全体と個人



 全体主義と云ふ言葉は我が国においても次第に普遍化してきた。それは個人主義に対立し、個人主義を克服すべきものと理解されてゐる。個人主義は自由主義や合理主義とつながつて近代社会の原理であつた。この社会の現在の行詰りはそのやうな個人主義、自由主義、合理主義の弊害に基くと見られ、この弊害を除き得るものは全体主義であると考へられてゐる。かやうな思想に正常なものがあることは誰も認めねばならず、また誰も認めてゐるであらう。
 しかしその際考ふべきことは、先づ一般的に論理的にいつて、もしも全体主義がただ単に個人主義に対立するものであるならば、全体主義も個人主義と同様抽象的であるといふことである。全体から離して個人を考へることが抽象的であるやうに、個人から離して全体を考へることも抽象的である。これは既にへ−ゲルの弁証法において明瞭に洞察されたところである。全体主義は個人主義を単純に否定し、個人主義と抽象的に対立するものであつてはならぬ。これが具体的思惟の論理の要求である。しかるに今日全体主義者は個人主義を排撃することに急にして、自分もまた個人主義と同様抽象的な見方に陥つてゐはしないであらうか。 
 個人主義或ひは自由主義と雖も、決してただ個人のことのみを考へて社会のことを考へなかつたのではない。全体主義の調和を考へることなしに単に個人の自由を考へることは自由主義者にとつても無意味なことでなければならぬ。自由主義はそれ自身の社会哲学をもつてゐた。その古典的な代表者アダム・スミスをとつてみよう。スミスの『国富論』の意義を把握するには、それが完成されなかつた彼の社会哲学的体系の一部分に過ぎなかつたのを想起することが必要である。「自然の諸結合原理の科学」は「自然の芝居を一層斉合的な、それ故に一層壮麗な光景になす」ベきものであつた。スミスは渾沌のうちに秩序を導き入れようとしたのである。彼の書物はその方法において合理主義的であり、その締結において個人主義的であつた。それは、各人は自己の行動の判断者となるに最も適するといふ仮定から出発する、『道徳的感情論』におけるスミスの言葉に依れば、「すべての人間は自然によつて初めに且つ主として自己自身の世話を託されてゐる」。それが各人の真実の仕事であり、そしてそのやうに自己の欲望の面倒をみながら、すべての人間は「見えざる手によつて彼の意図のうちに含まれなかつた目的を助成するやうに導かれてゐる」のである。即ちアダム・スミスにとつては、自己の私的利益のために為された個人の無数の自発的な行動は、或る神秘的な錬金術によつて、統合的善を結果する。我々はこの「自然的自由の単純な体系」によつて、我々が意識的に社会の利益を工夫するよりも一層よく社会のために尽すことになる。従つてスミスは国家の干渉を好まない
国家の活動の最高の目的は、個人の自発的活動を保護することである。「通俗に為政者或ひは政治家と呼ばれる油断のならぬ狡猾な動物」は、我々に国外の平和と国内の秩序とを与へれば、彼の主要な仕事は終るのである。安全が与へられるなら、それ以上の政治的行動は殆ど必要がない。我々は政治家の干渉によつてよりも「あらゆる人定的制度から独立な、正義の自然的規則」によつて一層善く行動することができる。かやうにしてアダム・スミスは全体のこと、社会的善のことを考へなかつたのでなく、社会的善は彼にとつても目的であつたのであるが、ただそれは各個人が自己のためにする行動から一層よく結果すると考へられたのである。そこにはすべての個人が個人的に自由に行動することから全体の調和が自然に生ずるといふ予定調和説がある。この予定調和説に見られるのはオプティミズムであり、このオプティミズムは合理主義とも結び付いてゐるであらう。
