大国民の自覚
事の大小軽重を判別することは、あらゆる場合に必要であるが、道徳の場合特に大切である。この場合、その判別には多少とも洗煉された感覚を要するだけ、一層各人の心掛けが大切なのである。
この頃交通機関の混雑は周知の事実であるが、この混雑を更に甚だしくしてゐるものは乗客の無規律である。これは過日横須賀線での経験であるが、電車が駅に着く前既に座席は一つもなくなつてゐて、あわてて乗り込んでも坐れないことは一目で明瞭であるにも拘らず、皆が我れ勝ちに乗らうとして押し合ひ、悲鳴をあげる女があり、子供など圧し潰されさうであつた。そんなに競争して来つてもそのために生ずる混雑の結果、全体の乗客が乗り終るに要する時間は決んて短縮されはしないであらう。その時私の友人は蟇をすられてしまつた。誰かズボンのポケットに手を触れてゐるやうな感じがしたが力一杯あとから押してこられるので、手を後に廻してみることもできなかつたのである。
戦場において勇敢であつたり、防空訓練において規律正しかつたりすることだけが、愛国心でもなければ、国民道徳でもない。今日その言葉は流行しなくなつたやうだが、従来社会道徳とか公徳とかといはれてゐたものが守られることも、愛国心の立派な表現であり、国民道徳の大切な要素である。非常時に最も肝要な道徳は規律である。非常時は無秩序、無規律になり易い時であ
るのだから。銃後において戦線の兵士を忍ぶといふことも、軍隊においてのやうに規律を守るといふことでなければならない。
汽車や電車などの乗り降りにおいて規律正しくするといふが如きことは小事であると考へてはならぬ。他人を押し退けて我れ勝ちに乗り込まうとする人間が、他の処で買溜め、買占め、闇取引などに狂奔しない人間であるとは私には考へられないのである。いはゆる公徳は「新国民道徳」といはれるものの最も重要な要素であるべきである。そして社会道徳が守られないのは、大国民としての自覚が欠けてゐるからであると思ふ。新国民道徳とは大国民の自覚に基いた道徳でなければならぬ。
「大東亜共栄圏」の建設を理想とする日本国民にとつて必要なのは何よりも大国民の自覚である。しかるに今日なほ一方において社会道徳が欠如してゐるとともに、他方において徒らに小事に拘泥して喧しくいふ瑣末主義が流行してゐるのは反省すべきことであらう。小さく見えることにも大きな意義を有するものがあり、大きく見えることにも小さな意義しか有しないものがあるといふことについて正しい認識をもつことが大国民に必要な教養である。
(八月十四日)