に此の間の事情を閘明し、司
法部の処分が至当であつたといふ事を公表して世の疑惑を解くこと
が、司法部としても政府としても為すべき当然の措置と謂はねばな
らぬ、而して其の核心を為すものは司法処分決定前に博士が検事及
び法相に対して提出した文書を公示することであるとの声が軍部の
要望として伝へられたが、此の要望は九月二十五日の閣議に於て川
島陸相、大角海相より要求されたと報ぜられてゐる。(東京朝日新
聞九月二十六日附朝刊)
 斯る疑惑を一掃する為め小原法相は同月二十七日の閣議に於て左
記事項を報告し、事件の経緯を特に釈明した旨報道されてゐる。

         法相報告

   美濃部氏は去る九月十四日検事の第二回取調に於て自己の著
  書の為め、世間の物議を惹起した事に就いては誠に恐懼に堪へ
  ず従つて本年三月以来総ての学校の講義を辞退し新聞雑誌等の
  寄稿依穎をもすべて断わり、已むを得ざる必要の外は外出をも
  慎み只管謹慎の意を表し居り、今後も学問にのみ精進したきも
  問題となりをるが如き憲法上の論議は差控へたしと思ひ居る旨
  を述べ尚貴族院議員についても適当の機会に進退を考慮したき
  旨をも併せて申述べたのであるが越て同月十六日に至り同氏よ
  り進んで司法大臣に対して自己の貴族院に於ける言論を契機と
  して今日の如き情勢を惹起したることは衷心遺憾とするところ
  であつてこの際寧ろ同院議員の栄職を辞すが至当の処置と考へ
  速かに辞職することに決意せる旨の書面を提出したのでかたが
  た検察当局においては同氏に反省の実あることも認め先に発表
  したる其の他の事由と併せ考へ起訴猶予の処分に付した次第で
  ある。尚同氏の右九月十六日附の書面及同月二十一日附同氏の
  声明取消に関する司法大臣宛の書面はいづれも同氏の自筆に係
  り且つ二回とも同氏令息亮吉氏が司法省に持参せられたもので
  ある、これ以外のことは司法部としては如何なることあつても
  どの方に対しても一切申上げることはない。それを念の為申添
  へておく。」(東京朝日新聞九月二十八日附夕刊)

      第三節 白熱化した国体明徴運動

 政府の第一次声明に就いては革も国体明徴の核心に触れるところ
 がないといふ非難が前記の如く三六倶楽部、在郷軍人等に依り起さ
 れ、帝国在郷軍人会全国大会の決意宣明となつて現はれ、次いで起
 訴猶予の決定と当局の発表に矛盾した美濃部博士の声明発表とが事
 態を益々紛糾せしめ囂々たる非難が捲起つた。
  次に司法処分に対する論難を当時の文書につき一瞥することとす
 る。
 (1) 大森一声は「核心」(十月号)に「国体明徴の維新的急務」
   と題し
  「美濃部博士が『私自身としては私の著書が法律にふれるとは
  夢にも思ひません』『くれぐれも申上げますがこれは私の学説
  を翻すとか自身の著書の間違つてゐたことを認めるとか云ふ問
  題でなく』等放言して憚らぬのみならず進んで『今後は自由の
  天地に立つて一意自分の終生の仕事としてゐる学問にのみ精進
  したい』と、暗に機関説鼓吹の反逆決意をほのめかした不逞態
  度は、世上の物議に驚愕しての一片の取消文位で帳消しにさる

 べき性質のものでは断じてないことは改めて言ふまでもない。
 彼の如きは郷軍方面の主張の如く、正に××の極刑に処して後
 世の殷鑑とすべき存在である。さうすることが恐らく神々の要
 求し給ふ国体明徴の逆縁的効果である。茲に於てか我等は暫く
 美濃部の不逞態度に対する忍ぶべからざる憤を押へ、翻つてこ
 の当然の処置を講ぜざる司法当局の寛怠不当に向つて、糾弾の
 鋒を擬さねばならぬことの必要を感ずる。」と論じ更に金融支
 配下の資本主義こそ本質的に天皇機関説的機構であつて美濃部
 博士の背後に所謂重臣ブロックがあり、更に之を駆使するもの
 に彼等の本営たる民主強権的金融資本主義があるとし、国体明
 徴の問題には「愛国」を冠する凡ゆる分野の勢力から政友会に
 至る迄が動員された結果精神運動観念運動に堕したかの観を呈
 し、皇道維新の大眼目を暗暈化されたかの観があるが、眼晴を
 刮却し鋭く機関説の資本主義性を検剖し資本主義の国体的擬装
 を剥ぎ取り以て第二維新は経済部門に於ける国体の明徴である
 ことの社会的定立化を将来しなければならぬと国体明徴の維新
 的任務を論じてゐる。

 (2)国体明徴達成聯盟の陸海軍大臣に提出せる要望書に曰く
  「岡田総理大臣と竝に一部の閣僚は 天皇機関説に論を発せる
  国体明徴問題に対し過去半歳の間大政補弼の重責を省みず常に
  大義を解せず臣節を弁ぜず事の根源に触るゝを忌みて一時を糊
  塗せんとして一に累の二三重臣に及ばんことを恐れて国体明徴
  に逡巡し毫末も誠意の認むべきものなく即ち君国千載の禍を胎
  さんとして憚るなし。近時に至りて轟々たる天下の正論に圧せ
  られ纔かに発表せし声明書の如き或は之と共に附言せる一木、
  金森両氏の弁護言明の如き或は亦美濃部博士処分の善後処置と
  竝に之に伴ふ司法当局の発表せる言辞の如き真に国民欺瞞の最
  も甚だしきものにして忠良なる皇国臣民の断じて承服し能はざ
  る処なり。」(以下略)

  (3)明倫会の声明に曰く
   「前略。今に至つて美濃部氏をして如何なる声明を反覆せしむ
   るも吾人国民は之を一種の芝居狂言視する以外には何人と雖も
   之を信用する者あらざるを以て、斯る国民を翻弄する児戯的策
   謀は益々国法の威信を増し反感を買ひ政府及司法当局の信用を
   失墜するに過ぎざるに鑑み大に反省する所なかるべからざるな
   り。
    事茲に至りては美濃部氏に不当起訴猶予処分を上申したる責
   任者の検事総長及起訴猶予処分の最後の決裁を与へたる司法大
   臣は此際宜しく其重大なる責任を負ひ自決して上は 陛下に対
   し奉り下は国民に向つて其罪を謝する所なかるべからず。」

   (4)陸軍中将渡辺良三は「明倫」(十月号)に「司法処分の失態」
   と題し
   「美濃部博士の声明に依つて起訴猶予の論拠は覆されてしまつ
   た、……吾人は敢て司法処分の当否を論ぜんとするものではな
   いけれども、大失態の根本原因は政府の声明が天皇機関説を以
   て国体の本義を愆るものなることの断定を下さなかつた所にあ
   ると断じたい、……美濃部氏が其の声明を取消したからと云う
   ても之は外部の非難に圧迫された止むを得ざる処置であつて僅
   僅一両日内に其の心境に一大変化を来たし、真に改俊の実が挙
   つたものと受取れぬのが常識である。何故に司法当局は改めて
   起訴するに躊躇するか」と主張してゐる。

    (5)三六倶楽部主幹小林順一郎は其の機関紙「1936」(十月
   号)に於て「美濃部氏司法処分竝司法当局の声明に就て」と題
   し、司法省及検事局が此問題を「法観念以下のもの」として考
   へ「社会情勢」との相対関係に於て取扱つてゐる点を指摘し、
   今回の司法処分は「我が帝国の国体観念は、社会情勢に依つて
   変化して可なりと云ふことを 天皇の政府が公認したことにな
   る」「実に皇国としては開闢以来未だ曾てなき重大事件である」
   「斯くの如き政府の存在は、我が国体として一日たりとも許し
   得べきことではない」と難語してゐる。

    (6)三角友幾は「核心」(十月号)の「美濃部博士の司法処分を駁
   す」に於て、司法当局は重臣、特権支配層に迎合して国民の期
   待を裏切り司法権を冒涜したものであると難じ、「要するに『機
  関説』最近の跳梁は益々意識的である、即ち現状維持派は彼等
  の代弁者岡田内閣を防塁とし、一木枢府議長を後陣として国体
  非議、畏くも 天皇の御地位云為の不逞敢行まで強行して自己
  防衛に狂奔してゐるのだ。」「美濃部博士と狎れ合ひで表面を糊
  塗したるが如き言辞を弄する態度は実に奇怪であつて、若し彼
  等が此の期に臨んで真に臣節を弁へてゐたならば、司法当局と
  美濃部博士と自決して尚ほ余り有る罪科を重ねつゝあるもので
  ある。我々は両者共にかゝる不謹慎極まる態度に断じて誠意を
  認め得ず、益々将来に問題を残したることを痛憤するものであ
  る。小原法相、岡田首相の責愈々重大である。」と論じてゐる。
 斯くして国体明徴運動の奔流は巌をも噛むの勢を為して其の極点
に達し、其の主張は著しく硬化し、政府は一木枢相、金森法制局長
官の進退其の他所謂重臣ブロックに累の及ぶことを恐れて斯くの如
き処置を為したものであるとして、政府の国体明徴問題に対する誠
意を疑ひ或は政府自らが国体の尊厳を破壊するものと非難し、最早
岡田内閣に此問題の徹底的解決を期待するは至難となつたが故に一
日も早く倒閣の上目的を貫徹すべきであるとの倒閣の主張が大勢を
支配するに至つた。殊に九月二十五日の閣議に於て川島陸相、大角
海相が問題解決の原則方針として

 一、美濃部博士の心境に就いては二十一日法相談の形式にて公表
  せられたる文書にて尚相当世上に疑惑を抱く向あり、其間の事
  情を詳細に発表する要あるべし。
 二、概関説に対する政府の所見は陸海軍大臣の所信と一致せりと
  考へて可なりや。
 三、機関説絶滅の処置については今後引続き善処するは勿論、従
  来為し来れる所を一般に公表し世の疑惑を速かに解く手段に出
  づるを必要と為す。

との三ケ条の要求条項が提出され閣議に於て同意を得たとの軍部両
大臣の強硬態度が新聞紙上に報道されるや、三六倶楽部及び郷軍を
初め各団体の間には軍部両大臣を通じて目的を貫徹しようとする気
運が一動き、両大臣に対し或は激励電報決議文等を発し、或は代表者
を上京させて陳情する等熱心な活動が続けられた。今其の間の動き
を主要団体に就いて見れば左の通りである。

 (一) 三六倶楽部

 三六倶楽部は八月二十七日在郷軍人全国大会の硬化に成功した後、
常任理事小林順一郎は自ら各地を旅行して郷軍の蹶起を促し、又吉
見主事の名を以て地方支部に屡々電報を以て「悲壮なる決意」を望
み若しくは上京方を慫慂する等旺に積極的活動を試み、更に九月十
五日には政府の声明は軍部竝に国民を愚弄したもので岡田内閣の倒
壊は国体明徴の第一歩である旨を強調した「軍部と国体明徴」(小
林順一郎著)と題するパンフレット多数を各地に頒布して倒閣の旗
幟を閘明にし、直心道場系分子の運動に策応して各地に於て郷軍同
志会の結成に努めた。前記の如く陸海商相の強硬態度が伝へられる
や、各地に檄して中堅的郷軍代表者四十余名を上京せしめた上、夫
夫方面を分担して関係官庁を歴訪せしめ、鈴木郷軍会長に対しては
屡々第二全国大会の開催を要請し、又十月十日には西園寺公を興津
に訪問する等白熱的運動を展開したが、更に同月十三日には大井成
元大将以下二十二名は首相官邸を訪問して十三項目に亙る質問書に
基き岡田首相と一問一答を試み岡田首相を益々窮地に陥らしめた。
十月十七日発行の「三六情報」号外に依れば大井大将等と首相との
対談の状況は左の通りである。