 すでにこの点において、いはばその世界観的感情において,今日の全体主義には違つたものがあるやうに思はれる。スミス的自由主義やオプティミズムに対して、政治を最も重要視する今日の全体主義の根柢には或る種のペシミズムは、悲劇的精神があるといひ得るであらう。ナチス的書物において我々が絶えず見出し、また絶えず感じるのは、運命の観念であり、悲劇的精神である。古代ギリシアと音楽―ドイツ人の愛するこの二つのもの―の精神を悲劇の精神と考へたニーチェにナチス的世界観のひとつの源泉が求められるのも、偶然ではないであらう。歴史は悲劇であるといふ哲学的思想は全くドイツ的なものである。へーゲルはその『歴史哲学』の中でローマ的世界を論ずるにあたり次の屡々引用される言葉をもつて始めてゐる、「ナポレオンは、嘗てゲーテと悲劇の性質について語つたとき、近代の悲劇と古代の悲劇とは、我々はもはや人間がそれに屈服するやうな運命を有せず、古代的宿命の代りに政治が現はれたといふことによつて、本質的に区別される、と考へた。従つて政治は悲劇にとつて近代的運命として、個人がそれに屈服すべき境遇の不可抗力な力として用ゐられねばならぬ」。ギリシア悲劇における運命に対して、政治は近代的運命である。政治の優位を主張する今日の全体主義の底には運命の観念が、新しい悲劇的精神が世界観的感情として横たはつてゐないであらうか。その非合理主義もこのやうなペ
シミズムと無関係ではないやうに思はれる。 
 ここに国民性―それは単に自然的なものでなく、歴史的諸条件のうちに形成されたものである―の見地から考へて、我々日本人の国民性にナチス流の全体主義がそのまま適するか否かが問題になるであらう。どのやうな政治も国民性を無視し得ない。政治はもとより国民性を改造し得るしまた改造しなければならぬが、その改造も伝統から全く離れたものであることができぬ。しかるに日本人の国民性には悲劇的精神がないのではなからうか。日本人にも一種の運命観が濃厚ではあるが、それは悲劇的といふべき性質のものではない。悲劇を知らぬ、従つてまた固有の意味において合理的であることを特色とするともいはれ得る日本人の国民性に、全体主義的独裁政治は果して適合するであらうか。仮に全体主義といふにしても、それは日本において全く独自のものでなければならぬやうに思はれる。
 全体主義はもとよりただ国民性に依存するものではない。自由主義の発展の歴史は、アダム・スミスの改定したやうな全体の調和に終らず、却つてアナーキーを結果し、種々の社会的弊害を醸し出した。これを救ふためには、社会は新しい原理に従はなければならない。個人を全体よりも先のものと考へる個人主義の原理が否定されて、全体は個人よりも先のものであるとする全体主義の原理が確定されなければならない。これは当然のことであるが、その際忘れてならないことは、この全体主義が抽象的に個人主義を否定し、抽象的に個人主義に対立するのであつてはならないといふことである。個人主義を原理とする近代社会はそれ以前の歴史に見ることのできぬ輝かしい文化を作り出した。個人主義や自由主義は単純に否定し去られるには余りにすぐれたものを有してゐる。それをただ単に否定するのでなく、それを否定すると共に肯定し、一層高い立場のうちに高めて保有すること、つまり全体の立場のうちに個人主義を止揚することが重要である。ただ全体主義といふのであれは、近代社会の成立以前における社会はつねに何等か全体主義的であつた。その社会哲学も、例へばプラーンやアリストテレス、或ひはトマスの社会哲学等、いづれも全体主義に立つてゐる。けれども歴史は再び過去に還ることができず、またそのことが必要であるのでも有意義であるのでもない。新しい社会の原理が仮に全体主義と呼ばれるにしても、それは個人主義を自己のうちに止揚したものでなければならぬ。さもないと、それは単なる復古主義もしくは封建主義に過ぎず、歴史の発展の線に沿ふたものとはいひ得ないのである。

      二

 この一般的な、いはば公式的な反省も、我が国においてのやうに個人主義や自由主義が従来十分に発達してゐなかつたところでは、特に大切である。
 この頃の全体主義的風潮の中においで、ただ時流に従つてをれば好いといつた生活態度が見られはしないか。
 時世のままに動くことは、自己を没却することであるといふ意味において、個人主義とは反対のものと考へられるであらう。それは思想的には全体の立場を自覚したものとはいへないにしても、各人の生活態度として現在知らず識らずそのやうな傾向に随つてゐる者が尠くないのではなからうか。そこに認められるのは実は封建的な事大思想であり、各人のうちに残存してゐる封建的気質が最近の全体主義的風潮に影響されて現はれたものである。しかも同時にそこに隠されてゐるのは各人の功利主義である。そしてこの全体主義の外観をとつた大勢順応或ひは附和雷同は個人の自己の責任の回避にほかならないのである。
