彩票の倫理



 満洲へ来て最初に私の前に現はれたのは彩票の倫理の問題であつた。
 今度満洲国では遊資吸収策として、頭彩十万円といふ一枚十円の特別裕民彩票を発行することになつてゐる。これに対して熱河省協和会から反対の火の手があがり、問題を起すに至つた。反対の理由は、頭彩十万円といふのは余りに民衆の射倖心を唆るもので、その結果は民衆を窮迫に陥れ、国策に悪影響を及ぼすといふのである。民衆を窮迫に陥れるとは、農民や労働者が税金も納めないで購入することを恐れたものであらう。
 これに対して経済部では、反対者は最近の金融状態を知らないのであつて、今後必要とあれば頭彩廿万円の彩票だつて出す肚だといつてゐるやうだ。また協和会本部でも、反対者は親の心子知らずといふもので、十円彩票消化の目標が有産階級にあることを忘れてゐるといつてゐる。
 同様の問題は日本においても初め報国債券について起つたのであつて、それは国民の射倖心を唆り道徳上有害であるといふ反対論が出て、そのために純然たる富籤とは異る現在の報国債券の形をとることになつたと記憶してゐる。経済的な見地においては、一等十万円、更に廿万円といふやうな彩票の発行も必要であると考へられるであらう。しかしまた倫理的な見地においては、それが民衆の射倖心を刺戟して有害であるといふ反対論にも理由があるやうに思はれる。そこに経済の論理と倫理との間に一致しないものがある。そしてまさにこの乖離が彩票の倫理にとつて根本の問題なのである。一方彩票の問題を単に倫理的な見地から取り上げることは抽象的であるといはねばならぬが、他方経済の論理の帰結或ひは寧ろ前提が反倫理的であるのは容認し難いといはねばならぬであらう。
 彩票の倫理の問題は、経済の倫理と論理とが一致すべきことを意味してゐる。この問題は、経済の新しい形を作つてゆくことによつてのほか根本的には解決され得ないのであつて、民衆の射倖心を唆るが如き彩票の発売をもはや必要としないやうな経済の新しい体制を作ることが根本的に大切である。この目的に達する過程における現在の実証的な段階に相応する手段として彩票も倫理的に認められ得るのである。
 新しい体制といつても、現実の状態を無視して作られ得るものではないのである。実証的に経済の各部面の現実の段階に立脚するといふことは計画経済にとつても、寧ろ計画経済にとつてこそ肝要なのであつて、その点について実証的なところが欠けてゐることが今日の統制の弊害といはれるものの大きな原因ではあるまいか。統制は論理的であると同時に実証的でなければならぬ。

(八月二十日)