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 去る二月十九日の本会議に於きまして、菊池男爵其他の方から私の著書のことに付きまして御発言がありましたに付き、茲に一言一身上の弁明を試むるの己むを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とする所であります。菊池男爵は昨年六十五議会に於きましても、私の著書の事を挙げられまして、斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜いと云ふ様な激しい言葉を以て非難せられたのであります。今議会に於きまして再び私の著書を挙げられまして、明白な反逆的思想であると云はれ、謀反人であると云はれました。又学匪であるとまで断言されたのであります。日本臣民に取りまして反逆者であり謀反人であると言はれますのは侮辱此上もない事と存ずるのであります。又学問を専攻して居ります者に取つて、学匪と云はれます事は等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。私は斯の如き言論が貴族院に於て公の議場に於て公言せられまして、それが議長からの取消の御命令もなく看過せられますことが果して貴族院の品位の為め許される事であるかどうかを疑ふ者でありまするが、それは兎も角と致しまして貴族院に於て貴族院の此公の議場に於きまして斯の如き侮辱を加へられました事に付ては私と致しまして如何に致しても其まゝには黙過し難いことゝ存ずるのであります。本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適当であると存じまするし又貴重な時間を斯う云ふ事に費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、私と致しましては不愉快至極の事に存ずるのでありまするが万己むを得ざる事と御諒承を願ひたいのであります。凡そ如何なる学問に致しましても、其の学問を専攻して居りまする者の学説を批判し其の当否を論じまするには其批判者自身が其学問に付て相当の造詣を持つて居り、相当の批判能力を備へて居なければならぬと存ずるのであります。若し例へば私の如き法律学を専攻して居まする者が軍学に喙を容れまして軍学者の専門の著述を批評すると云ふ様なことがあると致しますならばそれは、唯物笑に終るであらうと存ずるのでありますが菊池男爵の私の著に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依つて拝見いたしますると同男爵が果して私の著書を御通読になつたのであるか仮りに御読みになつたと致しましても、それを御理静なされて居るのであるかと云ふ事を深く疑ふものであります。恐らくは或他の人から断片的に私の著書の中の或片言隻句を示されて、其前後の連絡も顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて軽々と是は怪しからぬと感ぜられたのではなからうかと想像されるのであります。若し真に私の著書の全体を精読せられ又正当にそれを理解せられて居りますならば斯の如き批判を加へらるべき理由は断じてないものと確信いたすのであります。菊池男爵は私の著書を以て我国体を否認し君主主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますがそれこそ実に同君が私の著書を読まれて居りませぬか又は読んでもそれを理解せられて居られない明白な証拠であります。我が憲法上、国家統治の大権が 天皇に属すると云ふ事は天下万民一人として之を疑ふべき者のあるべき筈はないのであります。憲法の上論には「国家統治ノ大権ハ朕力之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と明言して居ります。又憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。更に第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条記二依り之ヲ行フ」とあるのでありまして、日月の如く明白であります。若し之をして否定する者がありますならば、それには反逆思想があると云はれても余儀ない事でありませうが、私の著書の如何な場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、却てそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。例へば菊池男爵の挙げられました憲法精義十五頁から十六頁の所を御覧になりますれば、日本の憲法の基本主義と題しまして其最も重要な基本主義は日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之は西洋の文明から伝はつた立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である。即ち君主主権主義に加ふるに立憲主義を以てしたのであると云ふ事を述べて居るのであります。又それは万世動かすべからざるもので日本開闢以来曾て変動のない、又将来永遠に亙つて動かすべからざるものであると云ふ事を言明して居るのであります。他の著述でありまする憲法撮要にも同じ事を申して居るのであります。菊池男爵は御挙げになりませんでありましたが私の憲法に関する著述は其外も明治三十九年に既に日本国法学を著して居りまするし、大正十年には日本憲法第一巻を出版して居ります。更に最近昭和九年には日本憲法の基本主義と題するものを出版いたして居りまするが、是等のものを御覧になりましても君主主権主義が日本の憲法の最も貴重な最も根本的な原則であると云ふ事は何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、凡そ二点を挙げる事が出来るのであります。第一点は、此天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるが、又は 天皇が国の元首たる御地位に於て総攬し給ふ権能であるかと云ふ問題であります。