 我が国においてはなほ個人主義の真の意味、そのすぐれた点の認識される必要がある。さもないと、全体主義といつても封建主義に逆転する危険がある。今日「革新」といはれるものは二重の意味のものでなければならない。それは、一方において、現在なほ想像されるよりも多く残存してゐる封建的なものを清算して近代的になることであると同時に、他方において、近代主義を超えた新しい原理へ飛躍的に発展することである。かやうな二重性を把握することが今日我が国におけるすべての革新にとつて要求されてゐる。そのただ一方を問題にするだけでは真の革新は成就されない。
 個人主義は個人の自由を主張する。その場合単に個人の肆意が問題であるのでなく、個人の責任が問題であるのである。自己の救済を教会に依頼した中世的信仰に対して、各人は自己の救済について神の前にめいめい責任を有するといふのが宗教改革における自由の観念であつた。自由の観念と責任の観念とは不可分に結び付いてゐる。自由な人間とは責任の帰属し得る主体としての人間である。何故に人間は自由であると考へらるべきであるか。もしも彼が自由に行動し得るものでないならば、彼の行動について誰も彼に責任を負はせることができないからである。各人は何よりも自己自身に対して青任あるものと考へられた。この責任の観念こそ個人主義や自由主義によつて発達させられた最も根本的な道徳である。しかるに今日我が国において感ぜられることは、この責任の観念の欠乏ではないであらうか。政治家や官吏は十分に責任感を有するのであらうか。また国策に沿ふと称する文学者たちは、果して十分な責任の観念をもつて行動してゐるのであらうか。全体の名のもとに個人が自己の責任を回避したり抛棄したりするやうなことがあつてはならない。全体主義といつても、個人の責任がなくなることでなく、却つて個人の責任が拡大されることでなければならぬ。個人主義が単に個人の自己自身に対する責任を主張したに過ぎないとすれば、全体主義は更に個人の社会と国家に対する責任を力説するものでなければならない。しかるに個人は自主的である場合初めて全体に対して責任を負ふてゐるといひ得るのであつて、自主的でないことは無責任であるのと同じである。そして自主的であることは個人の自己自身に対する責任でもある。かやうに責任はつねに二重のものである、それは自己の自己自身に対する責任であると共に自己の社会と国家に対する責任である。ところが今日の全体主義は、個人の全体に対する責任を一面的に強調することによつて、個人の自己自身に対する責任を無視乃至軽視するといふことがないであらうか。個人の自己自身に対する責任は何よりも、各人が自己の本質に忠実であること、自己の個性を発揮することである。
 個体は或る意味において自然の目的である。自然はそれぞれ独立な個体を作り出す。自然が創造的といはれるのも、それが独立な個体を作り出すためである。自然はそれぞれ特殊性を有する個体を作り出し、生命の高い段階に至るほど個体の有する特殊性も豊富である。「形の多様性」は自然の意志であるといふことができる。各々の人間がめいめい自己の個性を発揮することは自然の意志を実現することである。そしてそれは全体の立場からいつても望ましいことでなければならぬ。全体は統一を意味してゐる。統一は多様なものの統一として統一である。より多くの多様なものを自己のもとに統べ得るに従つて統一は強く、より多くの多様なものを自己のうちに含み得るに従つて全体は豊かであり、弾力的であり、且つ美しい。全体主義が統一の力と美と善を説くことは正しい。ただ統一の真の意味を理解することが大切である。全体主儀が官僚的劃一主義に陥ることがあれば、それは全体といふものの、統一といふものの真の意味を理解しないことである。すべてを一様化してしまふことは真の統一とはいひ難く、かくては全体はその内容も、その力も貧弱になつてしまふ。全体は創造的なものでなければならぬ。創造といふのは独立なものが作られることであり、このものが多様であるに従つて創造は愈々創造的である。全体の立場に立つ政治はかやうに創造的であることを要求されてゐる。創造的な政治は個人の独立性と自発性とに位置を与へ得るものでなければならぬ。独立なものは自律的であり、自由とは自律性のことであつて、自由な人間にして初めて真に人格といはれ得る。
