輿論の本質とその実力


 今日人々は一方輿論といふものが何か無力なものでないかと考へるやうになつてゐる。しかし人々は他方輿論といふものが全く無力であるとは考へてゐないので、むしろ今日このやうに輿論を無力にしてゐるものに対してもつと輿論を盛んにしなければならないと考へてゐるのである。
 如何にして輿論は無力であると思はれるやうになつたのであるか、それを明かにするには輿論を形成してゆく要因を考へてみなけれはならぬ。
 輿論の基礎は話される批評である。輿論の内容をなすのは公の問題、特に政治上の問題であるが、大衆がこれについて自由に話し、公に批評することによつて輿論は作られる。従つて輿論が発達するためには、大衆の政治に対する関心と理解との増大することが必要であるのみでなく、大衆が自己の意見を自由に発表し得ることがまた時に必要である。
 もちろん輿論は個々ばらはらの意見でなく、大衆の統一された意見である。そして意見が統一されるためには大衆が組織されることが必要である。政党とか、議会とか、組合とか、その他種々の結社は、かやうな意見の統一を可能ならしめる。従つて大衆の組織の自由が制限されてゐるところでは、輿論は正常に発達することができない。
 輿論は話される批評を基礎とするにしても、もとより凡ての人はあらゆる場合、あらゆる問題について直接に話し合ひ得るものではない。それ故に彼等の意見の媒介の機関として新聞雑誌の如きものが必要なのである。新聞雑誌は種々の事件を報道し、批評を輿へることによつて話される批評に材料を提供する。それは輿論を伝達すると共に輿論を指導する。然るに検閲の強化は新聞雑誌に対して報道を制限し、また輿論の代表者としての機能を喪失せしめるに至るのである。
 かくて今日輿論が無力になつたやうに見える原因は明かである。しかしながら輿論は決して無力であり得ない。そのことは、輿論を抑圧しようとする者自身がかやうな輿論に代るべき見せかけの輿論を、いはば擬似輿論を作ることに如何に熱心になつてゐるかといふことによつても知られる。輿論は大衆の統一ある意見であり、この統一が作られるためには指導者が必要であらう。しかし指導者は自分の勝手の意見によつて輿論の統一を作り得るものでなく、彼の意見が真に指導的になるためには、大衆の同意を、従つて結局輿論の支持を得なければならないのである。歴史を作るものは究極において大衆である。今日の如く交通が発達し、大衆の知的水準が向上した時代において輿論を抑圧することは不可能でなければならぬ。また輿論を抑圧することは危険である。なぜなら輿論の形成発達が自由でないといふことは大衆から次第に知性を奪ひ取り、かくして大衆は次第に衝動的になり、大衆が衝動的になるといふことは極めて危険なことでなければならぬ。輿論の発達は大衆の本能と感情とを知性化することである。公にされたものは如何なる隠されたものよりも健全である。