 大井大将
  第一問 吾々は大日本帝国統治の権利主体は一天万乗の 天皇
  であらせられまして、決して国家ではありません、然るに之を
  国家なりとし 天皇は国の元首として単に其の統治を御総攬遊
  ばすに過ぎないものと考へますることは国家の利益といふこと
  を 至尊より以上に考へますることでありまして明に我が尊厳
  なる国体を破壊する実に恐るべき思想であると考ふる者であり
  まするが之に関する閣下の御所見を改めて明確に承り度いので
  あります。
 岡田大将
  答 御質問は大分六ケ敷く学問の部に入つて居る、私は只軍人
  として日本人をしろしめさるゝは 天皇陛下であると信じて居
  ります。
 大井大将
  第二問 至尊より以上に国家の利益といふことを信ぜしむると
  いふことは 皇室の御尊厳を国家の利益以下に卑下し奉るので
  ありまして斯る思想の窮する所は実に思ふだに恐懼戦慄すべき
  ものであると考へまするが之に関し閣下の御所見を承りたいの
  であります。
 岡田大将
  答 之も大分学術の方に入り居ると思ひます、学術の事に関し
  ては私は明瞭でありません、国家なる語然り利益なる語然り学
  問上色々と議論のある言葉でありまして只私は日本は一君万民
  の国であると信じます。
 大井大将
  第三問 只 至尊より以上に国家の利益を考へまするといふ思
  想は忠義至上の皇国を物質的至上誠に道義少き社会に化する所
  以でありまして斯る観念が今日の如き壊敗せる功利主義的世相
  を馴致したる淵源的思想の一であることは申す迄もないことと
  信じまするが之に関する閣下の御所見を承りたいのであります。
 岡田大将
  答 是れも私から見ますと学術用語が相当入つて居ります、私
  の考へますのには、上は、陛下に対し奉り誠忠を尽し臣民は
  陛下の赤子として本分を尽すと言ふ事の此両方にあやまちなけ
  れば良いと思つて居ります、私は大命を拝しまして以来、之れ
  に間違ひなきことを考へて居ります。
 大井大将
  第四問 斯く観じますると所謂天皇機関説なるものは我が尊厳
  なる国体を破壊致しますると同時に立派なるべき「道義日本」
  を今日の如き壊敗せる功利主義的世相に化せしめたる実に恐る
  べく且悪むべき邪説であることは八月二十七日帝国在郷軍人総
  会の際会長の訓示陸海商相の訓示に俵つても明瞭であります、
  故に此邪説を徹底的に撃滅致しますると同時に過去数十年間皇
  国内に於きまして其邪説の為に傷められたる各方面の総ての部
  分を是正しますることが直に国体を明徴ならしむる所以であら
  うと思ひます、又此事は苟も 天皇の御地位に関する絶対なる
  事柄でありまして臣下たる吾人と致しましてはあらゆる情実を
  超越致しましても純無垢なる考を以て極めて厳粛に 至尊に対
  し奉り恐懼して取扱ふべき重大事であると考へて居りまするが、
  是等に関する閣下の御所見を承りたいのであります。
 岡田大将
  答 此問題が起りましてから私も学説の本を調べて見ましたが
  素養なきものに取りては解りかねましたので文部、内務、司法
  当局に命じて其の内の悪しきものは徹底的に排撃せしむる様努
  めて居ります。
   又此問題については情実は考へたることなく純無垢の考でや
  つて居る積りです、一身に重責を負ひ 聖上を奉戴し輔翼の全
  責任を感じ身を 至尊に捧げて、聖旨を奉ずることが大切だと
  常に心懸けて居ります。
 大井大将
   一寸判然しませんでしたが天皇機関説中悪しきものはと仰せ
  になる意味は天皇機関説中強弱の二つを区別して其強きものを
  排撃するといふ御考と了解して宜しうございますか。
 岡田大将
   いや強きものといふ意ではありません、諸学説中悪しきもの
  はと言ふ意であります。
 大井大将
  第五問 我が国は諸外国とは異りまして、苟も事 皇室に関し
  ますることに就きましては臣下たるものは唯々瑕瑾なきことを
  是れ懼れまして若し聊かの失態でもありましたならばそれが故
  意であらうとあるまいと直に其の貴任を明に致しまして恐懼謹
  慎することを辞せざるの誠意あることが我が国に於きましては
  臣下たるの心得でなければなるまいと存じて居ります。之れが
  皇室の犯すべからざる尊厳の然らしむる所であると存じます、
  然るに若し茲に我が国民中仮に此厳粛なる責任を自覚し得ない
  やうな者があると致しますならばそれは明に我が尊厳なる国体
  を了解して居ない者でありまして斯る人々を能く訓戒致しまし
  て十分に之を自覚せしむるやうにすることが国体を明徴ならし
  むる所以の一であると思ひまするが之に関する閣下の御所見を
  承りたいのであります、一言にして申しますれば 皇室に関係
  ある事柄に対する「臣下としての責任自覚」であります。
 岡田大将
  答 之は申す迄もないことゝ存じます、是に対しては自分も之
  を実行して貰ひたいと存じます、至尊に対する事柄を取扱ふと
  きに所謂巷説に聞き目のあたりに見た事以外に言ふべきでない
  と思ひます。
 大井大将
  第六問 我が国に於きましては 天皇の政府は此忠節の点に於
  ては特に全国民の儀表であり且つ苟も此「大義」に関しまして
  は国民をして決して其の道を踏み迷はしめざるよう指導訓化の
  中心たるべき重大責任を有するものと考へて居りまするが此の
  点に関して閣下の御所見を承りたいのであります、要するに本
  問題は 皇室に関する「政府の責任」といふことであります。
 岡田大将
  答 御尋ねの通りと私共も考へて居ります。
 大井大将
  第七問 前回の引続きでありまするが要するに我が国に置きま
  しては、 天皇の政府は其の権力の大なるだけに、少しも此
  「大義」に関してだけは常に指導的地位に立つて決して間違が
  あつてはならぬものと存じます、而して此尊厳なる原則には断
  じて例外は許さず、永遠恒久に此原則が遵守現実されますやう
  にすることが我が尊厳なる国体をして真に万古不磨のものたら
  しむる所以であらうと存じます、何となれば大なる権力を以て
  国政に任ずる政府が其故意であると又なしとに関せず自分みづ
  から此「大義」の示す道を踏迷ふが如きことがありましたなら
  ば国体に関する之より危険なるものはあるまいかと存じられま
  す、古の幕府なども結局斯ることの結果として遂に現出したる
  ものと考へられます、要するに「天皇政府なるものは国体擁護
  に関しては常に全国民の指導的立場に立ちて聊も間違があつて
  はならぬものである」といふ極めて尊厳にして最も重要なる原
  則に就ての問題であります。
   勿論此原則は我が国に限られたものでありまして是れ我尊厳
  なる国体の然らしむる所で必ず「絶対」であつて例外を認むる
  事の出来ない事柄である、之れに例外を認めたる時は即ち我尊
  厳なる国体が破壊に導かれ始めた時であると存じますが之に関
  する閣下の御所見を承りたいのであります。
 岡田大将
  答 是れは長い御質問でありまして一見しただけではどこに重
  点があるか不明でありますが「政府は国体擁護に関しては常に
  全国民の指導的立場に立ちて聊かも間違があつてはならぬもの
  である」といふ附近が重点と見て、御尤もと思ひます。
 大井大将
  第八問 尚前問の引続きでありますが要するに仮に若し茲に此
  尊厳なる大原則を自ら充分に解せざるが如き政府が其の重大責
  任の位置にあると致しましたならば、我国体擁護上是より危険
  なものはないことは前問の通りでありまして、従て斯る政府と
  いふものは皇国に於きましては例外なしに「一日も其位置に止
  まることが出来ないものである」といふことを極めて明瞭に示
  しますることが国体明徴の為に、何事よりも一番大切の事柄で
  ある又「絶対」に斯くあらねばならぬ事柄であると私共は確信
  して居りまするが之に関して閣下の御所見を承りたいのであり
  ます。
 岡田大将
  答 私は茲で尚重ねて申上げます。
   政府は国体擁護上、指導的立場にあらねばならぬことが当然
  でありますが、やめるか、やめざるかは私より申上ぐべき事で
  はないと思ひます。
 大井大将
  第九問 要するに尊厳なる「大義」に関しましては政府として
  国民を指導する所のカに欠くる所がありまして之が為に其信頼
  を受くることを得ずして畏れ多くも斯かる問題で国内を紛糾せ
  しむるが如き内閣があつた場合に前述の尊厳なる大原則を無視
  して一日たりとも其位置に止まるといふことは我が国体が絶対
  に之を許さざるものであることは極めて明瞭であります、然る
  に若し内閣が之をも顧みずして強ひて其位置に止まらんとする
  が如きことがありましたならば、夫れこそ我国体の尊厳を顧み
  ざるものでありまして国体破壊に導き畏れ多くも 皇室の尊厳
  を顧みざるものであること疑もなきことであります、右の幕府
  が自己のカを頼みて斯る不逞を敢てし国民が之を放置したとい
  ふことが遂に相累つて覇府七百年を現実し我が国体に歎はしき
  汚点を残した所以であると考へまするが之に関する閣下の御意
  見を承りたいのであります。
 岡田大将
  答 事実を示されての御尋ねなるが政府がやめてよいか悪いか
  は私共の申上げる事でないと思ひます。
 大井大将
  第十問 本春所謂天皇機関説が貴族院に於て惹起されまして以
  来 天皇の御地位に関する重大問題に関し 至尊の御照覧下に
  於て既に八ケ月間も論争し紛糾を続け来つたと言ふことは相共
  に臣下と致しまして特に軍人と致しまして 至尊の御胸中を恐
  懼拝察致しまするだけにても実に畏れ多い極みであると存じま
  するが閣下は之に関して如何に思召しになつて居られまするか
  夫れを承りたいのです。
 岡田大将
  答 是れは恐懼に堪へざることと思ひます、至尊の宸襟を悩
  まし奉ることは恐懼に堪へませぬ。一日も早く左様のことを無
  くしたいと思ひます。
 大井大将
  第十一問 九州は御承知の如く畏れ多くも 天皇御降臨の聖地
  であります、然るに此非常時に方り此皇国発祥の霊地に於て本
  年特別大演習が行はせられ 至尊御親ら御統監遊ばすといふこ
  とは誠に意義あることと存じ感激に堪へない次第であります、
  然るに相共に臣下と致しまして依然として此畏れ多き問題を明
  朗に解決することを得ずして恐懼すべき紛争の雰囲気内に此盛
  儀に臨むといふことは特に吾々軍人として忍び得べきことであ
  りませうか、又尊厳犯すべからざる大義に関し忠誠なる国民の
  信頼少き閣僚が恐懼自責の念なくして果して斯る場合に此霊地
  に扈従し得べきものでありませうか之に関して閣下の御所見を
  承りたいのであります。
 岡田大将
  答 御尋ねの要点は後の方にあると思ひますが、是れは私より
  答ふる限りにあらずと存じます。
 大井大将
   本問に対し御答が出来ぬと申されますかあつても答へないと
  申されますか。
 岡田大将
   御答へせない方がよいと思ひます。
 大井大将
  第十二問 実に 至尊に対し奉り恐懼に堪へざる過去八ケ月間
  の紛糾は閣下が二月二十八日貴族院に於て井上男爵の質疑に対
  し「美濃部博士の著書は全体を通読しますると国体の観念に於
  て誤りないと信じて居ります、唯用語に穏当ならざる所がある
  やうであります、国体の観念に於ては我々とは違つて居ないと
  斯う信じて居ります」と御答へ遊ばして以来八月二十七日帝国
  在郷軍人会総会の決議竝に其際に於ける陸海軍大臣の御訓示に
  御同意遊ばして天皇機関説が国体の本義に悖る邪説であると吾
  吾同様に御認めになる迄の間御意志の御発表に於て明に幾多の
  御変遷がありましたことに起因するもの少くなかつたことは事
  実でありますが閣下は之に関し前に第五第六問に於て申しまし
  た通り 皇室に関係ある事柄に対し瑕瑾あつた場合の臣下とし
  ての責任又政府としての責任を厳粛に多少にても御感じになつ
  て居られますのでありますか之に関する閣下の御考を承りたい
  のであります。
 岡田大将
  答 先程申しました通り学説に対しては全く本を読んでも不明
  でした、そのことは後に到つて井上男爵にも御答えしておきま
  した、其の後更に文部、内務、司法省等に於て研究の結果国体
  の本義に悖ることを知りまして、夫れで在郷軍人大会に於ける
  軍部大臣の意見に同意したのであります。
   私は 皇室に対し奉り誠忠の念を欠いたことはないと思ひま
  す。
 大井大将
  第十三問 此の非常時に於きまして軍部と致しましても又一般
  忠良国民と致しましても他に多々為さざるべからざることある
  に拘らず斯る畏れ多き事柄に関して、過去八ケ月間も紛糾を累
  ね来つた最大の責任は前問申し述べました通り閣下に尊厳なる
  大義に関する御諒解が十分でなかつたこと竝に前第七問及第八
  問に於て述べました尊厳なる大原則―我が国体擁護の為に総て
  の政府を律する絶対の大原則を御無視遊ばして恐懼辞職遊ばさ
  れずして其位置に止まられたといふことに帰着致しますること
  は極めて明瞭であると存じます、又此考は単に私共だけではな
  く正しき考を持つ忠良国民一般の考と信じて居ります、在郷軍
  人会長が三百万の国民の中堅を代表されまして陸海両相に述べ
  られたことに照しても其事は極めて明瞭であります。
   依て私共は第五問に申し述べました考に依りまして閣下が畏
  れ多くも 皇室に対する此厳粛なる重大責任を御自覚に相成り
  まして又前に述べました通り国体明徴のために政府を律する一
  番大切なる絶対の大原則を御尊重遊ばされて直に閣下に伏奏致
  されまして恐懼伏謝の上尚今日迄数ケ月間此厳粛なる重大責任
  を御自覚なされなかつた罪をも併せて伏謝されまして直に御辞
  職遊ばして然る後此尊厳なる問題に対し真に国民の信頼を受け
  得べき純白誠忠なる政府の出現を御祈願遊ばすことが国体明徴
  の為に何よりも大切なる事柄で瞬時も御躊躇を許し得べき事柄
  でないことは一点の疑のないことであります。
   殊に閣下は吾々同様軍人であらせられて忠節を尽すを以て本
  分となされ特に此点に於ては国民より些細の非難をも受くべか
  らざる御身分なるに拘らず今迄申述べ来つた様の次第で今日迄
  の如き閣下の御態度に対しましては私共は軍人として甚だ不満
  を感ぜざるを得ないのであります。
   それで一般軍人の名誉の為にも又軍其者の精神的威信維持の
  為にも此際切に衷情より閣下の御反省を促しまして一日の御猶
  予なくあらゆる私情及情実を超越致されまして直に恐懼引責辞
  職されんことを進言致す次第であります、これに対して本日は
  私共は謹厳に悲壮の決意を持ちまして何れなりとも確たる御返
  事を承りたく推参致した次第であります、此事は軍人の本分に
  関する絶対の問題でありまするだけに斯る場合に於て何人にて
  も若し些かたりとも軍人精神を保有してをりまして且つ臣下と
  しての分を自覚してをりましたならば、少しも躊躇なく直に返
  答の出来得る義と吾々は確信して居りまするのであります。
   勿論吾々は何等他意あるものではありません、第一に此畏れ
  多き問題に対し些かたりとも私意を挿みて之に臨むといふこと
  は軍人として断じて許すべからざるものなることは能く存じて
  居りまする者でありますから、此点は呉れ呉れ御誤解なき様御
  願ひいたします。
   要するに今日迄の如き誠に 至尊に対し奉り恐懼に堪へざる
  紛糾も今日只今閣下が総ての邪念を御超越遊ばして真に純白な
  る軍人精神に御目覚めになりまして此精神に於て私共と御一体
  と御成り遊ばすことに依て総てが釈然と解決すべきものと考へ
  て居る次第であります、此義御諒解の上皇国の為に御躊躇なく
  御決心あらんことを真に赤誠を以て祈願致す次第であります。
 岡田大将
   私は法律に就いては御承知の通り学説に就いては不明なこと
  は事実であります、国体に就いて無視した点はありません。
   私意なし、邪念なし、甚だ至らぬものでありますけれども忠
  節を尽すを本分とすることは心懸けて居ります。
   私は引責辞職の必要なしと信じて居ります、最後に申します
  が私は三つの信条を持つて居ります。
   (1)国体を明徴にすること
   (2)陛下の御親政であること
   (3)一君万民君臣渾然として融和すること
   之に対して全責任を負ふ心懸けで居ります。
 大井大将(起立、一同之に準じて起立)
   夫れでは私共の質問は之れで終ります、御暇致します、夫れ
  に先立ち一言申して置きますことがあります。
   本日の御答では我々は満足しないといふことを茲に明言して
  置きます。
 岡田大将(起立)
   皆様の御満足を買ふことを得なかつたことを遺憾と致します。
                         以  上

 (二) 帝国在郷軍人会

 八月二十七日全国大会に於て決意宣明を行つた帝国在郷軍人会本
部は司法処分直後、司法処分と美濃部博士声明には矛盾があるとし
て各地支部に通牒を発し機関説排撃のパンフレットを送付する等依
然として政府に対し攻勢態度を取つた。従つて各地の郷軍層も本部
の態度を三六倶楽部、直心道場の働掛けとを反映して益々運動活溌
を極め、引続き各地の支部、聯合分会は強硬な申合、決議を行ひ関
西、中国、九州の一部郷軍代表者の如きは上京し、一木枢相の人事
問題の刷新の見極めのつく迄は退京せず等と称して本部及び東京聯
合会を大に鞭撻し、政府の処置如何に依つては第二回全国大会開催
に迄進展せしめんとする気勢を示した。
 郷軍の灼熱状態を知る為試に九月中に於ける各地在郷軍人会の動
向を示せば左の通りである。
 (1)東京市聯合分会は二十六日常任幹事会、三十日緊急役員会を
   開催国体明徴問題に関し対策を協議した。
 (2)京都府相楽郡聯合分会は十日分会長会議を開催全国大会と同
   趣旨の決意開明を行つた。
 (3)横須賀市聯合分会は二十三日緊急総会を開き (一)反国体
   学説の排撃 (二)国民特に軍部を愚弄する政府の責任を糾弾
   し引責処決 (三)皇国日本の真姿を如実に顕現する忠誠維新
   内閣の出現の三項を要望する決議を行ひ、二十九日田中大将、
   四王天中将、小林大佐を招き国体明徴演説会を開催した。
 (4)仙台市支部は八日支部大会の後聯合分会長会議を開き全国大
   会と同趣旨の決議を行つた。
 (5)岐阜市支部有志は十六日陸海両相に「閣下の今後に期待し吾
   等亦奉公の赤誠を捧げ郷軍大会の決意が速に実現せられるべき
   を熱望する」旨の主意書を提出した。
 (6)福島支部有志は十六日速かに禍根を芟除し以て国体の明徴を
   期すとの宣言決議を軍部両大臣に提出した。
 (7)津市郷軍有志は二十六日軍部両大臣、鈴木会長宛に「問題の
   解決は一に閣下の御勇断に待つの外無之と存候間徹底的成果を
   挙ぐる様御善処相成度」云々の進言書を提出した。
 (8)福井支部は二十八日聯合分会長会議を開き軍部両大臣、鈴木
   会長宛に「美濃部に対する司法当局の処置竝に之に付いての釈
   明は愈々出でて愈々奇怪にして全然誠意を認むること能はず断
   乎たる決意を以て善処邁進され度き」旨の進言書を提出した。
 (9)富山支部は十八日分会長会議を開き全国大会と同趣旨の決意
   宣明を行ひ、(一)皇道精神の基礎たる敬神崇祖、忠孝の実践
   躬行(二)外来思想排撃自由主義個人主義の排撃其の他の申合
   を行つた。
 (10)高岡郷軍同志は二十三日陸相に激励電報を発した。
 (11)島根県能義聯合分会は八日総会を開き全国大会と同趣旨の決
   議を行つた。
 (12)山口県宇部郡聯合分会は二十日宣言決議を行つた。
 (13)徳島支部は二十八日速に禍根芟除を為し国体の明徴を期する
   旨の宣言決議を為し関係方面に送付した。
 (14)広島支部は二十八日上申書、進言書、決意を軍部両大臣其の
   他に送付した。
 (15)第六、第十二師郷軍有志は同月下旬「政府最近の措置は社会
   状勢に応じて国体観念の変化を公認したるもの」「現内閣の下
   に遂に事を成す可からざれば速に其の進退を律せられ以て国家
   百年の大計に蹉跌なからしめんことを望む」との進言書を首相
   等に送付した。
 (16)佐賀市聯合分会は十八日井田磐楠を招聘し「政府は再び声明
   を発し機関説思想に基く各般の機構を是正せられんことを要望
   する」旨の決議を行ひ各方面に発送した。
 (17)佐賀県下神崎、小城、東松浦等の各聯合会は同月下旬「首相
   以下は闕下に伏奏し引退すべきものと推断す」云々の進言書を
   首相以下閣僚に送付した。
 右の外陸海予備役将校より成る恢弘会、大洋会、有終会、大日本
国防義会、洋々会の五団体を以て組織せられた、
   国体明徴聯盟
は九月二十日軍部両大臣に「帝国在郷軍人会の決意宣明竝に軍部両
大臣の訓示に基く軍の総意を貫徹する為断乎として速に有効適切の
手段を取られんことを望む」旨の進言書を手交してゐる。
(三) 直心道場
 愛国陣営に隠然たる勢力を有してゐた直心道場は国体明徴運動の
当初に於ては比較的に純理的な立場を取つて此の問題を政争の具と
することを警戒し、寧ろ国家革新の機縁たらしめようとする主張を
持つて主として裏面運動をして来たが、政府の第一次声明前後から
漸く政府に対する不信任の態度を明かにし、三六倶楽部の活動と呼
応し、主として郷軍層に働き掛け、九月上旬頃よりは所謂国体明徴
第三期戦を称へて全面的国民運動の展開を企て、大森一声、渋川善
助、西郷隆秀等首脳者は各地を遍歴して国体明徴内閣打倒演説会の
開催を慫慂し、北海道、京都、埼玉、愛知、静岡、福島、福岡等に
於ては県民大会或は市民大会を開催せしめる事に成功し、
  機関説を庇護せる重臣ブロックを糾弾せよ。
  機関説を曲庇せる岡田内閣を打倒せよ。
  国体破壊者一木、美濃部を極刑に処せ。
等の叫びを挙げしめた。又十月上旬には「再声明要求、一木、金森
追放要求」の激励文を陸海軍に送付せよとの文書を各方面に配布し、
其の郷軍に及ぼした影響は尠からざるものがあつた。
 尚直心道場は九月下旬各方面に左記文書を配布し輿論の喚起に努
めた。
 拝啓 内外時局多端の際弥々御勇闘の段為邦家欣賀此事に奉存
 候陳者今般美濃部博士処分決定と同時に光行検事総長談の形式
 を以て発表されたる司法省の声明中には国体上看過し得ざる重
 大非違有り彼等当局者の抱懐せる機関説思想が不随意的に極め
 て明瞭され居り候曩の国体明徴声明の愚弄欺瞞と言ひ今次の非
 国体的言辞と言ひ最早我等の断じて許容し得ざる処に御座候そ
 の要点を左に略記して同志諸賢の御奮起を願上慎
 一、該声明中に「美濃部氏は謹慎の意を表し居る点に鑑みこれ
  を起訴せざることを相当なりと決定した」「将来その言説を
  慎むと共に」「極めて重大なる責任を痛感して居る旨を言明
  し深く反省の実を示した」と言ふも美濃部は「私自身として
  は私の著書が法律に触れるとは夢にも思ひません」「私の学
  説を翻すとか自分の著書の間違つてゐた事を認めるとか云ふ
  問題ではなく」「一意自分の終生の仕事としてゐる学問(註、
  機関説的憲法学のこと)にのみ精進したい」と放言して明か
  に司法省の声明を裏切つてゐる。両者その何れが真なりやは
  問ふを要せぬ、ただ司法省が斯る美濃部の不敬態度を極度に
  弁明庇護したる声明をなすと共に之を奏上して聖明を掩ひ奉
  りたる不達は断じて許すべからず。
 二、更に司法当局は「社会情勢の変化に依り論議の対象となつ
  たもの」だとか、「世間一般の物議を醸すことなく看過せら
  れ」とか云うてゐるが畏くも 天皇の御地位はそれ等の総て
  を超越して不可犯なる絶対性をもつものである。
   陛下の司法権を行使する検察当局が万世一系の 天皇の御
  地位に関する問題を「社会情勢」を顧慮し或は「世間一般の
  物議」を標準として上下するとせばそれこそ明かに美濃部以
  上の不敬極まる機関説的思想である若し今日足利尊氏の如き
  が出現し社会が之を看過し物議を醸すことなき必無の場合を
  仮定するに検察当局は之を如何となすか。
   鳴呼! 司法権の独立性喪失、威信失墜、検察当局の機関
  説化、国体の危機、司法大臣の責任万死に値すと云ふべし。
 三、右に曝露されたる司法大臣以下の機関説的態度及岡田の之
  に対する責任を糾弾々劾して一挙倒閣へ協力邁進すること即
  ち維新への唯一の方途也。
  要之汲々乎として機関説を如何に支持せんかに之れ努めたる
 岡田内閣の最後の馬脚こそ如上の声明となつて現はれたるもの
 にしてこの失敗を閣内一致して美濃部攻撃に偽装し以て国民正
 義の鉾を廻避せんと策しつゝ有之候我等は彼等の欺瞞的行為に
 欺かるゝなく断乎として司法大臣及総理大臣の責任追究陸海相
 鞭撻に呵借なかるべきものと奉存候宜しく御明察願上候
                          敬  具