 人格、自由、個性等、すべてヒューマニズムの根柢をなすこれらのものは、近代における個人主義や自由主義の作り出したものであるが、そのことによつて個人主義や自由主義が間違つてゐるのではない。それらは全体の立場においても尊重すべきものである。個人主義や自由主義が非難さるべきであるのは、それが自分の約束したものを結局与へ得なかつたことにある。例へば、責任政治を説いた自由主義的議会政治は最も無責任な政治となつてしまつた。近代社会の発展は個人の人格の完成に導くことなく、却つて多数の人間を非人間的な存在にしてしまつた。この社会における自由は少数者には自由であつても、大衆にとつてはその反対を意味するものとなるに至つた。またこの社会はそれぞれ固有の個性の発達を結果しないで、寧ろあらゆる人間を平均化し、匿名的なものにし、抽象的な存在にしてしまつた。近代的人間の鋭い批判者として現はれたニーチェやキュルケゴールが繰返し語つてゐるのはこの点である.すべて人間の作り出したものは人間を発展させることから人間に対する桎梏に転化するといふのが歴史の法則である。近代社会、その原理である個人主義、自由主義、合理主義も、ちやうどこの運命を辿つてきた。資本主義社会におけるスミスのいはゆる「見えざる手」は自由な人間の全体の調和を齎さないで人間の非人間的なものへの隷属を結果するに至つた。ヒューマニズムの一般的意義が人間の解放にあるとするならば、ヒューマニズムは今日もはや個人主義や自由主義に止まることができず、反対に全体主義的立場に立たねばならぬであらう。この全体主義はしかし人格や個性や自由を否定するものでなく、それらを真に実現するものであることを要求されてゐる。その場含もちろん自由とか個性とかいふものの意味が従来の自由主義的或ひは個人主義的見解を離れて一層具体的に理解されることが必要である。例へば自由は抽象的に存在するものでなく、秩序のうちに、それ故に諸制度のうちに与へられるものである。全体から離れて個人の自由は存在するものでなく、全体のうちに根拠を与へられるものである。そして個人は全体を離れたものでないとすれば、個人は社会の革新に自主的に参加することによつて初めて真の個性として生れ得るのである。


       三

 個人の自発性は歴史において否定することのできぬ重要な意義を有してゐる。「かくしてその内容に従へば、歴史は個人が初めて民族の生活のうちにおける干渉的要素として現はれるところに始まる」、とエドゥアルト・マイエルはその名著『古代史』の序論の中で述べてゐる。未開社会においてのやうに個人が民族の生活のうちに埋没し、個人の自主的な行動が存在しないところには固有な意味での歴史は存在しない。個人が民族のうちにおいて独立して逆に民族の生活に働き掛けるに至つて真の歴史は始まるのである。個人の自発性は合理的な文化の端初であり、それなくしては民族的文化は合理性を、従つて一般に文化といはるべき性質を得ることができぬ。個人主義と合理主義とが一つに考へられるやうに、個人の自律的な活動が合理的な文化の原因であり、これを媒介とすることによつて民族的文化は合理性を担ふやうになる。個人の自発性を認めない限り全体主義は非合理主義に止まるのほかない。合理性は普遍性であり、人類一般性である。民族的文化が人類的意義を有し得るに至るのは個人の媒介を通じてである。人間性は人類性である。個人主義はいはば直接に人類と結び付いてゐる。人類的普遍性を強調するヒューマニズムが個人主義的であつたのも偶然ではないであらう。個人主義は個人を単に個別的特殊的なものと考へたのでなく、カントにおける自我の概念が示してゐるやうに、自己を超個人的なもの、普遍的自我と考へたのである。人間は自己の根柢において人類と結び付いてをり、人類的意義を有する文化は個人の良心的な活動を媒介として民族のうちに生れる。個人の自発な活動を認めることは、民族的文化が世界的意義を担ふために必要である。
