人材の不足



 満洲国でも日本と同じに人材の不足が嘆ぜられてゐる。元来全く新しい国家として建設され、新体制をもつて出発した満洲国においては、それに適した人が得難く、人材不足の声はおのづから大きいであらう。日本においても新体制となれば人物の払底が更に甚だしく感ぜられるに相違ない。
 尤もいはゆる人物払底は、実際に人がないのではなく、あつても用ひないところから生じてゐるといふこともある。用ひるべき人を用ひないのは偏見に囚はれてゐるためである。偏見とは既成の意見をいふ。かかる既成のものを除くことが新体制をして真に新体制たらしめる所以である。
 もちろん人材が実際に不足してゐることも事実であらう。その原因は、嘗て本欄で指摘したこともあるやうに、従来の教育の欠陥、特にそれが指導者の養成に留意しなかつたことにある。この指導者教育は、満洲国においてのやうに日本人が他の民族を指導すべき地位にあるのを考へる場合、日本の大陸政策の上からも重要なことである。満系の人にいはせると、人材の不足は日系のことであつて満系ではさうでないといふのは、意味深長である。
 ところで今満洲国を旅行して私の感じたことは、人材がないといはれるこの国においても地方へ行くと、なかなか立派な日本人がゐるといふことである。彼等の多くは建国当時から或ひはそれ以前から地方にゐて真剣に民衆のために働き民衆から愛敬されてゐる。彼等の地についた仕事を見るとき、ほんとに頭がさがるのである。私は主として学校を見て歩いてゐるが、その感想を率直に述べるならは、概して下級の学校の教員ほど善く、高等の学校の教師ほど駄目なやうな観がある。そして私のおそれるのは、かやうに地方にゐて真剣に働いてゐる人々の努力が、地方の実情に疎い中央の官吏の一片の命令で台無しにされてしまふやうなことがありはしないかといふことである。実際、その例がなくもないのを聞くのである。
 かやうなことは満洲国のみでなく日本においてもあるのではあるまいか。中央の人間はもつと地方の人材に注目し、彼等の仕事を尊重しなけれはならない。私など田舎で生れ田舎で育つた者でありながら、とかく地方を忘れがちであつたことを今更の如く感じるのである。
 新体制においては中央の組織に重点をおくといふ意見が強いらしいが、それは統制の見地から必要であるにしても、地方の人材が真剣に築いてきたものに対して謙遜な態度をもつて臨み、これを命令一つで毀してしまふやうなことのないことが望ましいのである。統制時代においても謙遜が徳であることには変りはないのである。

(九月十八日)