 (四) 明倫会、国体明徴達成聯盟其の他

 問題発生以来終始中正の態度を取つて政府の善処を要望して来た
明倫会も美濃部博士の司法処分後は俄に態度を硬化し、九月二十三
日緊急理事会を開き司法当局の処置は国民の信頼を裏切り司法権の
威信を失墜せしめたものなるが故に、当面の責任者たる司法大臣及
び検事総長は自決すべきであるとの声明書を決定発表して其の決意
を表明した。
 又国体明徴達成聯盟は政府第一次声明以後司法処分の結果如何を
極めて重要視してゐたが、九月十七日不起訴処分となるや直に五百
木良三等幹部は対策を協議し「現内閣には国体明徴の誠意なきを以
て内閣糾弾に邁進するの外なし」との方針を決し、同月二十六日各
方面の有志を集めて時局懇談会を開き、軍部両大臣を鞭撞して倒閣
の目的を達すべきであるとの強硬意見に導き、次いで二十七、八両
日に亙り軍部両大臣を訪問し国体明徴の為、大義の所信に向つて邁
進せよと要望大に鞭撻に努めた。
 同聯盟と同系統に属する憲法研究会は勿論新日本国民同盟、北斗
倶楽部等比較的中正な立場に於て運動を進めて来たものも俄に態度
を改め、岡田内閣の打倒に向ひ運動を展開した。
 又江藤源九郎代議士は十月中「元老重臣の存在は国家の進運、国
体明徴の有害なり」或は「共産党魁将マコヲスの自称門人西園寺公
に就いて」等と題する文書を各方面に配布し所謂重臣ブロックは機
関説論者或は其の支持者であつて国体明徴を阻止する根源であると
痛烈に非難攻撃して輿論の硬化に努めた。


      第四節 国体明徴第二次声明

 (一) 第二声明発表の経緯

  軍部両大臣の強硬意見は八月二十七日の帝国在郷軍人会全国大会
 の訓示に、更に司法処分決定後の閣議に於て明にされ、其の後も両
 大臣の政府鞭撻が報ぜられ、遂に政府は十月十五日再声明を為すに
 至つたのであるが、其の間の経緯は左の如く報道されてゐる。
(時事新報十月八日附)
  十月八日川島陸相、大角海相は首相官邸に岡田首相と会見し
 て軍部の其の後の情勢を伝へ……政府の先頃行つた措置発表に
 ついてはこれを以て同問題を一段落せしめ政府はそれを以て足
 れりとする観を抱かしめてゐる。従て再声明その他の形式によ
 つて政府の今後行はんとする具体措置を示すとか着々積極的に
 国体を明徴ならしむべき方途を講ずるとか、現在の事態に照し
 て切に政府の善処を願ひたいと要望した。
(東京朝日新聞十月九日付夕刊)
 川島陸相談
  本日閣議前大角海相と共に岡田首相に会ひ、国体明徴問題の
 現在の情勢に対し両大臣の考へてゐる処を率直に述べこの際政
 府に於て思ひ切つて善処しなくてはいかぬと述べた。これに対
 し首相からお互に協力して大にやらうぢやないかといふ話だつ
 た。それは政府の国体明徴に対するやり方が兎角のろいから今
 日右のやうな申出をした。云々
(同紙十月十一日附夕刊)
  政府は国体明徴の徹底に関する軍部側の強硬なる要望によつ
 て再声明を発する決意を固め白根書記官長の手許で大体の腹案
 を了したが、今回の声明内容は去る八月三日の第一次声明が機
 関説の排撃を主眼とする寧ろ消極的なものであつて軍部方面の
 不満もこの点にあるだけに積極的に「皇国統治権の主体は 天
 皇なり」との過般の郷軍大会の宣明を織り込み統治権の帰属を
 進んで明かにする模様である。云々
(同紙十月十四日附朝刊)
  十三日は日曜にも拘らず午前十時から海柏官邸に於て打合せ
 を行つた(陸軍側)古荘次官、今井軍務局長等(海軍側)長谷
 川次官、吉田軍務局長等参集し軍部の総意を再声明案文中に如
 何に表現し国体明徴の実を挙ぐるかにつき重要協議を行つた結
 果……ここに再声明に対する軍部の態度は漸く決定した。その
 結果軍部側は文書を以て再声明案文を白根書記官長に伝達した
 が案文は、(一)帝国統治権の主体は 天皇なり、(二)機関説
 竝にこれに類似の説は国体の本義にもとるものであり断乎排撃
 する、(三)国体を明徴ならしめ其実を挙ぐるため政府はその
 徹底を期すと云ふ趣旨を明確に表現した相当強硬な内容のもの
 である。

(二) 再 声 明

 斯る経緯を経て政府は十月十五日再び左の如き声明を発した。

         声   明 (全文)

   曩に政府は国体の本義に関し所信を披擬し以て国民の潜ふ所
  を明にし愈々其精華を発揚せんことを期したり、抑々我国に於
  ける統治権の主体が 天皇にましますことは我国体の本義にし
  て帝国臣民の絶対不動の信念なり、帝国憲法の上諭竝条章の精
  神亦茲に存するものと拝察す、然るに漫りに外国の事例学説を
  援いて我国体に擬し統治権の主体は 天皇にましまさずして国
  家なりとし 天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関
  説は神聖なる我国体に悖り其本義を愆るの甚しきものにして、
  厳に之を芟除せざるべからず、政教其他百般の事項総て万邦無
  比なる我国体の本義を基とし其真髄を発揚するを要す、政府は
  右の信念に基き茲に重ねて意のあるところを閘明し以て国体観
  念を愈々明徴をならしめ其実践を収むる為全幅の力を効さんこ
  とを期す。

 尚此の政府声明文の決定する迄に政府と軍部との間に意見が分れ
たと言はれてゐるが、其の重点は次の如く伝へられてゐる。即ち軍
部側の原案は「統治権の主体は国家にして 天皇は国家の機関なり
と為すが如き所謂天皇機関説は神聖なる我国体に背反……」となつ
て居り天皇機関説は勿論国家法人格説に立つてゐる学説は総て之を
排撃せんとしたのであるが、内閣側は軍部案では統治権が国家にも
あるといふ事実を頭から否定し、国家の法人格は一切否認される結
果国法の運用上にも重大支障を来すこととなるのを慮り、声明文の
如く緩和して統治権の主体は 天皇にましますが法理上国家も亦人
格を有し国家にも統治権があると解釈する学説は之を排撃の範囲外
に置かんとし、軍部も筧、清水両博士の憲法学上の専門的意見を聴
取した上政府の主張に譲歩するに至つたものであると。又岡田首相
は十五日の閣議に於て「統治権の主体は 天皇にましまさずして国
家なりとし 天皇は国家の機関なりとなすが如き」は一句として読
んで次の「所謂天皇機関説」にかゝるものであると説明したと伝へ
られてゐる。従つて此の声明は一方に於て天皇主体説を認めながら
他方に於て論理的には天皇機関説とならざるを得ないと謂はれてゐ
る国家法人格説をも亦認めた所謂「二元論」なりとの非難を生むに
至つた。

 (三) 再声明の反響

 政府の第二次声明は第一次声明に此し更に一層詳細に政府の抱懐
する見解を明示して国体の本義に関し国民の嚮ふべき所を明瞭にし
たものであつたけれども猶政府に対する攻撃を終熄せしめることが
出来なかつた。
 その攻撃の根拠とするところを見るに凡そ左の二点である。
 その第一は声明は二元論を許容せる不徹底なるもの、或は却て国
体を不明徴ならしむるものと非難するものである。即ち
明倫会の声明書に曰く
  「前略、曩の第一次声明に対し醸成せられたる疑惑を解き国体
  の本義閘明に関し一歩を進めたるものと認むるも尚 天皇及国
  家の二元主権説及び国家法人論 天皇機関説に類似する各種民
  主的邪説に存在の余地を残せるは不徹底にして吾人の頗る遺憾
  とする所なり。」
板橋菊松曰く
  「此の再声明が去る八月三日の声明よりも更に一段と広い範囲
  に亙り天皇機関説の排撃絶滅を高調したことは認め得られるけ
  れども、是に依つて全般的に直接間接天皇を国家の機関とする
  天皇機関説を『神聖なる我国体に戻り基本義を愆るもの』とし
  て厳に芟除し得られるか否か亦疑なきを得ないのである。」「我
  が国体明徴の為めに排撃すべき天皇機関説の範囲如何を明かに
  すれば (一)天皇を国家の機関として国家を統治権の主体と
  する天皇機関説 (二)天皇を単なる統治権の総攬者として又
  は統治権の総攬者たる機関として国家を統治権の主体とする天
  皇機関説 (三)天皇を統治の主体として又は天皇を統治権の
  主体として尚且つ国家を統治権の主体とする天皇機関説の全部
  を包含させねばならぬひ要するに国家が統治権を固有するを認
  めて、国家が統治権の主体であるとするならば、仮令天皇を以
  て国家の機関なりと言はずとも、これは悉く我が国体の本義を
  愆り憲法違反の天皇機関説であると看て差支へない。」(「日本
  及日本人」第三三〇号)
「大日」(第百十九号) の社説に曰く
  「第二次声明なるものは、国家統治権の全面的否定にあらずし
 て、統治権の主体は、 天皇にもあり国家にもありとする二元
 説であつて、我が国に悖戻する点に於て邪義機関説と何等択ぶ
 所ない」。
井田磐楠曰く
  「政府は、国家は統治権の主体にして、天皇は統治権の総攬な
  り(金森氏の説)とする二元論を一般的に許容するの方針をと
  つた。」「政府は此の方針で学者を寛大に指導した為に、機関説
  の定義を晦渋曖昧にしてしまつた。固より之を予ねての一元説
  を二元らしく見せかける手品であり欺瞞的の計画であるから政
  府は第二次声明に於て此二元説を固守することによつて同時に
  一元説を擁護したのであつた、斯くの如く判定される限り到底
  此声明文は機関説に対して之を否定する指導精神を有して居ら
  ぬのである。」(三六倶楽部機関誌「1936」十一月号)
 その第二は再声明は第一次声明の範囲を出でざる偽瞞的のもので
あつて一木枢相、金森法制局長官の問題に一言も触れるところのな
いのは政府に問題の徹底的解決の誠意のない証左であつて声明は寧
ろ空文に等しいと攻撃するものである。
 例へば「核心」十一月の「時局寸観」は
   「十月十五日の再声明に至つては……天皇主体機関説チヤンポ
  ン説の恐ろしく悪辣陰険なる文字の手品的声明であつた。機関
  説を排撃すると称し乍ら、問題の主要人物たる一木枢相、金森
  法制局長官等を逆まに擁護してゐる。美濃部博士の処分の如き
  も司法大臣を中心とした政府主脳の態度処置ほ周知の如き深刻
  なる国民的疑惑の中に其の儘放置されて居る。寧ろ再声明が全
  く此の人々を庇護することを内実の目的としたるかの如き意味
  であるのは、果して何のための国体明徴なるやを疑はざるを得
  ぬ。然も此の人々は自ら決して反省もせず所心の転向もせず、
  又その宣誓も声明もして居ないではないか。……余輩は茲に断
  乎として叫ぶ……岡田内閣こそ国体を不明瞭にし国民信念を攪
  乱して「邪説の邪説」を主張するもの、その罪正に一木、美濃
  部、金森氏等に幾百千倍する所の存在である。かゝる岡田内閣
  を辞職せしむること其のことが、真実国体明徴実行の第一踏歩
  である。」
と述べ、小林順一郎は「大日本新聞」に於て、此声明によつては要求
するところの人事問題は解決されない点を指摘し「皇室に対し奉り
枢相は自責の念ありや、金森氏は美濃部と同罪だ」と論難してゐる。

 (四) 教学刷新評議会設置

 政府は国体明徴の具体的方策の一として文部省内に教学刷新評議
会を新設し、十月四日に官制要綱を、次いで十一月十六日委員の顔
触れを発表し同月十八日には官制の公布を見た。其の趣旨とすると
ころは「今や時勢に鑑み、真に国礎を培養し国民を錬成すべき独自
の学問、教育の発展を図らんが為に、多年輸入せられたる西洋の思
想、文化の弊とする所を芟除すると共にその長とする所を摂取し以
て日本文化の発展に努むるは、正に喫緊の急務」なるが故に「有力
なる学者、教育家、有識者の集りたる教学刷新評議会において国体
観念、日本精神を根本として学問、教育刷新の方途を講じ、宏大に
して中正なる我が国本来の道を開明し、外来文化摂取の精神を明瞭
ならしめ文教上必要なる方針と主なる事項とを決定し以て我が国教
学刷新の歩を進め、その発展振興を図らん」とするにあつたのであ
るが右翼論壇方面より岡田内閣の窮余の表面糊塗策で国体明徴不徹
底の責任を回避せんとする政治的偽瞞策に過ぎないとの非難を浴び
せられた。


      第五節 再声明後の情勢

 右政府の声明に依つて郷軍及び民間団体の一部には静観して政府
の今後の処置を看視すべきであるとの主張を為すものを生じて来た
が、他方三六倶楽部を始め郷軍中の強硬派及び民間団体中陸軍の革
新的な青年将校と密接な関係を有してゐた直心道場系の一派等は、
今回の政府声明は第一次声明の範囲を出でぬ偽瞞的のものであり、
最重要問題たる一木枢相、金森法制局長官の人事問題に一言も触れ
てゐないのは政府に徹底的解決を為す誠意のない事を示すもので声
明は空文に等しく、在郷軍人大会の決意宣明は政府に依り無視され
蹂躙さたれと叫んで一路倒閣に進み、其の運動は益々深刻化せんと
する形勢となつたが、此の傾向は郷軍層に強い傾向カを持つた団体
に於て持に著しいものがあつた。
 抑々機関説問題発生以来日本主義陣営の各種勢力は各々立つて排
撃運動を展開したのであつたが、政府をして第二次声明をも余儀な
くせしめた最大原因は革新勢力が中心と頼んでゐた軍部の強硬態度
にあつた。而も軍首脳部を此処に導いたのは部内の革新気運は勿論
であるが、八月以来の郷軍の動向が其の一原因を為してゐたことは
其の経過に徴しても推知し得る処であつて、従つて其の後に於ける
国体明徴運動は郷軍の動向にその発展の如何が掛けられてゐた観が
あつた。殊に三六倶楽部、直心道場系一派の熾烈な活動は郷軍層に
尠からぬ影響を与へ地方郷軍層には在郷軍人会本部の統制から逸脱
して三六倶楽部の指導の下に立ち同倶楽部の主張を支持して内閣倒
壊の運動に邁進するものを生じ其の気運は一般郷軍層にも漸次波及
する傾向を生じて来た。夫れと同時に各地に於て三六倶楽部系郷軍
同志と在郷軍人会聯合分会支部との間に複雑微妙な好ましからざる
関係を生むに至つた。此処に於て郷軍本部は何等かの対策を講ずる
必要に迫られ、政府第二次声明前後より全国郷軍の自重と統制に乗
出すことになつた。一方陸海軍大臣も本部に対し政府の声明は国体
の本義を明かにし国体明徴の規矩を示し郷軍大会の決意宣明の趣旨
を採択したものであるが故に克く当局の意の存する所を徹底させ其
言動を慎重にし官民一体となつて之が実績を収める様指導せよとの
指示を発した。本部の自重態度は十月二十一日の聯合支部長会議と
なつて現はれ、
 一、今次政府の発表した声明は字句の末端には多少の異論がある
  としても大体に於て曩の全国大会に於ける決意宣明の趣旨に副
  ふものと認め今後は政府の処置を監視するに止める。
 二、本会々員に対し国体明徴に関する事項を一層徽底的に普及せ
   しめる為各聯合会支部は必要且つ適切と認められる施設を講ず
   るも差支へない。
 三、問題の今後の処置促進は軍部大臣に信威して善処する。
 四、本会は本会以外の郷軍団との提携は一切之をしない。本会と
   類似の名称を用ひてゐる団体に対しては反省を求めると共に本
   会の立場及態度を明確に国民に徹底させる事。
等の方針が確認された。又十月十六日陸軍戸山学校の第一師団管下
武道大会の席上に於て決議され、同月二十二日開催される予定にな
つてゐた同管下の郷軍緊急大会も、予て問題となつてゐた第二回全
国大会も中止或は開催の要なしと決定された。更に本部は同月三十
一日左記の如き国体明徴に関する指導要綱を各聯合会支部長宛に発
送して三六倶楽部、郷軍同志会等を排除する方針を明にした。

         国体明徴に関する指導要綱

  一、各団体に於ては八月二十七日本会大会の決意宣明及政府の再
    声明に基く同体明徴税閲読排撃の趣旨を徹底する如く最善の努
    力を為す従て会員は官民一体の核心となりて其の実を挙ぐるの
    抱負なかるべからず。
  二、三、 省略
  四、各団体の意見を本会及関係方面に進言するは宅も差支なきも
    本会の統制を紊すことなきに充分注意すると共に政治に亙る恐
    れある問題は会長限りに提出され度きこと。
  五、六、 省略
  七、如何なる場合に於ても直接倒閣を標榜するが如き言動は会員
    として充分慎ましむること、即ち本会が機関説を排撃する結果
    延て内閣の運命に影響するが如きことは敢て意に介せずと雖も
    目的を達成する為に先づ倒閣せざるべからずと為すが如きは主
    客転倒するものなること充分徹底され度きこと。
  八、他団体と提携することに就ては既に屡々注意しある処の如く
    政治目的を有する団体と提携することは種々誤解を招き又本会
    団結を紊すのみならず本会の趣旨に反するを以て厳に戎むべく、
    近時三六倶楽部或は郷軍同志会等の名を以てする実行運動に就
    ては本会としては全然行動を共にする能はぎる点あり又之等団
    体と本会とは何等提携し居るものにあらざる事を十分諒せしめ
    られ度きこと。(以下略)

 斯くの如く軍首脳部及び在郷軍人会本部首脳者の鎮静工作の行は
れた一方、郷軍中にも三六倶楽部の活動を快しとせず彼等に乗ぜら
れぬ様戒心すべきであるとの穏健な見好が漸次有力となり、残に十
一月初旬より取行はせられる南九州地方に於ける特別大演習の期日
も切迫して来たので旁々国体明徴運動は一時静観的態度を取るのが
至当であるといふに略々郷軍一般の意嚮が支配され十月下旬に入る
に及んで梢々鎮静状態に入つた。併し乍ら三六倶楽部等の運動は依
然として続けられ、殊に東京市聯合会に於ては、自重派と強硬派の
対立激化し強硬派の香川桜男大佐等は十一月四日聯合分会長会議を
巧に誘導して一木枢府議長、金森法制局長官に辞職を要請する所謂
爆弾的勧告書を協議決定せしめ之を枢府事務局、法制局に提出した。
斯様なことがあつて事態は依然として楽観を許さなかつたので在郷
軍人台本部は累ねて同月六日自重を要望する注意的通牒を発し三六
倶楽部直心道場の影響排除に努めた。又当時本部を除き横断的に郷
軍大会を開催すべきであるとの叫びが挙げられ、之に就いては陸軍
省と同意してゐるとの風貌が行はれたので、軍務局徴募課長は郷軍
各支部長に対しこの風説を否定すると共に、今後地方に於て軍人を
講師として招聘する場合には軍当局又は郷軍本部に連絡され度いと
の書状を送つて所謂統制策を施し三六倶楽部系軍人の排除を強行し
た。
 其の後も後記の如く国体擁護全国在郷将校会大会の開催、三六倶
楽部系郷軍同志の請願署名運動等が行はれ其の都度本部は之が防止
策に懸命な努力を払つた。其の結果昭和十年未迄には郷軍は殆ど全
く静穏の状態に帰し、同時に一般の運動も漸次微温的となり気勢の
挙らぬものとなつて行つた。併し機関説排撃を所謂昭和維新遂行の
契機たらしめようとする主張は早くより革新的日本主義者に依り強
調されて来たところで、郷軍に対する鎮撫工作の進展に依り郷軍が
先づ静観的となり、一般の運動も漸次迫力を欠くに及んで彼等の政
府竝に元老重臣に対する反感は愈々深刻化して行つた。
 以下に再声明後に於ける各団体の動向を示すことにする。