一言で申しますならば 天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか権能と見るべきであるかと云ふ事に帰するのであります。第二点は 天皇の大権は絶対に無制限な万能の権力であるか、又は憲法の条章に依つて行はせられまする制限ある権能であるか、此の二点であります。私の著書に於て述べて居まする見解は、第一には 天皇の統治の大権は法律上の観念としては権利と見るべきものではなくて、権能であるとなすものでありまするし、又第二に万能無制限の権力ではなく、憲法の条紀によつて行はせられる権能であるとなすものであります、此の二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を解く事に努めたいと思ふのであります。第一に天皇の国家統治の大権は法律上の観念として天皇の御一身に属する権利と見るべきや否やと云ふ問題でありますが、法律学の初歩を学んだ者の熟知する所でありますが法律学に於て権利と申しまするのは利益と云ふ事を要素とする観念でありまして自己の利益の為に……自己の目的の為に存する法律上のカでなければ権利と云ふ観念には該当しないのであります。或人が或権利を持つと云ふ事は其力を其人自身の利益の為に、言換れば其人自身の目的の為に認められて居ると云ふ事を意味するのであります。即ち権利主体と云へば利益の主体目的の主体に外ならぬのであります。従つて国家統治の大権が 天皇の御一身の権利であると解しますならば、統治権が天皇の御一身の利益の為め、御一身の目的の為に存するカであるとするに帰するのであります。さう云ふ見解が果して我が尊貴なる国体に通するでありませうか。我が古来の歴史に於きまして如何なる時代に於ても天皇が御一身御一家の為に、御一家の利益の為に統治を行はせられるものであると云ふ様な思想の現はれである事は出来ませぬ。天皇は我国開闢以来天の下しろしめす大君と仰がれ給ふのでありますが、天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であると云ふ事は古来常に意識せられて居た事でありまするし、歴代の天皇の大詔の中にも、其の事を明示されて居るものが少くないのであります。日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には「惟フニ我ガ皇祖諸々ノ天皇ノ宸極ニ光臨シ給ヒシハ豈一身ノ為ナラズヤ蓋シ人神ヲ司牧シテ天下ヲ経倫スル所以ナリ」とありまするし、仁徳天皇の詔には「其レ天ノ君ヲ立ツルハ是レ百姓ノ為ナリ然ラハ則チ君ハ百姓ヲ以テ本トス」とあります。西洋の古い思想には国王が国を支配する事を以て恰も国王の一家の財産の如くに考へて、一個人が自分の権利として財産を所有して居りまする如くに、国王は自分の一家の財産として国土国民を領有し支配して、之を子孫に伝へるものであるとして居る時代があるのであります。普通に斯くの如き思想を家産国思想、「パトリモニアル、セオリイ」家産説、家の財産であります家産説と申して居ります。国家を以て国王の一身一家に属する権利であると云ふ事に帰するのであります。斯の如き西洋中世の思想は、日本の古来の歴史に於て曾て現はれなかつた思想でありまして、固より我国体の容認する所ではないのであります。伊藤公の憲法義解の第一条の註には「統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり」中略「蓋祖宗其の天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在つて一人一家に享奉するの私事にあらざる事を示されたり、是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり」とありますのも、是れ同じ趣旨を示して居るのでありまして統治が決して 天皇の御一身の為に存するカではなく、従て法律上の観念と致しまして 天皇の御一身上の私利として見るべきものではない事を示して居るのであります。古事記には天照大神が出雲の大国主命に問はせられました言葉といたしまして「汝カウシハケル葦原ノ中ツ国ハ我カ御子ノシラサム国」云々とありまして「ウシハク」と云ふ言葉と書き別けしてあります。或国学者の説に依りますと、「ウシハク」と云ふのは私領と云ふ意味で「シラス」は統治の意味で即ち天下の為に土地人民を統べ治める事を意味すると云ふ事を唱へて居る人が あります。此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが若し仮りにそれが正当であると致しまするならば、天皇の御一身の権利として統治権を保有し給ふものと解しまするのは即ち 天皇は国を「シラシ」給ふのではなくして国を「ウシハク」ものとするに帰するのであります。それが我が国体に適する所以でない事は明白であらうと思ひます。統治権は、 天皇の御一身の為に存する力であつて従つて 天皇の御一身に属する私の権利と見るべきものではないと致しまするならば、其権利の主体は法律上何であると見るべきでありませうか、前にも申しまする通り権利の主体は即ち目的の主体でありますから、統治の権利主体と申せば即ち統治の目的の主体と云ふ事に外ならぬのであります。而して 天皇が天の下しろしまするのは、天下国家の為であり、其の目的の帰属する所は永遠恒久の団体たる国家であると観念いたしまして 天皇は国の元首として、言換れば、国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬し給ひ、国家の一切の活動は立法も司法も総て 天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身で一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以てせば一つの法人と観念いたしまして 天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在しまし国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ 天皇が憲法に従つて行はせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずると云ふことを云ひ表はすものであります。