 しかしながら他方カントの超個人的自我が抽象的なものであるやうに、人類とか世界とかいつても、個人主義乃至自由主義の立場においては抽象的なものに過ぎぬ。そこでまた、個人は単に特殊的なものでなくて普遍的なものであると主張されたにしても、個人主義や自由主義の立場においては、そのやうな個人も抽象的なものに止まつたのである。個人は抽象的な人類や世界でなく却つて民族といふが如き具体的な全体と結び付いて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或ひは世界的になることができない。単に人類的と考へられるやうな個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。民族が運命的なものであるとすれば、世界乃至人類は理念的なものであると考へられるであらう。人間は運命的であると共に理念的である、民族的であると共に世界的である。そしてすべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自教的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。
 しかしながらまた人類は単に理念的なものであるのではない。むしろ従来の個人主義や自由主義の誤謬は、先づ一方において人類を単に理念的なものとして捉へたところにある。その個人の概念が抽象的であつたやうに、その人類の概念も抽象的であつた。運命的なものと考へられる民族が同時に理念的なものであるやうに、理念的なものとみられる人類は同時に現実的なものである。民族が一つの全体であるとすれば、人類も世界として一つの全体である。すべての個人は民族といふ全体のうちにあると考へられねばならぬやうに、すべての民族は世界といふ全体のうちにあると考へられねばならぬ。全体主義が民族のみを全能と考へて、民族がそれにおいてある世界といふ全体を考へないやうなことがあれば間違つてゐる。この全体主義が、個人主義や自由主義の考へた人類や世界が抽象的であるところから、人類そのものを、世界そのものを抽象的であるとして排斥することは、自己自身その反対する個人主義や自由主義と誤謬を共にすることにほかならない。全体主義が民族主義に止まるのは正しくないであらう。世界そのものが一つの全体である。個人は民族を通じて世界と結び付けられるやうに、民族はまた個人を通じて人類と結び付けられる。個人と民族との相互媒介は世界が真に具体的な全体として実現するためのものである。かかる世界のうちにおいて民族も個人も真に独立なものとなるのである。しかるに従来の自由主義は国際主義或ひは世界主義を主張してきたにしても、この世界を全体として捉へることができなかつた。その世界の把握の仕方はその個人主義と同じ原理に支配されてゐたのである。即ち自由主義的個人主義が社会をアトミスティックに考へたやうに、自由主義的国際主義は世界をアトミスティックに考へた。それが世界主義を説いたことが誤謬であるのでなく、誤謬は世界をアトミスティツクにしか考へなかつた点にある。更に自由主義的世界主義の誤謬は、世界を民族や国家から抽象して考へたところにある。他方また世界から抽象して民族や国家を考へようとする限り全体主義も一面的である。
 ところで全体主義が世界的でなければならぬとすれば、それが非合理主義に止まり得ないことは明かである。既にいつた如く、近代社会の成立以前における社会はすべて何等か全体主義的であつた。その全体主義と新しい全体主義との区別は、今日においては世界といふものが次第に現実的になつてきて、全体はもはや単に閉鎖的であり得ず同時に解放的でなければならぬといふこと即ち世界性を有せねばならぬといふことにある。解放的世界的であるといふことは合理的であるといふことである。我々は近代的合理主義の抽象性から脱却しなければならないにしても、非合理主義をもつて原理とすることはできない。人間は民族的であると共に人類的である、或ひは、人間は国民であると共に端的に人間である。