序
この小論集は、曩に同じ書店から出版した『時代と道徳』に続くものであつて、前集と同様、筆者が毎週火曜日讀賣新聞夕刊「一日一題」欄に寄稿した八十四章の短文から成つてゐる。今その校正刷を読んでゐると、私にはさまぎまな記憶が甦つてくる。これまで日記といふものをあまり書いてゐない私にとつてはこれらの文章が殆ど唯一の生活記録であり、また近年用事以外の手紙を次第に書くことの稀になつた私にとつてはこれらの文章がおのづから知人に対する書簡の代りともなつた。長い日記や手紙を書くことのできた古人の生活は羨望に値ひする。私としてはたとひこのやうな形においてでも日記と書簡の代用物を遺すことのできたのをせめてもの慰めとするのほかなく、これらの蕪雑な文章に対してなほ愛著を覚えるのである。ひとはそこに私の見地から見た現代の記録を見出すであらう。
この集は二年の歳月を記録してゐる。その間に世の中には大きな事件が次々に起り、政治も、経済も、文化も、思想も、風俗も、社会心理も、もはや元の儘ではない。その激しい変化にも拘らず、ここに収められた文章のうちになほ何か一貫したものがあるとすれば、それは私の性格的なものであらう。個々の議論としては現在訂正を要するものもないではないが、私は何よりも著者の性格的なものにこころを留める読者にこの本を送らうと思ふ。
一九三八年十二月
東京に於て
三 木 清