国家を法人と見ると云ふことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、是は憲法が法律学の教科書ではないと云ふことから生ずる当然の事柄でありますが併し憲法の条文の中には、国家を法人と見なければ説明することの出来ない規定は少からず見えて居るのであります。憲法は其の表題に於て既に大日本帝国憲法とありまして、即ち国家の憲法であることを明示して居りますのみならず、第五十五条及び第五十六条には「国務」といふ言葉が用ゐられて居りまして、統治の総べての作用は国家の事務であると云ふことを示して居ります。第六十二条第三項には「国債」及び「国庫」とありまするし、第六十四条及び第七十二条には「国家ノ歳出歳入」といふ言葉が見えて居ります。又第六十六条には、国庫より皇室経費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。総べて此等の字句は国家自身が公債を起し、歳出歳入を為し、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体であることを明示して居るものであります。即ち国家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない処であります。其の他国税と云ひ、国有財産といひ、国際条約といふやうな言葉は、法律上普く公認せられて居りますが、それは国家それ自身の租税を課し、財産を所有し、条約を結ぶものであることを示してゐるものであることは申す迄もないのであります。即ち国家それ自身が一つの法人であり、権利主体であることが、我が憲法及び法律の公認するところであると云はねばならないのであります。併し法人と申しますると一つの団体であり、無形人でありまするから、其の権利を行ひまする為には、必らず法人を代表するものがあり、其の者の行為が法律上法人の行為たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、斯くの如き法人を代表して法人の権利を行ふものを、法律学上の観念として法人の機関と申すのであります。率然として 天皇が国家の機関たる地位に在はしますといふやうなことを申しますると、法律学の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、其の意味するところは 天皇の御一身御一家の権利として、統治権を保有し給ふのではなく、それは国家の公事であり 天皇は御一身を以て国家を体現し給ひ、国家の総ての活動は 天皇に其の最高の源を発し 天皇の行為が 天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言ひ表はすものであります。例へば憲法は明治天皇の欽定に係るものでありますが、明治天皇御一個御一人の著作物ではなく其の名称に依つても示されて居りまする通り 大日本帝国の憲法であり、国家の憲法として永久に効力を有するものであります。条約は憲法第十三条に明言して居りまする通り、天皇の締結し給ふところでありまするが、併しそれは国際条約即ち国家と国家との条約として効力を有するものであります。若し所謂機関説を否定いたしまして、統治権は 天皇御一身に属する権利であるとしますならば、その統治権に基いて賦課せられまする租税は国税ではなく、天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、天皇の締結し給ふ条約は国際条約ではなくして、天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。その外国債といひ、国有財産といひ、国家の歳出歳入といひ、若し統治権が国家に属する権利であることを否定しまするならば、如何にしてこれを説明することが出来るのでありませうか。勿論統治権が国家に属する権利であると申しましてもそれは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣旨ではないことは申す迄もありません。国家の一切の統治権は 天皇の総攬し給ふことは憲法の明言してゐるところであります。私の主張しまするところは只 天皇の大権は天皇の御一身に属する私の権利ではなく、 天皇が国家の元首として行はせらるゝ権能であり、国家の統治権を活動せしむるカ、即ち統治の総べての権能が 天皇に最高の源を発するものであるといふに在るのであります。それが我が国体に反するものでないことは勿論、最も良く我が国体に通する所以であらうと堅く信じて疑はないのであります。第二点に我が憲法上、天皇の統治の大権は万能無制限の権力であるや否や、この点に就きましても我が国体を論じまするものは、動もすれば絶対無制限なる万能の権力が 天皇に属してゐることが我が国体の存する処なると云ふものがあるのでありまするが、私は之を以て我が国体の認識に於て大いなる誤であると信じてゐるものであります。君主が万能の権力を有するといふやうなのは、これは純然たる西洋の思想である。「「ローマ」法や十七、八世紀のフランスなどの思想でありまして、我が歴史上に於きましては如何なる時代に於ても、天皇の無制限なる万能の権力を以て臣民に命令し給ふといふやうなことは曾つて無かつたことであります。天の下しろしめすといふことは、決して無限の権力を行はせられるといふ意味ではありませぬ。憲法の上論の中には「朕力親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ」云々と仰せられて居ります。即ち歴代天皇の臣民に対する関係を「恵撫慈養」と云ふ言葉を以て御示しになつて居るのであります。況や憲法第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依り之ヲ行フ」と明示されて居ります。又憲法の上諭の中にも、「朕及朕力子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章二循ヒ之ヲ行フコトヲ愆(あやま)ラサルヘシ」と仰せられて居りまして 天皇の統治の大権が憲法の規定に従つて行はせられなければならないものであると云ふことは明々白々疑を容るべき余地もないのであります。