このことは知性の問題であると共にモラルの問題にも関係してゐる。そこで更に、古代における全体主義の代表的哲学者アリストテレスの提出した問題は、今日の全体主義にとつても重要な問題でなければならぬであらう。アリストテレスは、「善い国民」であることと「善い人間」であることとが如何にして一致し得るかといふ問題を彼の『政治学』の中で追求した。端的に善い人間であることと善い国民であることとは一致しないやうに見える。しかしながら「最善の国家」においてはそれが一致しなければならず、このやうな最善の国家の政治形態が如何なるものであるべきかについて、アリストテレスは考察したのである。そしてかくの如き理念的考察においてアリストテレスはプラトンを継ぐものである。プラトンの国家哲学においても、政治家の任務は、端的に善い人間であることと善い国民であることとが一致するやうな政治体制を形成することにあつた。その国民を単に「善い国民」であらせることをもつて政治家は満足すべきではない、そのことだけなら強制や強権のみによつても為すことができる。真の政治家は、善い国民であることと端的に「善い人間」であることとが一致するやうに国民を教育し、またそのことが可能であるやうな政治様式を作品さねばならぬ。そしてこの問題は今日の現実においては全体主義の国民性と世界性の問題に関聯するであらう。
 ところで「善い国民」と「善い人間」の問題は、個人が全体に対して単に機能的に見られてはならぬといふことを示してゐる。しかるに今日の全体主義はその哲学世界観の根柢をなす有機体説と結び付いて、個人を主として全体に対する機能的(乃至霊的)関係において把握してゐる。これによつて全体と個人との有機的関係は明かにされるとしても、それだけでは個人は全体の器官の如きものとなり、その独立性と自由とは失はれてしまはねばならぬ。個人の全体に対する機能的関係を力説することはどこまでも大切である。しかしそれだけでは足りない。この点において近代個人主義は内面性の問題を深く追求したといふ特色を有してゐる。人格とは役割における人間をいふのでなく、或る内面的なものである。自由といふのは単に外的な自由でなくて良心の自由であり、責任といふのは単に外的な責任ではなくて自己の良心に対する責任である。個人主義は主観主義の抽象性に培つたにしても、このやうに内面性を強調したところに重要な意義を有してゐる。しかるに全体に対する個人の関係についての機能的な見方に欠けてゐるのはまさにかくの如き内面性である。特に今日の全体主義における政治主義はその欠陥を助長してはゐないであらうか。神話といつても、そこでは果して十分に内面的であるであらうか。個人の全体に対する関係はひとり機能的にのみでなく、また人格的使命的に自覚されなければならぬ。使命の観念は決して単なる機能的観念であり得ず、人格的な内面の観念である。 尤も個人主義は、現代社会の行詰りが愈々深刻となるに従つて、愈々甚だしく主観主義に落ち込んでいつた。そのことから個人主義は愈々深く内面的になつたわけでなく、もはや内面性を失つて単なる主観主義もしくは心理主義となつた。真の内面性は内的人格の支柱であるやうな内的規範的なものの自覚において成立する。この支柱が失はれるとき、主観主義は人格の崩壊と共に単なる心理主義に陥らねばならぬ。これが欧州大戦後における一般的な精神的情況であり、我が国の青年インテリゲンチャも多かれ少かれその影響を蒙つた。かやうにして今日個人主義とか人格主義とかいつても、もはや主張すべき自己も人格も有しない者が多いのである、人格は分解してしまつてゐる。現代のインテリゲンチャに珍しくないこのやうな状態から立ち直るには、自己を民族と結び付けることが必要であつたであらう。そしてそれは実際に我が国において支那事変と共に行はれた。それは一種の救済であつたであらう。かくして多くの国策文学の如きものが生産されてゐる。けれども全体に対する個人の関係を単に政治的機能的にのみ考へて内面性が失はれる場合、精神的文化にとつては自殺とならざるを得ない。我々は自己を日本民族のうちに自覚しなければならぬ。しかしこの自覚は全体に対する個人の機能的関係の自覚に止まらないで人格的使命的な自覚と結び付かねばならぬ。