 (1) 三六倶楽部

 十月十五日の政府再声明に対しては三六倶楽部は真先に之を不満
として鈴木会長に第二次全国大会開催の必要を力説して郷軍の反政
府態度を決定的ならしめ様としたが、本部側が軍部両大臣の指示を
体して自重静観を持した為大に不満を懐き政府、軍首脳部、郷軍首
脳反対の態度を示し、若し軍部が再声明を可とし明に「足利」に類
する現国体破壊政府を擁護し真に忠誠の士の国体明徴運動を阻碍せ
んとするならば由々敷大事であつて明治維新当時の勤王倒幕の志士
と幕府擁護派との大なる闘争が軍内に展開されるであらうと警告し、
郷軍本部側の制圧的処置に抗して旺に印刷物を配布し、同倶楽部の
倒閣の主張は政治的野心に基くものではなく、純乎たる軍人精神に
基く国体擁護運動であつて伝へられるが如く郷軍本部と対立するも
のではないと強調し本部に対する反駁的釈明を行ひ運動を有利に展
開し様と試みた。此と同時に同志を各地に派遣して国体明徴に関す
る講演会、演説会に出席させて倒閣の気勢を挙げ又支部の設置に奔
走したが効果は乏しく佐賀地方を中心とする同倶楽部系郷軍同志に
依り行はれた国体明徴に関する請願署名運動、其の他東北、九州の
一部に余燼的運動を見たに止り漸次運動に迫力を欠く様になつた。

 (2) 国体擁護全国在郷将校大会

 郷軍が漸次鎮静状態に入らうとした十月下旬頃から従来の運動系
統とは異る方面から国体明徴の徹底を期す目的の下に全国在郷将校
会結成の準備が進められた。即ち石光兵臣、奥平俊蔵、佐藤清勝等
十一名の麻布聯隊区将校団有志は、郷軍本部の阻止工作にも拘らず
着々計画を進め十二月八日六百余の参会を得て東京市立第一中学校

   国体擁護全国在郷将校大会
を開催し、吾人の行動は政治を超越して純真な軍人の立場より蹶起
せるものであると其の趣旨を明にし

 一、我国統治権の主体は 天皇のみにして国家に非ざることの国
   体の本義を明確にし、以て国体と相容れざる国家法人説及之に
   起因する 天皇機関説又は二元主権祝の如き汎ゆる民主思想を
   排撃す。
 二、前項邪説信奉者の断乎たる処分竝邪説に関する言論及刊行物
   の徹底的掃滅を期す。
 三、速かに国体に副ふ如く教学の刷新、諸法規改正の断行を期す。

以上の如き決議が為された。同大会は国体明徴の実現する迄の常設
的団体たらしめられ、翌十一年一月二十七日「国体擁護全国陸海軍
郷軍将校会」の結成を見たが間もなく二・二六事件勃発した為め全
く何等の運動を見ずに終つた。

 (3) 直心道場

 政府再声明の行はれるや、直心道場は直に同声明は美濃部以上に
凶悪な一木・金森の国家主体説の非を巧に避けて天下を瞞着したも
のであるとの意思を表明し、同系統に属する各地の団体に第二次声
明に反対すると共に声明に同意した軍部の不見識無信念を糾弾する
電報を首相及び軍部顕官に発信せよとの書信を頒布し、更に「第二
次声明批判の基調」と超する印刷物を各地に送付し岡田内閣及び軍
首脳部反対の気勢を挙げ、三六倶楽部と提携しつゝ全国各地に第二
次声明反対、岡田内閣倒壊の為の演説会を開き席上決議した決議文
を携へた代表者を帝都に集合せしめて首相以下閣僚に之を手交し又
小樽、京都、青森、若松、名古里、静岡等の各地に於て国民大会、
県民大会を開催せしめた。殊に直心道場は相沢中佐の公判期日の近
付くと共に西田税等の指導の下に雑誌「核心」「皇魂」新聞紙「大眼
目」等を総動員して「国体明徴−粛軍−維新革命」は正しく三位一
体の指標であつて相沢中佐蹶起の真因は茲に存してゐたと強調し、
公判の好転を計ると共に国体明徴運動と相沢中佐の公判とを契機と
して維新運動の一大躍進を遂げしめ様として大に宣伝に努める所が
あつた。

        第二次声明批判の基調
            (直心道場が各地団体に密送したもの)
 一、第二次声明の第一項に於て国民周知の事たる第一次声明の欺
   瞞性を糊塗して尚且つ「国民の嚮ふ所を明かにし」たりとなす
   不礼。
 二、第二次以下は台閣諸公の「信念」の縷述にして機関現的「学
   説」を排撃せず巧みに金森等の「国家主体説」を庇護せるの不
   敬総じて 天皇の主体機関「チャンボンの」悪辣陰険なる文字
   手品を行つて自己の政権維持に供せるが第二次声明なり。

         原   則

 1 皇国の至重至大の根本的大事を玩具の如く翻弄せる内閣の不
   逞断じて許し得ず即ち岡田内閣こそ国体を不明瞭にし国民信念
   を攪乱して「邪説」を主張するものにしてその罪正に一木、美
   濃部、金森に幾官千倍する存在たり、かゝる内閣打倒こそ国体
   明徴実行の第一歩なり。
 2 「機関説の絶滅を期す」てふ郷軍の決意宣明は軍部大臣の容
   認せるものにして軍部大臣の訓示と相俟つて軍の総意なり。こ
   れを軍部大臣が国家法人説の逆襲によつて機関説庇護声明に同
   意することに依り裏切りたるは軍自体の蔑視なり。且つ国体の
   第一義に於て譲歩妥協せる無信念は許容し得ず。
 3、4 省 略
 5  高橋大蔵、望月逓信は国体明徴を表看板にせる政友の領袖な
    り。然るに軍部に対抗してこれが抑圧を策せるは不埒極れりと
    云ふべし。

 (4) 新日本国民同盟

 美濃部博士等の司法処分後、遂に内閣倒壊の態度を明にした新日
本国民同盟は十一月七日全国支部代表者会議を開き岡田内閣の存続
する限り国体明徴は期し得ないが故に飽迄引責辞職を以て逼る方針
を以て進むこととし、同月二十六日には首相を訪問して辞職を勧告
する決議文を手交し各地支部に於ても引続き演説会の開催、決議文
の発送等の運動を続けた。
 又一方新日本国民同盟革正会は第三期運動としての国体明徴の国
民運動化を提唱し真の国体明徴は単に機関説及び其の信奉者を排撃
するに止らず政治、外交、経済、教育、社会等各般の現実的矛盾欠
陥を是正改革することに依つて始めて全きを得るものであるが故に
国体明徴運動は此等の現実問題との関聯の上に推し進め所謂昭和維
新断行の契機たらしめなくてはならぬとし、此趣旨に基き「国体明
徴運動方針基準」なる指令を発して国民的一大運動の展開を試み、
或は岡田首相等に辞職の勧告書を提出する等依然尖鋭的な活動を続
けた。
 (5) 其 の 他

 国体擁護聯合会、国体明徴達成聯盟、原理日本社、八月会、帝国
憲法学会、機関説排撃別働隊、国体明徴達成近畿愛国団体懇談会等
の民間団体は演説会の開催、印刷物の配布、所謂機関説信奉者に対
する辞職勧告文の郵送等各団体独自の立場に於て夫々運動を継続し
翌十一年一月八日金森法制局長官辞職後も一木枢相の辞職、機関説
的学者官吏教員の一掃等既に反覆強調された主張を繰返し微弱なが
ら運動を続けたが、同年二月二十六日帝都に叛乱事件勃発し客観状
勢に一大変化を来した為め、以来此等団体の運動は自然終末を告げ
る事になつた。


     第七章 国体明徴運動と国家改造運動



 昭和十年二月天皇機関説問題発生以来漸次拡大し深刻化した所謂
国体明徴運動は幾多の波瀾を生み政府をして再度の声明を余儀なく
せしめた程に重大な社会問題政治問題となつたのであるが、十年度
の後半殊に第二次声明以後に於て此問題は維新運動との関聯に於て
強調され之を契機として所謂昭和維新を推進せしめようとする革新
勢力の著しい努力が見られた。国体とは 天祖の御神勅を体して日
本国を肇造し給うた 国祖の御理想即ち君民一体、一君万民、八紘
一宇の謂である。国民の営む思想的生活、政治的生活、経済的生活
等凡ての全生活は悉く之を基本とし之を大本とし之を理想としなけ
ればならぬ。国体を明徴にすると云ふことは、単なる邪説機関説を
絶滅するだけのことであつてはならぬ。我国体と絶対に相容れぬ機
関説を撲滅するのは当然であるが、夫れだけでは我国体を弥が上に
も明徴にする所以ではない。明治以来盲目的に取入れられた西洋流
の個人主義自由主義なる機関説的思想を一掃すると共に此の精神に
依り作られ若くは其の余沢に依つて出来てゐる処の政治、経済、社
会、法律、教育等凡ゆる制度機構に対し国体に合致するやう根本的
改廃を行ひ、茲に日本精神を発揚し皇国日本の真姿を顕現して新日
本を建設しなければならぬ。斯くしてこそ始めて国体明徴は完成し
得るものであつで従つて国体明徴問題は現状維持ではなく、国家改
造の革新運動の先端に立つべきものであることが強調された。此処
に於ては国体明徴運動は学説排撃と云ふが如き部分的独立的のもの
としてではなく、昭和維新を所期するものに依つて革新原理の標識
としての重要意義を持たしめられた。其の鋭鋒は凡ゆる日本的なら
ざるものに向けられたのであるが、特に顕著なものを挙ぐれば機関
説とその母体を同じくする自由主義的資本主義機構の改革と、機関
説的政治支配を以て目される所謂重臣ブロックの排撃とである。
 斯の如く国体明徴が革新原理の標識として重大意義を持たしめら
れた状況を知るため以下に当時発行された文書を引用する。

 松田禎輔は雑誌「大日」(第一一入号)に「国体明徴の真意義」と
題し
   「国体を明徴にすると云ふことは、単に邪説たる機関説を絶滅
   するだけのことであつてはならぬ。我が国体と絶対に相容れな
   いところの機関説を排撃する、夫れは当然の事柄であるけれど
   も、夫れだけでは我が国体をいやが上にも明徴にする所以では
   ない。機関説の精神で作られた、若しくは其の余波で出来てゐ
   るところの典章文物諸制度を、国体と合致するやうに根本的に
   改廃して、故に日本精神を顕揚すると共に、皇国日本の真姿を
   ハッキリ示してこそ、茲に始めて我が国体はいやが上にも猶一
   層明徴に成る。国体明徴問題の徹底を期するといふことになれ
   ば、夫れは取りも直さず、国家の根本的改造にまで進まなけれ
   ばならぬ。」
と論じて国体明徴を国家改造の機縁たらしめなくてはならぬと強調
してゐる。
 所謂民間の皇通直心道場系の新聞「大眼目」は国体明徴の意義に
関し
   「国体とは何ぞや、神勅を体して此の日本国を肇造し給へる神
    武国祖の御理想…両して 明治天皇によりて最も明白にされ
    たる…即ち、君民一体、一君万民、八紘一宇の謂である。日
    本国民の営む所の思想的生活、政治的生活、経済的生活、全生
    活は之れを大本とし之れを理想とすべく、而して日本国の制度
    方針は此の国民の此の生活に相応はしき所のものでなければな
    らぬ。総じて日本的生活…日本の一切は此の御理想即ち国体
    を生活することである。」「即ち思想的には、機関説と共に其他
    一切の反国体的思想の排撃でなければならぬ。彼の無政府共産
    思想の如き固より然り。」
と論じて国体明徴が思想維新を所期するものである点を明にするに
次いで
   「然り而して国体明徴とは既述の思想的解決を遂ぐると共に、
    之に連関して政治的にも経済的にも遂行せられなければならぬ
    ものである。即ち現実の政治生活に於て、経済生活に於て、彼
    の反国体思想を体現し実行しつゝある不当なる存在を芟除し、
    現実の施設に於ける矛盾謬妄を革正することである。
     何者が不当存在たる目標であるか。
     重臣ブロックである。
     議会至上主義の政治集団である。
     物質万能功利主義の資本財閥である。
     権力主義の官僚群である。
     皇軍を私兵化する軍閥である。
     腐敗せる教団である。
     衰亡政策の外交団である。
     国体を破壊する学園である。
     国体を破壊する所謂社会運動の妄動群である。
    及び之等によつて実現せられ存在せる国家社会の矛盾せる制度
    施設である。かゝる思想とその制度施設によつて国体を生活し
    得ざる国民を窮乏苦悶のどん底より救出解決することである。
    然してこの飛躍せる日本的生活を対外的に拡大充実して八紘一
    宇の思想を遂ぐべく当面切迫せる外患を粉砕してアジアの。奪還
    興復に進軍せねばならぬ。
     鳴呼、これ現代の尊皇と討幕と攘夷とではないか。第二の維
    新革命ではないか。国体は明徴の名に於て、今日の日本に向つ
    て維新革命の再戦を要求してゐる。火の如く要求してゐる。国
    体を生活せんとする日本国民は維新革命を生活せよ。」
と言ひ、昭和維新に於ける尊皇攘夷は重臣ブロック、政党、財閥、
官僚、軍閥等々現状維持の幕府的勢力の排除と、彼等により運営せ
られてゐる制度機構の矛盾欠陥の克服にあると為して煽動し、革命
の機運醸成に努めてゐる。
 又所謂現状維持派を機関説的思想の実行者と目して専ら其の排撃
に努めた者に国体擁護聯合会の五百木良三がある。彼は雄誌「日本
及日本人」(第三三〇号)に於て「国運進展と国体問題の推移」と
題し

   「端的に言へば、今の所謂元老重臣ブロックを中心に結束され
    たる支配階級智識階級の大部分は皆此の御仲間である。即ち西
    園寺老公を筆頭に牧野内府、一木枢相、斎藤子等々の重臣、是
    れ等の推薦によつて成れる現内閣の岡田首相以下軍部以外の各
    閣僚を初め、之れに従ふ新官僚の一群、上下両院与党の一団乃
    至財閥、流行新聞、阿世学者等有象無象の面々は、悉く同一な
    る美濃部病の保菌者であり、共に個人主義自由主義国際主義の
    信奉者として、議会中心政治の礼讃に、消極政策の提唱に、日
    本主義の抑制に、軍部勢力の排斥に、日夕腐心しつゝある現状
    維持であり、欧米化思想の支持者であり、機関説思想の実行家
    である。」

と言ひ、次いで岡田内閣の処置を難じた後

   「抑も彼等(岡田首相以下閣僚)が斯く迄も執拗に邪説擁護に
    憂き身を窶す所以のものは、果して何の為めであるか。其の根
    本は彼等自身が美濃部一流の欧米化思想の持主たり、機関説信
    者たる点に起因すること勿論なるも、一方には例の元老重臣ブ
    ロックのロボットとして、其の没落過程に在る旧勢力死守の御
    役目が直接の原因を為すのである。於是乎問題は最早や是非曲
    直の争にあらず、唯の力と力との戦である。即ち旧勢力対新勢
    力、欧化思想対日本精神、消極主義対積極主義、現状派対維新
    派の力競べが事実上の本問題であり、国体問題は唯だ動機を与
    へる一個の仲介者たるに過ぎぬ。」
と言つてゐる。
 此の如く国体明徴問題は国家改造運動の根本目標として其の意義
が把握されると罪に、此の問題を契機として一気に国家改造を断行
して、所謂昭和維新を遂行し其の為には直接行動をも辞すべきに非
らずとする気運が逐次醸成せられて行つた。
 斯くの如く国体明徴問題の進展は、精神革命、自由主義的資本主
義機構の改革、機関説的政治支配所謂重臣ブロックの排撃、更に政
党の打倒等に及び、凡そ日本的ならざるものと見られ、国家の発展
を阻碍すると考へられる一切の思想、勢力、制度概構の排除克服に
其の鋒先を向け且つ其の主張は極めて尖鋭的となつた。

 (1) 国体明徴運動を頼神革命の方向に向けるもの

 精神革命としての意義は一般的に強調されたところであつたが野
田蘭蔵は三六倶楽部機関誌「1936」(十二月号)に於て国体明徴
運動が民族的自覚運動である点を明にして左の如く論じてゐる。

   「機関説の由来するところの社会性が主として仏蘭西独逸に存
    在し、而して仏蘭西又は独逸国史の発展は個人主義的国家理念
    を原則とする意味に於て君民の一体、忠孝不二の家族国家たる
    日本歴史とはその根本に於て相容れない本質を持つ。然るに此
    本質を異にする東西の歴史を一個の観念に於て合理づけること
    の不可能なることは木に竹の芽を挿さんとするものである。従
    つて我が日本歴史の発展はこの挿木たる機関説によつて賊はれ
    るのは当然である。若し乗れ機関説を以て合理的のものとなし
    此の理論の上に国策を打ち建てんとするならば、日本国家の本
    質を破壊して之を個人主義国家に改造せざるべからずとの結論
    に到達する。之即ち国体の変革である。然るに日本歴史は家族
    国家なるが故に、君民一体、忠孝不二を原則とするが故に、天
    壌無窮とせられ国民生活は保障せらるゝのに拘らず、国家法人
    説を以て之に代ゆるならば君民は対立となり、忠孝は矛盾する
    かくて民族生活は保障を失ひ我が皇国は滅亡することとなる。
    此の意味に於て特に世界危局に直面する日本の生存は我が国体
    の本義たる君民一体、忠孝不二の日本精神を政治的に、経済的
    に、社会的に、道徳的に、一切の生活に実践することによりて
    のみ可能である。」

と言ひ、政友会による国体明徴運動も愛国諸団体による此の運動も
其の動機の如何に関せず、総べて民族主義運動の一部門と見ること
が出来るとして精神革命としての意義を強調してゐる。

 (2) 国体明徴運動を資本主義打倒に向けるもの

 国体明徴運動を資本主義打倒に向けるもので最も徹底した主張を
為したものに直心道場系の大森一声がある。彼の主張するところは
日本に於ける資本主義は、政治権力に依存して発達移入された変態
的な官僚資本主義であつて、其の高度化に依る独占形態は自由の美
名に隠れて全くこれと背反しながら小数支配の個人主義的自由の獲
得を目標とし、官僚と抱合した金融力はこの本質的な展開を実現し
大産業をその支配下に置き、全経済機構の至上位に君臨し、政党を
隷属頤使し、以て完全に一国内の権力層を掌握し尽し、其の頂点に
達した金融支配下に全国民は日々の国民的生活を脅威されねばなら
ぬ現状にあり、所謂ブルジョア民主主義は彼等の政治行動形態に過
ぎないと云ふのである。而して大森は、かゝる民主強権的金融支配
の横行下に於ては 天皇は機関たらざらんとして得ざるのは当然で
あつて、資本主義は本質的に天皇機関説であると言つてゐる。即ち
金権の封建幕府は、まつろひを粧ひ逆に機関化することに依つて民
主的強権支配を敢てしてゐるのであつて、謂ふところの美濃部学説
の如きはこの事実の学的カムフラージによる合理化の強弁であり、
所謂機関説論者はその頭脳中に天皇機関説の源泉を持つものではな
く、自己等の属する部層の為めこの不逞事実を合理化せんとした傀
儡に過ぎないと言ひ、美濃部博士、一木枢相、金森法制局長官等の
機関説論者を駆逐することは資本主義掃滅の前哨戦であり、之を機
として資本主義の国体的擬装を剥ぎ取り以て所謂昭和維新が経済部
門に於ける国体の明徴であることの社会的定立化を将来しなければ
ならぬと強調してゐる。
 新日本国民同盟の「第三期国体明徴運動方針基準」にも、此の点
が極めて矯激な筆致を以て左の如く強調されてゐる。