天皇の帝国議会に対する関係に於きましても亦憲法の条規に従つて行はせらるきことは申す迄もありませぬ。菊池男爵は恰も私の著書の中に、議会が全然 天皇の命令に服従しないものであると述べて居るかの如くに論ぜられまして、若しさうとすれば解散の命があつても、それに拘らず会議を開くことが出来ることになると云ふやうな議論をせられて居るのでありまするが、それも同君が曾つて私の著書を通読せられないか、又は読んでも之を理解せられない明白な証拠であります。議会が 天皇の大命に依つて召集せられ、又開会、閉会、停会及衆義院の解散を命ぜられることは、憲法第七条に明に規定して居る所でありまして、又私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。私の申して居りまするのは唯是等憲法又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、それ以外に於て即ち憲法の条規に基かないで、天皇が議会に命令し給ふことはないと言つて居るのであります。議会が原則として 天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして「原則として」と申すのは、特定の定あるものを除いてと云ふ意味であることは言ふ迄もないのであります。詳しく申せば議会が立法又は予算に協賛し緊急命令其の他を承諾し又は上奏及建議を為し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、何れも議会の自己の独立の意見に依つて為すものであつて、勅命を奉じて勅命に従つて之を為すものではないと言ふのであります。一例を立法の協賛に取りまするならば、法律案は或は政府から提出れ、或は議院から提出するものもありまするが、議院提出案に付きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言ふ迄もないことであります。政府提出案に付きましても、議会は自己の独立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つてゐることは、誰も疑はない所であらうと思ひます。若し議会が 陛下の命令を受けて、其の命令の儘可決しなければならぬもので、之を修正し又は否決する自由がないと致しますれば、それは協賛とは言はれ得ないものであり、議会制度設置の目的は全く失はれてしまふ外はないのであります。それであるからこそ憲法第六十六条には、皇室経費に付きまして特に議会の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。それとも菊池男爵は議会に於て政府提出の法律案を否決し、其協賛を拒んだ場合には、議会は違勅の責を負はなければならぬものと考へておいでなのでありませうか。上奏、建議、質問等に至りまして、君命に従つて之を為すものでないことは固より言ふ迄もありませぬ。菊池男爵は其御演説の中に、陛下の御信任に依つて大政輔弼の重責に当つて居られまする国務大臣に対して、現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言はれまするし、又 陛下の至高顧問府たる枢府院議長に対しても、極端な悪言を放たれて居ります。それは畏くも 陛下の御任命が其の人を得て居らないと云ふことに外ならないのであります。若し議会の独立性を否定いたしまして、議会は一に勅命に従つて其の権能を行ふものとしまするならば、 陛下の御信任遊ばされて居ります是等の重臣に対し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが、許され得るでありませうか。それは議会の独立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。或は又私が議会は国民代表の機関であつて、 天皇から権限を与へられたものではないと言つて居るのに対して甚しい非難を加へて居るものもあります。併し議会が 天皇の御任命に係る官府ではなく、国民代表の機関として設けられて居ることは一般に疑はれない所であり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と法律上の地位を異にする所以であります。元老院や枢密院は、 天皇の官吏から成立つて居るもので、元老院議官と云ひ、枢密院顧問官と云ふのでありまして官と云ふ文字は 天皇の機関たることを示す文字であります。 天皇が之を御任命遊ばされまするのは、即ちそれに其の権限を授与せらるゝ行為であります。帝国議会を構成しまするものは之に反して、議員と申し議官とは申しませぬ。それは 天皇の機関として設けられて居るものでない証拠であります。再び憲法義解を引用いたしますると、第三十三条の証には「貴族院は貴紳を集め衆議院は庶民に選ぶ両院合同して一の帝国議会を成立し以て全国の公議を代表す」とありまして、即ち全国の公議を代表する為に設けられて居るものであることは憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。それが元老院や枢密院のやうな 天皇の機関と区別せられねばならぬことは明白であらうと思ひます。以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めて居る所であり、又近頃に至つて初めて私の唱へ出したものではなく、三十年来既に主張し来つたものであります。今に至つて斯の如き非難が本議場に現はれると云ふやうなことは、私の思も依らなかつた所であります。今日此席上に於て斯の如き憲法の講釈めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、是も万己むを得ないものと御諒察を願ひます。私の切に希望いたしまするのは、若し私の学説に付て批評せられまするならば処々から拾ひ集めた断片的な片言隻句を捉へて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明にし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります。之を以て弁明の辞と致します。(拍手)