雄弁術の復興
時代が政治的になると共に雄弁術が盛んになる。近来雄弁術復興の徴候が見られ、今後その傾向は次第に顕著になるのではないかと思ふ。
我々の中学時代には雄弁術に大きな関心が持たれ、政治家なども雄弁家として有名であつて、その雄弁を聴くことが求められ、その頃には主としてそのやうな演説筆記を載せてゐた「雄弁」といふやうな雑誌が熱心に読まれた。
島田三郎、尾崎行雄、或ひは永井柳太郎等の名が我々田舎の中学生に親しまれたのは、その雄弁家としての名声のためであつた。その後雄弁に対する一般の関心は少くなつたが今や復活の兆が現はれつつあるやうである。
その後の雄弁家にはどんな人があるのだらうか。私の知つてゐる限りでは、森戸辰男氏など雄弁家であり、また友松圓諦氏なども雄弁家といひ得べく、同氏の「真理」運動はその雄弁に負ふところがあるであらう。
全体主義国の指導者たちは、ヒトラー総統やムソリーニ氏を始めいづれも雄弁家のやうである。そして全体主義的政治を日本へ導き入れようとする人々の一部には雄弁に対する関心が認められるやうであるが、全般的にいつて日本ではまだ雄弁が栄えてゐるやうに見えないのは、我が国の全体主義には官僚主義的傾向が濃厚であつて、ナチス運動などにおけるやうな国民との結び付きが稀薄なためである。
今後の日本の政治が全体主義者の考へてゐるやうな方向に発展するかどうかは問題であるが、如何なる方向を取るにしても、日本の政治も今後は必然に大衆との結合を要求されるやうになり、従つて雄弁が重要な武器になつてくるであらう。雄弁は国民運動の要素であるといふことができる。
政治は、大衆と結び付いた政治は、雄弁を必要とする。今日印刷文化の発達が雄弁の地位に変化を齎したことは事実である。しかし文書による宣伝や煽動は知的で浸潤的であるにしても、大衆を直接的に、感情的に、身体的に動かすにはやはり雄弁の力に依らねばならぬ。それだけにまた雄弁は恋しきデマゴギーになる危険を有してゐる。雄弁時代になるに従つて他面知的な批判的な精神が必要になつてくる。そして雄弁の本質について正しい認識をもつことが大切になつてくるのである。
雄弁そのものも変化する。それはもとより空虚な形式でなく、実質的な思想と結合したものとならねばならぬ。単に形式の点からいつても、時代の感覚や精神の変化するに従つて雄弁術も歴史的に変化しなければならぬ。雄弁の新しいタイブの創造が必要である。
文学的或ひは哲学的に考へても、雄弁術即ちギリシア人がレートリケー(レトリック)といつたものは、今後の重要な興味ある問題を提供してゐる。そこには一般に書かれた言葉に対する話された言葉の問題がある。近代の散文精神に対する雄弁の関係が問題である。スタイルの問題もそこから新たに考へ直されねばならぬであらう。そのほかレトリックは哲学上の種々の根本問題に対する示唆を含んでゐる。
私は数年前からそのことについて折に解れて論じてきたのであるが、まだ一般には殆ど関心されてゐないにしても今後はそれも事情が変つてくるであらうと思ふ。