   「国体明徴運動を大衆的に発展させるには、この問題を国民の
    日常生活の中に生かし、国体明徴運動を通じて、昭和維新が断
    行出来るのだといふことを、大衆の頭の中に叩き込むにある。
    国体明徴といふことは、現在八釜しく言はれてゐるやうな憲法
    上の争に重点があるのではなく、国民の大多数が生活に苦しん
    でゐるために、勿体なくも 天皇政治に暗影が宿つてゐる。そ
    のむら雲を取り払つて国体を明徴にすることだ。それを学者や、
    政治家や、改造運動家がエラさうな文句を改べ立て、結局国民
    に呑み込めぬものにしてゐるのだ。実は六箇しいことでも何で
    もない。いや自分たちが困つてゐる生活上の問題を解決して、
    天子様に御安心をお与へ申すことがとりも直さず国体明徴運動
    だと云ふことを、広く国民に知らしめることが肝要である。例
    へば農村民は働いても貧乏なのに、富者は遊んでゐながら益々
    財産をふやしてゐる。かやうな不合理な世の中だからこそ国体
    が不明徴になる。だからと言つて 天子様をお怨み申してはな
    らない。親がいくら貧乏だからとて、子が親を怨むと言ふこと
    はない。 天子様は我々の大御親でおはします。日本の国は家
    族国家である。この水入らずの家庭の団欒をこはすのは、他に
    大きな原因があるからである。外来思想の毒素が日本の政治、
    社会を不合理にしてしまつたのだ。その原因を取り除いて現在
    の政治、社会を改革し、そこに万民幸福の政治を確立して、初
    めて国体は明徴となり、赤子の本分を尽す所以なのである。生
    活を楽にするのが親への孝である。国民生活を解放して国体明
    徴を期するのが大君への忠である。されば要するに国体明徴運
    動は資本主義政治の打倒運動である。」

 (3) 国体明徴運動を所謂重臣ブロック排撃に向けるもの

 所謂重臣ブロック排撃は昭和十年度に特に顕著に現はれ、国体明
徴運動の後半は重臣ブロックの排撃に其の主力が注がれた観があり、
延いて二・二六事件発生前の険悪な雰囲気を醸し出してゐる。
 直心道場系の新聞「大眼目」は「国体明徴に関する国民当面の要
望」と題して
   「一木枢府議長、金森法制局長官の引退
     天皇機関説を流布して反省せざる重臣
    牧野内府其の他重臣ブロツクの引退
     機関説的実行者として稜威を冒涜し奉る疑惑に蔽はるる有
     力者
    岡田内閣の辞職
     国体明徴の遂行カなきこと今更喋々を要しない」
と言ひ亦機関説問題の大立役者江藤源九郎代議士は「元老重臣は国
家の進運国体明徴に有害なり」と題する文書に於て

   「一木、金森両氏の天皇機関説は其著述に於て明証せられある
    に拘らず金森氏の所論は機関説にあらずと称せり。総理大臣に
    して此の如き誣言を公表して憚らず匹夫にだも恥づることなき
    か然も岡田首相、小原法相等をして茲に至らしめたるは西園寺、
    牧野、一木、斎藤の諸公なりとす。一木枢相の天皇機関説を抱
    持するものなること天下隠れなき処なるに拘らず之を推して宮
    内大臣たらしめたるものは西園寺公、牧野内府にあらずや、又
    枢府議長の後任は歴代副議長の昇格を以て其慣例となせるに拘
    らず強ひて其の慣例を破りて迄も一木氏を推薦せるは西園寺、
    牧野、斎藤の三氏にあらずや。」「統帥大権を侵犯して倫敦条約
    を締結せるも彼等の一団なり。満洲事変に反対し錦州攻撃熟河
    討伐に反対し国際聯盟の脱退、華府条約廃棄に反対せるも彼等
    なり。今や国体明徴にすら彼等は団結力を以て反対しつゝあり、
    咄々怪事ならずや彼等は国家の進運を阻碍し国体の明徴を妨ぐ
    るものなり。彼等にして其地位に盤踞するに於ては幾度内閣の
    交迭あるも国運を伸張し国体を明徴ならしむること能はざるな
    り。此の故に岡田首相を攻撃するは元老を攻撃するの有効なる
    に若かざるなり。」
と述べてゐる。
 又久原房之助は文芸春秋十二月号に「重臣政府の没落」と題して
岡田現内閣は挙国一致を標榜し乍らも、その実、重臣内閣に過ぎな
い、即ち政治上の抱負経輪を何等有せざる岡由内閣は所謂重臣ブロ
ックのロボットとして誂へ向きの存在である。岡田首相が何等の信
念なく重臣達の意図をその儘承けて政治を行ふ、換言すれば重臣の
意図の下にその頤使に甘んずると重臣達に認められたことが即ち岡
田内閣成立の因由する重点である、斯くして岡田内閣の行ふ処は換
言すれば重臣政治とも謂ふべきものである、彼等重臣は西洋思想に
心酔して国体の本義を自覚せず身宮中に奉仕し自ら神の心を心とし
て一意専心身命を砕くべきに拘らず、宮中に於ける勢力を府中にま
で及ぼし大権を無視するが如き行動に出づることすら存する、宮中
府中の別を犯し、天皇の尊厳を冒涜し、実にわが国体の本義を紊る
ものと謂ふべきである、更に別説すれば彼等は機関説実行の最も深
刻且つ悪質のものですらある。併し乍ら斯る重臣ブロックの勢威も
大勢の赴く処既に衰兆を来してゐる。過去の事実に徴してみても、
昭和八年の国際聯盟脱退に際して重臣は脱退反対を唱へ乍ら遂にそ
の実現を見ず、又北支事変の時にも重臣はこれを押へんとしたがそ
の意向は実現されなかつた。最近に至つては統治権の主体たる現人
神たる 天皇をわきまへず、天皇を以て国家の統治権を行使する
権限を有する機関なりとなすが如き所謂機関説が排撃される、斯く
して重臣ブロックの抱懐する意図は悉く挫折し、その勢威は愈々そ
の衰退の一路を急ぐに至つた。斯くの如く国体の本義を冒さんとす
るが如き重臣政治が次第にその終末を告ぐるはこれ理の当然とする
処である。斯くしてこの重臣ブロックの実力衰退の兆は新しき政治
…府中宮中の別を明かにし、一君万民、純然たる挙国一致の政治
団体の本義に即した政治…がやがて華々しく展開すべきことを示
すものである。斯くして我日本に於で国体が明徴にせられ、本然の
光を遺憾なく発揮するに至ればやがてその余光は全世界にも及ぶに
至るであらう。と述べてゐる。
 雑誌「進め」(十月号)は「資本主義崩壊の前夜にあつて其の延
命工作として最後に残されたる金融ファッショへその政治機構を移
向せんとするのは、金融資本の独占政治を理想として実践してゐる
と見るのが適当である。故に彼等はその傾向に叛逆する真の維新改
造の士を弾圧し或は懐柔し或者は去勢せしむると云ふ方法を取つて
ゐるのだ。その役割をひそかに買つて出てゐるのが重臣ブロックと
それに追随する官僚群と既成政治家に外ならぬ。彼等重臣ブロック
が自己の足元を突かれるを恐れて機関説排撃運動を弾圧するために、
朝飯会を造つたとはそれ自体国賊的存在である。これ明に二三金融
ファッショへの重要な一環として意義を持つものである。こゝに於
て吾人は速かに朝飯会即ち重臣ブロックを打倒せよと絶叫するもの
である。」と述べ金融ファッショの所謂機関説支配が政治部面に於
ては重臣ブロックの政治的支配の形態に於て行はれてゐると為して
之が打倒を強調してゐる。
 之を要するに国体明徴運動は国家改造運動に迄推進せしめられ、
岡田首相以下閣僚に国体明徴を不徹底ならしめたとの非難を浴せ、
其の根本原因は彼等自身が美濃部博士一派の欧米化思想の持主であ
り、機関説信奉者である点に起因してゐると為すと共に、一方に於
ては元老重臣のロボットとして其の没落過程にある旧勢力死守の役
割を為してゐることに直接原因があると為し、今や問題は旧勢力対
新勢力、欧化思想対日本精神、消極主義対積極主義、現状維持派対
維新派のカの闘争であり、又矛盾欠陥を暴露せる旧組織制度機構の
国体に基く根本的改革にありとされ、これこそは、現代に於ける尊
皇と倒幕と攘夷であると叫ばれ、昭和維新に於ける尊皇攘夷に於て
は斯る重臣ブロック、政党、財閥、官僚等の現状維持の幕府的勢力
の排除と彼等に依り運営せられてゐる制度機構の矛盾欠陥の克服に
あると強調されたのである。
 此の如く美濃部学説「天皇機関説」排撃運動は政府の美濃部博士
の著書発禁後、美濃部博士の厳罰、一木枢相其の他所謂機関説論者
の排撃の叫びを捲起しつゝ其の本流は 「天皇の原義宣明」を基調
とする国体明徴運動へと進展し、更にそれは内省的な精神革命を目
的とするのみでなく、革新原理の標識としての意義を持たしめられ、
現状維持的なる一切の勢力を打倒せんとする革新運動にまで発展し、
其の影響する所極めて大きく、国体明徴に対する政府の処置に慊ら
ぬ陸軍部内の一部革新的青年将校は、軍内の特殊事情に依る刺戟に
一途に詭激に走り部外の急進分子と相結んで現状を打開し真に国体
を開顕し之を明徴ならしめんとして、其の熱情の迸るところ遂に
二・二六事件といふ前古未曾有の一大不祥事件を惹起せしめたので
ある。


    第八章 国体明徴問題と永田軍務局長
        刺殺事件、二・ニ六事件


 国体明徴運動が全国的に一大波瀾を捲起してゐた真最中の昭和十
年八月十二日相沢三郎中佐が陸軍省軍務局長室に於て軍務局長永田
鉄山少将を刺殺し之を制止せんとした東京憲兵隊長新見英夫大佐に
傷害を加へた一大不祥事件が勃発した。(該事件の詳細は二・二六
事件共の他と共に検事斎藤三郎氏の思想特別研究報告書 『思想
研究資料第五十三号』〔本書一−二〇九頁〕に収められてゐる。)
 陸軍当局の発表する処に依れば相沢中佐は昭和四、五年頃より内
外の情勢に関心を寄せ当時の世相を以て思想混乱し政治・経済・教
育・外交等万般の制度機構何れも悪弊甚しく、皇国の前途真に憂慮
すべきものがあるとして之が革正刷新の要あるものとしてゐたが、
其の後大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一等(二・
二六事件関係者)と相識るに及び益々国家革新の信念を強め、昭和
八年頃より昭和維新の達成には、皇軍が國體原理に透徹し挙軍一体
となつて皇運の扶翼に邁進せねばならぬに拘らず陸軍の情勢には之
に背戻するものがありとし其の革正を断行する必要を感じてゐたが、
昭和九年三月永田鉄山が軍務局長に就任するや前記同志の言説等に
よつて、同局長を以て其の職務上の地位を利用し、軍の統制に名を
藉り、昭和維新の運動を阻止するものと看做した。次いで同年十一
月当時歩兵大尉村中孝次、一等主計機部浅一等が叛乱事件陰謀の嫌
疑を受けて軍法会議に於て取調を受け、昭和十年四月停職処分に付
せられるに及び、同志の言説或は怪文書により右事件は永田局長等
が同志の将校を陥れんとした奸策であると解して大に憤慨し、更に
同年七月十六日平素敬慕してゐた真崎甚三郎大将が教育総監の地位
を去つたので之又永田局長の策動に基くものと推断し、上京して永
田局長に辞職を勧告する等の事があつたが、当時西田税、大蔵栄一
大尉等より教育総監更迭の経緯を聞き又村中孝次送付の「教育総監
更迭事情要点」発送者不明の「軍閥重臣閥の大逆不達」等の怪文書
に依り総監更迭は永田局長等の策動により真崎大将の意思に反し敢
行されたものであつて、本質に於ても亦手続上に於ても統帥権干犯
であるとして痛く憤慨してゐた処、偶々同年八月一日台湾歩兵第一
聯隊付に転補せられ、翌日村中、磯部両名の筆に成る「粛軍に関す
る意見書」を入手閲読し、一途に永田局長が元老、重臣、財閥、新
官僚と款を通じ昭和維新の気運を弾圧阻止し、皇軍を蠢毒するもの
であると考へ、此の儘台湾に赴任するに忍びざるものがあり、此際
自己の執るべき途は永田局長を倒すの一事あるのみと信じ、遂に同
局長を殺害せんと決意するに室つたものである。
 又昭和十一年五月九日の陸軍当局談は
   ……同中佐が……永田中将を目して政治的野心を包蔵し、現
  状維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結托し軍部内における
  革新勢力を阻止すると共に、軍をして此等支配階級の私兵と化
  せしむるものなりとし、其の具体的事例として
  (一) 維新運動の弾圧
  (二) 昭和九年十一月、村中、磯部等に関する叛乱陰謀被疑事
       件に対する策動
  (三) 教育総監更迭に於ける策謀
  (四) 国体明徴の不徹底
  等を挙げて居るのである。(以下略)
と言つてゐる。此の如く本件動機の一として永田局長の国体明徴問
題に対する態度が元老、重臣、財閥、新官僚等現状維持を希求する
と称せられてゐた所謂現状維持派と結托して、革新勢力を阻止せん
とする具体的事例として挙げられてゐる。即ち皇道派なる青年将校
に絶対的支持を得てゐた真崎甚三郎大将は、天皇機関説問題発生す
るや教育総監として勅裁を仰いだ上四月四日天皇機関説が我が国体
と相容れず皇軍の精神上その存在を許すべからざる趣旨を強調した
訓示を全軍に発し国体明徴の徴底を期する積極的態度を明にした。
之に反し永田軍務局長は天皇機関説が政治問題に移行し政府の声明
といふ事にもなり、国体の本義を閘明せねばならぬ情態となるや、
極めて慎重の態度を取つた為め、他より国体明徴に熱意を欠き声明
に反対してゐるものと見られた。両も策動して自己と対蹠的にある
真崎大将をして教育総監の地位を去らしめたとの巷説は、国体原理
の透徹を希ふ相沢中佐をして永田軍務局長が現状維持派と結托して
革新運動の中心目標である国体明徴を曖昧ならしめんとする意図を
蔵する証左と思惟せしめたのである。
 前章に述べた如く国体明徴運動は昭和十年の中頃より革新原理の
標識としての意義が強調されたのであるが、民間皇道派の直心道場
系一派に於ては永田軍務局長刺殺事件発生し軍内の派閥闘争が表面
化し又軍首脳部が政府第二次声明を容認し在郷軍人の鎮静に乗出し
漸次運動を微温化せしめることに成功するや、彼等は国体明徴を粛
軍運動に関聯せしめ国体明徴とは単なる学説故に二三学説主唱者の
排撃折伏にあるのではなく、埋没された国体実相を開顕し歪曲され
たる皇国組織を是正し而して革正された皇国態勢を以て全世界に天
業を恢弘し奉らんとするにあるものなるが故に、機関説主唱者の折
伏より更に之を庇護し、其の実行者として国体を梗塞せる現状維持、
政権壟断層の排撃へと進展せしむべきものであつたに拘らず、永田
局長を総帥とする統制派なる軍内の一団は重臣ブロック、財閥、新
官僚と結托し皇道維新に燃える青年将校を弾圧し、十一月陰謀事件
を捏造し「粛軍に関する意見書」を頒布した廉を以て村中、磯部両
大尉を免官処分に付し、或は統帥権干犯の嫌疑を着起して迄国体明
徴を主唱した真崎教育総監の更迭を強行して皇軍の本義を紊り、又
真崎大将に代つた渡辺錠太郎教育総監は名古見に於て機関説擁護と
も見るべき訓示を為してゐる。されば国体明徴と粛軍と維新とは一
個不可分であり、現制度機構維持の勢力が政権を壟断し、国民至誠
の国体明徴問題に耳を藉さざる現在に於ては、皇軍の維新的粛正は
国体明徴、維新に必須の段階であり、皇軍の維新的粛正なくしては、
諸政百般に国体精華の実を期するは、百年河清を待つに等しく、今
や粛軍は国体明徴、維新聖戦に於て歴史的必然の段階を為すもので
あると宣伝煽動した。殊に相沢中佐公判期日の切迫と共に西田税、
村中孝次、磯部浅一等は直心道場の分子渋川善助、杉田省吾、福井
章等を指導し雑誌「核心」「皇魂」新聞「大眼目」を総動員して「国
体明徴−粛寧−維新革命」は正しく三位一体の指標であつて相
沢中佐蹶起の真因は茲に在つたと強調して、左記の如き文書等に依
り盛に他の愛国団体に飛檄して公判公開の要請及び減刑運動を慫慂
し昭和維新達成の気運醸成を図つた。

        相沢中佐公判に対する直心道場の方針

 一、国体明徴と粛軍と維新とは三位一体なり国体明徴が単なる学
   説竝学説信奉者の排撃に止まる可からず、諸制度百般に歪曲埋
   没せられたる国体実相の開顕、而して此の維新せられたる皇国
   態勢を以てする全世界の現状を維持せんとする勢力へ機関説擁
   護=資本主義維持=法律至上主義=個人主義自由主義)が現に
   政治的勢力を掌握しあり、又内外勢力の切迫より擡頭せる所謂
   金権ファッショ勢力(権力主義者と金権との結托せる資本主義
   修正、統制万能主義勢力=官僚ファッショは此の一味?)が政
   権を窺しつゝある今日に於て、まつろはぬ者共を討平げ皇基
   を恢弘すべき実力の中堅たる皇軍の維新的粛正は、国体明徴維
   新聖戦に不可欠の要件焦眉の急務なり。
 一、国体明徴運動途上に於ける陸軍首脳部の態度は新陸相に於て
   金権ファッショ的野望を抱きながら郷軍の強圧と永田の伏誅に
   余儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄動たり、現陸相に
   於て国体護持、建軍本義に恥ずべき右顧左眄たり。
    対政府妥協たるは何ぞ
    是れ皇軍内部に巣喰ふ反国体勢力ヘの内通者、ファッショ勢
   力乃至自由主義明哲保身者流の国体に対する無信念皇軍の本義
   に対する無自覚に禍せられたるによらずんばあらず、国民と皇
   軍の現状に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
 一、永田事件直後に於ける陸軍当局の発表は相沢中佐を以て「誤
   れる巷説を盲信したる者」とせる真相隠蔽事実歪曲たり。次で
   師団長、軍司令官会議に於て発したる陸相訓示は全く皇軍の本
   義を解せず、時世の推移に鑑みざる形式的「軍紀粛正」「団結
   強化」の強調にて其の結果は忠誠真摯なる将士の処罰たり、此
   の方針を踏襲せる現陸相は其の就任当初の国体明徴主張を空文
   として政府と妥協したるのみか至純なる郷軍運動を抑圧するの
   妄挙に出で来る。国民の憤激は誘発せられざるを得ず。
 一、現役のみが軍人に非らず、国民皆兵軍民一体なり、全国民は
   皇軍の維新的粛正に対し十全の要望督促をなさゞるべからず。
 一、今や皇軍身中の毒虫を訣討せる相沢中佐の予審終結し近く公
   判開始せられんとす。国民は真個軍民一体の皇軍扶翼を可能な
   らしむべく皇軍の維新的粛正を希求し此の公判を機会として軍
   内反国体分子の掃蕩を要求すべし。

