住宅問題



 住宅の問題は人類と共に古いが、いはゆる住宅問題は近代的な問題であり、最も近代的な問題の一つである。それは日本でも重大な問題になつてゐるが満洲国でも同様である。
 この春支那を旅行して私の得た結論は支那の問題は日本に関する限り国内の問題と同じであり、ただ彼処では戦争の現地であるだけにそれが拡大されて見えるといふことであつた。今また満洲に来て私が感じたのは満洲の問題も多くは日本のそれと同じであり、ただ此処では新しい国であるだけにそれが拡大されて眼に映ずるといふことである。住宅問題はその一例である。
 殊に新京の住宅難は甚だしいやうだ。新京では約二万戸の住宅が不足してをり、そのうち今年一万五千戸を建てる予定のところ、資材の関係で七千戸ほどしか建たないとのことである。官庁や会社に勤めてゐる人で家のないのが多く六畳の室に三人起居してゐるといふやうな有様である。一体、住宅は常に八パーセントくらゐ空家があつて円滑にゆくといはれてゐるのである。
 かやうな住宅払底は一面から考へると満洲国の急激な発展を示すもので、寧ろ喜ぶべき現象である。しかし折角意気込んで来ても住む家がなくては落着いて働くこともできないであらう。腰を据ゑて仕事をさせるには先づ気持の好い住宅を供給することが肝要である。新たに赴任して来ても家がないために家族を呼び寄せることができず、二重の生活を余儀なくされて経済的負担に苦しんでゐる者もあるやうである。
 住宅問題は経済的問題であるばかりでなく、道徳的問題でもある。狭い室に幾人も一緒に住んでゐては勤め先から帰つても休息も読書もできず、また家族と別れて住んでゐるのでは生活に潤ひがなくなり、かくて勢ひ享楽街が繁昌することになる。享楽街の粛正は満洲国でも喧しくいはれてゐるが、それには住宅問題の解決が差し当つて必要なのである。
 もちろん当局はその解決に努力してをり官舎や社宅が次第に建てられてゐる。ところがその建築が劃一的で、いかにも殺風景であるのはまた考ふべきことである。イタリアからの訪問団がそれらの住宅を眺めて、あれは何の倉庫かと尋ねたといふ話がある。同じ資材を使つても工夫すればもつと風趣のある建築ができる筈だと思ふ。遠く母国を離れてをれば感情もすさみ易いのであるから、せめて住宅は趣味豊かなものにすることが大切である。統制と劃一主義とを混同してはならない。
 満洲国に来て見て私は今更の如く住宅問題の重要性を感じたのである。


(新京にて、八月二十八日)