財閥と文化事業
 去る二十三日、ロックアユラI氏が九十七歳の高齢をもつて永眠した。石油トラスト王として
知られた氏はまた慈善家としてもきこえ、氏が博愛事業のために張出した金は一九一二年までに
ぉいて五億ドルを越えると云はれてゐる。氏の文化的杜曾事業は廣く世界の諸囲に及び、我が東
京帝大囲書舘、芝の侍染病研究所、野口英世博士等に封しても、一千萬園以上の寄附をなし、こ
の囲の文化に貢献する研が砂くない。
 釈つて日本の状態を見るに、その規模は勿論ロックアユラI氏などに比すべくもないが、近年、
文化的祀曾事業と稀するものに封する財閥の寄附行為は次第に殖えて来たやうである0彼等がこ
の事業のために鞍出するものは彼等が大衆の労働によつて取得するものに対して果して幾許ぞや
といふやうな問を我々は今掲げようとは思はない。また彼等の文化的杜禽事業も大衆を欺瞞する
ための一つの手段に過ぎないではないかといふやうなことを我々はここで議論しようとも思はな
い。よしんば欺瞞の手段に過ぎないとしても、富豪がかやうな事業に封して寄附を行ふことは行
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はないよりも善いと考へる事ができるであらう0ただ併し日本の財閥の寄附行為が近年特に殖え
て来たといふことが最近の杜曾的政治的情勢に影響されてゐることは疑はれぬ事賓であつて、そ
こに何か考へさせられるものがある。
我が国の財閥には遺憾ながらロックフエラー氏ほどの博大な精紳が存在しないやうに思はれる。
西洋は個人主義であると云はれるけれども、ほんとの博愛事業家は却つて西洋人のうちに見出さ
れるのである○我が囲の富豪や財閥は、その文化的杜曾事業においても日本的といふ見地を離れ
得ないやうである○ところが日本的といふことはこの頃文化的よりも政治的意味を含み、.またそ
れは祀曾的といふことと相容れないところをもつてゐる。
 先づ著しいのは科学の應用の方面、とりわけ囲防科挙の方面に封する財閥の援助である。それ
も必要なことであらうが、しかしそれがやがて資本家の直接の利金になつて戻つて来るといふこ
とに注意しなければならぬ0今日あの理研コ・ンツェルソと云はれるやうな一大財閥が存在すると
いふことはその一例である0賓本家に利金を斎さないやうな方面、目に見える結果が直ぐに現れ
ないやうな方面、従つて自然科挙においても純理論的な研究に封してはなかなか篤志家が出て来
ないやうである0特に杜禽科挙や祀合間題に関する文化事業には殆ビ見るべきものがなく、我が
頓においてその方面の唯一のものと云はれた大原杜合間題研究所の如きも、今日甚だ惨めな存在
になつてしまつてゐる。
 更に著しい現象は、近年文化事業或は杜曾事業と稲して財閥や富豪がいはゆる日本的文化のた
めに多額の金を鯨出して惜しまないといふことである。それは日本的文化の海外輸出と共に囲内
宣侍を行つてゐる。囲際文化振興曾、日本文化協禽、日本文化聯盟、帝囲更新曾、誠明曾、大倉
東洋文化研究所等々この種の囲憶が今日数多く作られてゐる0それらが苧官学民もしくはその色
彩を有することも日本的特殊性であらう。それらは政治的目的をもつた御用囲憶であるが、最も
無邪気な場合においても、金持、貴族、古手官吏などのデイレツタンティズムが横行し、その仕
事が純粋な文化人の手に委ねられてゐないといふことも日本的特殊性に属するであらう0哲学、
杜曾科学、文学、映室等においては、自然科挙の場合などとは異り、かやうなデイレツタソテイ
ズムが容易に侵入して毒すことが多いのである。いはゆる日本的文化の研究が如何なる意囲のも
とに奨励されてゐるかは、ここに吏めて云ふまでもない。
 かくして財閥や富豪の寄附に依る文化事業の性質は杜曾情勢の逼迫と共に次第に明白になりつ
っぁる。それは文化事業乃至杜曾事業の性質を失ひつつある。囲際性を香定した文化事業といふ
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ものはあり得ないし、大衆の利金を目的としない杜曾事業といふものはあり得ないからである.