    註
    (1) 公判は公開せざるべからず。
      一部主脳者の姑息なる秘密主義は国民をして益々皇軍の実情に
      疑惑を深めしめ、軍民一体を毀損し 大元帥陛下御親率国民皆兵
      の本義に背反するものなり。
    (2) 三月事件、十月事件の真相、永田軍務局長の暗躍、十一月誣告
      事件の真相、総監更迭に絡る統帥権干犯嫌疑事実は、軍を閘明な
      らしめ責任者を公正に処断して上下の疑惑を一掃し軍の威信を恢
      復すべし。
    註、粛軍は単に軍部内に於ける国体明徴なるのみの意義に非らず、
     粛軍の徹底は破邪顕正の中堅的実力の整備を意味する。反国体現
     状維持勢力が政権を壟断し国民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
     言論、決議勧告のみにして実力の充実威力の完備なき糾弾は政府
     の痛痒を感ずる所に非らず、実に粛軍は国体明徴の現実的第一歩
     にして維新聖戦当面の急務なりとす。     以 上

 斯くて相沢中佐の公判は昭和十一年一月二十八日より開廷され、
二・二六事件勃発の前日迄十回開廷されたが、其の間彼等は益々積
極的に公判闘争の指導に乗り出し軍内外の革命情勢の誘致に全力を
注いだ。
 是より先相沢事件の公判期日愈々切迫して彼等が躍起となつてゐ
た昭和十年十二月、第一師団が近く満洲に派遣せられる内命が下つ
たとの報が伝はつた。其処で村中孝次、磯部浅一、栗原安秀等は第
一師団将士の渡満前主として在京の同志に依り速に事を挙げる必要
があると考へ、香田清貞大尉及び直心道場の渋川善助等と共に其の
準備に着手し相沢中佐の公判を利用し、或は特権階級腐敗の事情、
相沢中佐蹶起の精神を宣伝して社会の注目を集めると共に同志の決
意を促しつゝあつたが、情勢は今や熟し正に維新断行の機到来せる
ものと観察し爾来各所に於て同志の会合を重ね、実行に関する諸般
の計画準備を整へ又歩兵大尉山口一太郎、北輝次郎、西田税、亀川
哲也等と通牒した上、二月二十六日午前五時を期し現役将校二十名
は国体擁護開顕、維新阻止の奸賊誅滅芟除を標榜し、千四百八十余
名の下士官兵を動員して、総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤実、大蔵
大臣高橋是清、侍従長鈴木貫太郎、教育総監渡辺錠太郎の官私邸を、
元内大臣牧野伸顕の宿泊せる湯河原伊藤屋旅館別荘を襲撃して、斎
藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監を即死せしめ、鈴木侍従長
に重傷を負はしめ、総理大臣官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省参謀本部
警視庁等を初め桜田門、赤坂見附、三宅坂を環る一帯の地域を占拠
するの一大叛乱事件を勃発せしめた。軍当局は事件勃発と同時に近
衛、第一師団に属する各部隊を動員し叛軍の外周を包囲して事態拡
大阻止に努めたが、彼等は真崎大将、柳川中将を主班とする内閣に
よつて事態拾収の任に当らしむべき事等を要求して聞かず形勢益々
悪化し二十七日早暁戒厳令の一部施行され、叛乱部隊を警備部隊の
一部に編入して其の慰撫説得に努めたが、其の態度強硬であつて応
じない為め二十八日朝奉勅命令が出されて原隊復帰を命じたが其れ
にも応ぜず、遂に二十九日朝討伐命令が発せられ戒厳令司令部の凡
ゆる手段を尽した帰順勧告の最後的説得に漸く鉾を収め鎮定するに
至つた。陸軍当局の発表する処に依れは二・二六事件の原因動機は
  「村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、対馬
  勝雄、中橋基明は夙に世相の頽廃人心の軽佻を慨し国家の前途
  に憂心を覚えありしが就中昭和五年の倫教条約問題、昭和六年
  の満洲事変等を契機とする一部識者の警世的意見、軍内に於け
  る満洲事変の根本的解決要望の機運等に刺戟せられ逐次内外の
  情勢緊迫し我国の現状は今や黙視し得ざるものあり、当に国民
  精神の作興、国防軍備の充実、国民生活の安定等方に国運の一
  大飛躍的進展を策せざるべからざるの秋に当面しあるものと為
  し、時艱の克服打開に多大の熱意を抱持するに至れり。尚此間
  軍隊教育に従事し兵の身上を通じ農山漁村の窮乏、小商工業者
  の疲弊を知得して深く是等に同情し就中一死報国、共に国防の
  第一線に立つべき兵の身上に後顧の憂多きものと思惟せり。
   渋川善助亦一時陸軍士官学校に学びたる関係に依り同校退校
  後も在学当時の知己たる右の者の大部と相交はるに及び此等と
  意気相投ずるに至れり。
   此くて前記の者は此の非常時局に処し当局の措置徹底を欠き
  内治外交共に萎縮して振はず政党は党利に堕して国家の危急を
  顧みず財閥亦私慾に汲々として国民の窮状を思はず特に倫教条
  約成立の経緯に於て統帥権干犯の所為ありと断じ、斯の如きは
  畢竟元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等所謂特権階級が国
  体の本義に惇り、大権の尊厳を軽んずるの致せる所なりと為し
  一君万民たるべき皇国本然の真姿を顕現せむが為速に此等所謂
  特権階級を打倒して急激に国家を革新するの必要あることを痛
  感するに至れり。
   而して其の急進矯激性が国軍将士の健実中正なる思想と相容
  れざりしに由り思想傾向相通ずる歩兵大尉大蔵栄一、同菅波三
  郎、同大岸瀬好等の同志と気脈を通じ 天皇親率の下挙軍一体
  たるべき皇軍内に所謂同志観念を以て横断的結合を敢てし、又
  此の前後より前記の大部分は北輝次郎、及び西田税との関係交
  渉を深め其の思想に共鳴するに至りしが、特に北輝次郎著『日
  本改造法案大網』たるや其の思想根底に於て絶対に我国体と相
  容れざるものあるに拘らず其の雄勁なる文章等に眩惑せられ、
  為めに素朴純忠に発せる研究思索も漸次独断偏狭となり不知不
  識の間正邪の弁別を誤り国法を蔑視するに至れり。而して此間
  生起したる昭和七年血盟団事件及び五・一五事件に於て深く同
  憂者等の蹶起に刺戟せられ益々国家革新の決意を固め、右目的
  達成の為には非合法手段も亦敢て辞すべきに非ずと為し終に統
  帥の根本を紊り兵力の一部を借用するも已むなしと為す危険思
  想を包蔵するに至れり。
   斯くて昭和八年頃より一般同志問の連絡を計り又は相互会合
  を重ね種々意見の交換を為すと共に不穏文書の頒布等各種の措
  置を講じ同志の獲得に努むるの外、一部の者に在りては軍隊教
  育に当り其の独断的思想信念の下に下士官兵に革新的思想を注
  入して其の指導に努めたり。
   次で昭和十年村中孝次、磯部浅一等が不穏なる文書を頒布せ
  るに原因して昭和十年官を免ぜらるゝや著しく感情を刺戟せら
  れ且上司より此種運動を抑圧せらるゝに及びて愈々反発の念を
  生じ其の運動頓に尖鋭を加へ更に 天皇機関説を繞りて起れる
  国体明徴問題の発展と共に其の運動益々熾烈となり、時恰も教
  育総監の更迭あるや之に関する一部の言を耳にして軽々なる推
  断の下に一途に統帥権干犯の事実ありと為し、深く此の挙に感
  動激発せらるゝ所あり、遂に該統帥権干犯の背後には一部の重
  臣財閥の陰謀策動ありと為すに至れり。就中此等重臣は倫敦条
  約以来再度兵馬大権の干犯を敢てせる元兇なるも而も此等は国
  法を超越する存在なりと臆断し、合法的に之が打倒を企図する
  とも到底其の目的を達し得ざるに由り宜しく国法を超越し軍の
  一部を借用し直接行動を以て、此等に天誅を加へざるべからず
  而も此の運動は現下非常時に処する独断的義挙なりと断じ更に
  之を契機として国体の明徴、国防の充実、国民生活の安定を庶
  幾し軍上層部を推進して所謂昭和維新の実現を齎らさしめむこ
  とを企図せるものなり。」
と云ふにある。其の原因動機は要するに北輝次郎、西田税を思想的
中心とする軍内の青年将校の横断的一群が昭和維新を目標として皇
軍の粛正に邁進しつゝあつた折柄、村中、磯部等の停職処分、国体
明徴の不徹底乃至其の抑圧、彼等が心服し革新の中心に推立ててゐ
た真崎教育総監の更迭、第一師団の渡満等に刺戟せられ此等の事実
の背後には革新運動を阻止せんとする一部重臣、財閥の策動があつ
たと認め、直接行動に依り此等重臣を排除し之を契機として、真崎
大将を推立て、国体の明徴、国防の充実、国民生活の安定を期し以
て昭和維新を実現せしめんとしたにあつた。二・二六事件は国体明
徴運動の与へた影響の最大なるものであると共に、それ自体正に国
体明徴運動の最も急進的尖鋭的な現れであつたと云ふことが出来る。
されば彼等の「賦起趣意書」中にも

  「謹んで惟みるに我が神州たる所以は万世一系たる 天皇陛下
  御統帥の下に挙国一体生々化育を遂げ終に八紘一宇を完うする
  の国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は 天祖肇国神武建国より
  明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展
  を遂ぐべきの秋なり。」
  「所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊
  の元兇なり。」
  「内外真に重大危急にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を
  阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして宏謨を一空せん」
  「臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば、破滅沈淪
  を翻すに由なし、故に同憂同志軌を一にして、蹶起し奸賊を誅
  滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子
  の微忠を献ぜんとす」云々

と書かれ、国体を明徴にせんとする已むに已まれぬ情熱より蹶起す
るに至つた旨が強調されてゐる。
 尚教育総監渡辺錠太郎大将が襲撃され、遂に犠牲となつたに就い
ては同大将が天皇機関説擁護者であるとの巷説が其の一因を為して
ゐたと推知される。其の巷説なるものは、昭和十年十月三日同大将
は熊本からの帰途郷里名古星に立寄り、同日午後第三師団留守司令
部に赴き下元留守司令官より情況報告を受けた後、偕行社に各部隊
長を集めて一場の訓示をなした際、天皇機関説問題に言及し、

   「機関説が不都合であると云ふのは今や天下の輿論であつて、
   万人無条件に之を受け入れて居る。然し乍ら機関説は明治四十
   三年頃からの問題で当時山県元帥の副官でsつた渡辺はその事
   情を詳知してゐる一人である。元帥は上杉博士の進言によつて
   当時の学者を集め研究を重ねた結果之に対して極めて慎重な態
   度を執られ遂に今日に及んだのである。機関と云ふ言葉が悪い
   と云ふ世論であるが小生は悪いと断定する必要はないと思ふ。
   御勅諭の中に『朕ヲ頭首卜仰ギ』と仰せられて居る。頭首とは
   有機体たる一機関である。天皇を機関と仰ぎ奉ると思へば何の
   不都合もないではないか。云々
    天皇機関説排撃、国体明徴と余り騒ぎ廻ることはよくない、
   これをやかましく云ひ出すと南北朝の正閏をどう決定するかま
   で遡らなければ解決し得ないことになる。云々」

と述べたに対し、一部隊長は憤然と立上つて「真崎前教育総監から
は、天皇機関説を徹底的に排撃すべきことを明示されてゐるが、今
後我々は如何にすれば良いのか」と質問的に抗議したので総監に随
行して居た教育総監部第一課長が代つて「渡辺大将個人としての私
見であつて教育総監として述べたのではない」と釈明し其の場を取
り繕つたと云ふのである。



    第九章 国体明徴運動の影響


 天皇機関説排撃に端を発した国体明徴運動は皇国日本に於ける絶
対的生命的な根本問題を取上げた一大精神運動であつた。然も言論
絶対主義の下に飽く迄合法的に進められた為め、各分野に於ける革
新分子は期せずして一致して此運動に参加し全国的に波及して一大
国民運動にまで進展し三十年来唱導された学説を一挙に葬り去つた
許りでなく、社会の各部層に深甚な反響を及ぼし、思想・政治・教
育・宗教等凡ゆる部面に尠からざる影響を与へて時代を著しく推進
せしめたと同時に、革新運動の一大躍進を招来し劃期的成果を挙げ
しめた。

 (一) 国民思想に及ぼした影響

 明治以来の欧米文化の輸入に伴ひ唯物主義個人主義自由主義等の
西洋思想は漸く国民の間に浸潤して次第に時代思潮となり、其の間
隙に乗じて過激なる共産主義思想の跋扈跳梁をも来たし大正昭和に
かけては経済国難・政治国難と共に思想国難の声さへ挙げられた程
国民精神に甚しい弛緩動揺を来してゐたのであるが、国体明徴運動
は一挙に斯る風潮を退潮せしめ国民的自覚を高め国体に対する認識
を新ならしめたと共に満洲事変以来擡頭して来た日本精神を更に一
段と昂揚せしめた。蓋し国体明徴運動は表面は機関説なる自由主義
法学の排撃に端を発したものであつたが、其の根柢は個人に第一義
的な生命と最高価値とを認め国家社会を以て個人の集合体と見做し、
之を個人の生命、自由、権利等を保障する手段乃至は条件と観察す
る個人主義民主主義自由主義なる西洋思想に対する真に全体的な日
本精神の挑戦に外ならなかつた。問題発生の当初に於ては単なる学
説問題として而も問題にならぬ問題として深い関心を抱かなかつた
程一般智識階級は自由主義的民主主義的に陥ってゐたのであるが、
問題の重大化するに従ひ運動の焦点は閘明され、為政者は勿論一般
国民殊に智識階級を深く内省反省せしめて、国体の本義に醒めしめ
ると同時に現代意識としての日本精神の自覚進展に貢献するところ
が尠くなかつた。試みに満洲事変当時から起つた日本精神の内省的
自覚の跡を辿つて見ると、最初に、日本精神の根本、本質は皇道で
あると考へられた。これは日本精神が肇国の精神として理解せられ、
其の中心が皇国の国体 天皇の絶対神聖にある事が認識された結果
である。皇道の自覚は必然的にこれまで無批判乃至盲目的に採入ら
れた西洋思想竝に其の上に立つ学問殊に文化科学に対する再検討の
要求となつて現はれ、先づ第一に国体に最も緊密な関係を持つ憲法
学説に対する再吟味としての天皇機関説排撃の激烈な要請を生み、
更にこれを契機として此の運動によりその趨勢を一層助長せしめた
と同時に皇道の自覚を更に深化せしめた。皇道は即ち惟神の信念で
あつて、万世一系の 天皇の御統治を中心とする君民一体の信念で
あり、天皇神聖に対する最高の信念であり、又実に日本精神の本質
に内在する肇国以来の大精神である。然も惟神の大道の中心を為す
は祭政一致である。祭祀即まつりは政治即ちまつりごとの根本であ
り母胎であつて、軈ては敬神尊皇、敬神愛国に生きる日本国民の教
即ちをしへの淵源であり統一する所でもある。祭政一致は即ち皇国
固有の皇道、惟神の大道であつて皇祖以来の聖徳の表現された御政
治の形態であり、精神でもあつた。祭政一致といふことは、 明治
大帝大政の奉還を嘉納あらせられた直後の明治元年三月十三日、神
武天皇御創業の皇謨に則り、皇祖以依、歴代御統治の大精神たる敬
神愛民の大御心に基いて、皇道復興の大理想から決定せられた根本
的国是であつて、先づ其の翌日、五事を天地神明に御誓ひ遊ばされ
着々惟神の大道を宣揚普及する方針が実現して行つたのである。然
るに間もなく西洋文化の滔々たる輸入に依り、日本文化と日本精神
と、又その源流を為す古典に対する接触と研究と信念とが漸次閑却
され勝ちとなり、時に国際的事変に際会して覚醒したこともあつた
が通観すれば物質文明の異状な躍進に竝行して、祭政一致、惟神の
信念は漸次低調に向つて来たのであつた。現代日本の国情は極めて
明治維新の思想乃至政治的機運に類似したものがあり、自ら神なが
らの信念によつて祭政一致の精神を宣揚し、更に敬神尊皇の大義を
国民生活の根本原理として認識せられて来たのである。又これと相
俟つて、一方には、日本精神の本質は、日本国民祖先以来の伝統的
情操たる民族性であることが深く意識せられ、種々の事情からして
此の民族性が国民の感情生活の上に湧起し表現して来た。天皇機関
説排撃の理由中に国民的確信、国民的感情より許すべからざるもの
と為す主張の叫ばれたのも此の民族性の自覚の結果であると思ふ。
機関説排撃国体明徴運動に依り一層高潮せしめられた日本精神は従
つて国民的情操についての関心を深め、広く我が民族性の表現形態
たる日本文化に関する研究と趣味とを喚起した。それらの事実は文
化研究所の設立、或は日本文化に関する著書購誌の刊行の著しくな
つて来た事実に徴し之を察知することが出来る。
 之を要するに国体明徴運動は著しく国民精神を昂揚せしめて、日
本精神の自覚内省を促したと同時に日本文化の優秀性を認識せしめ、
更には日本精神に立脚した新日本の建設、新文化の開拓等の風潮を
促進せしめたのである。此の傾向は出版物に於て最も良く之を知り
得ると考へられるので、内務省警保局の調査に基き之を例証するこ
ととする。即ち昭和十年中に於ける個人主義自由主義等の西洋思想
に反撥する日本主義、全体主義、統制主義に立つ思想出版物として
 掲げられてゐるものは、

   1 原理的なもの            二一七
   2 東洋思想研究             六七
   3 政 治                四七
   4 歴史伝記               七〇
   S 日本古典研究             三〇
   6 機関説関係              八九
   7 統制経済               四〇
   8 ファッシズム研究           一一
   9 其の他               一四一
    計                  七一二種
  以上の如く多数に昇つてゐる。此の数字は
   昭和八年度
    総 計    一七七種
   昭和九年度
    総 計    二三二種
とは遙に比較を絶してゐる。右の数字は古典研究に於ては純然たる
学問的のものや単なる興味本位のものを除き、専ら古事記、日本書
紀、神皇正統記、古語拾遺等の如き古典を日本精神探究の目的より
著されたもののみを拾ひ、東洋思想としては儒教、東洋道徳、東洋
倫理の如く忠・孝に関聯せるもののみを選び、又歴史に於ても国体
観念の明徴に資せられるもののみを撰んで掲げられて居り、殊に多
数の原理的なるものは、「皇道」「惟神道」「復古神道」或は「日本主
義」「全体主義」「家族国家主義」を説き何れも窮局するところ日本
民族として祖国を顧み、肇国の精神に立帰り、万世一系の 天皇に
帰一すべきを強調せるものを選んでゐるのである。此の数字が総て
国体明徴運動の影響であるとは云ひ得ない迄も昭和十年度に於て急
激に増加したのは国体明徴運動の国民精神に及ぼした影響の如何に
大なるものであつたかを物語るものであると思ふ。

 (ニ) 文教方面に及ぼした影響

 国体明徴問題が文教と如何に重大な関聯を有するかは言を倹たぬ
所で教育を刷新して、国体の本義を徹底せしめることは爾来政府の
教育の根本方針となり、その為めの具体的方策が講ぜられて来てゐ
る。国体明徴問題を論ずるに当つて最も重要視さるべきものは智識
階級である。一般的に国体観念、国家観念の稀薄なのは智識階級で
あるとされてゐる。我国の高等専門学校以上の教育は西洋の学術技
芸を授けるに急であつた為め、自然智育偏重の傾向を生じ且つ其の
智育も専ら西洋の個人主義、自由主義の教育思潮に依つて為された
為め高度の学校教育を受けたもの程我が国の伝統的思想を捨てて個
人・自由主義の社会観・人生観を懐くに至り、斯る思潮の中に我が
国体観念にも累を及ぼすが如き邪説を学界に生ぜしめたのであつて、
単なる邪説機関説を学界より葬り去つたのみでは国体明徴を徹底す
ることの不可能なるを反省せしめられた。殊に学校に於て授ける所
の学科の内容と教師の思想とは被教育者の意識内容の構成に殆ど決
定的の影響感化を与へるものであるから学校教育殊に高等専門学校
教育、大学教育の刷新は国体明徴の方策として各方面より真剣に主
張され、殊に問題の契機を為したものが殆ど例外なしに各大学、高
等専門学校等の憲法講座に於て講説されてゐた天皇機関説であつた
点や二・二六事件の一大不祥事が国体明徴の徹底を期せんとして起
された点等に鑑み教学を刷新して国体の明徴を徹底することが焦眉
の急務と為され、政府に於ても之に対する徹底的方策の樹立に努力
した。松田文相は国体明徴運動の漸く盛んとなつた昭和十年四月十
日帝国大学総長、官立大学長、高等師範学校長、公私立大学専門学
校長及び高等学校長、北海道庁長官、府県知事に対し国体明徴に関
する訓示を発し、其の結果、美濃部博士の商大、中央、早大の各講
師辞任、佐々木惣一博士の神戸商大休講、京大渡辺宗太郎教授の憲
法講座担当変更等が行はれ、又同年七月には文部省に於て所謂国体
明徴講習会が開催された。其の後文部省に於ては憲法担任教授の学
説をその著書、講義案、論文等に依り詳細に検討すると共に各官公
私立大学に対して憲法担任教授の講義の要領及び要旨特に憲法第一
条乃至第四条の解説の内容を報告せしめ、或は大学当局をして機関
説排除の措置を講ぜしめる等諸々の具体策を施して機関説を教育界
より一掃した。又内務省に於ては美濃部博士の三著書を発売頒布禁
止処分に、他の二著書には次版改訂を命じた外多数の憲法学書、法
学通論叢書に就き注意を発して絶版に付せしめた。国体明徴問題に
関聯して処置せられた憲法其の他著書は左記の通りである。

著者名

著書名

処置

美濃部達吉

憲法撮要

販売頒布禁止

逐条憲法精義

日本憲法の基本主義

現代憲政評論

次版訂正

議会政治の検討

田畑忍

帝国憲法逐条要義

絶版

森口繁治

帝国憲法論(九年度プリント)

憲政の原理と其の運用

憲法学原理総論

市村光恵

帝国憲法論

憲法精理

副島義一

日本帝国憲法論

日本帝国憲法要論

日本帝国憲法講話

中島重

日本憲法論

日本憲法講義

吉田一枝

日本憲法講義案

渡辺宗太郎

憲法(九年度プリント)

宮沢俊義

憲法講義案(九年度講義案)

最新増訂帝国憲法論

浅井清

日本憲法講話

憲法学概論

法学的国家論

野村淳治

憲法撮要上巻

〃 

竹内雄

憲法原論

日本憲法論

藤井新一 

日本憲法論 

〃 

〃 

日本比較憲法論 

〃 

佐々木惣一 

日本憲法要論 

〃 

野村信孝 

憲法大綱 

〃 

佐藤丑次郎 

帝国憲法講義 

改訂 

金森徳次郎 

帝国憲法要綱 

絶版 

小松泰馬 

法律学概論 

〃 

田上穣治 

法学通論講義案 

改訂 

織田万 

改訂法学通論 

〃 

孫田秀春 

改訂法学通論 

〃 

野口洪基 

法学通論及憲法講義案 

〃 

北川淳一郎 

法制概論 

〃 

星野通 

法学通論概説 

〃 

中谷敬寿 

行政法総論講義案 

〃 

浅井清

日本行政法 

改訂 

以上
 既述した如く国体明徴の具体的方策の一として昭和十年十一月文
部省内に教学刷新評議会設置され、「我が国教学の現状に鑑み其の
刷新振興を図るの方策如何」との諮問に対し同評議会は翌十一年十
月二十九日答申及び建議を行つたが其の答申書の冒頭には「大日本
帝国は万世一系の 天皇 天祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し
給ふ。これ我が万古不易の国体なり。而してこの大義に基き一大家
族国家として億兆一心聖旨を奉戴し克く忠孝の美徳を発揮す。これ
我が国体の精華とするところにして又その尊厳なる所以なり。我が
教育は源を国体に発し、日本精神を以て核心となし、これを基とし
て世局の推進に磨り人文の発達に随ひ、生々不息の発展を遂げ皇運
隆昌のために竭するをその本義とす。明治初年以来盛に欧米文物の輸
入に努め、我が国文化の進展に貢献したるところ極めて大なるもの
あり。然るに一面に於ては模倣追随の弊またこれに伴ひ、精神生活
の方面に於てはその害尠からざるものあり。ために維新当初の宏謨
に明示せられし我が国教学の根本方針は、漸く忘れられんとするに
至れり。教育に関する勅語の渙発ありて、教学の根本これによつて
明示せられ、爾来この大詔の遵奉に努めたりと雖も、時勢の然らし
むるところ欧米文化の模倣は依然としてやまず、その影響するとこ
ろ広く、延いて思想混乱の因由となり、教学の欠陥を将来するに至
れり。」と述べられてゐる。答申の第一には国体・日本精神に基く
教育、学問の涵養創造竝に之を基本としての指導監督のため、特に
我が国教学の根本精神の維持発展を図り、又教学の刷新振興竝に監
督に任ずる有力機関、国体・日本精神の真義を閘明し精神諸学の基
礎的研究を行ひその確立発展を図るための研究機関、及びこれを十
分権威あらしめるための参与機関を設置し右の三機関を教学刷新の
中心機関とし三位一体となつて合成的効果を挙ぐべき旨掲げられ、
これに基き昭和十二年七月二十一日文部省内に新に教学局が設置さ
れ、尚研究機関としての国民精神文化研究所、参与機関としての教
学局参与の制度が設けられた。此等機関の設置を見たのも全く国体
明徴運動の影響であつて、内閣総理大臣に直属し其の諮詢に応じて
教育の刷新振興に関する重要事項を調査審議する教育審議会(昭和
十二年十二月十日勅令第七百十一号官制公布)の設置されたのも国
体明徴運動の喚起した教学刷新の輿論に負ふところが多いやうであ
る。又文部省は昭和十二年三月国体を明徴にし国民精神を涵養振作
する目的の下に「国体の本義」と題する文書を編纂発行し、其の後
教学刷新評議会の答申に準拠して、「国体・日本精神の本義に基き、
我が国語学の発展振興に貢献し、延て教学の刷新に資する目的」を
以て日本語学振興委員会を設置して逐次語学の学会竝に公開演説会
を開催し、或は教学局より「日本精神叢書」「国体の本義解説叢書」
「教学叢書」「日本諸学振興委員会研究報告」等国体・日本精神の真
義を閘明する重要資料を逐次刊行頒布して、国体明徴に努めつつあ
ると同時に、他方文部省直轄の各大学高等専門学校を初め公私立大
学専門学校をして日本文化講義(国体明徴講座とも称す)を実施せ
しめて鋭意教学の刷新振興を図つてゐる。更に本年に入り教学局は
今次支那事変が特に思想戦たるの意義に鑑み、昭和八年各府県に設
置された地方思想問題研究会を改組し従来の共産主義其の他反国家
思想の防遏のみに止らず、更に積極的に国民各層に国体精神の透徹
具現を図り、旺盛なる精神力を培養し、以て国民思想の動揺を未然
に防止する為め、道府県思想対策研究会を設け、各地方の実情に即
し思想指導強化の対策を樹立実施せしめるの方策を講じてゐる。

 (三) 学界に及ぼした影響

 政府の前後二回に亙る声明に依り国体の本義は明にされ、天皇機
関説は否認され、又文部、内務両省の措置に依り各大学の憲法講座
より機関説は排除され、書肆より機関説論者は一掃され、政治問題
としての天皇機関説問題は一応落着したがそれは只単に天皇機関説
が排除せられたと云ふに止り、之に代るべき優秀な学問体系を為す
ところの新国家学、新憲法学の定立を見ない限り、此の問題は解決
を遂げたものとは謂ひ得ない。国体明徴運動は必然的に学者の眼を
国体の学問明徴に注がしめた。従来学界には欧米学者の学説を鵜呑
にしてこれに日本を当て嵌め或はこれに迎合せんとするが如き奴隷
的思想があつた為め、外国学説の浸潤する所が頗る広く且つ深いも
のがあり、憲法学に於ても自由独立の研究解釈が阻止されてゐた事
が反省され、斯る欧米法理の緊縛を断ち、我国の歴史、政治、社会
の実情に考へ国民感情、国民信念、道徳観を参酌して日本特有の法
理を発見し之を基礎として肇国の精神に合致し真に日本に適応する
憲法学を樹立せんとする真撃なる努力が為されて今日に至つてゐる。
斯る傾向は独り憲法学、国家学にのみ止らず広く法律分野に及び、
西洋流の個人主義自由主義的法理の羈絆を脱して固有の法理を発見
し、日本的なる法学体系を建設せんとする風潮をさへ看取されるに
至つてゐる。最近司法省に於て日本古来の固有法の再検討を行ひ、
国有の法理を法令の解釈竝立案に具現せんが為め「日本固有法調査
会」を設置したのも此の傾向を物語るものであると思ふ。

  (四) 宗教界に及ぼした影響

 国体明徴運動は宗教界にも革新的な生気を注入した。我国宗教界
は昭和五、六年以降に於ける思想界の混乱、社会不安の増大と他面
革新運動の勃興、復古的日本精神の研究等とに刺戟され、共産主義
のプロレタリア無神論を前衛とする主知主義思想に反撥して昭和七、
八年以降頓に活況を呈して来てゐるが、所謂宗派神道に属する各教
団は日本精神の復興の時流に乗つて、皇道、惟神道を標榜鼓吹し又
国民的信念たる敬神崇祖を強調して教線を著しく拡大せしめた。天
皇機関説排撃運動が国体明徴運動として進展するに及び神道家の此
の運動に参加する者さへ生じ、予而より皇道主義に基く神理教を標
榜し「高天が原会」を設けて宣伝してゐた弾正こと瀬尾素治の如き
は日本主義者と提携して「神道有志聯合会」の名を以て岡田首相宛
辞職勧告文を提出したる等相当清澄な活動を行つた。国体明徴運動
が国民の自覚を促し国民精神を昂揚せしめた事は皇道、惟神道を標
榜する神道教団に著しい刺戟影響を与へたことが推知されるのであ
つて、之を例へば公認神道教(神道十三派)のみの教勢統計に見る
に昭和八年末と昭和十一年末との比較に於て、教会数一千余、教師
数二万余、教信徒数五十万の激増振りを示してゐる。由来宗教に対
しては信教の自由を尊重する立前から兎角放任され勝ちで、中には
其の教義教説の内容に我が国体に副はざるものを認め得るのである
が、斯る国体を不明徴ならしめる宗団の存在について国体明徴問題
以来世間は漸く批判の眼を向け姶め、昭和十年以来宗教警察の強化、
大本教、扶桑教、ひとのみち教団の検挙等と相俟つて各種宗教団体
は等しく自教団の教義教理或は布教の手段に内省再検討を加へ之が
是正刷新を図らんとする風潮を醸成し、殊に支那事変に依る国民の
国家意識の昂揚に伴ひ此の傾向が著しくなつて来てゐる。例へば宗
教神道中の最大教団たる天理教については其の基本教典たる泥海古
記、おさしづ、おふでさき等の内容に荒唐無稽、動もすれば国史を
紛淆し神祇の尊厳を冒潰し国民の国体に対する信念を蠢毒する虞が
あるとして従来より教外者により排撃されて来てゐたが、昭和十一
年十一月「神道有志聯合会」主幹瀬尾弾正の提唱に基き五百木良三、
井上清純、今泉定助等多数の在京名士に依り「天理教撲滅対策協議
会」が開催され、其の決議に基き瀬尾弾正は管長中山正善に不敬行
為ありとして大審院検事局に告発状を提出し同時に五百木良三は検
事総長に天理教摘発方の上申書を提出し、又国粋大衆党総務畠山義
雄は中山正幸著『いざひのきしん明るい日本』と題する小冊子には
出版法第二十六条第二十七条に該当するものがあるとて昭和十一年
八月奈良地方裁判所検事局に中山正善外二名を告発してゐる。斯の
如く天理教は教外者より猛烈な排撃を受けた許りでなく昭和十三年
十一月四日には文部省よりも戒告を受けるに至つたので、目下教義
に改訂を加へつゝある状況である。
 又仏教宗団に於ても其の教義教現に反国体的要素を内包するもの
については教外よりの批判攻撃が次第に深刻となつて来て居り、宗
団内に於ても自粛自戒の必要を悟り教義教理の刷新を行はんとする
傾向を生じて来てゐる。仏教に於ては仏陀を最高絶対の実在と思念
する結果動もすれば国体明徴に逆行し我国体の尊厳を無視し国有の
神祇を軽んじ或は之を誹謗するが如き言辞を弄するものがあるので
あつて、昭和十二年三月には兵庫県武庫郡精道村打出神道研究家徳
重三郎は日蓮宗の曼陀羅、禅宗の授戒和讃、真言宗の本地垂迹説
等の内容は皇祖の御神威を冒涜し、国体の尊厳を冒涜するものであ
るとして国体明徴の為め神戸地方裁判検所事局に上申書を提出し教
界各方面に異常の反響を与へた。其の他昭和十一年七月本門法華宗
宗務庁より発行せられた『本門法華宗教義綱要』(刈谷日任編纂)
中に「天照大神等の諸神は内証に随へば仏菩薩の二界に摂すべく、
現相を以て之を言はば鬼畜に摂すべし云々」とあつたところより重
大問題を惹起し宗門内責任者等の引責辞職を見るに至つた事件、同
年七月真宗聖典普及会より発行された『改訂真宗聖典』中「本願寺
聖人・親鸞絵伝下第一段」に「主上臣下法にそむき義に違ひいかり
をなしあだをむすぶ。これによつて真宗興隆の大祖・源空法師なら
びに門数輩に罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす云
云」とあつたところより教門の問題となり「主上臣下」を「主上の
臣下」と改訂を加へた事件、本門仏立講に於て「法謗払」と称して
一家の神棚仏壇を廃棄し甚しきに至つては神宮の大麻すら法謗とし
て廃棄してゐた大麻不受問題につき反省が促され、昭和十一年十月
本部より大麻拝受、神社参拝の布達が発せられた事件等は何れも宗
政を刷新して国体の本義に副はしめんとする風潮の表面化した具体
的事例であつて、東本願寺の如きに於てさへ目下教義に根本的改訂
を加へつゝあるとの事である。
 基督教に於ても亦同様の傾向を見得るのであつて昭和十二年救世
軍の一部士官が自主権の確立、内部組織の改革を主張し改革同盟を
組織して改革運動を起して以来救世軍内部の醜状が漸く一般に暴露
され、祭政会本部其の他の日本主義団体より屠と痛烈な抗議を受け
たのであるが、これは基督教界一般にも影響を与へ外部より批判注
目の的となり教界の一部に於ても此の影響と今次支那事変の刺戟と
に依り基督教の日本化、日本主義的基督教の確立を提唱するものも
あり、又教会自体に於ても伝道方針に再検討を加へ或は英米依存的
羈絆を脱して自給自立の方策を企図するものを生じて来てゐる。例
へば川崎市在住の基督教徒加藤一夫は「翻訳的基督教を揚棄して日
本精神と一致したる日本人の、日本国の、日本の基督道を確立せん」
ことを主張して「皇国基督道同盟」を結成して基督教の日本的転換
を図り又予而より日本的基督教を標榜しつゝあつた「きよめ」教会
霊化教会、日本基督教会等在京十数教会は外国其の儘の教を伝道す
るは、我國體、国情に副はざるが故に日本的基督教の真義を明徴に
すべきであるとして昭和十二年十二月「基督教徒祖国愛国運動」を
起した。日本聖公会に於ても支那事変に関しカンタベリー大僧正が
反日的声明を発したことに端を開き、一部信徒間に自主権の確立及
教内の日本主義的刷新を図らんとする気運を生じ、遂に昭和十二年
十二月英人サムエル・へーズレットに代つて名出保太郎が総会議長
(最高機関)に選任され日本化の方向を示しつゝある。
 斯くの如く宗教界に於ける自粛自戒、教義教理の改廃刷新等の傾
向は國體明徴問題以来特に顕著となつて来てゐるのであつて、其の
原因を察するに國體明徴問題に依り一般的に喚起された國體観念の
自覚に促された事実に負ふ所多く、宗教警察の強化、支那事変に依
る国家意識の昂揚と相俟つて一層深刻化するの勢にある。

 (五) 政治方面に及ぼした影響

 前後二回に亙る國體明徴の声明を発した岡田内閣が二・二六事件
の為に崩壊し之に続いで事件後の重大政局を担当した広田内閣は庶
政一新を標榜し、政治の根本は國體明徴にありと声明した。即ち
「鞏固なる國體観念を愈々明徴にするは政府の本務にして内外の諸
政の方策皆此に朝宗すべきは言を俟たざる所なり」といふのが広田
内閣の第一声明中の文句である。此の如く國體明徴は政府之を取上
げて政務革新の基本方針とされるに至つたのであつて、二・二六事
件と共に為政者に対し、満洲事変以来急速に進展し来つた時代の潮
流に付き認識、内省を為さしめたと同時に、國體明徴を諸政の基本
とする原則を確立せしめた事は一大収穫であつたと謂はねばならぬ。
國體明徴問題が祭政一致の精神を昂めたことは既述した通りである
が、昭和十年九月には富田鎮彦、雑賀博愛、鹿子木員信、角田清彦、
松永材其の他の人々により維新大道の顕修を目的とする「惟神顕修
会」が結成されたのを始めとし、松永材を会長とする国学院大学内
の直毘会、江川元祥を主宰者とする祭政会等の如き祭政一致を標榜
する団体の成立さへ見てゐる。此の如く祭政一致を政治の根本義と
する主張は間もなく政府の政綱として発表された。即ち昭和十二年
一月軍部対政党の対立に原因して広田内閣瓦壊し、宇垣一成大将の
組閣流産に次いで、大命を拝し二月三日内閣を組織した林銑十郎大
将は組閣後間もない二月八日祭政一致の精神と日本独特の立憲政治
の樹立等を標榜した政綱を発表した。其の政綱は次の通りである。

   今次不肖図らずも大命を拝して時艱克服の重任に膺る、恐懼
  感激の至りに堪へざるなり。仍ち旧套を脱し清新摯実なる内閣
  を組織せんとして微力を尽し既に大任を辱うして夙夜タ至クて
  服効の誠を効さむとす。詔を承けては必ず謹む施行奉公の本は
  聖旨を奉戴して我が國體の本義に基き肇国の理想を顕現するに
  在り。刻下内外諸般の情勢に顧み時勢の緩急に察し現内閣の政
  綱として特に表明する所は凡そ左の如し。
   一、國體観念を愈々明徴にし敬神尊皇の大義を益々閘明し祭政
   一致の精神を発揚して国運進暢の源流を深からしめむことを
   期す。
   一、欽定憲法の条章に循ひて我が邦の独特なる立憲政治の発達
   を健実にして民意に察し輿論に聞き公明なる政治の運行を期
   す。
   一、国際正義に則り東亜の安定万邦の共栄を具現せしむるの目
   的を以て挙国一致の外交国策を遂行し国際関係を明暢ならし
   むることを期す。
   一、帝国を安泰にし其の興隆を擁護し国是の貫徹に必頑なる国
   防軍備を充実すると共に生産力の増進を図る等国力の基根に
   培はんことを期す。
   一、内外の経済情勢に適応して産業の綜合的発達を希図し保護
   の施設と共に適切なる統制を実施し而かも国民創造力の発揮
   企業心の勃興を助長せんことを期す。
   以上期する所を達成せんが為めには矯激を廃し因循を戒め時
  世に適合したる革新を断行せざる可からず。義必ず時に随ふべ
  きなり。即ち懸案たる庶政一新の実を挙げ国民生活の安定を図
  り人民の不安を解除せしめざるべからず。今後行ふべき諸般の
  政策は着々之れが具現を企図すべし。顧ふに内外世相の錯綜し
  てせ或は適帰する所を知らざるもの其の淵源実に協同を疎じて
  個我に執着し利害を追つて対立抗争するに存す、故に和を以て
  貴しとなす。事理自ら通すべし。現内閣は私を滅し公に奉じ偏
  党有る無し、今や大命を拝して施設を奉行するに方り赤誠を披
  瀝して一事革新の方途を講じ、以て洪猷翼賛の道を完うせんこ
  とを期す。
 此の政綱に就いては、政党及び一般世上に相当の言議があつたが、
敬神尊皇の大義、祭政一致の精神を以て國體明徴国運進暢の第一義
として庶政一新の実を挙げんとした劃期的なものであつたと謂ふべ
きである。

 (六) 革新運動に及ぼした影響

 過去に於ける革新運動は概ね末梢的な時局問題を促へて糾弾し、
或は一部急進分子の直接行動に訴へる等の事が繰返され、社会的に
は寧ろ軽視され顰蹙され勝ちであつたが、機関説排撃、國體明徴運
動は国民の胸奥に触れる根本問題を取上げ而も合法的に進められた
為め、遼原の焔の如く全国に波及した。更に機関説排撃の意義が其
の背後に在る自由主義思想、現状維持陣営の克服にあることが把握
強調され、其の方向に運動が進められた結果所謂現状維持陣営を著
しく動揺混乱弱体化せしめたと同時に、革新陣営の存在価値を急激
に高めて、一大躍進を遂げさせ軈ては時代を指導する実力をも持つ
に至らしめる一の契機となつた。又従来革新関係に於ては屡々大同
団結が試みられたが其の都度指導理論の相違或は感情の齟齬等に原
因して失敗しつゝあつたが本問題に於ては各団体は國體明徴の標語
の下に期せずして統一戦線を張り、運動に大なる効果を挙げ得た結
果合法的革新の可能性の曙光を見出すと共に、戦線統一の機運を著
しく醸成せしめた。即ち昭和十年度中には
   政教維新聯盟
   八月会
   維新青年倶楽部
   維新倶楽部
  昭和十一年度中には
   二月会
   愛国労働農民党
   大日本青年党
   維新制度研究会
   時局協議会
   純正日本主義青年運動全国協議会
   大和聯盟
等の結成を見てゐる。
 更にこの運動の成果に鑑み其の後革新運動には常に國體明徴の大
旗が高く揚げられてゐる。既成政党が昭和十一年五月特別議会に於
ける衆議院議員斎藤隆夫の軍部攻撃演説に、或は同年十月政党内閣
否定を含む軍部の議会制度改革案に対する政党側の反撥に、憲政擁
護の顕著な動向を示すや、國體擁護聯合会を始め、日本主義諸団体
は一斉に立上り既成政党の主張する議会中心主義、政党政治は反國
體思想に基く憲法違反であり、國體不明徴の根源であるとし「純正
護憲運動」の名の下に、軍部を支持鞭撻して盛に反既成政党運動を
起した。又昭和十二年二月祭政一致、革新政策の実現を標榜した林
内閣が既成政党及び所謂現状維持層との対立に原因して、同年三月
三十一日所謂膺懲解散を断行し

   衆議院は重大なる時局を認識し立憲の洪猷翼賛の誠を効せる
  やを疑はしむるものありて、議会刷新の急務の唱へらる、真に
  故なしとせず、立に是非を天下に問ひ、よつて以て帝国憲政の
  本義を顕現するの階梯たらしむると共に、朝野協力時局打開に
  力を効さんとするにある。云々
の解散奏請理由を発表した時も、革新団体は双手を挙げて之に賛成
し、既成政党解散、自由主義陣営剿滅の神機なりとして各種の運動
を展開し、議会進出派は既成政党の排撃、皇道翼賛議会実現を標榜
し候補者を擁立して選挙戦に臨み、又反議会派の時局協議会、愛国
労働農民同志会、純正日本主義運動全国協議会、純正維新共同青年
隊、大日本生産党等は選挙権奉還運動(白紙投票運動)なる注目す
べき運動を起して猛烈に政党排撃を行つた。其の思想的根拠は
   現反國體的議会制度下に於て選挙を通じての大政翼賛任務遂
  行は不可能なるを以て、選挙権を奉還し以て現反國體的議会制
  度、選挙法を総否定し真の國體明徴の為に御維新断行を翹望し
  奉るの至情を天聴に達せんとする請願行為に外ならず。
と謂ふにあつて、此の運動も亦政治の上に國體明徴を徹底せんとの
意図に出てたものの如くである。



    第十章 國體明徴と神兵隊事件公判

 神兵隊事件関係者天野辰夫外五十三名は昭和八年九月以降殺人放
火予備、爆発物取締罰則違反として東京地方裁判所の予審に附され
たが、審理の進捗に伴ひ刑法第七十八条内乱予備陰謀の嫌疑濃厚と
なり、昭和十年九月十四日大審院の特別権限に属するものとして管
轄違の終結決定があり、事件は大審院に繋属し受命判事に依り取調
が進められ、昭和十一年十二月十七日大審院に於て公判開始決定が
あり、昭和十二年十一月九日大審院第一号法廷に於て宇野裁判長の
下に現行刑法施行以来最初の内乱予備事件として歴史的公判が開始
され、昭和十四年八月十日宇野裁判長以下の判事を忌避する迄の間
七十九回開廷され其の間被告等の公判闘争に幾多の波瀾を捲起した。
天野等の被告人達は神兵隊の行動が國體の擁護にあつた事を理由と
して内乱罪に問擬するの不当を強調すると共に内乱罪としての予審
審理の不充分を指摘して事実上適法有効の予審は無かつたと主張し、
或は地方裁判所の予審調書は検事が創作し予審判事が脚色したもの
と攻撃し、或は又事件の本質に関し司法部内より悪質デマが放送さ
れたとして盛に検事に対する攻撃を行ひ公判の進行を著しく渋滞に
陥らしめた。天野は既に記述した如ぐ故上杉博士の遺志を継ぎ機関
説の撲滅、國體の明徴を自己の使命となし、独特の皇道原理を堅持
して国家改造運動を行つて来たのであつて、天野を指導者と仰ぐ被
告等は何れも公判延を國體明徴の戦場と唱へ検事を目して自由主義
陣営の最後の線を守るものと做し、若し検事が真に國體原理に覚醒
するならば本件は 天皇機関説を抱持する智識階級、特権階級等の
幕府的勢力に依り紊乱さたれ朝憲を回復せんとして起されたものな
るが故に当然公訴権の抛棄に至るべきものであると主張した。彼等
は亦検察当局が美濃部博士を起訴猶予とした其の処置を難じ検事は
國體擁護の最大重要任務を抛棄し、明に国憲に叛逆してゐる美濃部
達吉を不起訴としたのを初めとし、天皇機関説に依り 天皇の御本
質が現在目のあたり蹂躙されてゐるに拘らず之を抛置して顧みない
検察当局こそ國體不明徴の巣窟であると迄極論してゐる。其の後岩
村検事の司法次官転出に伴ひ代つて三橋検事立会の下に昭和十三年
一月十八日より公判が続行されたが被告人等は立会検事の思想内容
を執拗に追及して已まぬので三橋検事は同日の法廷に於て国家の検
察官として 天皇の御名に於て行はれる我国司法権の円満なる進行
を念願する旨を述べ、且つ彼等の排撃して已まぬ天皇機関説に就き
之を信奉せずと明言した。二月一日新に三橋検事より公訴事実の陳
述が為されたが被告人等は爾後開廷毎に立会検事の述べた意見の釈
明と公訴事実の内容の釈明とを求めて盛に検事を論難攻撃して審理
に入らしめず、三月一日の第二十二回公判以来百余日の長期間公判
は中止となつて了つた。同年六月十四日三箇月振りに公判が開廷さ
れた処三橋検事より天皇機関説を信奉せぬ理由は其の反國體性ある
旨が明にされたので被告人等も著しく態度を緩和し審理は漸く軌道
に乗つて来た。次いで七月九日被告人天野は天皇機関説が輿論とな
り凡ゆる国民の部層に浸潤した事実を指摘した後、天皇横関説思想
の瀰漫浸潤がなく従て國體が不明徴に陥らなかりたならば本件は惹
起しなかつたと言ひ天皇機関説の正邪如何と本件とは根本且つ切実
の関係を持つものである故之に関する裁判長の信念を伺ひたいと裁
判所の所信を糺したので宇野裁判長は左の如く天皇機関説に対する
所見を述べた。

   元来天皇機関説と言ふ言葉は外国語の翻訳で我日本本来の生
  んだ言葉ではない。外国の学者が外国の為に創つた学説で我日
  本民族の生んだ思想ではない。外国の異端学説である。皇国日
  本の大御親一天万乗の 天皇様を外国の元首と同視し国家の機
  関なりと云ふは全く言語同断で日本民族の信念に相反するもの
  である。此の様な説は国民思想の根本を紊る邪説なることは既
  に立会三橋検事よりも言はれた通りで此の様な間違つた思想の
  下に反國體的の行為行動を採る者に対しては夫々の立場に於て
  法規に照し厳重なる処置を為すを信じて疑はぬ。故に当公判定
  に於て裁判所に対し國體観念に付き疑念を持つことは無用であ
  る。

 斯くの如く 天皇の御名に依り司法権を運営する裁判所、夫れも
最高の大審院に於て機関説排除の宣言の為された事は天野辰夫を首
領とする神兵隊事件の被告人等を大に歓喜せしめ、爾来公判は全く
正常に復し、事実審理に入り天野の病気に依る中断事故を除いては
一瀉千里に審理は進行し昭和十四年七月二十一日より証人調に入つ
た。然るに八月十日に至り決定留保中の申請証人牧野伸顕以下四十
二名につき却下の決定が下されるや亦もや法廷に波瀾捲き起り裁判
所に対する忌避を敢てするの挙に出で公判は中止の儘今日に至つて
ゐる。被告人等より提出された疏明書には十点に及ぶ忌避原由が掲
げられてゐるが其の第三点には「現代日本朝憲紊乱現象の集約的事
実は所謂天皇機関説なり、神兵隊公判に於て被告人等が所期したり
し目的の焦点は実に此の問題の徹底的解決に存したり、宇野裁判長
亦此のことを確認し昭和十三年七月九日第三十二回公判に於て劃期
的なる國體明徴宣言をなし天皇概関説は『我が國體の本義に悖り国
民の思想を危くするものである、國體違反の邪説であると』断定し
『斯様な間違つた思想のもとに反國體的の行為行動が現はれたと云
ふやうな際に当つて斯様な者に対しては将来それぞれの立場に於て
法規に照して厳正なる処置を執らなければならぬ』と天皇機関説信
奉者厳罰の方針を明確にしたり。此の宣言は当時ひとり被告人等の
感激にとどまらず心ある者が斉しく日本思想史上不滅の宣言として
宇野裁判長に敬意を表したる処なりき、而して此の宣言を敢へてな
したる宇野裁判長の『邪説』排撃、國體明徴の意志と良心に信頼し
たればこそ被告人等は凡庸なる法官者流は以て多きに過ぐとなすべ
き四十八名の証人申請をなしなほ次いで申請すべき証人の用意すら
なしたるなり、被告人等は裁判長が彼の宣言を忘れざる以上、少く
とも天皇機関説問題の関係の証人たる一木喜徳郎、美濃部達書、蓑
田胸喜等の喚問は当然に実行するものと信じて疑はざりき、然るに
裁判所はその一人をだに喚問することなく人の意表に出でて全然何
人よりも申請せる覚えなき男爵井田磐楠を職権を以て喚問せり、証
人井田磐楠は貴族院に於て天皇税関説排撃、國體明徴のために尽瘁
せる人当代敬すべき人物にして其の法廷に於ける陳述亦真摯人をし
て傾聴せしめたりと雖も該問題に就ては飽く迄第三者にして傍証的
意義より以上のものを求むべからず、裁判所が問題の当事者たる一
木、美濃部及び之と十年一日の如く戦ひ来りし蓑田胸喜を証人とし
て喚問せずその積極的必要もなき井田磐楠を喚問することによりて
右証人喚問を誤魔化し去らむとせる政治的技巧は狡猾手段と言はざ
るを得ず、斯くの如きは被告人等必死の念願を無視し被告人真個の
利益を蹂躙するものにして即ち裁判所が偏頗なる裁判を為す虞あり
となす第三なり。」と書かれてゐる。神兵隊事件の公判廷に表はれ
た國體明徴の叫びは宛ら天皇機関説排撃國體明徴の総決算の如き感
を抱かしめるものがあるのであつて、彼等天皇機関説排撃の主張は
所謂重臣ブロック、政党、官僚、財閥、司法部排撃と云ふ具合に極
めて広範囲に亙つてゐる。彼等の言ふ所に依れば、
 (1) 歴史を回顧するに蘇我・藤原・北条・足利・徳川の歴史は皆
  君民の間に不当勢力が介在して君民の離間を策した國體蹂躙の
  連続であつて現代語を以てすれば天皇機関説の実行に外ならぬ。
  明治大帝神去り給うてより、政党政治出現し天皇機関説に基く
  済し崩的の國體変革が徐々に行はれ、遂に天皇機関説信奉者の
  集団は宮中側近に迄勢力を扶植し、元老西園寺公望と呼応して
  牧野伸顕を中心とする宮中重臣ブロックを形成し、政党、財閥
  と結び官僚、軍上層部に通じ以て現代幕府的勢力を為してゐる。
  而して其の思想的素質は自由主義的民主主義的であつて天皇機
  関説を信奉し 至尊をして君臨すれども統治せざる英国皇帝に
  等しい地位に置き奉ることを立憲的にして而も 皇室安泰の良
  策とした為め、遂に 天皇の御本質と皇國體の真義は彼等に依
  り全く無視蹂躙され天皇機関説に基く國體変革、無流血革命は
  殆ど成就されるに至つた。天皇概関説排撃國體明徴問題当時の
  岡田首相の國體明徴の不徹底、再度声明を為すの醜態、司法部
  の美濃部達吉に対する起訴猶予、天皇機関説不処罰方針の確立
  等は実に現代日本の支配勢力が天皇概関説信奉実行者の集成に
  依り構築されてゐる事実を裏書する証左である。
 (2) 三十年の長期間天皇機関説が放任され、而も東京帝大を初め
  各大学の憲法、国法学、行政学等の公法講座は殆ど天皇機関説
  学者に依り独占され来つた為め、現代官僚は大部分天皇機関説
  を以て教育され、之を以て高文試験を通過し、天皇機関儲を信
  条としてゐるものである。
 (3) 皇国日本に於ける政治の主体は 上御一人におはしますこと
  言を俟たぬ処であるに拘らず、既成政党は或は党名に「民主政
  治」の略称である「民政」の名を冠し或は党綱領に議会中心政
  治の徹底を標榜するが如き民主主義政党であつて其の存在は根
  本的に國體違反の現象である。況んや欧米民主国の慣例に属す
  る政党内閣制を以て憲政の常道と称して之を皇国日本に移し
  天皇を英国皇帝の如き虚位に置き奉らんとするに至つては将に
  幕府政治の再現と云ふ外はない。此の如く政友、民政両既成政
  党は相呼応して天皇機関説の政治的表象たる議会中心主義政党
  政治を強行し財閥と結托して党利党略を恣にし国家国民をして
  党争の禍害に堪へ得ざらしめたものであり、之を放置すれば皇
  国日本に内部より自爆するの外ない情態に立至つてゐた。
 (4) 現代日本は経済的には 天皇おはしまさず全権支配のみが存
  在し、窮乏してゐる国民に大御心の有難さを感得せしめず、却
  つて同胞相鬩の呪咀怨恨の修羅場に駆り立てつゝある。此の故
  に現行資本主義経済は政党政治と同じく天皇機関説的民主主義
  思想を経済的に実行する処の國體違反朝憲紊乱の現象である。
  斯くの如き経済的無政府状態は当面の国際的危機に堪へ得る状
  態ではなく遂には皇国日本を敗亡に導く虞あるものである。
 (5) 天皇機関説に就いては夙に先覚先憂の士により國體上の重大
  事として絶叫されたに拘らず、諤諤の論は俗耳に入らず、遂に
  天皇概関説は定説輿論を為し政治経済教育等総て此の思想の上
  に組織運営され皇國體の真義は全く蹂躙無視された。従つて天
  皇機関説の否定は、之を信奉宣伝実行する重臣、財閥、官僚、
  政党等の不当勢力の根底を覆し紊乱せられた朝憲を回復して皇
  国日本の真姿を顕現することを意味し、而も合法手段に依るの
  不可能を悟り碧血を濺いで神国を禊祓せんとした処に被告人等
  の心事が存してゐた。
と謂ふにある。以て天皇機関説が如何に彼等に取つて重大関心事で
あつたかを知るべきであると同時に、彼等の懐いてゐる革新思想が
天皇機関説対天皇主権説の論争に発して、各方面に之を展開したも
のであつて、其の思想の根幹は天皇機関説の否定克服にあることが
看取される。